ある世界の冒険者のお話   作:無名

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第2話

クレハは泣き叫びながら、ドロンに肩を担がれて荒野を駆けていた。傷だらけの体は激痛を訴え、呼吸すらままならない。けれど何より苦しいのは、背後に置き去りにしてしまった仲間のことだった。彼女の耳には、まだグレンの声がこびりついているようで、そのたびに胸がかきむしられる。荒涼とした大地に、焦げたような血の臭いが漂いはじめたのは、グリフィンとグレンの最後の激突を物語っていた。なぜ自分ではなく、彼が囮にならなければならなかったのか。自分こそが盾を取って、あの場所に残るべきだったのではないか。後悔の念が、冷たい風よりも鋭く、クレハの心を切りつけていく。

 

 ドロンはその大きな背と剛腕で、必死にクレハを支えながら走る。彼の荒い呼吸が聞こえるたびに、クレハは涙を堪えきれなくなる。ドロン自身も、涙を流してはいないが、その瞳は絶望の色に濁りかけているのがわかった。頑丈なはずの鎧は所々がひどくへこんでおり、その下にはいくつもの打撲や傷が隠れているはずだ。レナは先行しつつ、時折後方を振り返っては、クレハとドロンがついて来られているかを確かめている。おそらく彼女も、焦燥感と悲しみを胸一杯に抱えているに違いない。

 

 岩陰を回り込み、ようやく小高い丘を越えるころ、ドロンは足をとめた。もう全力で走る必要はないと判断したのだろうが、その顔には脱力した苦悶の表情が浮かんでいる。クレハを地面に下ろし、荒い息を吐きながら、ドロンは険しい眼差しで荒野の方角を見つめた。そこには先ほどまでグレンが囮になっていた戦場がある。だが、暗い闇と地平線が交じり合う場所には、もはや人影も見えず、グリフィンの甲高い声すら沈黙している。

「……グレンの、奴……」

 ドロンの言葉は、悔恨と怒り、そして虚無の入り混じったものだった。クレハはたまらず唇を噛む。まるで息をするだけでも、グレンの名前が胸を刺すような気がした。

 

 そのとき、レナがこちらへ駆け寄る。月明かりの下に浮かび上がるその容姿は、美しく、悲しげだ。彼女の黒髪は砂混じりの風に吹かれ、頬には斜めに流れた涙の跡が淡く光っている。言葉は少ない彼女だが、今だけは抑えきれずに言葉を振り絞ったようだった。

「……もう追っては来ないみたい。グリフィン……どこかへ飛び去ったのか、それとも……」

 その言葉が曖昧に途切れる。グレンとグリフィンは、あの場所で激しく衝突していた。もしグリフィンが勝利してなお動く余力があったのなら、今頃わたしたちを追撃していたかもしれない。にもかかわらず、いまここにその姿はない。グレンが最後の力を振り絞って、グリフィンを討ち取ったのかもしれないし、あるいは相討ちのような形になったのかもしれない。だが、確かめるすべがない。

 

 クレハは足の痛みをこらえながら、地面を見つめていた。何かを探すように、ただそこを見据える。血がにじみ出た足首がずきずきと痛んでいるが、身体の痛みよりも、心の痛みのほうがずっと深かった。ドロンはクレハをかばうように横に膝をつき、ゆっくりと息を整えてから、しわがれた声で言った。

「……あそこに戻りたいか? 今から、グレンを捜すために」

 その言葉に、クレハははっと顔を上げる。彼女の瞳には期待が光るが、同時に恐怖も入り混じっている。万が一グレンがまだ生きているのなら、一刻でも早く救いたい。けれど、そこにはあの凶暴なグリフィンの亡骸があるかもしれないし、まだ息絶えずにさまよう化け物の姿があるかもしれない。自分たちの命がまた危険にさらされる――クレハはどう返事をすればいいのか迷った。

 

 しかし、迷いよりも先に言葉が溢れた。

「行きたい……わたし、行きたい。グレン……きっとまだ、あの場所に……!」

 思い出すのは、まるで昨日のことのように鮮明な、グレンの笑顔だ。大胆な作戦を思いついたときに見せるいたずらっぽい表情、仲間を励ます優しい声。クレハはあの笑顔に何度も救われてきた。絶体絶命のときでさえ、彼はいつも仲間を笑わせようとしていた。あんな人が、ただこのまま失われていいはずがない。

 

 ドロンはつらそうに眉をひそめる。彼自身も、グレンを放ってはおきたくないに決まっている。巨大な盾を背負い直し、落ち着きなく辺りを見回した。レナは血の気のない唇を引き結び、小さく頷く。

