3.
直嗣が昼飯の最初の一口を食べようとするところで電話がかかってきた。フォークを皿に置いた。スマホを取り出し、それが誰かを確認した。直嗣はため息をつく。カルボナーラをフォークで巻いて食べてから電話に出た。
直嗣は黙って相手の話を聴く。コツコツと指で白いプラスチック製のテーブルを叩いた。「───ふーん、わかったよ。今すぐにか? ………ああ、そう。じゃあ、俺は昼飯を食ってからいくよ、……わかった、わかった。できるだけ急ぐから待っててくれ、………ああ、ああ、ありがとな、十分後ね、わかった。今度こそじゃあな、パスタが伸びちまう」
電話を切った。直嗣はカルボナーラを先ほどよりも早いペースで食べる。半分ほど食べると冷えた水をいっぱい飲んだ。置いたコップには細かい水滴がついていた。その一連の動作を眺めていた和夫は、誰でした? と訊くと、H.A.N.Dからだったよ、と答えた。
「ホロウ災害が発生したんですか?」和夫はフォークとナイフを置く。ちょうど天井の端に取り付けてあるテレビでつい数分前に発生したホロウ災害についての詳細の情報が書かれていた。ニュースキャスターがエリー都のマップを映し出しながら、どこどこ何時に発生したのかをいっている。
十四時二十七分、ヤヌス区六番通りでホロウ災害が発生しました……… ご注意ください、ご注意ください。
直嗣は和夫に視線を戻した。カルボナーラを食べ飲み込み「まあ、あの通りだ、友人から呼ばれたんで急いでいけないわけだ」
「なるほど、私たちは待機ですか」
「ああ、そこまで大きいホロウではないから大丈夫だ」
「会計は私がしましょうか」
「悪いな、金はあとで渡す」
カルボナーラを食べ終えて店の外を出た。晴れた空に浮かぶぼんやりとした残月を眺め直嗣は三分ほど待つとH.A.N.Dの車が迎えにきた。同僚に挨拶を交わして車に乗り、人通りが少ない道路を全速力で走りヤヌス区六番通り前で止まった。通行止めと書かれた黄色いテープを背後にアサルト銃を構えたフル装備の治安官たちが待機をしていた。周囲には野次馬にきたものやホロウに取り残された民衆の関係者が待っていた。関係者はたまに治安官に近づき、まだグレイディは助かっていないのですか、あのアロハシャットを着てピアスしているんです、と訊くと治安官は首を横に振って、もうすこしお待ちください、必ず助けてますので、といっていた。装備を整えた直嗣が降りると彼らは道を開ける。刀を腰にリボルバーを太ももに携帯してH.A.N.D所属を示す服装を着た直嗣はテープを超え、ホロウの前に立っている上官に来たことを告げる。上官は、時間がない、目標がいる座標を書いてあるキャロットを渡すからそこへ迎え、といった。直嗣は、はっ、と答え、腕のデバイスからキャロットが転送されるのを確認する。確認を終えた。そのことを伝え直嗣はホロウへと踵を返す。背後から、武運を、という声が聴こえた。ええ、と返し、直嗣はホロウの中へ入った。溶けた鉛のような沈黙がそこには広がっていた。喫茶店に衝突し燃えている車の音だけが聞こえた。ガソリンが漏れた匂いもする。道路には衝突した車に溢れていた。直嗣は走って飛んで車の上に着地する。そして走り幅跳びの選手がするように、あるいは棒高跳びの選手がするように、リズムを持って飛び跳ねてゆく。そのリズムはだんだんと早くなる。直嗣は脱力し倒れゆく体を支える足を前へ突き出し、風に同化していく。車の渋滞していた地帯を抜けていくとき、突然エーテル物質の玉が頭上を通り過ぎた。玉は彼の横の家にぶつかり、壁が砕けた。砕けた壁は道路に植えてあった花に落ち、花は潰れる。直嗣は足を止めた。玉が来た方をみる。車の上に立つ数匹のエーテリアスが彼をみていた。エーテリアスが叫ぶ。困ったな、と彼はつぶやく。俺は急いでいると言うのに。が、無視はできない。直嗣は拳銃をベルトから素早く抜き取り二発発砲した。一つ目はコアに命中。二つ目はもう一匹の肩に。エーテリアスはのけぞって怯む。そこに、刀。抜刀。二つ、剣筋が走る、空中を飛ぶ腕と胴体。地面に叩き落としたエーテリアスは首を持ち上げ直嗣をみる。直嗣は両方のコアを撃った。体が灰となっていく。この世界にいなかったように。直嗣は死んだことを確認し終えると立ち上がって、キャロットで目標地点を再度確認した。
直嗣は先に進む。車が渋滞していたエリアを抜けて崩壊した店で埋まった人の救助を行なっている部隊を横切り、救助隊がまだ辿り着いていない奥地へむかった。ここまで感じた息苦しさがさらに増す。直嗣は歩を進めていくとスーパマーケットの入り口に立つ友人がいることに気づいた。ニックだった。ショットガンを構えていた彼は直嗣に近づいてきて、よお、まあまあ早いじゃないかという。
「時間がない」歩きながら直嗣がいう。「今回の被災者はエーテル適性がないらしい」
「それにしては」ニックはいう。「ナオツグはずいぶんと悠長に歩いているな」
「なら、お前、執行官学校で何を習ったんだ?」
「わかっているって、冗談だよ」
直嗣は測量機器をベルトにくくりつけ、音が鳴るのを警戒していたが、「だけど」と、いう。「こんなじゃあ、俺たちも侵蝕反応を起きるぞ」
「なら」ニックはショットガンの先台を軽く引く。薬室に給弾されているか人差し指で指さすことで確認して「いくしかないな」
「ああ、仕方がない」
───そして彼らは走り出した。邪魔をしてくるエーテリアスを殺しキャロットから導かれる最短経路につながる裂け目へ入った。ついた先は地下デパートだった。店は明かりをつけたまま放置をされていた。ケーキ屋やパン屋も並べてある商品がそのままに置かれていた。パンの香ばしい匂い。エーテル結晶で商品が壊れた香水店からはあらゆる匂いが混じってくらりとする強い匂いが漂う。その匂いを嗅いでニックは口を抑えてしばらく固まった。褐色の毛が逆立ち、猫耳はへな垂れていた。さっきまで動いていた尻尾も動かない。直嗣は彼の背をやさしく撫でる。警戒はやめない。ニックは首を縦にふって掠れた声で、ありがとう、といった。直嗣は耳を澄ました。無音。測量機器も反応はない。直嗣は背中を撫でるのやめ、リボルバーのシリンダーを開く。弾は全てこもっていた。閉じて激鉄を起こし、また彼の背を撫でた。数分してからニックは回復した。鼻を口で覆っているニックは背を伸ばし前方へしっかり目線を合わせた。直嗣は大丈夫であるかことを訊くと、ゆるりと首を横に振った。はやくここを抜けようぜ、オレには強すぎる匂いだ。
