小さな恋のミステリー:天然探偵と真面目助手が恋の謎を解き明かす話 作:maricaみかん
「宗心さん、予約していた鈴木と申します。依頼を受けていただけるでしょうか」
土曜日の朝、静かなビルの一室に、男の声が届く。ビルの玄関口には、中年の男が居た。スーツを着こなした姿で、堂々と立っている。
玄関が開き、20歳くらいの女が出迎える。背筋を伸ばしたスーツ姿で、まずは鈴木に一礼する。
「ようこそいらっしゃいました。私は、宗心探偵事務所で助手を務めております、
「こちらこそ。私は、
「そうですね。では、案内いたします」
あかりは拓郎を先導して、事務所の中へと向かう。その奥にある白い部屋には、穏やかな笑みを浮かべた女が居た。ワンピースを着ており、ふわふわとした印象を持っている。そして、あかりの方を見て頷く。
「依頼人さんですねっ。私は、
「探偵さんは、評判通りの方でいらっしゃいますね」
穏やかな顔で告げる拓郎に、ときこは笑顔のまま無言で返す。それを見て、あかりはときこの肩を叩いた。ときこは空気が読めていない。よくこれで探偵が務まるものだと、あかりは何度考えたか分からない。
それでも、ときこはいくつもの謎を解いていた。おそらくは、今回も同じだろう。あかりは気楽に考えながら、ときこのフォローをする。
「ときこさん、褒められてるんですよ」
「そうなんですか? 嬉しいですっ」
にっこりと微笑みながら、ときこは少し遅れて返事をする。それを気にした様子もなく、拓郎は会話を続けた。
「ええ、職場の新人が、よく噂をしていましたから」
「どんな噂なのか、気になりますねっ」
「では、拓郎さん。私達が、依頼をうかがわせていただきますね」
ときこに対する返事を待たず、あかりはメモを構えて本題に入る。ときこに会話を任せていると、いつになるのか分からなかったからだ。噂の内容の細かい部分まで質問する姿が、あかりには容易に想像できていた。
席についた拓郎を見て、あかりは遅れて席についてメモを構える。ときこは、笑顔のまま座っていた。
そして、拓郎は神妙な様子で話し出す。
「若い女性ふたりの前で言うのは、気が引けますが。とはいえ、これを伝えないことには始まりません」
察するに、男女関係のトラブルではあるのだろう。宗心探偵事務所は恋愛専門だと、ハッキリと表に出しているからだ。それで若い女性に言うことをためらう。あかりには、内容が手に取るように分かった。おそらくは、性の悩みなのだろう。
ならば、きっとデリケートな問題になる。慎重な対応が必要になるだろう。あかりは、これから難しい局面が待っていると覚悟した。
ただ、その問題を解決するのが、宗心探偵事務所の役割だ。だから、あかりはまず話を聞くと決めていた。
「正確な情報の方が、大事ですよっ」
「そうですね。まずは、拓郎さんの現状を伝えてください。遠慮なさらずとも構いません」
ときこは笑顔のまま返す。あかりは穏やかさを意識してときこに合わせた。拓郎は少し目をさまよわせ、軽く息を吐く。そして、ゆっくりと話し始めた。
「実は、妻とセックスレスでして。その原因を、調べたいという話になります」
その言葉を聞いて、あかりの頭には愛が冷めただけだという仮説が浮かんだ。素直に考えれば、夫婦関係としてはありがちだろう。そう推測していた。
とはいえ、直接伝えることには抵抗がある。どんな言葉を返したものか、頭を悩ませながらも、場を持たせるために言葉を発していく。
「それは、その……。大変ですね……」
「分かっていますとも。妻が私を見放したと考えているのでしょう? ただ、それだと辻褄が合わない部分があるのです」
「気になりますねっ。どこが矛盾しているんですかっ」
ときこはためらった様子もなく、拓郎の言葉に返していく。あかりは頭を抱えたくなったが、話を円滑にするために会話を続けた。
「もう、ときこさん。もう少し配慮というものを……」
「お気になさらず。矛盾点ですが、妻は手の込んだ料理を毎食作ってくれますし、出かけた時には腕を組むこともあります。心が離れたにしては、おかしいと思いませんか?」
問いかける拓郎の様子は、あかりには自分に言い聞かせているようにも見えた。おそらくは、妻の心が離れた可能性を想像したくないのだろう。それは、妻を愛しているから。出会ったばかりのあかりにも分かることだった。
ときこは変わらない笑顔のまま、拓郎の言葉に反応する。
「単にセックスそのものに飽きたって可能性も、ありますよっ」
拓郎はぎょっとした顔をしていたし、あかりも思わずときこの方を向いた。とはいえ、ときこの言葉も、完全に否定できるものではない。突拍子のない可能性ではあるものの、頭の片隅においておく程度はするべき仮説だ。あかりはそう判断した。
ただ、拓郎が同じ考えで納得できるとは思えない。どう話が進むにしても、しっかりと配慮するべきだろう。そう考えて、あかりはまず頭を下げる。
「ときこさん、もう! すみません、拓郎さん。デリケートな話に……」
「いえ、探偵らしいと思います。ときこさんの言う通りだとすると、妻は私を嫌った訳ではないのでしょう」
「あくまで、可能性ですけどねっ。調べてみないことには、何も分かりませんっ」
「そうですね。私達の手で、真実にたどり着いてみせます。ですから、もう少し話を聞かせてください」
あかりがまっすぐに拓郎の目を見ると、拓郎は頷いた。何気ない日常会話の中にも、案外手がかりは隠れているものだ。だからこそ、少しでも口を軽くするのが、助手としての手腕というもの。あかりはそう考えていた。