「わかった。少し休んで、夜明けを待ってから戻りましょう。正面から探しに行けば……もしまだ奴(グリフィン)が生きていても、明るいほうがわたしたちに有利だし」

 そう提案してくれるレナの声には、わずかながら勇気が宿っている。失うものを失ってなお、仲間を探しに行くと決めた意志が、彼女の瞳にひそやかな光を灯していた。クレハはその光を見て、ほんの少しだけ心が支えられる気がした。

 

 とはいえ、荒野の夜は冷酷で、恐ろしい。無理に戻っても傷口が広がるだけかもしれないし、グリフィンが息を吹き返していたら、今度こそ全滅しかねない。それでもクレハたちは、グレンを見捨てるという選択肢を取れずにいた。

 少し離れた場所にある岩の裂け目を拠点に決め、彼らは最低限の手当てをし合う。ドロンの鎧は変形し、内側の継ぎ目からは血が滲んでいた。レナはあまり人目にはつかないが、脇腹に深い擦り傷を負っており、クレハ以上に苦しそうに見える。クレハの足は痛みが酷く、まともには歩けない。それでも誰も不平を言わず、ただ沈黙の中で身体を横たえ、夜明けを待つしかなかった。

 

 空は群青色から漆黒へ、やがて薄闇へと移ろい、気づけば夜露が大地を濡らしていた。睡眠と呼ぶにはあまりにも浅い休息のなか、クレハは何度も悪夢を見た。グレンが手を伸ばしているのに、クレハの足はまるで石のように重くて動かない。彼の微笑む唇から血がこぼれ、いつしかその面影は暗闇の中にかき消えていく。目を覚ますたび、クレハは泣きそうになる声を押し殺した。ドロンやレナも同じように眠れず、ただ天幕もない空の下で、それぞれの苦悶を抱えていた。

 

 やがて、東の空が薄紅に染まるころ、ドロンが立ち上がる。寡黙だった彼が静かな声で言った。

「……戻ろう。遅くなればなるほど、グレンがもし生きていても助けが遅れる……」

 その言葉にレナが頷き、クレハも必死に立ち上がる。足の痛みは今も断続的に襲ってきたが、そんなことを理由に引き下がってはいられない。三人は陽の光が差し始めた荒野を見やりながら、意を決して歩き始めるのだった。

 

***

 

 朝日がわずかに染め始めた戦場跡は、死寂という言葉が相応しい光景だった。気配という気配が消え失せ、かすかな鳥のさえずりすら聞こえない。足下には、ひどく乱れた足跡や、土に深く刻まれた爪痕が散在している。砂煙はすっかり落ち着いて、まるでここで激闘などなかったかのように、乾いた風が草の先を揺らしていた。

 クレハはどこから探せばいいのかわからず、ただ視線を必死に彷徨わせる。荒れ果てた地面には、赤黒く染まった染みが残されていて、それを見た瞬間、クレハの心臓は凍りついたように痛んだ。思わず足がすくむが、ここで止まってしまえば何も始まらない。震える膝を押さえ込み、彼女は前へ進む。

 

 一方、ドロンは広い視野を持つ騎士の目で、地面と周囲の地形を丹念に探っていた。深い戦いの痕跡がある場所ほど、何かが残されているかもしれない。レナも少し離れた場所を、弓を携えながら慎重に捜索している。人を寄せつけない気配が漂う場所だが、それでも捜さなければならない。グレンがもし目を覚まして倒れているのなら、一刻を争うのだから。

 

 やがてドロンが何かに気づいたように低く唸った。彼が指差す先には、人が転がったような跡があり、その周囲には杖の一部らしき木片が散らばっている。見覚えのある装飾がその破片に付いていた。それは間違いなく、グレンが愛用していた杖の装飾だった。

「グレン……!」

 クレハは悲鳴にも似た声を上げ、走り寄る。足の痛みなどもはやどうでもいい。ただ、そこには人影そのものが見当たらない。血の痕はあるが、身体はどこにもないのだ。ドロンもレナも言葉を失い、うろたえたように周囲を見回す。もし彼が死んだのなら、その亡骸はどうなったのか。野生の獣や、あるいはグリフィンが止めを刺して引きずっていったのか。そんな不吉な考えが胸にわだかまり、クレハは激しく頭を振る。

 

「何か、何か痕跡は……!」

 クレハはその場に膝をつき、地面をまさぐるように探す。乾いた砂が彼女の指の間をこぼれ落ち、まるで手が届かない現実を象徴するかのように虚しく飛び散る。つい昨日までは隣で笑っていた仲間を、こうして跡形もなく失ったのだと考えると、息が詰まりそうだった。

