わが君よ、願わくばなお一条の光を   作:川に揺蕩う論理の箱

13 / 15
第一部終幕 君は眠らなればならないが、私は踊らねばならない(上)

 

母親をこの手で殺すという悍ましい

ブラディドリームの行き先

誰が知る 誰が許す

罪と罰を

己に

 

 

         1.

 

 星見雅は好物のメロンを口に運んだ、繊維質のぬらついた果肉を歯でつぶすと果汁があふれ口のなかは甘みでみたされた。すぐにもう一口、切り分けられたメロンを口に運ぶ、そこで頬をゆるめた彼女は、なぜ母上はメロンを切るぐらいやらしてもらえないのだろうか、と疑問に思った。以前、りんごを果物ナイフで皮をむいていたとき、母はそれに気づきとりあげたことがあった。母は、困った表情を浮かべ、あぶないからダメよ、と指を左右に振りながらいった。そのときは母上がいうなら、仕方がない、と納得していたが、また疑問に思った。そして彼女はふと、調理室をのぞくとたまに捌くマグロ、それにあてがわれる長く鋭い包丁を思い浮かべ、

 

「あれを使えたら」と、雅はつぶやいた。「もっと大きな一切れを食べられるのに」その独り言に応える者はいなかった。まわりには人がいないからだ。母はやることがあるようで、ここにはいない。テーブルに置かれたこのメロンはおやつの時間に母がくれたものだ。メロンは合計2つある。三日月型に切られたメロンはさらに一口サイズで切られていて、器代わりにされたメロンの皮がそれを支えていた。

 

 また一口食べた雅は立ち上がり、本棚をながめた。しばし考える。なにを読むかを決めた。踏み台をつかって古びた分厚い本を取り出した。慎重にそれをテーブルに置き、さいごのメロンの一切れを食べた。あとひとつある。これは母に食べてほしかった。外題には天狐記(てんこき)と書いてあった。雅は本を開き、一文から読みはじめた。これは、星見家の伝説が小説の形として語られるもので、語り手は何百年生きる仙人である。彼女の愛好書だ。山のように巨大なホロウとの対決、エリー都をおびやかすテロリストの幹部との対決、妖刀の力、星見当主と良人の関係性の発展、仙人の起きた出来事の見解と教訓、彼女はキリがいいと思うところまで読みすすめていると喉を渇きを覚えた。お茶を飲もうと湯呑みに手をのばした。しかしお茶を持ってくるのを忘れていた。雅は本を閉じた。廊下に出る。すると長い廊下からちょうど母がむかっているころであった。紫の着物を着ていた。雅は「母上」と声掛けた。母は微笑みを湛えながら、あら、雅、といい、どこへ行くのかを聞いた。雅は、お茶を飲もうとしていることを伝えると母は、それでは一緒にいきましょうか、という。母と雅は一緒に歩く。調理室についた。専属の料理人がそこで下準備をしていた。料理人に挨拶を交わし、上の抽斗から茶入れを取り出した。料理人は、わたしがやりましょうか、と訊く。母は首を横にふる。母は雅を椅子に座らせ、お茶の準備を始めた。雅はその背中をじっと眺め、耳を澄ます。母の無駄がなく美しい仕草、鉄瓶に水を入れる音。母はガスコンロに火をつける、ぼぼ、という音。やがて、水が沸騰する音がする。湯呑みに注ぐ、沸騰水が注がれる音。急須に茶葉を入れ、さわさわとした音。急須に湯をそそぐ。1分間、待つ。まな板と包丁がぶつかる音、野菜が切れる音。できましたよ、と母はくるりとふりかえり、雅にいった。

 

 手に渡された湯呑みには澄んだ緑いろの茶が満ちている。ゆっくりと口を運び、おいしい、という。母はうれしそうに微笑むが、明日の昼下がり、自身は用事ができたため、夜になるまで一緒にできない、だけど、直嗣くんが一緒にいてくれるのから、安心して、と伝える。これもまた、雅のとっての疑問だった。直嗣と雅を一緒にしたがるのだ。なぜ母上はそのことに固執するのか、と考える。色恋に疎い彼女にはわからなかった、否、そこには色恋以外にももっと()()()()がある。が、それを見抜くには彼女は世間を知らなすぎた。どっちにしろ、雅も昔のような怖さが薄れ、直嗣に言葉に言い表せぬ惹きつけるものを見出していた。雅はうなずいた。

 

「あ、母上」思い出したように母はいう。

「どうしたの?」

「メロンを食べてほしくて」

「いいのですか?」

 雅はうなずく。

「雅は優しいですね」母は白く細い手でゆっくりと頭を撫でてくれた。

 

 この日常がいつまでも続くばいいのに、心底からそう思った。

 