彼らは走ってまだ稼働をしているエスカレターを登る。一階を通り過ぎる。測量機器は反応しない。2階を通り過ぎる。測量機器は反応した。1回。服屋に四匹のエーテリアスが何かを囲っていた。ティルヴィングだった。殺した。ティルヴィングが囲っていたのは大学生の死体だった。直嗣とニックは冥福を祈った。3階に着く。目標がいる座標。測量機器の反応はなかった。キャロットでまた目的地を確認しそこへ向かった。
被災者は食事エリアではられたビームフェンスの中で待っていた。合計六人ほどいた。子供が一人、若者が二人、大人が四人。子供が叫んだ。「執行官さん、ここです」と。大人はビームフェンスを解除して、床にどかりと腰を下ろした。男性の若者と女性の大人がひとりずつ倒れていた。直嗣とニックは脈と呼吸を確認した。呼吸は薄くなっていたが、脈は早い。直嗣はいつから倒れていたかと訊く。赤髪と黒髪が混ざった子供が、一時間前ぐらいです、と答えた。直嗣は黙ってこれから起きることを考える。まだ間に合うな、と独りごちた。直嗣はポケットにしまってあった耐侵蝕薬を取り出し、ニックにも耐侵蝕薬と水を渡せ、といった。ニックは肩をすくめ、耐侵蝕薬と水を取り出しそれを直嗣に渡した。
「なあ、きみ、この人たちは水は飲めたか?」直嗣が訊く。
「はい、飲み込めました」
「わかった、ありがとう」直嗣は意識が朦朧している大人の上体を起こし、背中を支えて呼びかける。大人はゆっくりと目をあけ、直嗣は水と薬を飲ませることを伝える。大人はうなずく。直嗣は少量の水を飲ませながら「きみ、名前をなんていうの?」
「わ、わたしですか」赤髪と黒髪が混ざった子供がいう。
「ああ、きみだ」大人は水を自ら飲みこんだことを確認した。薬を舌に乗せ、水をあげる。飲み込んだ。もうひとり目にも同様の手段を取る。若者は比較的軽症で、意識ははっきりとしていた。
「朱鳶です」
「シュエンか」まだ小さいのに言葉遣いがなっていると思った。
「ええ、そうです。朱鳶です」
「わかった、シュエン。今からいうことをよく聞いてくれ、そこにいる兄さんいるだろう、ネコのシリオンの」
「はい」
「そいつのところへいってくれ、ついでに床に休んでいる大人とか若者を説得してくれ、頼む」
「なぜ、私なんですか?」
「言わないといけないか」
「言わなくても大丈夫ですけど」
「なんとなくだ」
「なんとなく」
「ああ、たまたま君だっただけだ。だから、頼むぞ」
朱鳶は立ち上がり直嗣をみつめた。澄み切った赤。ルビーのようだ、と直嗣は思う。「その人たちはどうするのですか」
「俺が守る」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ、信じてくれ」
「信じる?」
「信じる」
朱鳶は黙って顎に手を当てた。そして顔をあげ「わかりました、ですが、必ず生きて帰ってくださいね」と、いった。彼女は小走りでニックの元に向かった。ニックと彼女は共に大人と若者を説得し立ち上がらせる。ちらりと朱鳶がみてきた。直嗣は微笑んだ。朱鳶は目を逸らし、背をむけ誘導を開始したニックへ歩き出した。ある大人がスイッチを渡してくれた。礼を言った。そして彼らが食事エリアを抜け、角を曲がるまで直嗣は動かなかった。見えなくなる。
直嗣は首を横に振り、横たわっている大人と若者をみた。リボルバーのシリンダーを開け、一発一発リロードした。弾は特注の侵蝕を起こすエーテル弾だ。刀を抜き、刃こぼれがないかを調べた。一通り準備が整って、直嗣は現在の時刻をみる。14時47分。残りの薬の数は四個。二人ずつあげるので実質あと2回しか使えない。三十分後にこの薬は効き始める。効力は一時間半ぐらい。直嗣は救助隊が来る時間、薬を飲ませる時間を計算して独り言をつぶやく。嘘をついたな、直嗣。自身がやったことをいかに残虐なことか知っているだろうな。あの子供は、年齢的に雅さまと同じぐらいだ。純粋そうな子だった。そんな子供に………あとすこし、あともうすこしはやく行っていたなら、……… 首を横に振る。そんなこと考えても仕方がないぜ直嗣、いま考えるべきことはひとつだ。それ以外のことは考えるな。直嗣は測量機器を床に置き、苦しそうに息をする音を聞き、測量機器が音を鳴る音がくるのを長いこと待った。できるば音がならないことを期待して。
測量機器が音が3回鳴ったのは直嗣は2回目の薬を飲ませたときだった。足音が聞こえた。その音を聞いた直嗣はリボルバーを肩まで上げて構える。狙う先は足音がする方だ。だんだんとその音は近づいてくる。すぐに巨大な手が曲がり角から出てきて、柱を掴んだ。次に頭が出てきた。発砲。二つのバレルからは放たれる銃弾は命中した。爆ぜる。が、叫び声。効いた様子は一切なかった。デットエンドブッチャー。巨大な体躯で武器としてエーテル物質を固めた棍棒だった。トカゲのような細い尻尾がゆらゆらと揺れている。直嗣はスイッチを押し、ビームフェンスを起動させた。赤い光線がじじっと鳴る。化け物は馬のような足を振り上げた、その瞬間を狙って、走り出した。
………………………………………………………………。
………………………………………………………………。