 ドロンは重く拳を握りしめ、視線を遠くに投げる。もしグリフィンがここで倒れたのなら、その carcass(残骸)の一部でもあっておかしくはない。けれど、獣の羽や毛皮の破片すらろくに見当たらず、ほんの少しの獣臭だけが漂っているにすぎない。何がどうなったのか、さっぱりわからないままだ。

 

 レナは黙り込んだまま、慎重に地面を探り続けていた。その指先が何か硬いものに触れ、彼女はそっとそれを拾い上げる。そこに残されていたのは、小さな金属片――グレンが杖の根元に仕込んでいた留め具の一部だった。血と砂埃まみれであるそれを、レナはそっと胸のあたりに抱くようにして、目を伏せる。彼女は普段冷静で、どんなに危険な場面でも感情を表に出さないタイプだったが、今ははっきりと打ちひしがれた様子がうかがえた。

 

「生きているかもしれないのに……こんな……」

 クレハは小声で呟いた。あのとき、グレンは自分たちを逃がすために囮になり、一人でグリフィンと対峙した。もしどこかで息をしているのなら、どんな姿でもいいから抱きしめたい。もしもう命がないのなら、せめてこの手で埋葬してあげたい。それが仲間としての、せめてもの務めではないか。

 

 しかし、どこを探しても手掛かりはなく、空しい silence ばかりが続く。ドロンはやがて、疲れ切った声で言った。

「……あいつは、もしかしたらグリフィンごと……全滅したのかもしれん。肉体がどこへ行ったのかは、わからないが……」

 グレンが放った強力な魔術の残滓なのか、あちこちの岩に焦げ跡のようなものが残っている。あれだけの威力を発揮できる魔術なら、状況によってはグリフィンを道連れに爆散してしまった可能性もある――ドロンの推測には、一理あった。

 

 クレハは目を瞑り、頰を伝う涙を隠そうともせず、そっと呟く。

「……グレン……」

 声に出せば出すほど、空虚な響きが自分自身を苦しめる。あれほど身近だった存在が、こうも簡単に自分の前から消え失せてしまうとは思っていなかった。死を意識しないほど、グレンはいつも気丈で、そして頼もしかった。だけど現実は、彼女の安易な想像をはるかに超えて、残酷に、二度と戻らないものを奪っていった。

 

 レナがいっとき遠くの空を見つめ、それから振り返って言った。

「……クレハ、ドロン。ひとまずここを離れましょう。この荒野で、これ以上探し回ったところで、わたしたちが倒れるだけ。グレンの痕跡は何もないし、わたしたちの体力も限界よ」

 その言葉を飲み込むように、クレハは歯を食いしばる。確かに、もはやこれ以上ここに留まっても、血と破片しか見つからないだろう。足の痛みはすでにまた悪化し、ドロンもレナも深手を負っている。今は一度街へ戻り、報告をしたうえで、誰かに協力を仰ぐしかないのかもしれない――わかってはいるが、心がどうしようもなく軋む。

 

「……帰る場所なんて、あるのかな……」

 クレハの呟きに、ドロンは沈黙する。今の彼らにとって、“帰る場所”とはどういう意味なのか、それがわからなくなっている。パーティとは、仲間があってこそのもの。グレンがいなくなった今、彼らの冒険は根本から揺らいでいた。

 

***

 

 それでも人は生きていかねばならない。クレハ、ドロン、レナ――三人はどうにか足を引きずるようにして、近隣の村を目指した。道中、クレハは何度も振り返ってしまう。もしかして今、グレンがふらりと起き上がり、砂煙の向こうから手を振ってくれるのではないか、そんな奇跡めいた妄想が頭をもたげてしまうから。けれど、そこには誰もいない。空しく風が吹き抜け、荒野は不気味なまでに静まり返っていた。

 

 日差しがじりじりと照りつけ、体力は消耗し、三人の足取りは重い。ドロンは何度も立ち止まり、クレハの様子を確かめる。レナが周囲の警戒を怠らず、弓を常に構えている。もし万が一、野党や魔物にでも遭遇したら、今の三人はあっけなく倒されかねないほど弱っていた。

「……つらいな」

 ドロンがぽつりとこぼした声が、クレハの耳に染みる。普段は仲間を励ますことの多い彼ですら、今は重苦しさを隠すことができない。

 

「ただいま……」

 やがて、日が傾きはじめるころ、ようやく彼らは荒野の外れにある村へ辿り着いた。この村にはギルドの出張所や、大きな治療院はないが、とりあえず宿屋と数軒の店がある。通りに面した小さな馬小屋には、地元の人々が飼うロバや山羊が繋がれており、牧歌的な風景が広がっている。少し前なら、この光景を見ただけで心が安らいだかもしれない。しかし今は何も感じられない。どこを見渡しても、そこにグレンの姿はないのだから。