 翌日、母と朝食で、ブラックコーヒーを飲む修行をしたが、今日も飲みきれず、仕方なくミルクをたっぷりと入れ角砂糖も六個ほど入れて飲んだ。そのあと、昼下がりになるまで弓道と琴の修行をした。時間になった。母は父とともに出かけた。見送りをした雅は縁側にゆき庭で舞う青い羽をした蝶を眺め、持ってきたブラックコーヒーを再度挑戦した。やはり苦かった。角砂糖を口に放り込んだ。口の中で溶け甘味が広がるのを感じる。雅は不規則に上下に飛ぶ蝶が花に止まり、長いストローのような口を伸ばし、蜜を吸うところまでじっとみつめた。雅は足音を消し、蝶に近づく。蝶の背後を取り、気配を極力うすめて一歩一歩丁寧に歩く。手を伸ばして届く距離までついた。そばに生えている草々は風で揺れ、蝶は貝のように重ね合わせた羽をわずかに開き青い羽をのぞかせた。彼女は片手を伸ばし、その羽をつかもうとする。つかまえた。蝶は足、頭、触覚、全身を使い必死に動かす。雅は首を動かし、閉じこめるのに良さげなものを検分する、なかった。彼女は蝶を手にはなした。すでに体力をつかった蝶は弱々しく庭を舞う、地面の底をかすめるようにして遠くへ飛ぶ。が、黄色の花々が植えてある花壇の上で蝶は輝きを失った羽を動かすのやめぽたりと堕ちた。すぐ近くには高い堀があった。あとすこしだった。雅は指をみる、白い粉がついていた、首をかしげ縁側に腰を下ろした雅はカップを手に取り、ブラックコーヒーを恐るおそる飲もうとする。これはなんだろう、とつぶやいてコーヒーを飲んだ。その粉を落とさないで数分後、雅は突然影につつまれる、その方角へ視線をむけると直嗣がいた。お久しぶりです、という直嗣は雅は白い粉がついた指をみせる。

 

「それは鱗粉ですよ、雅さま」直嗣がいう。直嗣はスーツを身にまとっていた。老齢の大木のように鍛えられた日焼けした腕をポケットに片方突っ込んでいた。直嗣は雅の隣に座り、ポケットからシワひとつない畳まれたハンカチを取り出す、そして失礼、といい、彼女の幼い手を取り、粉がついた指先をやさしく拭った。雅は彼の目をみる、それに気づいた直嗣は目を合わせる。鬼火のような青い目。目が魂の扉であるのであるば、そこから覗ける魂は前回会ったときとは変わっていた。「どうしました?」ポケットにハンカチをしまった直嗣はきく。

「これが」雅は指をみる。そこには何もない。「いや、それはリンプンというのか」

「そうですね、生きるために必要不可欠なところですよ、あ、そうそう雅さま、あまり蝶はさわらない方がいいですよ」

「なぜだ?」

「まあ、毒をもっているやつもいるからですね、あとは鱗粉が取れると、うまく蝶は生きれないんですよ」

「そうか、すまない」彼女は花壇をみる。ここからでは蝶がいるのかわからない。

「いえ、謝るほどのことじゃないですよ」

 雅はしばらく沈黙する。彼女は立ち上がる。そして彼女は靴を履き花壇の近くまで歩いていた。直嗣はあぐらをかいたまま、雅をみている。花壇にはまだ蝶がいた。死にかけていた。羽をぴくぴくと動き、足と胴体を土にへばりつき、ストローのような口は巻かれたままだ。その目は堀をじっとみているようであった。「………どこへゆこうか?」

「そうですね、やりことはありますか」

「……とくにないな」

「では映画でもみますか」

「映画か?」雅は直嗣を見返す。

「ええ、雅さまは映画をみたことはありますか?」

「ない」

「では、いきましょうか、何時がいいですか?」

「直嗣」遮るように雅はいう。

「はい」

「蝶が死んでる」

 直嗣は立ち上がり、雅のそばにゆく。蝶が動くことをやめていた。「そうですね、死んでます」死んでも同然だった。

「私のせいか……?」雅は曇った声でいう。

「まあ、嘘は言わないなら、そうですね。だけど、いずれにしてもこの蝶は死んでますよ、ただそれが早かっただけです」

「そうか……」

「ええ、人に手で捕まるほどなら、自然では生きていけないでしょうから、それに蝶は死にやすいですね、なにしろ体がこんなに小さいのですから。死は急に来るものですから、気にするほどではありませんよ」

「わかった、ありがとう」

「ええ、それで、いついきますか?」

「今からでもいいか?」

「もちろん、では俺は門の前で待ちますので」

「ああ」

 

 雅は使用人に手伝ってもらって、服を着替え、お気に入りの小さな鞄を肩にかけ、門を出た。バッグを背負った直嗣は柱に寄りかかり、スマホで何かの調べ物をしている。彼は雅に気づく。それでは、いきましょうか、という。雅はうなずき、直嗣は雅が隣にきてから歩き出した、高級住宅街を越え、商店通りへつく、その交差点でタクシーに乗って地下鉄の近くまで運んでもらった。雅に切符の買い方を教え、四番ホームで電車に乗った。滅多に乗らない電車に雅は目を輝かせ高速に流れゆく人工の建造物と自然の青空が混ざる景色を直嗣に呼ばれるまでみやっていた。目的の駅に着いた、電車から降りた、電車から一気に吐き出される人々、雅は鞄の紐をつかむ。無意識に直嗣を探した、近くにいた。直嗣は離ればなれにならないように手をつなぎ、改札を出た。そこに広がっているのは立ち並ぶ高層ビル、買い物や遊びに出かけている人々、まだ建設途中のビル、そのそばにあるクレーン、ドリルが地面を削る音がひびく、エリー都でも最も発展している街だった。こんなに人がいる、彼女は直嗣の手をさらに強く握りしめて離れないようにした。直嗣は、大丈夫ですよ、と声をかけ、ブドウ味の缶ジュースの広告看板がついている建物を通り抜け、映画館で止まった。そこには映画ポスターが貼っており、いま話題の映画がそこにはあった。直嗣は雅になにがおもしろそうかと訊くと、彼女は、おまえのおすすめがみたい、といったので彼はしばらく何にしようか思案した、彼は決めていう。では、このボーイ・ミーツ・ガールと探偵ものを題材にした映画をみますか、と。どんでん返しのストーリ性が評価された作品であった。雅はそれにしようと決めた。