荒い息を整えようとする。阿修羅のごとく生えた4本の腕のひとつが自身の体に立っている直嗣を捕まえようとしていた。神の啓示を告げるように。その前に体は青い飛び火となって消えてゆく。足場を失った直嗣は体勢を崩して倒れる。絶えず汗が流れ直嗣は拭う。近くに落ちた刀を拾って納刀する。数分してから刀を杖のように支えにして彼は立ち上がり、被災者のもとにゆく。スイッチを切って置いてあった薬を拾おうとする。腕がひどく痙攣し、うまく取れない。直嗣は汗を拭って時間を確認した。現在の時刻、16時57分。そろそろ最後の薬を飲ませないといけない。薬を取ろうとする。四度ほど挑戦して成功した。直嗣は倒れている被災者を起き上がられせ、声をかける。掠れた声でほとんどいえなかった。咳払いをする。血の味と鉄の匂いが突き抜けた。起きてください、飲まないと死んでしまいます。直嗣はなんとかその言葉をいった。若者が何かをつぶやいた。直嗣は聞き返した。若者は大きな声でいう。死なせてくれ、死なせてくれ。直嗣は軽く頬を引っ張った。なにを言ってるんですか、あんたには家族がいるでしょう。あんたが死んだら、その家族が悲しむに決まっている。若者は首を振った。いいんだ、いいんだよ、オレは死にたいんだよ、こんな苦しい目に遭いたくないんだよ、くそう、なんでオレがこんな目に。若者の瞳は潤み始めた。馬鹿が、と直嗣は鋭い声でいって胸ぐらを掴んだ。死にたければ、あとで勝手に死ぬばいいさ。高層ビルでも、ロープでも買いにいっても、好きにするがいいさ。だが、まだ死ぬなよ、俺に人殺しをさせるな、わかったか、なら早くこの薬を飲め。若者は泣き出した。ごめんなさい、ごめんなさい、ちょっとどうにかしてんだ。
なんとか若者に薬を飲ませ、大人にも薬を飲ませて、スイッチをオンにした。ビームフェンスが張られる。直嗣は壁に寄りかかり、震える腕を押さえながら水を飲んだ。若者は落ち着いたようで渡したティッシュで鼻をかんでいた。若者は着ているアロハシャットのシワを伸ばす、腫れた目で直嗣をみる。
「あんた、何歳なんだ」若者がいった。
「俺か? 俺は40歳だよ、よく見た目と実年齢が合わないって言われるんだよ」直嗣は飄々とした態度でいった。
「嘘つきだな」
「本当さ」
若者は辛抱強く黙った。沈黙が直嗣の口を開くのを待っていた。直嗣は水を飲んでいた。「………あんたの名は」
「スティーヴ」
「舐めてるのか?」
「まったく」
「すこしぐらい話してくれてもいいじゃねぇかよ」
「知ったところでどうするんだ、恩返しでもするのか」
「まあ、それもあるけど────」
「ちなみに規定で執行官はそういうのは禁止されてる」直嗣は水を地面においた。
「ああ、そうかい。そうかい。わかったよ、そのなんだ、寂しいじゃないか、だからだよ」
直嗣は大人をちらりと見た。「寂しいね、………センチメンタルのこというじゃないか」
「わかっているって」
直嗣は若者を見つめる。腫れて赤くなった目元。「おまえこそ、名前はなんだよ」
「教えたら、あんたも名前を教えてくれるのか」
「きっとね」
「きっと?」
「ああ、きっと。できるだけ断定表現は使いたくないタチでね」
「………グレイディ」
「グレイディ……グレイディね。愛称はあるか、それともそのままがいいか」
「そのままでいいよ、で、あんたは名前を教えてくれるのか」
直嗣は顎を撫でた。「そうだな……… まあ生き残ったら教えてやってもいいぜ」
「本当?」
「ああ、これは本当さ」
「ありがとう、………なあ、話は変わるけどあんた本当に40歳なのか」
「なんだよ急に」
「いや、なんでもいいからさ」
「そう見えるなら、俺はハゲる時期も早いってわけだな、友達に馬鹿にされるだろうな」
「違うのか」
「当たり前だろう」
「でも本当って」
「相手がいうことが必ずしも真実とは限らないさ」
「じゃあ、年齢をいってくれよ」
直嗣は苦笑いをした。ため息をついて「わかった、わかった。16だよ。16、で、あんたこそ何歳だよ」
「教えない」
「拗ねてるのか」
「誰が拗ねるか」
「ふーん、まあいいや、関係ないことだからな」直嗣は立ち上がって、大人の容態を確認する。時間を確認する。そろそろ救助隊がくる。それまでには生きて帰れそうだ。直嗣はスイッチを切って、グレイディにそれを放り投げた。
グレイディは慌ててキャッチする。「おい、どこに行くんだよ」
「トイレ」
「オレはどうすればいいんだよ、おい」
直嗣は眉をひそめた。「やっぱり、おまえ馬鹿なんじゃないか。スイッチを押すばいいじゃないか」
「馬鹿じゃない」
「じゃあ、スイッチを押して、助けを待て」
グレイディは黙った。直嗣を睨んでスイッチを押した。「…………帰ってきても、ここを通さないからな」
「勝手にしろ」
直嗣はこの階のトイレに入って、用を済ました。まだ作動していることに感心して手を洗い、顔を洗った。若者のところへ戻った。すると、そこにすでに救助隊がいた。その中にはニックの姿もあった。直嗣に気づくとニックは近づいて、肩に腕を回した。
「おう、大丈夫か」ニックはいう。
「ない、けど疲れた」直嗣は答える。
「まあ、そうだろうね、ナオツグ、デッドエンドブッチャーを単独で殺したんだろ、ホロウが縮小したのが確認されたらしいぜ」
「まあね、しぶとすぎてうざかったよ」
「とにかく、無事でよかったぜ、ナオツグが怪我してたら、今夜の宴が中止になるところだったからな」
「ああ………そんなのあったな」
「忘れたのか、ひでぇな」
「別に、ちょっと疲れててぼーとしてただけ」
担架に二人の被災者が乗せられ、運ばれてゆく。グレイディは目をそらし、チキショウ、と悪態をついていた。グレイディは起き上がり、おい、あんた、生きて帰れただろう、名前を教えろ、といってきた。直嗣は、直嗣だよ、ナオツグ、と答えた。
「それで」ニックはいう。「帰るか」
「ああ、これの護衛が終わったらな」
「終わったぐらいにはちょうどいい時間になってそうだな」
「ああ、ほらいくぞ」
ホロウの外を出たときには太陽が沈み出していた。野次馬は増えていた。緊急車が2台も待機していて、そこに侵蝕反応を起こしたものが質問をされながら乗せられていく。関係者がテープを超えて、そこに泣きながら乗って、無事でよかった。無事でよかった、といっていた。直嗣は上官を今回の報告を軽く伝える。上官は肩を叩き、よくやったといった。直嗣は、ありがとうございます、と答え、踵を返した。テープを越えると野次馬たちが拍手をした。誰かが手を出して、ありがとう、きみは英雄だ、といってきた。直嗣は握手をする。そこにジャーナリストも乱入してきて、質問攻めに合う。あまりの人混みに直嗣はため息をつきそうとなった。そのとき、黒田家の部下たちがその群衆を抑え、道を作ってくれた。ありがとう、いつも世話になってる、と労い、その道を通る。ニックもその道を通った、ありがとうございます、と目を細めて帽子をあげていった。背後では部下たちがジャーナリストと野次馬を説得していた。通った先には車が止めてあった。窓が開き、そこから和夫が顔をだす。お疲れ様です、帰りましょう。直嗣は手をあげると近くに誰かが待っていることに気づいた。部下が警戒をしたが、それが誰か気づいた直嗣は手で制止した。