といっても、謎を解くのはときこなのだが。ただ、ときこひとりでは、宗心探偵事務所は成り立たないだろう。あかりには、確かな自負があった。
拓郎は、斜め上をしばらく見た後に、ときこ達の方を向いた。そして、確かめるように話していく。
「妻には確かに支えてもらっているのです。私が落ち着いて仕事ができるのも、妻のおかげなのです。ですから、悩みがあるのなら、解決したい」
あかりは拓郎の言葉に感心していた。本心はどうであれ、セックスレスという問題を抱えていながら、妻を気遣う言葉を出せる。それだけでも、拓郎の人柄が見えてくるというものだ。
だからこそ、できることならば円満な解決をしてほしいものだ。あかりは胸に手を当てながら祈っていた。
ときこは拓郎の言葉に笑顔で頷いた後、胸の前で両手を合わせて返事をする。
「それを聞くと、返報性の原理を思い出しますねっ」
「返報性の原理とは、いったい……?」
「簡単に言えば、恩返ししたくなる心理効果のことですよっ。拓郎さんは、恩返しとして悩みを解決したいんですよねっ」
「どうでしょう。恩を感じているのは事実ですが。夫婦関係が改善してほしいのが、本音なのかもしれません」
拓郎は、悩ましげに返答していた。あかりから見て、拓郎は妻を愛している。それは感じられた。だからこそ、自分の愛が伝わっているか不安な部分はあるのだろう。愛を確かめ合う行為が、おこなわれていないのだから。
きっと、妻にも事情があるはずだ。拓郎は信じているのだろう。あるいは、信じたいのかもしれない。どんな答えが待っているのかは分からない。それでも、謎を解くことが拓郎の未来に繋がるはずだ。あかりはそう信じていた。
「恩を売れば好きになるのなら、とりあえず恩の売り得ですねっ」
ときこはニコニコしながら、若干脈絡のない話をする。あかりは慣れたものだったが、拓郎は苦笑いをしていた。呆れるのも当然だろうと考えながら、あかりはときこに返事をする。ひとまず、拓郎にときこの性質を理解してもらおうという判断だった。
おそらくは、これからも配慮の足りていない言動もあるだろう。それを理解した上で、それでも依頼をすると決めてもらいたい。それがあかりの狙いだった。
「打算を見透かされたら、大変なことになりますよ……」
「確かにっ。なら、本心から助けたいと思う必要がありますねっ」
「これまであなたに助けられてきたのは、本心だと信じますよ」
あかりは、何度もときこに手助けされてきた。簡単なものでは物を無くした時に見つけてもらったり、難しいものではストーカーの正体を明かしてもらったり。だからこそ、どこかズレたときこを助手として支えているのだろう。
とはいえ、ときこの魅力と思うには難しい部分もあるのは事実。拓郎にときこを受け入れてもらうためにも、自分がフォローしなくてはならない。そう考えて、あかりは気合いを入れていた。
「興味のない人には、手助けなんて面倒なことはできませんよっ」
「ときこさんは誰から告白されても、いい返事をしませんでしたね。興味がなかったからですか?」
「あかりちゃんだって、全部断ってたじゃないですか」
「ときこさんとは、別の理由だと思いますけどね」
おそらくは、ときこには理解できない理由だろう。そして、理解する必要もない。あかりは自分の感情にフタをして、拓郎の話に戻すことにした。拓郎と目を合わせると、拓郎は頷いて話に入る。
「私は、妻から告白されたのですよ。その感情が今でも消えていないと、信じたいのでしょうね」
「その答えは、必ずしも良いものであるとは限りません。先に聞いておきますね。覚悟はありますか?」
問いかけるあかりにとって、通すべき筋だった。あかり自身としては、ふたりが円満な解決をすることを望んでいる。それでも、残酷な現実が待ち受けている可能性がある。謎を解き明かすということは、そういうことだ。
だからこそ、まっすぐに頷く拓郎を見て、あかりは胸をなで下ろしていた。そしてときこは、笑顔で拓郎を見ながら宣言する。
「この謎に隠された想い、解き明かしてみせますっ!」
それから、ときことあかりは、拓郎に連れられて彼の家へと向かっていた。道中、軽く世間話を兼ねた情報収集をしながら。
「奥さんから告白されたとうかがいましたが、どこで出会われたのでしょうか」
「職場でですね。今の妻は専業主婦なのですが、当時は私の部下だったんですよ」
「なるほどっ。当時から、狙っていたんですかっ」
ときこの言葉に、あかりはため息をつきたくなった。拓郎に対して失礼でもあるし、何より以前の言葉と矛盾していたからだ。思わず拓郎の顔を見ると、また苦笑いしていた。
あかりはフォローが必要だと考え、ときこの言葉に反論する。
「奥さんから告白されたという話、聞いていましたか?」
「いえ、告白されるように誘導する可能性だってありますからっ。ちゃんと、確認しないとっ」
「探偵さんらしい考え方でいらっしゃる。あらゆる可能性を想定する姿は、仕事として立派な姿勢ですよ」
拓郎は穏やかな笑顔で納得している様子で、あかりはほっと一息ついた。ときこは情報の正確さを重視する都合上、率直な物言いが多い。それがトラブルを起こす可能性は、常につきまとっている。あかりはあらためて実感していた。
とはいえ、ズレたときこだからこそ、あかりではたどり着けない答えを出しているのも事実。だからこそ、あかりはときこを強く責めることができなかった。
そのまましばらく歩き、整った様子の一軒家に到着する。そして、拓郎に案内されて部屋の中に入っていく。鍵の音と同時にドタドタとした音が聞こえ、拓郎が扉を開くと、妙齢の女が出迎えた。その女は、ときことあかりを見て目を見開く。