 

 映画館に入り、チケットを買った雅と直嗣はポップコーンとコカ・コーラを買うために列を並んだ。数分して、自身たちの番がきた。メロン味のポップコーンがなくて雅は肩をおとしたが、結局キャラメルとプレーンのポップコーンを半分ずつ混ぜたものに決めた。

 

 幕間が終わり、シアターは暗くなる、映画がはじまる、雅たちは端の席に座っていた。はじめのカットは、夜のしのつく雨を眺めタバコをくゆらせるひとりの男に友人と思われる男から、終電を逃したんだ、お願いだから、向かいに来てくれないか、と電話で頼むところである。つぎに男は皮肉を返し、行く気はなかったが、友人の頼みであるからということで、場所を訊き、車でそこに向かう。運転中の男が映され、ハンドルをとんとんと指で叩くことで苛立ちがわかる。男はグローブボックスを開け、そこをしばらく眺める。何が入っているのかはわからない。そして男はため息をついて、グローブボックスを閉めるところでカットが入る。

 

 次のカットで閉店している店の前で雨宿りしている三人の男女が映され、何かを待っているシーンとなる。そこに、車を運転している主人公が止まる。センターパートの男が窓を開けた彼に話しかける。わりぃ、わりぃ、と謝る。主人公は残りの二人に目を向け、あいつらは誰なのか、と訊く。友は、ああ、あれは俺の飲み友だよ、最近出会ってね、といい、紹介をしはじめる。スキンヘッドの大男の名はシュガー、というらしく、大男は拳銃さえ丸み込めそうな大きさな手で握手を求める。こんにちは、こいつが迷惑かけていないですか? と主人公は訊き、俺の名はピーターです、という。大男は微笑み、いえいえずいぶん面白い話する人で、毎回楽しく飲んでますよ、という。ピーターは次に女性のほうに目をむける。可愛らしい女性だった。美しいというより、愛でたいと思ってしまうようなタイプの女性だ。が、彼女の手にはフィルターに口紅がついているタバコを持っていた。それに胸元が開いた派手な格好をしていた。風でタバコの煙がゆらゆらと揺れるシーンが映る。その女の名はダブリンだった。握手を交わしたピーターは眉をひそめ、友に、小声で、おい、おまえまさか、……という。友は首を横に振り、まさか、俺には彼女がいるんだぜ、という。それをみていた彼女は、安心して、私もこいつには微塵も興味がないから、ただおもろいし美味しい酒が飲める場所を知っているからよ、という。とりあえず、彼らに今日はどうするか、とピーターはいってみるとその辺のホテルで泊まる予定だ、という。では、俺が連れていきましょうか、と提案し、彼女らはその案に乗る。そうして、ピーターは自身の職業が私立探偵であることを明かして、泊まることができるホテルで彼女たちをおろす。最後にダブリンがジッとみつめてホテルのなかに入り、ピーターはタバコを吸うという感じで冒頭は終わる。

 

 ここから1週間後、ピーターの友が自殺するイベントが発生する。警察は自殺だと判断をしたが、探偵の勘で友が自殺したと思えず、葬式を終えたあと、彼はなぜ友が死んだのかを調査をはじめる。そこで彼は計り知れず、大きな闇に巻き込まれる。その闇に彼は地べたを這うことになるが、それでも彼は調査をやめない。友の友人や前日、何をしていたのかを調べていく。するとダブリンが何かしら関係があるかもしれないと思い、探りをいれる。ダブリンは正体が明かす。彼女との対立、そこで語られるピーターの過去。そして互いのことをよく知ったピーターとダブリンは手を結ぶ。調査をつづける。やがて、ひとりの情報屋から手掛かりをもらう。そこからピーターは友の死と関係すると思われる組織に検討をつける。情報屋は、ひとりで向かうのか、危険だぞ、と言われ、ピーターはわかっているさ、といった。翌日、彼は単独でそこに向かう。もちろん捕まる。そのとき彼は微笑む。それを嘲笑だと捉えた敵はキレて、隠れ場所まで連れいく。彼は拷問を受ける。水攻めだった。顔に布を被され、冷水を絶えずかけられる。が、彼は直前ジェルで包んだGPSを飲み込んでいたのでダブリンは特定に成功し、そこに治安官とシュガーが駆けつける。捕まるボス、そして語られる友の過去。友が死んだ理由。深い悲しみに包まれたピーターはダブリンの前で泣き、それをダブリンは受け入れ慰めた。極めて曖昧の描写だが、そこで彼らは深い関係に結ばれたことが示唆される。そして彼らは友が好きだったという岬をダブリンとともにゆき、時化た海を見下ろす、ダブリンはピーターが一度も友を名前で呼んだことないねというと、ピーターは笑い、くだらないことさ、酔ったときに賭けてたんだよ、どっちが先に名前を呼ぶか、といった。しかし、それももはや成り立たない賭けだった。だからピーターは口を開き、友の名を呼ぼうとするところで────暗転。エンドロールと音楽が流れ、映画が終わるのであった。