赤髪と黒髪が混ざった子供、朱鳶とその家族だった、彼らは黒田家の車の近くの電柱で待っていた。朱鳶はキャロキャロと首を左右に動かし、手を絶えず動かしていた。それを宥めるように父は頭を撫でて、母はしゃがんで目線を合わせて、大丈夫よ、といった。朱鳶が気づく。が、目線を逸らしまた戻す。直嗣は安心させるために微笑む。なかなか一歩を踏み出さない朱鳶に父はポンと軽く押した。朱鳶はよろめきながらも直嗣の前に立つ、それでも迷ったが、やがて覚悟を決めたのか目線をしっかりと合わせた。
「あの、えっと」何かを言おうとするところで直嗣は名前を教えてなかったことを思い出した。
「直嗣だ」
「え?」
「直嗣、クロダナオツグ、俺の名前だ」
「ああ、名前ですか。………ナオツグとニックさん。その、助けてくれてありがとうございます」
「気にしなくていい、当然の義務を果たしたまでだ」
「それでもです、あなたたちがいなかったら、どうなっていたことか」
「まあ気持ちは受け取っておくよ」
「素直じゃないな」ニックが口を挟んだ。
「黙れ」直嗣がいう。
「その」すこし間をおいて、朱鳶がいう。「私には夢があるんです。治安官になるという夢が」
「それは────」直嗣は口を濁した。
「へぇ、いいじゃないか、立派だな」ニックはいう。
直嗣はため息をついた。「それはなんで」
「その、実は今回のホロウ災害に遭ったのははじめてじゃないんです、実は数年前にも同じ目にあって、そのときにブリンガーさんという方が助けてくださったんです。一つしかない対侵蝕装備を私にわざわざくれて、それでいま、ここで生きていけたんです。私、そのときから彼みたいな人になりたいと思っていて、執行官になるのかも迷いましたが、私やっぱり治安官になりたくて。………それが私が治安官になりたい理由です、その、つまり、何が言いたいのかと言いますと、私いつか治安官になって、あなたたちと同じところで立つので、そのときは絶対助けるので、待っててください!」朱鳶は彼らに目を合わせる。燃えような目。ルビーのような目で。
直嗣とニックは微笑んだ。
「ああ、待っている」
「そのときはオレはおじさんになってるから、よろしく頼むよ」
朱鳶は笑って「はい!」と返し、「それじゃあ、お手間をかけてすいません、それでは」と、いって親の元に帰った。親は嬉しそうに朱鳶を撫で、親もありがとうございます、と礼をいって帰っていた。
二人はしばらくその親子を眺め、やがてニックは口を開いた。「えらい、礼儀がいい子だったね、あの年齢であれはすごいよ、いますぐに社会で仕事できそうな感じがするね、な、ナオツグ」
「ああ、そうだな」直嗣は朱鳶を眩しそうに眺め、そう答えた。「さ、もう遅い、集合場所に行こう」
そうして彼らは車に乗った。
4.
「おいおい、もうそろそろ帰らないヤベェよ」と、ニックを腕時計をみていった。
「はっ、まあいいじゃねぇか、歩いて帰るばいい」と、ニヤニヤ笑っているモーガンが返す。
「それはお前だけだろう、モーガン。私たちは歩いたら洒落にならない時間がかかる」参謀官がいう。
「ええ? 帰るんかい、あんたたち。あたしはまだ飲みたいよ」ベロベロに酔ったイヴァが叫ぶ。
そのようにやいやいと言い合っているのを横目に直嗣はコーラを飲んだ。たしかにもう遅かった。腕時計をみても十一時を超え、店もそろそろ閉まる時間だった。ルイスは無言で酒を飲んでいた。機械だから壊れないか、と心配になり訊いてみると彼曰く詳細を省くが咀嚼した食べ物はバイオエネルギーとして変換されるので問題はないらしい。店内には客もまだらとなっていて静かであった。たまに笑い声が聞こえるぐらいだった。直嗣たちは火鍋も食べ終わっていて、余韻の酒とジュースを楽しんでいた。しかしそろそろ出ないといけなそうだ、カウンターからみえる店員はめんどくそうな視線を彼らに送っていた。ある店員が同僚に、そろそろ閉店であることを伝えるべきか訊いていた。時間であった。
「帰ろう、店も閉まるぜ」直嗣はいう。「まだ飲みたいなら、別の店に行くしかないな、そもそも元々火鍋を楽しむのが目的だったのに」
参謀官が頷く。「店員にも迷惑かけるだろう。今回は私が奢るから、帰るぞ、埋め合わせはいくらでもできる」
「まあ、そうだよね、なあイヴァとモーガン、この店から出ようぜ、まだ酒は飲んでいいからよ」ニックがいう。
「はいはい、仕方ないな」
「酒を飲めるならいいわ」
直嗣たちは立ち上がり忘れものがないかをチェックして外を出た。参謀官が奢ってくれるからだ。立ち並ぶ店の灯りが徐々に消え、マンションや家の灯りも次々に消えてゆく。まだ灯りついているのは彼らが立っている店以外にもちらちらとみかけた。そうして暗くなった道路に街灯が仄白い光を落としていた。夜は蒸し暑かった。そろそろ本格的に夏になりそうだな、と直嗣はつぶやいた。
「なあ、やっぱりどこ飲みにいこうぜ、2店目いこうぜ」モーガンがいった。
ニックは自身の耳を触って「考えてもいいぜ」と、いった。
「じゃあ────」
「だが、それも参謀官に訊いてからだな」ニックはそう返した。
「ちぇ、なんだよ、俺と飲みたくないのかよ」
「いや」ニックはいう。「そりゃ飲みたいよ、だけど、オレの女房が許してくれるかわからないんだよ」
「ふーん」モーガンはいう。「なら、スマホで訊いてみなよ、今日は飲みで帰れないって」
ニックは頭の裏をかいた。「まあ、やってみるよ。だけど、断れたらオレもやめるぜ」
「はいはい、ルイスお前は」
「構わない、用事は特にない」ルイスが腕を組んでいった。
「いいね、ありがとうな」
「あんたはどうするのさ」イヴァが直嗣に訊いた。「あんたって偉いんでしょ、忙しいんじゃない」
「まあ」直嗣がいう。「そうだな、うん、俺はこれから用事があるから、二店目は回らないかな」
「わかったよ、まだ未成年だしな、よく寝た方がいいな」モーガンがいう。