「あなた達は、探偵の……。そうですか、ついに来てしまったんですね……」
妻の様子に、あかりは首を傾げそうになった。今の態度からするに、セックスレスで夫との関係に亀裂が入ることは理解していた様子。にもかかわらず、夫と性交渉をしていない。
何より大きい違和感は、妻がうつむきながらも、どこか覚悟を決めた顔をしているように見えたことだ。あるいは、離婚すら想定しているのかもしれない。あかりにはそう見えていた。
「すまないな、花子。だが、私達の関係には必要なことだと思う。何も無いと信じているが……。いや、探偵に依頼した時点で嘘になるな……」
「いえ、当然のことです。私が、悪いんですから。どうぞ、おふたりとも。思うように、調べてください」
拓郎は、今でも悩んでいるのだろう。そして花子も、きっと悩みを抱えている。それは、ふたりの様子をほんの少し見ただけのあかりにも理解できた。
ならば、謎を解くことでふたりの悩みを解決できたら。あかりはそう感じていた。ただし、ふたりの関係がこじれる可能性だってある。そもそも、拓郎の言った通りに、探偵を雇うということは疑っているということだからだ。それを花子も知った。
現状は、かなり苦しいのかもしれない。あかりは拳を強く握った。せめて少しでも、ふたりの関係がいい方向に進むようにと願いながら。
ときこは空気を理解していないかのような笑顔で、話を進める。
「では、まずは花子さんに話を聞かせてもらいましょうっ。いいですかっ」
「もちろんです。ここまで来て、逃げることなんてできません」
やはり、花子は何かしらの覚悟を決めている様子だ。それが離婚ではないことを、あかりは信じたかった。拓郎は妻を愛している。わずかな会話からでも、察することができたからだ。
とはいえ、現状を理解しないことには何も始まらない。ときこの言葉に合わせて、あかりは花子をうながす。
「それでは、部屋に連れて行ってもらっても構いませんか? 拓郎さんは、別の部屋で待っていていただけると」
「私の前では言えないことも、おふたりの前でなら言えるかもしれません。期待、というと語弊がありますが、成果をお待ちしています」
「また後で会いましょうね、あなた」
少しだけ優しさを感じさせる表情で、花子は語っていた。だから、花子にも夫への情がある。あかりはそう感じていた。
ならば、花子の情を引き出す手伝いがしたい。そう考えて、あかりは花子に着いていく。階段を登って、その先にある扉に向かう。
そして案内された部屋に入ると、そこにはシングルサイズのベッドがひとつだけ。そして、全体的に殺風景な光景が広がっていた。
シングルサイズのベッドがひとつ。そして枕もひとつ。つまり、鈴木夫妻は別の部屋で寝ているということになる。セックスレスという問題に、さらなる色がついたようにあかりは感じた。
もちろん、夫婦でも別の部屋で過ごすこともある。ただ、そんな生活形態というより、ふたりの心の距離のように思えていた。あかりはほんの一瞬だけ、目を深くつぶった。
「では、まずは馴れ初めを聞かせてくださいっ」
相変わらずの明るい表情で告げるときこに、あかりは少しの安心を覚えていた。ときこだけは、謎解きに向かって進み続ける。良くも悪くも純粋な姿勢に、今のあかりは背中を押されたように噛んじていた。
花子はときこの質問に、少し遠くを見ながら回想し、数秒ほど経ってから話し始める。
「もともと、会社の上司と部下だったんです。その時は、ただ普通に接していたんですけど。あるきっかけから、私がアプローチを始めたんです」
柔らかい表情で花子は語っていた。だから、大切な思い出なのだろう。やはり、鈴木夫妻の間には絆があるはず。それを良い方向に導けたら。あかりにとっての目標がハッキリした瞬間だった。
そのためにも、花子の口を軽くする必要がある。あかりは気を使いながら相槌を打つ。
「よほど良いきっかけだったんですね。花子さん、いま幸せそうな顔をしていますよ」
「そうですね……。私は、発注で大きなミスをしてしまって。桁がひとつ多かったんです。でも、あの人は多く来た製品を逆に広告に利用してくれて。私は救われたんです」
心に刻むかのように、手を胸に当てて花子は語っていた。その姿から、確かな愛情をあかりは感じた。だから、拓郎が言うように料理に手が込んでいるし、普段は距離が近いのだろう。
ならば、余計にセックスレスの理由が気にかかる。間違いなく、花子は拓郎を愛している。それなのに性行為を拒否するだけの理由は、どこにあるのだろうか。あかりには、何も分からなかった。
「失態をフォローすれば好きになるのなら、優秀な人はモテモテですねっ」
「否定はしないですけど、誰もが即物的な訳ではありませんよ。そこに、特別な何かがあるんです」
「そうですね……。私は、あの人の優しさに救われたんです。だから、結婚したいと思いました」
あかりの言葉に、花子は迷わず同意する。つまり、特別な感情を抱えていることが事実なのだ。鈴木夫婦には、愛だけでは越えられない壁があるのではないか。あかりはそんな疑いを抱いた。
ときこは相変わらずの笑顔で頷き、話を続ける。
「では、この部屋を調べてもいいですかっ。そこに手がかりがあるかもしれませんからっ」
「分かりました。では、外で待っていますね。目の前では、調べづらいでしょうから」
何かを握りながら、背を向けて足早に去っていく花子の態度は、あかりには答えにたどり着いてほしいようにも見えた。なにせ、探偵が調べやすいように自室から出ていくのだ。それに、花子の目はときこをじっと見ていた。何かを託すかのようだと、あかりは感じた。