 

 

 

「そろそろ帰りましょうか」直嗣がいった。「当主さまがおかえりになったようです」

「わかった」

 

 雅たちはホワイエの紅いソファーに沈め、残りのコカ・コーラをゆっくりと飲んでいた。飲みきった雅たちはゴミ箱に紙コップを捨て、外を出る。まだ外は明るかった。雑貨店に寄り、アイスボックスから水色の梱包のソーダーアイスと同じシリーズである緑の梱包のメロンアイスを買った。直嗣は店を出て、ソーダーアイスの梱包を破り透き通るような水色の結晶を口に運ぶ。直嗣は溶けてしまう前に食べることを勧める。食べ歩きは良くないことだと母に教えられており、しぶったが、直嗣は、内緒に食べましょ、というので雅と直嗣は地下鉄へアイスを食べ歩いた。地下鉄につくころにはアイスを食べ終えていた、両方とも木の棒に外れと書かれていた。プラスチック袋にゴミを入れて、直嗣が預かった。

 

 電車で雅たちは映画のことを軽く振り返った。「今日のことは礼をいう、感謝している」雅がいう。

「楽しかったですか?」

「ああ、母上がいう、都会とはまさしくあのような場所をいうのだな。映画も面白い、はじめてみるが、予想だにしない展開に胸の高鳴りが収まらなかった」

「よかったです、俺も楽しかったです。………あ、くどいですが、アイスを食べ歩きしたことは秘密にしてくださいよ」

「もちろんだ」

 

 雅たちの席の隣には家族連れがいる。その息子がサングラスと白い帽子をかぶった母に、いつ着くの? といっていた。母はあと数駅よ、と返し、雑誌に再び目線を戻した。息子はすることがないので、母に、ねえ、携帯貸して、と訊く。母は仕方なく携帯を渡す。携帯を起動した息子がネットサーフィンをはじめているところを横目に腕を組んだ父は外の景色を眺めていたが、やがて飽きて目を閉じた。いまからどこにいくだっけ? 息子の質問に母が答える。美術館よ、アポリア美術館ってところよ、調べてみなさい。息子は足をぶらぶらとさせ、携帯で調べる。ふーん、面白そう。目的の駅に間も無くつくことを告げるアナウスが入る。父は目を開け、ほらやめなさい、といった。はぁい、と息子は返事した。母に携帯を返し、立ち上がって家族とともに電車から降りた。空いた席に女子高校生たちが座る。扉が閉まる。女子高校生たちはタピオカミルクティを飲んでいる。髪留めを左側にしてるオレンジ髪の高校生はストローを含むとそこからタピオカとミルクティが混じって口まで運ばれる、もごもご、と口を動かし、飲み込んでから会話の返答をしていた。

 

 雅はダブリンの言葉を思い出す。どうして、そんなに悲しそうに泣くの。彼女は直嗣をちらりとみる。彼はバックから取り出したノートに青いボールペンで何かを書いていた。

 

「何をしている」

「課題ですよ、雅さま、ほら宿題ですよ、学校で渡される」

「ああ、あれか」

「そうですよ、数学、ああと、つまり算数をしているわけですよ」

 

 雅は覗き込む。直線が交わっている2次関数のグラフが書かれていた。彼女にはちんぷんかんぷんで顔を顰めた。

 

 直嗣は笑う。「まあ、のちのち習うので、いま理解しなくてもいいですよ」

「いつだ」

「まあ、数年後には、焦らなくてもいいですよ」

 

 雅は足元に目線を落として、自身の手で遊んだ、白い皮膚の下に流れる血管が分厚い氷の下を泳ぐ魚の影のごとく青く浮き上がっている。が、疲れてきっていた雅は手遊びをやめ、背もたれに体重をかけてそのまま目を閉じるとダブリンとピーターの夢をみた。一室のホテルであった。ダブリンは自身の体のラインを隠すような服を着ていて、ピーターはパーカーを着ていた。ダブリンは手元に拳銃を乗せている、彼女は映画のようにタバコを吸っていて、たまに彼女は輪っかの煙を魚のように吐き出していた。ダブリンはなにかをつぶやいている。雅には聴こえなかった。ピーターはぐったりと椅子に体を脱力していて、ゆっくりと頷いた。ダブリンは口を閉じた。ピーターは背筋を伸ばし、彼女と目を合わせる。話が終わったようだ。ダブリンは手のひらにおいていた拳銃を握りしめ、シリンダーを開け銃弾がこもっていることを確認してから閉じ、撃鉄を起こす。ダブリンは灰皿にタバコを押し付ける、じゅう、と火が消える音。ダブリンはまた拳銃を握りしめ、ピーターにむける、拳銃のトリガーに手をかける。雅は何かを叫ぼうとするところで、その夢は終わった。

 

 起きるとまわりには誰もいなかった。服は変わらないで雅はベッドの中で寝ていた。鞄は彼女の机に置かれていた。彼女の家だった。窓からは熱され溶けた鉄の色の太陽の斜光がさしている。雅はベッドから出る。鏡台の上には白い百合の花が水で満たされたガラスコップに差してあった。裸足でドアを開ける、廊下を歩く、冷たい床。いくつかある襖のひとつから光が洩れ出ていた。雅は誰かを確かめるためにそこへ向かう。そこから聴こえるのはふたりの話し声と自身が床を歩く、ぺたぺたという音。その話し声は雅にとって聞き覚えがあった。ひとつは最愛の母上の声、もうひとつはつい先ほどまで一緒だった直嗣の声。雅は母上に今日のことを伝えるために足を早めた、その話しの内容が聴こえた。

