夢を凍るような 寒い日に
私はこわい夢を見た
夢は帽子をかぶって出ていった
昼下がり───
私はドアに 鍵をした
────安部公房『夢の兵士』冒頭より抜粋────
アロンを殺しホロウを出たときには日にちを越すところであった。星見家に吐かせた情報を伝え、突撃の許可を取るのは明日になった。直嗣は部下に労いの言葉をかけ、直嗣は部屋に戻りベッドで寝た、───そして、直嗣はまどろみの中で父との最後の対話を思い出した。
落葉と初雪が混じった庭を父が見ていたのを直嗣は覚えている。庭と家の先にある空は上がりゆく太陽によって金色に染まっていたのも覚えていた。それは突然のことであった。ホロウでの戦闘で疲れはてた直嗣は寝ていると足の親指を掴まれるのを感じ、目覚めた。まだあたりは暗く、誰が起こしたのかわからない。やっと目が闇に慣れた。そこで起こしたのが父であったことを直嗣は気づいた。無駄なく鍛えれた体つきをしていて、鷹のように鋭い目つきに黒い短髪、右頬から首までかけて広がる超級エーテリアスとの戦闘でできた傷跡、間違いなく父、総一であった。青い目は鬼火のようで、闇のなかそれがやけに目立った。直嗣はその目を見つめ返した。父はくるりと背をむけ、歩きだす。音は一切しなかった。幽霊そのもののようであったが、それが父であった。戦闘中でも相手の死角に瞬時で入り込み、露わになった急所を切る。これが父の戦い方で、唯一無二であった。………やがて父が立ち止まった。そこが縁側であったのだ。父はずっと無言で、太陽がのぼりはじめてもなにも言わなかった。直嗣も黙っていた。たまに直嗣は咳き込んで、その音が冬の澄んだ空気に響く。溶けた鉛のような沈黙がそこには広がっていた。
父がようやく口を開いたのは、ある雪が天井からすべり落ちたときであった。
私は次のダークウォールの調査で死ぬだろう、淡々と父はそういった。
「なぜですか」
夢をみた。そこで私が死んでいた
「ぼくは父上が死ぬとは思えませんが」直嗣は総一の前では父上と呼んでいた。
いや、死ぬ
「なぜですか」
私が夢でみたものは大抵、現実でも起きた
「今回がその例に当てはまらない可能性も」
当たるにせよ、外れるにせよ、備えはすべきだ
「……怖くはないのですか」
怖い。が、落ち武者は薄の穂にも怖ず、だ、その恐怖に呑まれてはいけない
「………僕には父上が言っていることがよくわかりません」嘘だった。直嗣も父がこれから死ぬのをひしひしと感じていた。
そうか、それでも構わない
「じゃあ、つぎの当主はどうするんですか」
坂口に代理をまかせるつもりだ、やつがお前を支えてくれる、建前ではあいつが全部やることになっているが、まああいつはきっとお前を補佐する側に回るだろうな
それじゃあ、と言おうとしたが、そのつぎの言葉を直嗣はいえなかった。代わりに「わかりません、父上、僕にはわかりません」
ああ、わからないだろうな、だが坂口が補佐してくれるから大丈夫だ。おまえにも今できる限りで俺の全てを教えやった、大丈夫だ
「父上、調査はやめましょう」
だめだ、やらないといけない
「父上がいないなら、誰が星見家さまを守るんですか」
それはお前だ、お前が当主さまを、宗一郎さまを、雅さまを守るんだ、私の死を嘆く暇があるなら、次に何をするか考えろ。それがお前の役目だ
「僕には無理です、父上、ですから調査へ行くのをやめてください」
いいか、直嗣。これからお前は、逃げられない脅威に何度も出くわす。逃げてもいい。だが、最後には戦え。逃げ続けるのは、屈することだ。屈するな。戦え、死ぬまで戦え。たしかな自分を見いだせ。これが俺だ、と叫べる自分をな。
それが父の最後の言葉だった。それを伝えると彼は立ち上がり、自身の部屋へと消えたのであった。溶けた鉛のような沈黙はまだこの部屋に残っていた。
1.