おそらくは、花子も悩んでいるのだろう。その結果として、セックスレスという形になった。ならば、答えそのものは、拓郎にとって悪いものではないのかもしれない。花子にとってはどうであれ。
いずれにせよ、自分たちにできることは謎を解き明かすことだけ。早速ベッドをまさぐるときこを、あかりはまっすぐに見ていた。
すると、ときこは何かを枕元から取り出した。ビニール袋に入ったなにか。あかりも覗くと、そこには箱が開封されたコンドームが入っていた。
どうして、枕元に。その疑問にある仮説が浮かんだ段階で、あかりは震えていた。
「セックスレスなのに、枕元にコンドーム……。まさか、浮気? そうだとするのなら、許せませんよ」
先程まで愛を語っていながら、堂々と男を連れ込んでいたのか。そんな疑いが、あかりの頭からは消えなかった。
もし本当に浮気をしているというのなら、この謎は解き明かすべきではないのではないか。あるいは、逆に花子の罪を白日のもとにさらすべきではないのか。矛盾した考えを持つあかりを前に、ときこは変わらない笑顔で反応する。
「まだ、決まったわけじゃありませんっ。もう少し、情報を集めてみましょうっ」
ときこの言葉を受け、あかりは深呼吸をした。いくらなんでも、邪推がすぎる。本当に事実だとしても、まだ証拠と言える段階ではない。そう自省していた。
あかりは情に厚いが、だからこそ感情で動きやすい。そんな時に、事実だけを語るときこがブレーキ役になったこともある。今回のように。やはり、あかりにもときこが必要なのだ。あかりは実感していた。
「そうですね。決めつけは良くありませんでした。ありがとうございます、ときこさん」
「お礼を言われるようなこと、何かありましたっけ?」
笑顔で首を傾げるときこの姿に、あかりは心にあった炎が消えゆくのを感じた。そして、あらためて冷静に真実を追求すると決意した。
「それにしても、コンドームですか。セックスレスの状況だと、何に使っているんでしょうか」
「水を入れて遊んでいるのかもしれませんよっ」
ときこの言葉は突拍子もなかったが、あかりは重要な言葉だと思っていた。謎解きそのものには関係ないだろうが、コンドームの存在が即座に浮気に繋がらないという証明にも思えたからだ。可能性は低いが、避妊以外の用途に使っている可能性も想定できる。そう考えられる事実そのものが、あかりにとっては大事なことだった。
「まあ、普通は避妊でしょうけど。でも、他の可能性もありますよね」
「子供が欲しくないのに、なぜセックスするのでしょうっ。得るものなんて、思いつきませんけどっ」
「そんなに単純ではありませんよ……。愛を確かめ合うことも、必要なはずです」
セックスを愛を確かめ合うための行動だと考えると、今の鈴木夫妻には確かめ合う機会が欠けている。もちろん、他の部分でも愛を感じることはできる。だが事実として、拓郎は苦しんでいた。謎を解かないことには、ふたりは前に進めないのだろう。
だからあかりは、もう少し鈴木家の関係について知りたいと考えていた。だから、後で詳しくふたりの生活に触れる必要があるだろう。そのために、しばらくは鈴木家に滞在すると決意していた。
そんなあかりを気にした様子もなく、ときこは部屋を漁っていく。
「写真立てもありますねっ。夫婦で写っているみたいですよっ」
ときこが見つけた写真には、ともにスーツを着たふたりの姿があった。おそらくは、同じ会社で働いていた時のものだろう。写真立ては、相当手入れされているように見える。つまり、夫婦関係を大事にしているはずだ。
やはり、花子が浮気をしているとは思いづらい。枕元のコンドームにも、別の理由があるのだろう。そう信じたいだけかもしれないが。ただ、あかりは少し前向きになれていた。
「ご夫妻は、やはり仲が良いんですね。この写真立てを見ただけで、分かります」
「手入れされてるって話なら、単に綺麗好きなだけの可能性もありますよっ。部屋全体が、ちゃんと掃除されていますっ」
窓のサッシに指をこすりつけて、ときこは語る。ときこの指には、ホコリひとつついていない。確かに、綺麗好きと言われても納得できる。だが、あかりは特別な情があると信じていた。
やはり、ふたりがどんな会話をするのか、目の前で見る必要があるだろう。そう考えて、あかりはときこに提案する。
「ときこさん、しばらく、おふたりの生活を見守ってみませんか?」
「良いですよっ。よく観察すれば、答えに近づくかもしれませんからっ」
ということで、ふたりは夫妻のもとへ向かう。とはいえ、完全に素の姿は見られないだろう。それでも、夫妻の心に少しは触れられるはずだ。そこから別のアプローチに移れば良い。あかりはそう判断した。
花子は部屋の外で何かを握りしめており、そこから手首に紐のようなものが絡んでいるのが見えた。ときこは無邪気な様子で、花子に問いかける。
「それ、何を握っているんですかっ。固くはなさそうですねっ」
「今は、言えません……。本当は、言うべきなのでしょうけれど。まだ、無理なんです……」
花子はうつむきながら語る。その姿は、あかりには迷いの中にいるように見えた。本当のことを知られる未来は見えている。だが、知られたくないという心を捨てられない。きっと、正しい意味で覚悟が固まったわけではないのだ。
やはり、少しずつ心を解きほぐしていくしかないだろう。袖の中に手の中身を隠す花子を見ながら、あかりは目の前の花子に提案する。
「しばらく、この家に滞在して構いませんか? とりあえず、今日一日」