 

「わかりました、理解しました」母は検のある声でいう。「あなたはそれでいいのですね?」

 雅は足の速さを緩める。

「ええ、かまいません」直嗣は抑揚がない声で返事。

 彼女は足音がしないようにゆっくりと歩いた。

 ため息の声が聴こえ「………いつか、このような日が来るのを理解していました。私たちが生きる日常は薄氷の下で突然世界の不条理に破壊される、多くの人々はこの旅路で死にこの大地に眠っています。それでも私たちは諦めず、希望の灯火を、いえあるいは燭火(しょっか)を小さな世代に受け渡してきました。それがまた来た、それだけです。私はこの座についていたときには覚悟はできています、…………だけど、できるなら、あなたと雅がこんな………」

「当主さまも逃げてください」

 逃げる? どこに。雅は声を出しかった。が、そのことを言おうとしなかった。

「いえ、逃げません」

「なぜですか? 俺がみたことは───」

「わかってます、ですが、誰がそのことを根拠に逃げるというのですか。わたしはあなた方の能力というのは知ってます、わたしたちはそれで助けられたことがあるのですから。ですが、あなたも知っている通り、それを信じる人はいないでしょう、たとえ今から世界が崩壊すると叫んでも、多くの人はそれを狂言だと断言しましょう。………残念ですがわたしたち、人類というのはあまりに巨大な災害に対してはなすすべがないのです」

 雅は襖の前まできた。彼女は覗かずにそこで聴き耳を立てる。

「………当主さま、俺はこの能力について、最近あることを考えるようになったんです、聞いてくれますか、………ありがとうございます。端的にいうなら、それは、運命論、決定論どちらでもかまいせんが、そのことについてです。この能力はいわば、未来視近いものでしょう。ですが、俺が思うに、その俺があまたある未来のひとつを観測したことで、その未来が決定されたのではないでしょうか。俺は決定論と自由意志は両立すると思ってますし、そのことは変えることはありません。ですが、未来というものは普段は流動的なものですが、それが、決して動くことないものとしてなる瞬間があります、それは未来を観測されたときではないでしょうか。俺たちの世界というのを五感と言葉によって認識をしています。しかしもともと世界というのは水のようにいくらでも変形可能で観測者がその世界を自身の主観によって認識した瞬間、そのとき世界がはじめて輪郭を与えられているのでしょう。ですから、未来の世界を観測したとき、あまたある未来のひとつの形を認識したことで先の世界の輪郭が与えられ、決定される。そうなると俺たちができるのはせいぜい決められた道路で抗うことで、いくら熟考してその行動を下したとしてもそれも未来で決定されている、と。もちろん仮説すぎないですが、これが僕たち一族がもつ能力の本質だと思っています」

 沈黙。

「直嗣くん」母がいう。雅が襖から覗く。母の横顔は髪飾りをつけている長い黒髪で隠されて表情が見えない。「今日は一旦その話をやめましょう、また明日このことについて話しましょう」

 直嗣は頷く、彼は立ち上がって、襖へ向かう。盗み聴きをしてたいことをバレないために雅は走った。直嗣は出る前に礼をしてから襖を開けた。雅はみられた。が、走るのをやめない。直嗣は彼女についていく。「雅さま、どうしたのですか」そのような声が雅の背後から聴こえた。書庫に入った。数々の歴史ある本が分類分けされて押し込まれた本棚はミノタウロスを閉じ込めた迷路(ラビュリントス)の壁のように入り組み立ちはだかる。灯をつけないで彼女は奥へ、奥へと進み、一番端の父が幼い頃に読んでいた児童書が置かれている本棚と学術書が詰まっている本棚の狭間で彼女はしゃがむ。彼女は息をひそめる。本棚からの甘い香を嗅いだ。そして彼女はバクバクと鳴る心臓音を聞いていた。

 

 すぐに直嗣にみつかった。直嗣は本棚の影から音もなく現れた、心を落ち着かさせるために児童書を読んでいた雅は叫びそうになった。その反応から、ああ、すいません、驚かせてしまって、といい、直嗣は、走る雅がなにかあったのではないか、と思い追いかけてしまった、といった。雅はみにくいアヒルの絵を見、直嗣と目を合わせた。その目は昼あったときに変わらない。しかしいま、その目は揺れている。いつその揺らぎは元に戻るのか。彼女は口を開き、

 