マーディを潰すことに成功した。アロンを殺した翌日、星見家に突撃する許可が降り、1週間後に敵の拠点に突撃した。第1陣が敵の拠点に潜入、第2陣が陽動、第3陣、本命が第1陣があけた穴にこじ開けた。マーディのボスは逃げようとしたが、どの避難ルートをも掌握している黒田家にとっては無駄であった。お前らには神の裁きが降る、とボスは喚いて、捕まった。このことはニュースで報道され、新聞でも大々的に乗った。新聞では、バーナードは真っ黒、というキャチコピーで書かれていた。坂口がインタビューを答え、彼はこれからもエリー都の治安と秩序を保つために尽力するつもりだ、と締めくくり終わった。そのあと、星見家と黒田家が話した新種オドラデクの調査をするためにダークウォールへの潜るべきではないかと上の方に伝えた。上は最初は新種のことを信じなかったが、取っておいた調査記録書にそれを見せると上は信じた。上は予算計算が必要なため、決定するまでに時間がかかるといっていた。その期間は1ヶ月はかかると上は言った。そして、その1ヶ月間のある日、直嗣は母に呼び出された。
直嗣の母の部屋に流れる音楽はレオシュ・ヤナーチェクの『霧の中』であった。ヤナーチェクの最後のピアノ曲集で、4曲で成っている。この曲は繰り返し同じメロディと和声の曖昧さが特徴だ。いま流れているのは3曲目、Andantinoであった。よりやや速くという意味であった。緻密に重ね合わせられた音の旋律が部屋を充していて、母は目を閉じその曲を聴いていた。もうすぐでつぎの曲、Prestoにうつる。曲のリズムは変化し、激しくなり、アンバランスな感覚を覚えさせる。彼女の右半分の顔はやわらかい黄色の光があたっていた。テーブルをみると、そこには丹念に磨かれた木がその光で仄かに黄色に染まっているのがわかる。茶色のソファーがそのテーブルを挟むように二つある。直嗣と母は向かい合うように座っていた。凪のような美しい旋律で終わり、Prestoへ移った。意味はすぐに、であった。横へ視線を移すとそこにあるのは、彼がまだ幼いころに読んだ本の数々が入れてある本棚とレコーダーだ。そこから曲が流れていた。母はたまに目を開け、直嗣を、いや直嗣を通して何かをみた。目が濡れ始める。が、そのたびに目を閉じ、ふたたびこの曲が現前させる霧の中へ入り込んでいた。そのことを直嗣は咎めなかった。
───曲は終盤を迎えた。不協和音が重なり始め、激しさを増す。直嗣の母はテーブルに指を置き、ピアノを想像し、それを弾こうとしている。その手は昔に比べてぎこちなかった。手元には小さな手術跡が残っていた。直嗣は目を逸らし、自身の手のひらを撫でた。
『霧の中』が終わった。彼女は立ち上がり、針を上げた。レコードを撫でる手はひどく震えていた。彼女は壁にかけてある総一の肖像画をみた。総一が普段着る戦闘服を身につけており、周りは黒で塗りつぶされていた。彼女は肖像画を手をかけようとした。しかしやめ、直嗣に、これ外してくれる? と聞いた。直嗣は了承し、外した。ここにおいてと言われて、そこに置くと母は布をかぶせた。直嗣は母を見る。彼女は床へ視線を落としていた。やがて顔を天へ向け、軽く顔をふると母は直嗣に微笑んだ。ありがとうね、直嗣。ちょっとね、……… いいよ、いいよと直嗣も微笑み返した。母はテーブルに置いてある紅茶を一口飲んだ。そのときに直嗣は指輪を外していることに気づいた。直嗣はまた自身の手のひらを撫でた。彼女は立ち上がるとそのまま部屋をぶらぶらと回った。化粧台に置かれてある写真があった。それは新婚時代の写真であった。あの父も嬉しそうに微笑んでいた。彼女はその写真をぱたりと倒した。が、彼女はまた化粧台に戻るとその写真を元の位置に戻した。そのさまを見ている直嗣に気づくと、ごめんなさいね、さっきからぶらぶらとしちゃて、邪魔よねといい小さく笑った。
「母さん」
母はびくりとした。しかしすぐに立て直し、微笑んだ。「何? 直嗣、なんでも言ってごらん」
「その……」直嗣は言葉を選んだ。「母さん、俺になにか伝えたいことでもあったの?」
「え?」母はぱちりと瞬きをした。「ああ、そうね、大事なことがあったのよ」
「大事なこと……」
「そう、大事なことよ」母は霧の中へ抜け出したようであった。「当主さまからね、ピアノコンサートに誘われたの」