そのとき、参謀官が店の外を出た。「お前ら、なんの話してたんだ?」
「上官も、どうですか」モーガンがいう。「二店目」
「すまないが、妻に帰ると伝えてあるからな、帰らないといけない」
「なんだよ、みんな用事ばっかりだ」
「おい、モーガン、女房が許してくれたよ、飲みに行けるぜ」
「ようし」モーガンがいい直嗣と参謀官にいった。「じゃあ、ここでお別れだな、じゃあな」
「ああ」
参謀官と直嗣は一緒に帰っていたが、駅の処で直嗣はやりたいことがあるからということで別れることになった。参謀官は、また会おうといって改札口を通っていった。直嗣はしばらくそこで止まっていた。ネオンの光が燦々とする夜の都市を歩く多くの人が改札口を通って消えていった。月光で青白くなっている駅の前で経営しているケバブのフードカーも閉店して引き上げていき、ちょうど交差点を曲がった光芒を残して走り去っていくトラックを追いかけるように道路へ走っていく。風が吹いて空き缶が運ばれていく。眠りゆく夜の都市風景。直嗣はそれをみていた。電気掲示板が真っ黒となり、ギリギリで間に合わなかったサラリーマンが肩を落としたときに直嗣はようやく踵を返して夜の都市を歩き出した。
まず歩いたのは路地裏だった。酒で酔って寝ているものや吐いているものが多くいる中、直嗣は目もむけずに歩き、地下へつながる階段の処で止まって降りる。ドアを開けるとそこには木製のテーブルに肘を乗せた受付がいて、髪を切るんですか、と訊いてきた。直嗣は黙って相手を仔細にみつめた。青みがかった髪は綺麗に整えられており、目を澄んでいた。半袖から覗く細い腕には刺青が彫られていて、それは大きく翼を広げたカラスだった。あのう、切るんですか、とまた彼女は訊いてくるが、無視した。首にはとくに目立った傷がなく、何か手術をした跡もなさそうだった。直嗣は奥へ視線を向ける。二人ぐらいの客がいて、切ってもらっていた。白い光で部屋は満たされていて異臭もしない。音楽が流れている。それはヨラン・デヴィンターの曲だった。あの、いい加減にしてください、ふざけているんですか。直嗣はすまない、と手を前に上げていう。
「ここに集会ってあるか?」
「はっ? 集会」受付は怪訝そうな目つきで彼をみた。「ありませんが」
「なら、いいんだ、邪魔した」直嗣は外を出た。
入れ違いでハットを被った男が店に入ったが、その男の服装や目も違和感がなかった。ハズレだった。階段に上がると酔ったチンピラが喧嘩をふっかけてきたが、顎をストレートでぶん殴り一発で気絶させて薄暗い路地裏を出た。たむろしていた不良少年は驚いた様子で去り行く彼の背中をみつめた。
直嗣は歩き、廃ビルが立ち並ぶ道路についた。以前ここは元々有名な大富豪が買取り、エリー都の新しい商業街にするつもりだった。が、計画途中、その大富豪に嫌気がさした部下が彼の被虐趣味のスキャンダルと浮気していることがバレて病んで自殺をしたこと、そこでホロウが発生したこと、それらが重なっていまやここを買い取るものがいない。ここに入るには街を囲む鉄条網を乗り越えないといけないのだが、どこかのホームレスがその鉄条網に人が通れるような穴をつくって、そこからここは社会から疎まれた人が集まるような場所になった。廃ビルの窓や路地裏から怪しい目の光がきらめていた。ビルに寄りかかったよだれを垂らした男はありえない体制で眠っていた。直嗣は先をすすんでゆくと後ろからスキップ気味に近寄ってきた男に襲いかかってきた。振り返った直嗣は胸ぐらと袖をつかむと足をかけて地面に叩き落とした。当たりどころが悪かったらしく痛がっていた。直嗣はぺっと唾をそいつに吐く、踵を返した。ホテルに入り、頼りない白い光で照らされた一室に入ったのは月が最高点を達したときだった。男と女が四人ほどいて、その中で組んだ両足を机にのせ、自作のタバコを吸っている大きなニキビが頬にできた男にポケットから取り出したディニーを机へ置き、話しかけた。
「ここでなにか怪しげな集会をしているところは?」
「なんだよ、急に」男はいう。
直嗣はディニーを前へ押し出した。「ここでなにか怪しげな集会をしているところは?」
「だから、なんでそんなこと聞くんだよ」
「………おまえがここで有名な情報屋だとしているぜ」
タバコを灰皿に置いた情報屋はディニーを手に取った。舌をなめて何枚あるかを数えた。自作のタバコの煙からは甘い香りがした。情報屋は笑った。「はははは、なるほど、なるほどね、わかったよ、久しぶりな太客だな、こりゃ。で、怪しいところ? 怪しいところだって。ここに住む奴ら全員怪しいやつだぜ、みただろう。みんなヤバい奴しかいないさ」
「その中でもとりわけだ」
「とりわけか、ここで結成しているギャングは怪しいことばっかりしていたが、あれには手を出さないほうがいいぜ」
「場所を教えろ」
「え?」
「場所を教えろ」
情報屋はぱちりと瞬きをした。そして自作のタバコを深く吸って吐いた。紫煙は窓から抜け出し夜空に溶けていった。「なあ、聞き間違いだったかもしれないから、もう一度さっき言ったことを繰り返してくれないか」
「場所を教えろ」
「どこの」
「その暴力団の」
「………何が目的だ」
「さあ、なんだろうな」
情報屋は両足を下ろして、安楽椅子に深く腰掛けた。タバコを灰皿に押し付けて手を組んだ。情報屋は仲間たちを部屋に引っ込むように指示した。仲間たちは渋ったが、仕方なく別の部屋にいった。深い沈黙。口をひらく。「悪いことはいわない、やめときな」
「いうと思ってたさ」
「あんちゃん、名前をなんていうか知らんが、俺の忠告を聞いたほうがいい。だてにこんな狂った場所でこの年まで生きてきたんだ、ここでやっちゃいないことぐらい知っている。三つあるんだ。一つ、薬でラリってるやつには話しかけるな。ラリってやつは何をしてくるかわからないし、痛みを感じない、なにより罪悪感があいつらにはない。簡単に人を殺せる。二つ、ひとりでいるな。せめて三人以上で行動をすること、そうじゃないと不機嫌な集団にリンチされる。三つ、俺がいっている暴力団に関わるな、だ。────わかるか、わかりやすいように例えていうべきか。なら、こうしよう、いまお前は何もきていない裸でホロウの中に放り出される。そこにはエーテリアスがうじゃうじゃいる。後ろには逃げるための裂け目がある……どんなバカでもそれに立ち向かうこともないし、できるなら避けたい。だろ? いいか、どんなバカでもあれからは逃げるんだ」