「すまない」と、いう。

 直嗣はその言葉を数秒だけ咀嚼する。その言葉を理解した。「ああ、聞いていたんですか」

「たまたま、聞いてしまったんだ」

「どこからですか」直嗣は苦い顔をしていた。

「母上がなにかを理解したというところから」

「そこからですか、………なるほど」直嗣はいう。

「直嗣、私は母上のように聡明ではない。だから、直嗣は何をいっているかわからないが、それでも私にはおまえが悲しそうなのはわかる、なぜそんなに悲しそうなんだ」

 また沈黙。

 直嗣は雅と同じように彼女の背後の窓に切り取られた夜景色を見、カーペットを見、雅をみた。「……いまはいえません、すいません」

「なぜだ」

「…………」

「教えてくれないのか」

「すいません」

「私のことを信頼していないのか」

「いや、あなたのことは信頼してます。ですが、これを伝えることはできません。あまりにも馬鹿げたことなんでです」

「……私のことを信頼はしているのか」

「ええ」

「それはまことか」

「ええ、神に、いえ俺の命をかけて」

 雅は目をつぶった。しばらくそのまま目を瞑り、やがて開ける。「わかった、聞かない。私も直嗣のことを信頼している、だけどいつかそのことを教えてくれるか」

「もちろん」

 雅は児童書を閉じて元の場所にしまった。「いまは何時だ」

 直嗣は時計をみて「九時ぐらいですね」

「自室に戻る」

「わかりました、送りましょうか」

「いや、わたしひとりで大丈夫だ」

 直嗣は頷き、立ち上がる。「では、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 

 

      

         2.

 

 

 

 名も知らぬある男が郊外の荒野に立つ一店の酒場の戸を開け、カウンター席に座った。タバコの香り、あたりは煙たい、ギターを弾く音。鬼族の赤い肌をしたバーテンダーが注文は、と訊くと、スコッチのウィスキー、ハーフロックで、と注文した。バーテンダーが珍しそうに、へぇ、あんたかなりの飲んべぇだな、といって、酒棚から取り出した。ウィスキーの瓶を開ける、氷をコップに入れ、ウィスキーを注ぎ、そこに水を1対1となるように水を入れる。ウィスキーのゆらゆらと揺れるもやが浮き出た。完成した酒を渡す。男は一口飲んで、煙草入れの箱を取り出した。

 

「吸っていいかい」

「構わん」

 

 タバコをひとつ取り出した男はマッチで火をつけた。腕を振って火を消す。焦げたマッチの熱い先に指を合わせてそれを握りつぶした。バーテンダーは自身の顎髭を撫でた。いまの時代にマッチで火をつけるやつなんて珍しいな、とつぶやく。男が吸っている銘柄を訊こうとする。が、その前に別の客が注文をしたので、結局訊かずに彼は酒を作り始めた。

 

 男はタバコを味わって吸り吐きまた吸って吐いてから今日集まっている客をゆっくり観察した。ホームレス、殺人鬼、暴力団の一員、鬼族、機械人、名門のおぼっちゃまとお嬢さま、走り屋、狩人、詐欺師、殺し屋、音楽家、治安官、マジシャン、ゲイ、レズビアン、すべてものが集まるこの差別なき店。丸椅子に座ったギタリストは早いテンポで弾き、それに合わせてタップダンスを踊る男と女。あの男は暴力団のひとりで、ともに踊っている女はその男とともに逃げ出した娼婦だった。そのまわりではへいへいへい、と言いながら間の手を取っているのは治安官と名門のおぼっちゃまなどがいた。その向かい側には袖をまくったマジシャンが同性愛者の相手の選んだカードが当てられるかを賭けている。彼はカードを無駄にシャフルしたり、掲げ裏表をチェックさせたり、指ではじてたりしていると右手からは急にカードが現れる、そのカードを相手にみせる、当たりだったらしい。賭けに負けた相手は驚き笑い金を財布から取り出して、払った。見物していた男たちは驚いたようにカードを奪ってタネが仕込んであるかを調べてはじめる。カウンター席には狩人と殺人鬼がマティーニを片手に雑談をしていた。話の内容は獲物を殺した瞬間の快感のことである。そのような悍ましい内容に口を挟むものはいない。

 

 視線を戻した男はタバコの吸い殻を灰皿に落とし、酒を飲みきった。バーテンダーにおかわりを頼み、また注がれた酒を一口飲んだ。タバコを吸って見回す。

 

 すると曇りひとつない満月がみえる窓際の席で男をみているやつがいることに気づいた。美少年であった。16歳の若い年齢のようにみえ、カウボーイハットにベルトに拳銃をさしていた。首元には目玉に似た金色のアクセリーを垂らしていた。窓際でひとりで酒を飲んでいる少年は紫煙が烟り月光がさす中で幽霊のようにみえた。男娼と間違えた機械人が彼に近づき、誘いをかけようとすると少年は酒を飲み切ってそれをテーブルに置きベルトからすばやく拳銃を取り出して機械人の額に突きつけた。それでも音楽は止まない、男と女もダンスをやめない、誰も拳銃をみても止めやしない。撃つんかい? え? と機械人は挑発する。トリガーに指をかける、機械人は挑発をやめない。そんな細い腕で撃っても大丈夫なんか、え? 撃った瞬間、腕が折れるんじゃないかい、え? 次の瞬間、銃撃音が響いた。一瞬、客たちは動きを止めたが、何が起きたかを把握するとすぐに元のことに戻る。音楽は止まない、男と女も汗を撒き散らして踊る、踊る。酔った治安官も女の走り屋にナンパをしかける。バーテンダーが少年の元にきて、死体をみた、が無関心に、おい、おまえが殺したんだから、おまえが始末をつけろ、わかったな、といった。少年は頷いた。いますぐにだ。少年は硝煙が出る拳銃に息を吹き、ベルトにしまうと機械人の足をつかんでズルズルと運ぶ。狩人と殺し屋は彼が店を出るまで死体が引き摺れていくのを眺めた。引き摺れた跡にはナメクジが通ったかのようなオイルと部品があった。

 