「コンサート」直嗣はまだよく何が言いたいのか掴めなかった。母と当主さまは仲がよく、よく一緒に出かけることが多かった。
「それでね、直嗣。私ね、あなたと一緒に行きたいの」母は嬉しそうに笑っている。
「え、いいの?」直嗣は目を見開いた。完全に予想外だった。「だけど当主さまはお赦してくださるのかな?」
「お赦しくださったわよ、主さまもご一緒に娘さんを連れていらっしゃるわ」
「雅さまが? ボディガードを連れて行こうか」
「いや、いいわ」母は首を振った。「こんなときぐらいゆっくりしましょ」
「だけど………」
「つぎにホロウに行くのは1ヶ月後よね、大丈夫わよ」母は
直嗣はため息をつき、苦笑した。「わかったよ、行こう、その代わりに1日だけね」
「ああ、よかった」ほっと彼女は息を吐き、何度も頷いた。「ありがとうね、直嗣、ピアノ演奏会は明後日よ」
「うん、わかった」
⁂
道路は混雑していた。著名なピアニストが演奏するからだ。クラクションの音がたびたび響いていた。いま直嗣たちが乗っている車はいわゆる高級車ではない。どこでもある一般的な車だ。直嗣の母が黒田家とバレて、面倒ごとになるのを避けたいと言ったからだ。母は車の窓をスモークドアにし、防弾性にしろと命令していたため、セキュリティ面は申し分ない。運転手には坂口の次に腕っぷしが強いやつを抜擢した。母は最初そのことに怒ったが、最終的には仕方がないと認めた。
周りが混雑に苛立っていたが、直嗣の母は彼女は窓に腕を置き、外の景色を眺めていた。口元はわずかにだが上がっており足も組んでいた。直嗣は、というと彼は少ないメンバーでどうやって、星見家を守るのかを考えていた。メンバーは選び抜かれた精鋭で、坂口と作戦部隊長がそのメンバーを動かすことになっていた。母は直嗣で守ると決めていた。直嗣は隣の車が危険人物ではないかも確認しながら流れゆく都市を眺めた。
目的地についた。多くの人がここで降り、会場へ雪崩れ込んだ。中間層とみられるものもいたし、富裕層もいた。群衆は声を高め、笑い声や話し声が入り乱れる。さながら、ロックスターの会場のようであった。それほど、今回来るピアニストは有名人なのであった。直嗣たちは青銅で作られた巨大な騎兵の像の前で待った。像には雪が積もっていた。そこが集合場所であった。剣先は太陽が上がる場所、東へ向いており、像の台座にはこのような警告が書いてある。
引き返せ。わしの背後には何もない。
直嗣たちが目的地について数分後に星見家当主と雅が姿を表した。白いキャペリンをかぶっていた当主は羽織に処女雪いろの着物を身につけていた。また、赤い帯揚げと帯締めをあしらい、勾玉を模した帯留めを添えた緑いろの帯を締めていた。着物からちらりと見える長襦袢も赤であった。彼女はこちらに気づくとすいません、遅れてしまってと申し訳なそうに微笑し、幽玄さえ感じさせる足どりで向かってくる。当主の整った顔は菩薩を思わせる穏やかさと悟りを湛え、艶やかな肌をしたミルクいろの顔にちょこんと存在する口紅を塗った唇と赤い目はあたかも雪のなかで数輪咲く彼岸花のように美しかった。直嗣たちは伝説の玉藻前と並び立つほどの美貌を持つ彼女に見惚れていた。
彼女の細い手に引かれて歩いてるのは星見雅だ。雅は黄色いボンネットを頭に身につけ、黒いワンピースを着ていた。さらにその上に黄色い上着を羽織り、肩にかかり垂れているのは小さな鞄。雅はまだ幼くてかわいらしい顔をしていて美しさはまだないが、やがてはエリー都で指折りの美人に成長し、あらゆる男がその美貌に魅了される、そのような未来をたしかに感じさせた。
この二人組は群衆のなか、地獄の底で下ろされた蜘蛛の糸のように注目を浴びた。まず、群衆は彼女たちを見つめ、彼女たちについてこそこそと話していた。すると何人かがそれが星見家であることに気づき、隣に、「おい待ってあれ星見家じゃね?」「ほらホロウ災害にときにすげぇ活躍した人だよ」等のこといった。いよいよざわめき始めた。雅は胸を張り、目をきゅと力を入れた。堂々たる足どりでそのざわめきを歩いた。星見当主は軽く群衆に手を振ると直嗣たちへ困ったように笑った。それでも彼女はあの幽玄的な歩みをやめなかった。それじゃあ、早くいきましょうか、と直嗣の母はいい、みなはそれを了承した。直嗣は星見家当主と雅に敬礼をし挨拶をした。彼女たちは返事を返した。あとすこしでコンサートが始まるわよ、直嗣の母は息子にそう元気よく言った。