あと誤字報告助かります。
1.
今宵は満月であった。月の半分は黒く、青い燐光を放つクレーターが二つある。その黒くなった月に薄雲が覆り、月光はおぼろげに地上を照らしている。ここからみえる小鳥の巣がついてある電柱の線は風でたわみ、またすぐに元に戻った。道路には誰もいない。静寂であった。たまに車が走る音が聞こえるぐらいだった。直嗣は満月を横目に、紅茶を一口飲んだ。リサがつくったものだ。彼女は1時的に雇っていることになっている。黒田家や星見家のメイドを送るわけにいかないからだ。彼女はこの隠れ家の掃除をすすめるために部屋を出ており、ここにいるのは当主さまと雅、直嗣である。当主さまは寝ている雅の頬を撫でている。どこかの犬が鳴いてた。二度ほど吠え、それっきりだ。しばらく隠れ家にいるということは黒田家には秘密しており、星見家とは執事に宗一郎へ伝えておくようにといっておいた。
「直嗣くんは」小さな声で当主はいう。
「はい」
「さびしくないんですか」
なにが、とは聞かなかった。「ええ、大丈夫です」
「本当ですか?」
「さびしくないですよ」
「そうですか」
「どうしたのですか、急に」
「いえ、とくには、………しいていうなら、子を持った人のカンみたいなものです」
「はぁ」
様子を見ようと決め1週間が経った。敵の動きはとくに見当たらず、調査もまだ途中だ。ダークウォールの新種の調査の会議まであと1週間でもあった。それまでに直嗣たちは少なくとも相手の正体に目星をつけないといけない。幹部たちは時間や日付をずらしながら、黒田家へ戻った。直嗣はここで待ち、当主さまを守ることが役割だ。直嗣も黒田家の最重要人物であるため、彼女らと一緒に隠すこと、また直嗣の腕なら半端者では当主さまを殺すことはできない、といった二つの理由からその役目を担った。ダミーを星見家に送ったが、とくに襲われることもなかった。
「雅はあなたをみるとき、どこかあなたのことを恐れています」
直嗣は黙った。
「勘違いかもしれません、しかし雅のことはある程度わかっているつもりです」
直嗣は紅茶をのみ、話を促した。
「雅は警戒心が強い子です、星見家に生まれたときから、その、周りから注目を受けたですから、邪な考えを持った方を見分ける力があります」
「俺は邪な考えを持っているのでしょうか」
「いえ、それは違います、あなたは黒田家の子ですので、そんな考え方も持つ人はいないでしょう、だから彼女がそのことであなたなことを避けているわけではありません。むしろ、それなら彼女はあのように恐れません」
「ではなぜ」
「それは」当主は直承をみる。しかし、彼女は目を伏せると黙った。
「いいですよ、別に、好きにいってください、俺たちはあなた方の手で、剣で、耳で、そして目だ。俺に不満なところがあるば、いってください」
彼女は雅を撫でるのをやめ、立ち上がった。「あなたの目を恐れているのでしょう」
「目?」直嗣は首を傾げた。「まあたしかによく人相が悪いといわれますが」
「いえ、もっと、感覚的な話です、つまり、あなたの目の奥、そこにひそむものです」
「よくわかりません」父が浮かんだ。父の青い目。
「以前にもいいましたが」彼女はつぶやくようにいう。「あなたは大人びている。それもとても15歳の少年にはみえないぐらい、体もそうですが、なによりもあなたの精神性です、ふつうこの時期の子供というものは足ることを知らない、野心的で、大人に甘えたり、拒絶したり、猫のようにころころと気持ちが変わるものです」一瞬の間。「あなたは違う、だから、不気味なんだと思うのでしょう」