「金はいくら欲しい」
「あんちゃん、話を聞いてたか?」
「聞いていたさ」
「なら───」
「それでもだ」
「俺は親切心で言っているつもりだぞ、この俺にしては珍しいぐらいだ」
「それはどうも」
情報屋は直嗣を睨んだ。直嗣も情報屋を睨んだ。目線を外したのは情報屋だった。「いいか、俺は一度あんちゃんみたいにある男がその暴力団の名前と場所を大金で頼まれたことがあった。なぜだと思う? 娘がそいつらにレイプされて殺されたから、らしいぜ。……そのやった本人は捕まって豚箱の中だがな。つまり、復讐劇なのさ、暴力団への。そんな話の結末は大体決まっている。破滅さ。破滅。頑張っていいところまで追い詰めるのだが、結局殺されるんだよ。だが、あのときの俺はとにかく金が必要だったんだ。1ディニーでも良かったんだ。とにかく金が必要だった。だから、俺はその男に教えてやったさ、いいぜ、あんたがどうするか知りたいからよってな。それでどうなったと思う?」
情報屋が目を合わせてきたが、直嗣は顔色ひとつ変えない。「さあ、死んだのか」
「いや」情報屋は首を振った。「もっとひどいことをされたさ、奴らは薬とか闇金以外に人体実験をするのさ、その研究成果を闇医者に教えて金をもらうためにな。その人体実験にその男が使われた。実験は単純でエーテル物質をどれぐらい体内に入れたら有毒なのか。またそのエーテル物質を入れることで体の細胞が変化をしているか、だってよ。あいつら、俺にそのことを教えたさ、記録書とともにさ。俺はみたよ、だってあそこに送った責任ぐらいはあるからよ。だけど、すぐにみなかったって後悔したよ、本当に、何があったかは言いたいくない。とにかく、たまにそのことが夢で出るぐらいひどいことだった。それだけだよ」
直嗣は腕を組んでいう。「そうか、それは気の毒にだな」
「………わかっただろ、手を引け、俺だって二度も同じひどいビデオを見たくない」
「無理だな、やるべきことがある」
情報屋は口をぽかんと開けて、やがてため息をついた。そしてうめきながら「5万」
「ありがとうな」5万ディニーを渡した。
受け取った情報屋は紙で略図を書いた。それを直嗣に渡した。「これであんたは家族の顔を見ることがなくなったな、いいかこれは地獄の切符さ、一方通行の」
「ご忠告ありがとう」
「それはどうも」情報屋は舌打ちをして唾を吐いた。「いけよ、いってしまえよ」
「言われなくても」
ホテルの外へ出た直嗣は地獄の切符を空へと掲げた。月の光でそれは透けて、黒い図がはっきりと浮かび上がってくる。経路はここから真っ直ぐに進むば良かった。直嗣は視線を前へ向ける。視線の先にはひとつだけたっているタワマンがあって、建物は灯台のように光っていた。すべてを飲み込むホロウのような闇に満たされた道路にはライターの火やタバコの火がわずかに燃えるのがみえる。が、すぐにその火は闇に飲み込まれて見えなくなる。その闇には負けないぐらい明るいのはあの建物だけだった。直嗣は地獄の切符をポケットにしまって歩き出した。───結論からいうとハズレだった。暴力団が住んでいるタワマンに押しかけ、派手な格好をした美人な受付に要件をいって、紆余曲折あったが、なんとか若頭と話すことができた。が、彼らはそのことを知らないと答えたぐらいだった。嘘ではなかった。彼らは数々の違法ことをしているが、それでも宗教に関連したことはしないらしい。どうやら彼らは宗教が大嫌いらしい。信じるのは快楽と金、そして仲間だ、と彼らといった。もちろん、直嗣が帰ろうとするとただで帰すつもりがない、といってきた。が、彼が本名をフルネームでいうと若頭は顔を青ざめ、頭のもとに直訴してきた。頭は諦めろ、といったようだ。若頭は唾をはいて、何度もこういっていた。───ついてねぇ、ついてねぇ、ついてねぇよ、くそっ。神なんてクソくらえだ。
直嗣は予約していたホテルに向かっていた。途中、彼に寄りかかった赤い下着をあえてみせた女がいたが、彼は未成年だからと断った。黒田家には今日はホテルで泊まることは伝えていた。着いた。受付にチェックアウトをしてもらい、金を払った。もらったカードキーを持ち、直嗣はエレベーターに乗った。4階で降りた。403号室。そこが彼が今日泊まる部屋だった。静寂が広がっていた。誰もこの廊下を歩く人はいなかった。直嗣は部屋に入る。灯りが置いてあるベッドサイド・テーブルに財布とスマホを放り出す。冷蔵庫にコンビニで買ったソーダと水を入れた。そして彼は熱いシャワーを浴びた。浴び終えるとバスローブを着てベッドに体を休ませしばらく天井をみた。チクタク鳴る時計に目をむけるとすでに四時を指していた。今日もハズレだったな、と寝そべって直嗣はつぶやいた。彼がみた夢。エリー都がホロウに呑みこまれ、崩壊していく夢。母を殺す夢。直嗣は目を瞑った。が、眠ることはできない。彼はバルコニーに出て眠り切った都市を眺めた。そのバルコニーの真下からみえる道路はがらんとしていた。たまに人が歩くぐらいだった。その歩行者は街灯に照らされ、長い影をおとす、月は徐々に沈みかけていて、灰色の雲へ隠れようとしていた。先ほど彼が通った快楽の街はまだ明るい、直嗣はポケットから折りたたんだ紙を取り出して、それを切り裂いた。風が吹いたとき、紙チリがその風に乗せられ夜の都市のどこかへ飛んで行った。電話が鳴ったのはまさしくそのときだった。直嗣は気だるそうに椅子から立ち上がって電話に出た。
相手の話をしばらく聴いた。「まあ、それなら仕方がないな。───で、話したいことあるんだろ」
『いやさ、ナオツグ、覚えるか、あのオドラデクの調査のときを』
「ああ、覚えているさ」
『そのときに一回休憩するときにオレたち話したじゃないか、なんでオレが宗教に魅力を感じたのかって』
「ああ、したな」
『それで、オレ、そのことをいつか言おう言おうと思ってたんだけど、なかなかタイミングが訪れなくて、それならいっそこのときに話してもいいかなって思ってな』