「拓郎さんにも聞かないと分かりませんが、私は構いません。逃げていても、追いつかれるのでしょうから……」
目を伏せる花子は、心のどこかで何かを諦めている。あかりはそう考えていた。真実が明かされる瞬間を、遠ざけたいのだろう。その先の未来が恐ろしいのか、真実そのものを隠したいのかは分からないが。
結局は、花子は真実を明かされたくないのだ。明かされることは確実だと思っているだけで。やはり、大きな問題が隠れているのだろう。薄々感じていたことに、さらなる確信を抱いたあかりだった。
「直接伝えるのが苦しいのなら、私達が代理で伝えることもできます。そんな選択も、検討していただければと」
「そうですねっ。私は答えが知れたら満足ですからっ」
「もう、ときこさん。花子さんの気持ちも考えてください」
「いえ、私が悪いんです。とどのつまりは、私の罪なんですから……」
花子は下を見ながら、腹のあたりに手を当てていた。おそらくは、ストレスが溜まっているのだろう。当然のことだ。隠している真実を暴こうとされているのだから。それでも、答えを黙っていたままでは拓郎が耐えられないのだろう。そうでなければ、探偵に依頼などしないのだから。
ほんの少しでも、答えを明かす苦しみを和らげられたのなら。そう考えて、あかりは柔らかい声を意識して話す。
「拓郎さんが怒るようなら、私が説得しますから。最悪の未来が訪れないように、協力します」
浮気でないことが前提だが。そう思いながら話すあかり。花子は、わずかに口元を緩めて返事をする。
「探偵というものは、不躾なものだと思っていました……。あなたになら、知られても良いかも知れませんね。言う勇気は、出てきませんが……」
「では、拓郎さんのところに行きましょうっ。そこからが、本番ですよっ」
「分かりました……。着いてきてください……」
花子の先導のもと、階段を降りていくふたり。リビングに向かうと、拓郎はソファに座ってパソコンと本を並べていた。
「拓郎さん、お二方は、私達の生活を見てみたいようです……。構いませんか?」
「花子は問題ないか? なら、私は受け入れようと思う。依頼をしたのだから、当然だものな。そういうことです、お二方」
「分かりましたっ。それで、今は何をされていたんですかっ」
「仕事についての勉強ですよ。業務は持ち帰れませんが、それでも必要なことですからね」
「拓郎さんは、本当に仕事熱心で。だからこそ、私のミスをフォローしていただけたのでしょうね」
「馴れ初めは、聞かれるのは当然か。いやはや、気恥ずかしい」
「誇って良いんですよ。私は、確かに救われたんですから」
夫妻は笑顔を交えながら話していた。セックスレスという問題がありながらも、少なくとも普通に話せる程度の関係性ではあるようだ。人前という前提はあるにしろ。あかりから見て、夫妻の笑顔は自然なものだった。おそらくは、いつもと同じ会話なのだろう。そう思えていた。
ときこはニコニコとしながら夫妻の話を聞いている。そして、少し脈絡のない質問をする。
「拓郎さんから見て、奥さんに悩み事はありますかっ」
「強いて言うのなら、通帳を見ながらため息をついていることでしょうか。私の給料は、安くないとは思うのですが」
「それは、その……。拓郎さんの稼ぎには、不満はありませんが……。生活苦ではありませんし……」
目をそらしながら、花子は語る。ときこは頷きながら聞いていた。おそらくは、今回の問題に関係のあることなのだろう。ときこの様子を見たあかりは、そう判断していた。
生活苦でないのに、金銭を必要とする何か。それが、花子の悩みの根源なのだろう。今の情報から、あかりはそう推測した。
「通帳の額を見るってことは、お金と結婚すれば幸せになれたりするんでしょうかっ」
「仕事と結婚した方が、早くないですか? なんて、そこに愛はありませんよね」
「愛がなければ、食事も味気ないものですよ。少なくとも私は、花子と結婚する前は食事に魅力を感じていませんでしたから」
「せっかくですから、お二方も食べていかれますか? そろそろお昼時ですから」
「花子の料理は絶品ですよ。ぜひ食べていってください」
そう誘われ、ときことあかりは食事の用意を待つ。そこに出てきたのは、うなぎの蒲焼きと牡蠣のアヒージョ、すり芋のソースがかかった野菜炒めだった。
「なんか、精のつく料理って感じですねっ。美味しそうですっ」
ときこの言葉に、あかりは違和感を抱いた。セックスレスなのに、どうしてなのだろう。あるいは、拓郎が過労気味なのだろうか。そう思って拓郎の顔を見るも、血色はよく健康そのものに見える。
ならいったい、なぜ。そう考えても、答えは分からなかった。ただ、ときこは軽く頷いていた。だから、何かの手がかりはつかめたのだろう。あかりは納得していた。
「拓郎さんには、いつまでも元気でいてほしいですからね」
「ありがとう、花子。おかげで、今も元気に働けているよ」
「もう、いつも仕事のことばかりなんですから。たまには休まないと、疲れ果ててしまいますよ?」
今の会話の流れからすると、少なくとも表向きには疲れた拓郎を元気づけるものとして出しているのだろう。実際がどうなのかは、ときこの反応を見る限りでは怪しいが。あかりとしても、違和感があった。
拓郎はいつも通りという顔をしている。それはつまり、日常的に精のつく料理を出しているということだ。それほどに疲れる激務なのだろうか。だが、拓郎の目にはクマもない。とはいえ、問いかけるのもはばかられる。あかりは納得できないものの、とりあえず黙っていた。
「美味しい料理に愛情がこもっているのなら、料理人は誰でも愛せるんですかねっ」