「なるほど」また父が浮かんだ。「人間味ですか」
「そうです」
「困りましたね」カップをゆっくりと回した。紅茶が揺れる。
「気にしなくて大丈夫ですよ」
「ですが、護衛対象が俺のことを嫌がるというのは致命的ですよ」
「大丈夫ですよ」
「ありがとうございます、だけど慰めはいらないです」
「いえ、大丈夫だと確信した上でいっているのです」
「それもカンですか?」
「ええ」当主は笑みを浮かべた。「カンです、母のカンですよ」
直嗣も笑い返し、残りの紅茶を飲み切った。紅茶は冷え切っていたが、それでも味は良かった。当主の影が立っている絵がドアのそば、棚の上に飾ってある。それは森の中にふたつのカップルが見つめ合うという構成であった。羽帽子をかぶった男たちは女の手をとり、片手には剣をもちもうひとりの男を睨んでいる。その睨まれている男はくらりと倒れそうにつがいの女を支え、興味深そうに羽帽子をかぶった男を見つめ返す。この絵がおもしろいところはふたりの男とふたりの女がそれぞれまったく同じ自分であるということだ。もうひとりの自分を睨む男のカップルは淡い緑いろの輪郭を纏っている。くらりと倒れそうになっている女がいるカップルには輪郭がない。ドッペルゲンガーを題材としたこの絵のタイトルは『彼らはいかにして彼自身に出会ったか』。当主の影はちょうどこの四人組を俯瞰するように立っている。直嗣はその絵から目をはなし、立ち上がった。では、俺は外の見回りをしてきます、すぐに別の人が来るので安心してください、といい振り返った。軽く手を振った当主は、
「雅と遊んでくださいよ」と、いった。
「ええ、もちろんです」そういって外を出た。
彼は途中立ち止まり、この状況と絵を重ね合わせてみた。彼は軽く笑い、足を振り出した。
2.
「三つだ」直嗣は外を歩きながらいった。「いま最も怪しいのは、黒田家、星見家、そして治安局、この三つの組織の誰かが当主さまと雅を殺そうとした、その手は俺たちをあざむくほど巧妙」
風から潮の匂いがする。
月が照らす海を目にくれず直嗣は独り言をつぶやく。「いや、もっと別な組織が怪しいかもしれない、だが、あれをできるのはよほど大きな力がもったやつらだけだ、だとしたら大企業の可能性もある、いやこれもありえない、やはりはっきりとした動機があるのはこの三つの組織だ。………ことの顛末を一度整理しよう、場所はエリー都マルタ地区の───道路、当主さまたちはそこを通っていた。で、十字路にて信号機を待つあいだにホームレスに襲われた。その接近に誰も気が付かなかった。治安官がここらへんを歩いていたが、それでも気づかなかった。ホームレスは薬中で、薬を買うための金を探している途中に正体不明の男に当主さまの車を襲うことを条件に金を渡された、ホームレスは最初は渋ったが、捕まらないように手助けをするから、と押され、了承。これは当主さまを捕まえようとしたチンピラどももおおむね同じだ」
直嗣は右を曲がった。うす暗い路地裏でへべれけに酔っ払った人がひとり、いた。イノシシのシリオンで頭はイノシシだった。顔は真っ赤でカンのビールをぐびりぐびりと飲んでいた。白い牙をひげを撫でるように触っている。ご機嫌で歌を歌っている。歌詞は酔いのせいで順番はぐちゃぐちゃだったが、おおむねこのような感じだ。
ハニー 俺はいま星をみているよ
ハニー 生まれ変わった俺をみてくれよ!
きみが好きな男のタイプになれたかな?