「ふうん、いいじゃないか」
『ああ、それで、どこまで話したか覚えているか』
「たしか、光を見出したって」
『ああ、そうそう、そうだ、光を見出したんだよ』
「その光って」
『……そうだな、変なこと言うけどさ、アリっているだよ、よく道を横切る小さな黒アリ』
「うん、いるな」
『そのアリがさ、あるとき岩を何度も登るんだ。絶対どう考えても登ることができない巨大な岩を、それも意味なく、なにかフェロモンを残すわけでもない、なにか生物的利益があるわけでもない、ただ岩を登るんだ、やがてそのアリは草の先端まで登って待つんだ。なぜだと思う』
「………考えられるとしてはそのアリが狂ったことじゃないか」
『そう、部分的にあっている。そのアリはさ、寄生されてたんだよ、槍形吸虫っていうんだ。その虫はアリに草の先端を登らせるだ、もちろん草食動物に食べてもらうためさ、食べてもらったら排泄してもらいそこから次の宿主を探す、まあもっと細かいんだけど、それを説明するのは本題にずれるから言わないでおく。つまりね、オレが何が言いたいのはな、ナオツグ。オレたち人間も、いやあらゆる動物がそのような寄生虫があるんじゃないかと思ってるんだよ。もちろん本当に生物がオレたちの脳に潜んでいるわけじゃない。それはもっと概念的なことさ。寄生虫のようなものがいるからオレたちが必ずしも合理的の判断を下さないと思っているんだ。信念みたいなものってあるだろ、あれで死ぬやつがいるだろ。あれも寄生虫のひとつの種類だと思うんだ』
「なんだ、決定論の話をしているのか」
『まあ、そうなるのか、あとな、信念だけじゃなくて、遺伝子もまたオレたちに潜んでいる寄生虫だと思うんだ、遺伝子の多くがオレたちがどのような人間なのかを決定させる、って言うし、とにかくこの世には寄生虫みたいのがたくさんいると思うんだよ。もちろん概念的に、だよ』
「それで」直嗣はスマホを持つ手を変えた。「結末はなんだよ」
『結末はな、オレが思うにそのような寄生虫を受け入れるべきなんだと思うんだ、人って弱いからさ、何かなにかしらの不変な価値観とか信念とかそういうものが必要なんだよ、誰かに依存するとかそれもまた寄生虫のひとつだと思うんだけど、それは否定はしないよ、問題はいかにその寄生虫を受け入れることなんだと思うんだ。その中でオレは宗教はその寄生虫の中でもっとも受け入れやすいし、共生しやすいと思うんだ、だってそこには神父とかがいる。誰かがオレたちに宗教にうまく付き合い方を教えてくれるんだよ。それに宗教は不変的だ、いつだって人は神を、いや神は変わるものでもいい、とにかくそういうものを必要としているんだ、自分自身を保つために。だからオレが神を信じるんだ』
「なるほどな、………参考になるよ、ありがとうな」
『いや、オレが話しかったんだ、こちらこそありがとうな、こんな変な話を聴いてくれて』
「ああ、もう終わりにするのか」
『うん、すっきりしたよ、ありがとうな』
「ああ」
『じゃあ、おやすみ』ニックが電話を切った。
直嗣はスマホを置き、ベッドに転がった。また天井を眺めた。そこにシミはなく、LED電球とクーラーがつけてある。直嗣はスマホを手に取って、部下から連絡がないかを調べた。何もなかった。報告にも集会はみつからなかったと書いてあった。直嗣は目を閉じた。相変わらず寝れない。それでも目を瞑り続けた。
目を瞑って数分後であった。廊下から音が聞こえた。ひとつずつドアを開ける音だ。それも外側から。直嗣は起き上がり、ドアを眺めた。ドアの下の隙間から廊下の明かりが洩れている。音は近づいてきている。ベッドから起き上がった直嗣はバスローブを脱ぎ、床に投げ捨てた服を再び着た。そして風呂場に行き、シャワーを流した。シャワーカーテンを閉めてベッドに戻った。しくったな、と直嗣は思った。なにか持ってくるべきだった。昨日、デッドエンドブッチャーが来たことが思い出す。既視感。しかし今回直嗣は武器を持っていない。徒手空拳だ。直嗣は冷蔵庫から水を取り出した。蓋を開け、一気に飲んだ。直嗣はできるだけ音を立てないようにベッドサイド・テーブルにおいた。ついにドアの隙間から洩れた光が二つの影で阻まれる。直嗣はベッドの下に潜り込む。鍵が開いた。ドアが開く。靴がみえる。ひとつは成人男性ぐらいの大きさで革靴だ。もうひとつは小さく、まだ少年ぐらいだった。履いているのはカウボーイブーツだった。彼らはそのまま立っていたが、やがて風呂場に向かいはじめた。直嗣はベッドの下から這い上がった。彼らは軽く風呂場の扉を開けようとしていた。そしてスマホと財布を取った直嗣は開いたドアを抜けようとした。が、脚。彼のみぞおちを鋭く打った。直嗣はうめき崩れ落ちた。ふざけんな、なんでわかったんだよ、まだ早すぎるじゃねぇかよ、と声を震わせいった。
「悪りぃな」男がいった。「気配には敏感なもので、だけどいいと思うぜ、その行動、この部屋にいってもジリ貧だもんな、だけど相手が悪かった」
「ちょっと、手荒にしないでよ、彼に話したことがあるからさ」少年がいう。
直嗣は脂汗を浮き出ながら笑った。「今日はモテモテのようだな、俺と話したいやつでいっぱいだ」
「いいじゃないか」少年は微笑んだ。男でも惚れそうな笑顔だった。
「困ったことに」直嗣はいう。「その半分は俺に暴力をふっかけてきたんだよ」
鼻で男は笑った。「まあ、まだ部屋に出るな、話したいことがある」
「ほかの奴らはどうした」
「まあ、想像に任せるよ」少年が言う。「悪いことはしていないよ」
「へぇ、そいつはいい、じゃあなんでいちいち全ての部屋を開けた」
「それはね」少年が答えた。「どの階にいるかまではわかったけど、肝心のどの部屋にいるか分からなかったんだ、だから全部調べようってね」
「えらいバカみたいなことするな」
「俺もそう思うよ」男が答えた。「まあここいらで無駄話をやめよう、朝になったらまずいからな」
直嗣は黙って相手の目をみた。彼の経験からこの言葉は従わないとまずいことになると直感した。「わかったよ」
直嗣は立ち上がってベッドに腰掛けた。彼らはバルコニーから二つの椅子を持ってきて座った。
「それで」直嗣はいう。「おまえらは何者だ」