「違いますよ。特別な人への料理なら、手間も惜しくない。それこそが、愛情なんです」
「なら、妻は愛情を持ってくれていることになりますね。いつも、手の込んだ料理を作ってくれていますから」
「もちろんですよ。あなたには、何度も助けられたんですから」
そんなやりとりをする姿を見ながら、あかりは花子の柔らかい表情を見ていた。料理を食べる拓郎を見ながら優しげな顔をするのだから、本当に愛情があるのだろう。そう信じたいと感じていた。
昼ご飯を食べ終えると、花子はカバンの準備をしていた。おそらくは、出かけるのだろう。ときこはいつもの笑顔で、花子に問いかける。
「どこに出かけるんですかっ。買い物でしょうかっ」
「それは、その……」
「妻は買い物と病院以外では出かけませんね。エコバッグを持っていないあたり、病院ではないのでしょうか」
「なにか持病がおありなんですか? 拓郎さんも、心配ですよね」
「花子の命に関わることは、絶対にないと。ですから、本人が言いたくなるまでは待とうと考えています」
とはいえ、花子を心配そうに見つめながら拓郎は語る。その言葉を聞いて、花子はうつむく。つまり、病気が何らかの悩みのきっかけになっている。察するに、セックスレスの原因である可能性も高い。
花子はそそくさと動き、そのままドアを開けて出ていく。花子の袖口から、お守りのようなものが落ち、手首に紐が引っかかる。そして花子は、お守りらしきものを隠しながら去っていった。少しだけ、手を震わせながら。
「お守りですかっ。隠すということは、なにか隠したい願いでもあるのでしょうかっ」
「文字までは見えませんでしたね。なんと書かれているかが分かれば、答えには近づけたのでしょうが」
「妻は、とても大事そうにしていますね。私にも、見せてくれたことはないのですが」
やはり、お守りは重要な手がかりなのだろう。そこに書かれている内容が、悩みの根源であるとあかりは推測していた。
「お守りを買えば願いが叶うのなら、私は相手の心を知りたいですっ」
「誰にでも、隠したい気持ちはあるんですよ」
花子の隠したい気持ちを解き明かす罪悪感も、あかりには確かにあった。ただ、もう立ち止まるには遅いのだろう。拓郎が探偵を雇ったという事実は、花子も知っている。だから、前に進むしかない。あかりは覚悟を決めて拳を握る。
どの神社に通っているのか、あるいはどの病院に通っているのか。はたまたその両方を知ることができれば、答えにたどり着けるはずだ。そう信じて、あかりはときこの方を向いた。
「後を付けるのは悪い気もしますが、どの病院かが分かれば答えが分かるとも思います。どうしましょうか」
「決まっていますよっ。後を追いかけましょうっ。気づかれないように、こっそりと」
「拓郎さん、構いませんか?」
「必要なことだというのなら、どうぞ。ただ、妻を傷つけずに済む形を目指していただけると、ありがたいですね。私の言えたことではないでしょうが」
探偵に依頼している時点で、もっと言えば探偵の存在を知られた時点で、花子は傷ついているだろうから。そんな隠れた言葉が、あかりには聞こえたような気がした。いずれにせよ、夫妻にはお互いが傷つく覚悟がなければ、そしてあかり達には夫妻を傷つける覚悟が必要なのだろう。そう考えた。
なにせ、今の段階で、夫婦の関係には影が生じているのだから。謎をあいまいにしたままでは、いずれ破綻するだろう。先延ばしにするのもひとつの選択だとはいえ、もうサイコロは投げられてしまった。
だからあかりは、真実を追求すると決めた。どのみち、答えを隠したままでは、夫妻はいずれ離婚する。そのような予感があったからだ。夫婦が円満に戻るためには、劇薬が必要だろう。それが、あかりの判断だった。
あかりがときこと目を合わせると、元気いっぱいに頷かれた。そのまま、ときこは歩いていく。最後に一言だけ、拓郎に問いかけながら。
「あなた達は、縁近神社に通っていますかっ」
「はい。どうして、それを?」
「ありがとうございますっ。大事な情報を得られましたっ」
そのままときこはドアを開け、玄関から出ていく。あかりは慌てて一礼して、ときこを追いかける。そしてときこは、周囲を見回して、道路を一直線に歩いていった。あかりが駆け足で着いていくと、しばらくしてときこは立ち止まる。そして、近くにあった電柱に隠れた。
「見つけたんですか、ときこさん」
「はいっ。この調子で、どの病院に向かうかを突き止めましょうっ」
ときことあかりは、カバンから帽子と上着を取り出して着る。そして、帽子の向きを変えたり上着のボタンを開け閉めしたりしながら花子に着いていった。背後を振り返られても、ときことあかりだと気づかれにくいように。
そして、時々近づいたり遠ざかったりしつつ花子を追いかけ、病院に入る花子の姿を見送った。そのまま、花子が入っていった病院の看板を見る。
「縁近レディースクリニック……。産婦人科でしょうか」
「それなら、いくつかに候補を絞れますねっ」
「命に関わることではないと言っていることを信じると、ガンのような病気は弾けますね」
「思いつくのは、性病や堕胎、あるいは不妊でしょうかっ」
ハッキリと言うものだとあかりは思ったが、可能性を列挙するのは大事なことだ。性病だとすると、セックスレスと繋がりはする。花子が拓郎と性交渉してしまえば、感染する可能性もあるからだ。
堕胎は、流石にないだろう。浮気をして妊娠までしているのなら、花子を信じることなどできなくなる。自分が悪いと言っていた姿とは、符合はするものの。