 灰皿にタバコを押し付けた男は立ち上がった。もう帰るのかい、とバーテンダーがいう。男は頷く。

 

「すまんな、普段はあんなこと起きないんだけど、今日に限って、こうなるとはな」

「いや、気にしていねぇよ、酒うまかったよ、あんがとな」

 

 外を出ると店から東の先で少年が崖の近くで死体にガソリンをかけていた。その崖の下にはホロウがあった。少年は表情ひとつ変えていない。そこまで引きずった地面にはオイルで濡れ、黒かった。狼が吠える音。ここからでは店の騒ぐ音は聞こえなかった。男は少年の元まで歩いた。少年はガソリンを十分にかけガソリンの蓋を閉める。少年は脇の下に腕を通す、男をみる。男は足を持つ、二人で持ち上げ、ドラム缶に体を入れた。マッチあるよね、と少年は訊く。ああ、と男は答えるとマッチに火をつけて、ドラム缶に入れた。すぐに燃え上がった。少年は完全で燃え上がったことを確認する。少年は何も言わずホロウへと向けてドラム缶を蹴り、崖へ落とした。燃え上がった死体はホロウへ呑み込まれた。

 

「それで、もうすぐで始めるんだな」男がいった。

「うん、三日後には計画をはじめるつもりといっていたよ」少年がいう。

「それが終わるば、全ては良くなる」

「気掛かりはそれだけだもんね」

「ああ、だが不安だ」

「まあね、だけど、いまからテストするから問題ないよ」

()()()()?」

「そう()()()()、まあみてなよ」

「……そういえば、あの酒場にいたお嬢さん、あれ、俺たちの」

「うん、そうだね、久しぶりにあったよ、まあ一方的だけど」

「ずいぶんよくしてもらった相手だけど、いいんか」

「まあ、いいんじゃない、連絡とったけど何も言われなかったよ」

「ふうん、まあいいぜ、あんたがいうテストとやらをみせてくれよ」

「あと二分後にはじまる。まあそれまでゆっくりと話そう」

「いいぜ、ジムの話をしようぜ、バスケのジムだ」

「ジムね、ぼくも好きな選手だよ、あんなにデカいのに、俊敏でテクニックも上手い」

「噂で鬼族の混血なんじゃないかと言われしな」

「ね、まあ疑れても仕方ないほど強いけど」

「歴代選手トップ十位のなかに入るかね?」

「どうだろうね、議論をしてもいいだろうね、僕は彼をその中で入れたいね」

「オールラウンダーの選手だな、すべてができるという点からケンドリックと比べてもいいだろうな」

「ケンドリックね、パスのセンスは彼の方が上だろうね、あの視野の広さはPGも顔負けだよ」

「だが、フィジカルと身体能力はジムの方が上だな、年が若いってこともあるだろうけど、ダブルクラッチもいとも簡単にやるところとか、自分よりもデカいやつに躰をあても負けないで、むしろ勝つところもケンドリックと違うところだな」

「華があるね、彼は。だから僕も彼のプレイが好きなんだよね、うーん、お互い似ているようでベクトルが違うからなんともいえないね、お互いすごいってことにしない?」

「なんじゃあそりゃ、まあいいぜ。どうせそろそろ二分が経つだろ」

 少年は時計をみる。「そうだね、もうすぐで始まるよ」

「酒があるばいいんだけどな」

「そこはコーラじゃない」

「いや、俺は酒だね、酒のほうがいい」

「じゃあ、小瓶のウィスキーならあるけどどうする」

「どこ製だ」

「アメリカン」

「じゃあいい。俺はスコッチ以外、のまねぇんだよ」

「ふーん、なら我慢だね、ほら始まるよ」

 

 崖の下のホロウが変化をみせた。ぴたりと動かないホロウが永遠に続くと思われる広大な海へ出航する漁船のように暴走を開始したのだ。鈍重にホロウは進むが、あるときに風に乗ったかのように速度をあげ、侵食しはじめる。異変を感じた動物たちが動き出した。横に長く伸びている岩のそばの巣穴からミーアキャットが顔を出し、黒い目で暴走を開始したホロウを見、急いで巣穴に引っ込み、仲間を起こして逃げ出す。岩の隙間の影で眠っていたトカゲもすこしでも遠くへと丸い指先の足を使って走り出す。サボテンを巣としている鳥も羽を広げ、北極点に向けて飛び出す。コヨーテが鳴き、砂を舞わせながらホロウへ離れ出す。崖の下にいたサソリは黒い外殻を月光で照らしながらも逃げることはなく、ホロウに呑み込まれる。月光はホロウを映し出すことはない。虹色の輪郭をしたホロウは歩みを止めることなく侵食していく。

 