「悪いがそれは教えられないね、
「まだ、ね」
「そう、まだだよ」少年はいう。「いつかわかる日が来るってことだよ、それもすぐに」
「そいつはいい、なら質問を変える。おまえらの目的は」
「いったじゃないか、君と話すって」
「筋が通らないな、なんでわざわざ話すぐらいでこんな手間をかける必要がある」
少年は肩をすくめた。「さあ」
直嗣は彼の目をじっと眺め、いった。「ああ、そう。つまり、上か」
「当たり、だから僕たちにもわからないさ」
「だから」男はタバコとある機械を取り出した。「これを使う」
「ボイスレコードか」
男は頷き、タバコをつけようとした。それを少年が奪った。「なんでだよ」男はいう。
「ここでつけたら火災感知器が反応しちゃうでしょ」
ため息をついた男はいう。「いまから質問するからそれに答えてもらおう、わかったな」
直嗣は頷いた。
「質問は僕がするからね、なにそんな多くことは聞かないさ、なんならひとつだけだよ、聞きたいことは」
「お好きにどうぞ」
男がボイスレコードをつけた、それから少年が口をひらく。「仲間にならないかい?」
直嗣は黙った。立ち上がる。冷蔵庫まで歩き、それを開ける。そこからソーダを取り出してプルタブを開けた。半分ほど飲んで、冷蔵庫の上に置いた。相手に目をやることはなく頭を後ろを掻いて「なるわけがないだろう、クソ野郎が」と、いった。
カウボーイハットを指で回している少年は笑顔を保ったままだ。「君にも悪くない提案だと思うけど」
「黙れよ、ホモが」
「ひどい言いようだね」眉ひとつさえ動かない。笑顔を保ったままだ。
「おまえたちがどんな組織なのか知らんが、これだけはいえる。間違いなく星見家の敵になるやつだってな、そんなやつの仲間になるなんて死んでもごめんだね」
「星見家、星見家、君たちはそれ以外に脳が足りないのか」
「寝返るようなクズには成り下がりたくないな」
「たしかにそのような生き方は立派だろうね」少年はカウボーイハットを被った。「だけど、残念だけど賢い生き方とは言えない」
「そうかもな、だが、バカな生き方をして歴史に名を刻んだバカどもはたくさんいる」
「───ねえ、君たちをみていると哀れに見えてくるよ、人に頼ることしかできないなんて可哀想だよ」
「そういうおまえこそどうなんだ、まだ母乳から離れないつもりか」
少年はその言葉を無視した。「僕はね、君のことを高く買っているつもりだよ、その場で最も最善な方法を必ず取る冷静さ、判断能力、思い切りの良さ、冷徹さ、直感力、計算高さ、また戦闘能力の高さ、生存能力、どれも戦場でも戦争という大きな場面でも必要な能力を君が備えている。なによりもその君たち一族が持っているその夢で未来をみる能力は素晴らしい。ぜひともうちのところで働いていて欲しい」
「褒められて、入ると思うバカだと思っているのか? なら、おまえの分析も的外れもいいところだ」
「もちろん思ってないよ、ただ素晴らしいと素直に褒めてだけだよ」
じっと少年を眺めた直嗣はドアの方へ足をむけた。「質問はひとつなんだろ、もう話は終わっただろ、俺はもう出るよ」
「……いいよ、止める権利もない、たしかに質問はひとつって言ってたしね、ねえ、それで構わないよね」
「別に、おまえがそういうならいいじゃないか、俺は知らん」男はボイスレコードを取った。
「だってさ」
直嗣はソーダとカードキーを手に取って廊下に出た。その背後に撃鉄を起こす音が聞こえた。が、振り返らないで長い廊下を歩き、エレベーターに乗った。
少年は拳銃を彼の顔を狙っていた。撃鉄を起こし音で脅した。しかし振り返ることもなく彼は廊下を歩き出し見えなくなった。少年は拳銃をしまった。振り返ったら、殺してたのに、とつぶやいた。少年は椅子をバルコニーに戻し、座った。男もバルコニーに席を戻し、腰を下ろしてからタバコを吸った。地平線の彼方から顔を出した太陽の光が山の連なりとこの平らな街並みを黄金いろに染めた。黄金と夜の青が混じる。電柱の線に止まったカラスがニワトリの代わりのように一声だけ鳴いた。酔い潰れたものたちもゾンビのように起き上がってふらふらと頭を抱えながらどこかへ歩き出している。車を道路を通るようになり、ゆっくりとしたスピードで進んでゆく。朝のランニングをこなす男や女が走ってゆくのがみえた。眠りから覚めはじめた暁の都市。遠くにはホロウがみえた。いままで脅威になったことがないホロウ。少年はタバコをひとつくれ、と頼み、もらったタバコはシュガーキスでつけた。タバコをくゆらせ、親指で額をかいた。何をしているんだろうね、本当に、少年はいう。男は床にタバコの灰を落とし、さあな、俺にはわからない、さっきのあいつなら小難しいこといって答えてくれるんじゃねぇか。少年は笑った。そうかもね、そうかもしれない。少年はタバコをゆっくりと吸ってはいた。───まったく、本当に彼らは何をしているのだろうね、本当に。可哀想だよ。
直嗣はホテルの外を出てソーダを飲み切った。自動販売機のそばに置いてあったゴミ箱に捨てた。駅まで歩いた彼は始発を開始した電車に乗った。電車の中には彼のように終電を逃したものやいまから仕事にいくサラリーマンや旅の帰りと思われるキャリーバックを抱えている人がいた。最寄りまで何駅か軽く計算した直嗣は目をつぶって、今度こそ眠った。
⁂
怪しいとは思ってたさ、だって俺たち一家の秘密を知っているような力があるやつがいきなり姿を現してくるなんて決まってすでに打つ手を打たれたことだからな。何か仕掛けていると思ってたよ。だから、はやく家に帰って準備をしないと思っていたし………だけど、今でも思うよ、もうすこし家に帰るのが早かったら、なんてどうしようもならないことを。本当にどうしようもならないことを。今でもそんなもしもを夢にみるよ。いつも俺はそうやって振り返って後悔する。もうすこし早かったら、なんてな、だけど、それが人生ってやつだし、それが運命ってやつかもしれない。いずれにせよ、あのときにはどうしようもなかったんだと思うぜ。すでに王手は打たれていたんだから。
───ドキュメンタリー映画『すべてが崩壊する日まで』の一部シーンから抜粋────
零号ホロウ暴走まで三秒。