俺は今夜ひとりで寝るさ 恋人は酒さ
このパートを永遠に繰り返し男は歌っている。
「マルタ地区はエリー都でも治安がいいということで有名だ、多くのセレブがここを訪れ、買い物や食事、美術館めぐりなどをする、そのためにここにホームレスが訪れることはめったにない、スラム地区はもっとべつのところだ、なのにあいつはいた。おそらく、誰かが手助けをしたのだろう、それもその誰かは治安員や俺たちの監視を理解しているやつだ、これで今回の首謀犯はそのような治安維持を目的とする組織の動きを熟知した人物だとわかる、と、なるとやはり黒田家と治安局のふたつがもっともあり得る」
では動機は? というまえであった。
「なんだい、あんちゃん、さっきからぶつぶつと言って」猪の男が絡んできた。「さっきから眉をひそめてどうしたっていうんだい? えぇ? 兄さんそいつはいかんさ! みてみなよあんちゃん、空は星がいっぱいだ、なにより今夜は満月だ、満月はいい、こうたかぶるんだ、わかるかい? あ、もしかしてあんちゃん、あんたもたかぶっているだろう?」
直嗣は無視した。
「おい、無視っていうのはないぜ、そりゃ」猪の男は肩を組んできた。ひどい悪臭が口からした。「な、あんちゃん、いいよ、な、ここでも、どうせここに人なんて来ないんだ、やろうぜ、な、おれさ両方いける口なんだよ、わかるよな」
直嗣は肩を振り払おうとする。猪の男は口を近づけ、腰に手をつけ、臀部へ行こうとする。直嗣は男をみる。男の目は熱を持っている。
「すこし待て」直嗣は静止する。「聞きたいことがある、どうこうするのはあとだ」
「あ? しゃーないな」猪の男は顔を離し、頭をかいた。「で、何が聞きたいんだ、あんちゃん、おれはぁいま我慢するのに必死なんだ」
「聞きたいことは簡単だ」直嗣はいう。「酔いもすぐ覚めるようなことだ、なに安心していい」
「だから、なんだよ」ゴミ箱の近くにゴキブリがいた。それを見つけると男はしずかに近づいて、ぱっとつかまえた。こいつはいい肴だ、といいライターで軽くあぶり、口に放り込んだ。パリパリと不愉快な音が路地裏にひびく。
「ここらへんで金を出すから協力してくれと仰いだやつはいるか?」
「あ? ああ、そんなやついたな。俺にもそいつ、来たわ、まあ俺は断ったけど」
「見た目は? なんでもいい、特徴的なものだ」
「あーそうだな、とくにこれといった特徴はないなぁ、あ、だけど、歩き方が変だったな」
「歩き方」
「そう、歩き方だ、なんつぅか、片足をこう、ひきづるように歩くんだ? わかるかい?」
「ああ、わかる、ありがとな」
「OK? これでいいだよな、な、それで、これでいいだよな、だから、ほらはやくやろうぜ」
「まあ、待て、こっちから向かってやるよ」
直嗣は男へ近づく。その距離十歩。まだ足りない。七歩。まだまだ。猪の男は嬉しそうだ、ズボンのベルトを取ろうとしている。俺ってさ、昔、いじめられたんだ、わかる、俺ってこんな顔だし、それにいまと違ってガリガリだったよ、だから、そこで四歩を突入した。直嗣は駆け出し、拳を振るう、レバーにクリーンヒットした。完璧だった。男は激痛が走った。痛みのあまりに声にもならないで地面に伏し、芋虫のように痙攣し、嘔吐した。そこにはゴキブリの足が混じっていた。男は怒りもしなかった。ただ、自身の体に激痛が走り、はげしい吐き気に襲われた。それだけがわかったが、なんでそうなったのか、何もわからなかった。体は意識を無視して、蠕動する。すえた匂い、響く耳鳴り、揺らぐ世界、びくびくと動く体。
「酔いが覚めたか」混濁した意識のなか、それだけがよく聞こえる。「これがおまえへのプレゼントだ、満足しただろう? だからはやく寝ろ」
その声は蜂蜜を流し込むように脳内によく浸透していた。そうして、男は気絶した。
気絶することを確認した直嗣はしゃがみの姿勢から立ち上がるとまた足を振り出した。時刻は予定より二十分遅れている。直嗣は舌打ちをする。遅れていることを連絡しようとスマホを取り出した。メールが届いていた。それを押すと坂口が心配していて、外の見回りは部下にやらせている、という内容だった。直嗣は、すこし油を売ってんだと返し、無事であることを知らせる。すぐに既読がついた。よかった、という言葉で始まり、つぎにくどくどと勤務中なのに油を売ることへの説教が始まった。ついにはメールではなく、電話をかけてきたが、そこらへんにいるやつにホームレスに金を渡した男の情報を調べていたことを伝えると一応納得した。最終的にいますぐ隠れ家に戻れとなった。直嗣は隠れ家にすぐに戻った。部下からも心配の声がかけられたが、事情を説明し、納得してくれた。直嗣は自室にもどった。部屋にはベッドとテーブルと安楽椅子、暇をつぶすようの本棚があった。テーブルにはやるべき書類が並んでいる。直嗣は安楽椅子に座り、天井を見上げた。