 男は少年にみちびかれ、ホロウの暴走していく全貌を俯瞰できる赤土の丘の頂まで登った。円柱型のハゲた山々もホロウに呑み込まれ、やがて酒場さえ呑み込んだ。彼らは酔っており、迫り来る暗黒の壁を宵闇の暗さだと勘違いして逃げることもなく眺めていた。やっと気づいてたときにはもう遅かった。詐欺師に騙された男は戸を蹴破る勢いで開けて外を逃げ出そうとするが、すぐにホロウに呑み込まれていった。酒場にロープでつながれた馬たちは暴れまわっていたが、その馬たちもホロウに呑み込まれ、とうとう秘密の荒野に立てられた差別なき酒場がこの世界から消えたのであった。満天の夜空の下で煌々と光っていた酒場は消え音さえ消えて夜の闇がこの荒野に広がる。そして沈み出した月の光と星の明かりだけがこの闇の中で頼れる道しるべとなった。そこでホロウは暴走をやめ昨日もそうだったように動くことをやめた。少年は首元にかけた奇妙なアクセリーを両手で握りしめて、信仰を強固にし、魂を練り上げるべし、信仰を強固にし、魂を練り上げるべし、と呪文を唱えていた。男はタバコに火をつけて、くゆらせる。タバコの火は暗闇の中で際立ち、丘の下にいた動物は首をもちあげその明かりを眺めた。その火に惹かれたコヨーテがそこへ向け歩き出した。

 

 少年が祈りを終えたぐらいであった。一匹のコヨーテが彼らがいる丘にたどり着いた。男の背後に近づき、飛びかかった。が、踵。コヨーテは叩き落とされる。コヨーテの頭蓋骨が砕ける、砕けた頭蓋骨は肉を切り裂き、毛から飛び出す。血は飛び出なかった。毛はじわりじわりと赤黒く染まっていく。ちゃけた毛が蘇芳色になるまで時間はかからないだろう。男は足をあげ、そばにあった角ばった石に擦り付けた。石のところどころに血がついた。男は痙攣を繰り返すコヨーテのうなじをつかみ、持ち上げる、少年に目を合わせる。食うか、と訊く。少年は首を横にふった。コヨーテを投げ捨てた。少年はコヨーテが痙攣をしなくなったとき、

 

「見に行こうか」と、いった。

「いいぜ」

「そろそろ夜明けだよ」

「だな」

 

 彼らは丘を降りて、凸凹とした平原を歩き、ホロウへ向かいはじめた。酒場があった場所に。

 

「成功したな」男がいった。

「うん、成功したね」

「あとはあれを零号ホロウにするばいいな」

「そうだね、あと、例の薬を投入する相手も決まったところだよ」

「ふうん、誰っつうんだ、それ」

「ほら、この人」胸ポケットから写真を取り出して渡した。

 男はその写真をみた。「なるほどねぇ、こいつかい、俺でも知ってるぜい、こいつ」

「綺麗な人じゃない?」

「そうだな、キレイだな」

「だけど、彼女が一番いいんだよ」

「わかってるって、別に不満はねぇよ」

「ならいいけど」

 

 夜明けになる前にホロウについた。中へ入る。中はまだそこまで変わっていない。が、エーテル結晶は生えていて、建物を貫通しているものも中にはあった。酒場に入った。数時間は経っていたので、もうここには誰もいない。あらゆる壁には血と内臓が張りついていて、冷える中、それは白い蒸気を発していた。エーテリアスもここにはいなかった。すでにどこかへいったのか。あるいはここで腕っぷしがいいやつが殺したのか。どっちにしろここにいるのは死体か死にかけのやつだけだ。死体の中でエーテル結晶に覆われていくものがいた。あちらこちらにできた血だまりを少年と男は気にすることはなく踏む。舞う血飛沫。服やテーブルにかかった。途中、まだ呼吸をしているやつを拳銃で撃ち殺したり、ボーイナイフで首を刎ねたり、足で頭をつぶしたりした。少年はダンス場で止まった。ダンス場の近くにいるギタリストは流れ玉で死んでいた。側頭部が撃たれ、ギターを持った姿勢のまま横に突っ伏していた。ダンスをしていた男と女はここから離れたところで背中を切られているらしくうつ伏せで死んでいた。手を伸ばしたりせず、ばらけた場所で死んでいた。バーテンダーはここにはいない。逃げたのかな? と少年はつぶやいた。仮に都市に逃げて鬼族である彼がこのことを話そうが、誰にも信じてもらえないだろう。関係ない話だった。少年はギタリストからギターを奪った。まだ死後硬直は起きてなかった。それを男に渡した。

 

「一曲弾いてよ、こんないい日はないよ」少年がいった。

「いいぜい、何がいい」

「アップテンポな曲がいいな」

「わかった」

 

 男はギターを弾き始める。最初は穏やかなスタート。だんだんと繰り返される音が積み重なっていく。少年もカウボーイの靴でリズムを取る。男が一度手を挙げる、振り下ろした、サビがはじまった。ガンマンの真剣勝負を彷彿させる曲に合わせて少年はタップダンスをはじめた。ハットを取り、胸元まで持っていく。足を地面に叩く、そのたびに血飛沫があたりに散る。少年は二度目のサビから叫び出した。

 

「踊れ、死ぬまで踊れつづけろ! 

世界の終末まで踊れ! 

死ぬことはないものであるが故に、

神に踊りを捧げつづけよ!

さすれば、神は受け入れ、祝福を与えん!」

 

 男も共鳴し、そのことを何度も言う。ホロウの外、そこはすでに夜明けが始まっていた。東から顔を出した暁の光は彼らが踊る場の血飛沫と同じように真っ赤だった。眠っていた動物も起き上がり、一夜で巨大になったホロウを眺めた。少年は踊る、踊る。踊り続ける。

 

「踊れ、死ぬまで踊れつづけろ! 

世界の終末まで踊れ! 

死ぬことはないものであるが故に、

神に踊りを捧げつづけよ!

さすれば、神は受け入れ、祝福を与えん!」

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。