後は不妊だが、あかりには一番可能性の高いものだと思えていた。それなら、セックスレスとも一致するし、花子が自分が悪いと言っていることとも一致する。通帳を見ながらため息をついていたことも、医療費の問題か、あるいは金銭でも解決できない悩みだったからだと考えれば納得がいく。
とはいえ、可能性が高いというだけだ。まずは、ときこの意見を聞こう。そう考えた。
「ときこさんは、どう思われますか?」
「そうですねっ。不妊だと思いますよっ」
「いったい、なぜ?」
「縁近神社に通っていると言っていましたよね。あそこは、縁結びの神社ですっ。そこと関連があるとすれば、安産祈願のお守りではないでしょうかっ」
ときこは笑顔で語る。健康長寿や交通安全に合格祈願は、縁結びとは関係が薄い。ときこの言っていることには、十分な妥当性があるとあかりには思えた。実際、縁近神社に以前に通った時には、安産祈願のお守りを売っている姿を見たことがあった。かつての依頼でも、買ったという人が居た。
それならば、不妊が原因だという方向性で推理を進めていけばいいだろうか。ただ、あかりは花子を追いかける気になれなかった。病院にも守秘義務があるし、何より不躾がすぎるからだ。いくら探偵だとしても、人の悩みにズケズケと踏み込むのは避けるべきだ。そう考えていた。
とはいえ、花子のいない場所で報告するのも気が引ける。拓郎に真実を伝えるにしても、コソコソとしたものであってはならない。
確実に状況を整理するためにも、いったん事務所に帰るべきだとあかりは判断した。曇りがかった空を見ながら。
「ときこさん、一度事務所に帰りましょう。明日は日曜日ですから、そこで報告しましょうか」
「分かりましたっ。どんな想いを抱えているのか、ちゃんと知りたいですからねっ」
そこであかりは拓郎に電話で状況を伝え、ふたりは事務所に戻る。そこであかりがメモを確認していると、ときこがボロボロのハンカチを使っている姿が目についた。ポケットから取り出していたので、依頼の際にも持って行っていたのだろう。そう考えて、注意をする。
「そんなボロボロのハンカチ、捨てちゃってください!」
「でも、これはあかりちゃんがお礼にって渡してきたものですよっ」
ときこの言葉は、あかりの渡した事実に愛着を持っているからだろうか。それとも、単なる知識として、捨ててはいけないと知っているだけだろうか。あかりは、ときこを疑う自分が嫌いになりそうだった。
ただ、ときこの気持ちを無駄にしたくはない。そう考えて、返事をする。
「だからといって、外出先でボロボロのハンカチを使ってはいけませんよ。大事にしてくれるのなら、しまっておいてください」
「そういうものなんですねっ。分かりましたっ」
ときこの言葉に、思わずうつむきそうになったあかり。ただの常識として、ハンカチを持っている可能性が高くなったからだ。ただ、沈んでいる場合ではない。拓郎と花子の未来が、自分たちにかかっている。そう考えて、ときこの前で情報を整理していく。
「拓郎さん夫妻は、セックスレスという問題を抱えていました。そして、原因は花子さんの不妊である可能性が高いです」
「そうですねっ。どうして不妊だと、セックスレスになるのでしょうっ。そこも大事ですよっ」
やはり、ときこには分からないのか。そんな悲しみを笑顔で隠しながら、あかりは推測する。
「夫婦の愛の結晶を残せないのは、苦しいんだと思いますよ」
「愛した人の証って、共に作ったメダルじゃダメなんでしょうかっ」
ときこはどうしてもズレているのに、それでも感情を解き明かしてしまう。その事実が、あかりとときこの距離を示しているように思えてならない。あかりは、背中に隠した拳を握った。笑顔の仮面を被りながら。
「私なら、一緒に子の成長を見守りたいですね」
「子供を作れば幸せになれるのなら、子供を作れば相手を好きになるのでしょうかっ」
「少なくとも私は、好きでもない相手の子供は作りたくないですけどね」
きっと、好きでない人と子供を作ったとしても、苦しいだけなのだろう。あかりはそんな想像をしていた。だからこそ、花子の苦しみがよく分かる気がしていた。愛する人の子供を残せないのは、胸を引き裂かれるほどに苦しいはずだ。間違いのない感情だと、あかりは袖を握りながら感じていた。
花子の真実を明らかにするのは、心苦しい。それでも、答えを知らないままでは、拓郎は折り合いをつけられないだろう。だからこそ、花子の心を少しでも知るべきなのだろう。ときこに頼って。そんな割り切りとともに、あかりは話を続けた。
「どうせ子供なんてできない。だから、セックスのことなんて考えたくなかったんでしょうか」
「ちょっと違うと思いますよっ。なら、花子さんの枕元にコンドームはないはずです」
確かに、わずかな矛盾と言える。ときこなら、答えが分かるのだろうか。そう考えながら、あかりはときこを見つめる。ときこは明るい顔をして、推理を続ける。
「ただ、あかりちゃんの考えで、八割くらいは合っていると思うんですよね。残りの二割は、もうちょっとで分かりそうですっ」
そう言いながら、ときこはあごに手を当てる。そのまま、思考をまとめるように語りだす。
「ボロボロになった道具を、人前に出すのは良くないこと。だったら……」
自分とのやり取りが、推理に使われている。あかりは助手として、確かな達成感を覚えていた。今のときこは、間違いなく答えにたどり着く。そう信じて見守る。するとしばらくして、ときこは笑顔で前を向く。そして胸に両手を当てながら、力強く宣言した。
「鈴木花子さん。あなたの想い、届きましたよっ」
そして次の日の朝、ときことあかりは鈴木夫妻の家に向かう。曇天の中ふたりを迎える夫妻は、どちらも神妙な顔をしていた。拓郎はじっとときこを見て、花子はうつむきながら胸の前で拳を握っている。
夫妻の前で、笑顔のときこは語りだす。
「花子さん、あなたは、拓郎さんと離婚したいという気持ちも持っていたんじゃないですかっ」
その言葉に、花子は全身を震えさせ、その様子を見た拓郎は目を白黒させていた。そして、悲しそうな顔で花子を見る。
「花子、まさか……」
「待ってください。ときこさん、どう推理したのか、説明していただけますか? 花子さん、良いですよね」
花子はあかりの言葉に、暗い顔でうなだれながら、ほんのわずかに頷いた。そしてときこは、笑顔のまま種明かしを続ける。あかりは、花子がただ自分のためだけに離婚を考えているとは信じていなかった。だから、落ち着いた心地でときこの言葉を待っていた。
「花子さんは、不妊の自分を壊れていると感じていたんですっ。だから、拓郎さんと一緒にいることを良くないことだと感じたはずですっ。さながら、ボロボロのハンカチを捨てたいかのように」
「不妊……? それは、つまり……」
拓郎の心配そうな表情を見て、花子は一度目をつぶり、とても深く深呼吸する。そして、泣きそうな顔で話していった。
「拓郎さんと結婚して、私は幸せでした。その気持ちを、拓郎さんに返したかったんです」
「返報性の原理ですねっ。でも、恩返しには足りなかった。そういうことですよねっ」
「はい。私は、拓郎さんの血を引く子供を残したかった。立派な子として、育てたかったんです」
だが、花子は不妊だった。つまり、花子の願いが叶うことはない。あかりには、花子の苦しみが痛いほどに分かった。愛する人の子供を残せない事実は、心をえぐるほどだ。自分の胸まで傷んだ気がして、あかりは胸に手を当てた。
そんな花子を見ながら、拓郎は拳を握っている。どこか、切なさを抱えた表情で。きっと、複雑な感情が渦巻いているのだろう。あかりには、細かい気持ちまでは分からなかったが。
「そして、枕元のコンドームと精のつく料理は、ある種の防衛機制のようなものだったのでしょうっ」
ときこは推理を続け、花子は目をつぶる。拓郎は、ただまっすぐに花子を見ていた。おそらくは、コンドームも精のつく料理も、自分以外の何かに不妊を求めたい気持ちの現れだったのだろう。
そして、ときこは言葉にしていないことではあるが、きっと愛する夫と結ばれたいという気持ちも、心のどこかにあったのだろう。あかりはそう祈っていた。
花子は深呼吸をした後、拓郎の方だけを見て、言葉を続けていく。声をかすれさせながら、自分の罪を吐き出すかのように。
「愛する人の子供を産めない。こんな欠陥品が、拓郎さんの妻であっていいはずがないんです」
その言葉を聞いて、拓郎は切なそうな顔で花子に手を伸ばす。その手を見たまま、花子はただうつむきながら言葉を続けた。
「でも、別れたくない。だって、本当に素敵な人なんですから。それでも、彼から別れを切り出されたのなら、諦めようって……」
きっと、花子にとっての妥協点だったのだろう。不妊の自分は拓郎にふさわしくない。だから、セックスレスをきっかけに別れ話になるのなら、それを受け入れようとした。あかりには、そう見えていた。
だが、本当は苦しかったはずだ。花子の愛は、あかりにだって強く伝わるほどだったのだから。そんなふたりが、ただ別れて終わって良いはずがない。そんな思いを込めながら拓郎を見ると、拓郎は花子を抱き寄せていた。そして、ゆっくりと語り始める。
「俺は、お前が良いんだ。他の誰でもない、お前が。最初から、ちゃんと伝えていればよかったんだな……。そうすれば、お互いに悩まずに済んだのだろうに」
「あなた……」
花子は少しだけ笑顔を浮かべて、拓郎を抱き返す。難しい問題を抱えたままではある。だが、ふたりならば、きっと乗り越えられるはずだ。抱き合う夫妻を見ながら、あかりは祈っていた。
そして拓郎は目をさまよわせた後、花子と目を合わせて告げる。
「養子を取ろう。俺達なら、きっと大切な想いを伝えられるだろうさ」
大切な想いというのは、ふたりの愛であって、苦難を乗り越える道筋でもあるのだろう。一度はすれ違っても、もう一度つなぎ直す絆でもあるのだろう。あかりは、素直に夫妻の未来を祝福しようと思えた。
ときこは最後に、笑顔で言葉を告げる。
「花子さん、素敵な想いでしたよっ」
「ありがとうございます、おふたりとも。おかげで、花子と歩むべき道が見えた気がします」
「それは良かったです。私達があなたの未来の手助けになれて、嬉しいです」
「これで、一件落着ですねっ」
ときこの言葉をきっかけに、夫妻は目を合わせて笑った。そして、穏やかな空気で話していく。
「探偵さんへの報酬分くらいには、来月のお小遣いを増やしますね」
「ありがたい。来月は晩酌も難しそうだったからね」
「それは困りますね。私のつまみを、食べてもらわないと」
花子は拓郎の腕を組み、ときこ達から離れていく。あかりはそっと胸をなで下ろしていた。ふと窓を見ると、陽が鈴木家を包みこんでいるかのように見えた。
それから、ときことあかりは事務所に戻って、今回の事件について振り返っていた。
「本当に良かったです。まだ完全に解決した訳じゃないでしょうけど、ふたりなら大丈夫ですよね」
その言葉に、ときこは変わらない笑顔のまま返す。
「子供の存在って、やっぱり夫婦の幸せの基本なんですねっ」
「それだけではないはずです。もっと大事なことは、きっとあるんです」
自分に言い聞かせるかのように、あかりは語っていた。