 

 宿屋の軒先で、老婆が花の世話をしていた。その老婆は、疲弊しきった三人を見るや、驚いた顔をして近寄ってきた。

「これは……旅の冒険者さんかい? ひどい怪我をしてるようだが……何があったんだい?」

 クレハが何も言えず俯くなか、ドロンが代わりに事情を話そうとする。しかしどう口にすればいいのかわからない。巨大な魔獣のグリフィンと戦い、仲間を失った――その言葉を発するたびに、グレンの笑顔が蘇り、痛みが加速していく。

 

 レナが短く言った。

「少し休ませてください。金なら払います。部屋を、三人分……」

 老婆は彼女の血に汚れた姿を見て、顔をしかめながらもすぐに宿の奥へと案内する。二階の通りに面した部屋を開けると、そこには粗末な寝台が三つと、小さな机があるだけだったが、彼らにとってはそれで十分だ。クレハは安堵する間もなく、倒れ込むようにベッドに腰を下ろす。ここに来るまでにずいぶんと出血していて、足の痛みも限界だった。

 

 ドロンがクレハの靴を脱がせ、傷を確認する。ずきずきと疼く傷口からは赤黒い血がこびりつき、簡単な包帯では止まりそうもない。それでも彼は、持ち合わせの救急薬と包帯を使って、手際よく応急処置を始めた。うなるようなクレハの声が、狭い部屋に弱々しく響く。

「……こんなにひどく……」

「すまない、クレハ。我が身を守れず……グレンまで……」

 ドロンは自らを責めるように額に汗を滲ませ、クレハの足を包帯で巻いていく。いつもなら彼は周囲を鼓舞するリーダー的存在だが、今はただ沈痛な表情で、クレハを助けることしかできない自分に苛立っているようだった。

 

 レナは部屋の窓辺に立ち、外の通りを見下ろしている。穏やかな夕刻の光が差し込んでいるが、その美しい景色に彼女の心は動かないらしい。彼女は静かに眉を寄せ、まるで何かを押し殺すように震える呼吸を繰り返していた。

 やがてクレハが小さく口を開く。

「……わたし……あきらめたくない。グレンがどこかで生きてるかもしれないって……そう考えちゃいけないのかな……?」

 その願いにも似た問いかけに、ドロンとレナは言葉を失う。あの荒野の惨状を見れば、グレンが生きている確率はきわめて低い。だが、“ゼロ”ではないという思いが、仲間である以上、完全には拭い去れない。

 

 それでも現実は無情だ。レナは視線をそらすことなく、クレハを真っ直ぐに見据える。静かな瞳には、一縷の希望と、深い悲しみが共存していた。

「わたしも同じ気持ち。……でも、わからない。少なくとも、わたしたちには今、確かめる方法がない。だから……」

 彼女はそこまで言いかけ、口を閉じる。何かを飲みこむようにして、そっと俯いた。その沈黙が、クレハにとっては何よりも苦しい。言葉にできない、重い喪失感が空気を覆う。

 

***

 

 夜が訪れても、三人はほとんど眠れなかった。それどころか、クレハは悪夢にうなされ、時折飛び起きては涙を浮かべる。そのたびにドロンやレナがそばに駆け寄り、落ち着かせようとするが、クレハの悲痛は癒えるどころか増す一方だった。

「……グレン……いや……戻ってきてよ……」

 枕をぎゅっと抱きしめながら、クレハは何度も繰り返す。あの優しい笑顔が、まるで幻だったかのように思えてくる。夢の中では、グレンが微笑んで手を差し伸べるのに、クレハの声は届かない。手を伸ばせば伸ばすほど、その姿は霧のように遠ざかっていく。

 

 翌朝、重く沈んだ雰囲気の中、三人は村の人々に事情を説明し、グリフィンについての情報を集めようとした。ところが、どこへ行っても「あの魔獣が倒されたのなら、それはありがたい」という、浮かれたような言葉が返ってくるばかりだ。もちろん、確証はないし、三人も「仕留めました」とはとても言えない。彼らはただ「魔獣には遭遇したが、仲間を失った」とだけ答え、村人たちは気の毒そうに顔を曇らせる。

 そんなすれ違いの会話を重ねるうち、クレハはふと気づく。わたしたちはいま、グレンを失って動揺し、取り乱しているのに、世界は何事もなかったかのように続いている――その事実が、ひどく空虚でやるせない。

 

 ドロンは腕を組み、真剣な顔で言う。

「一度、大きな街へ戻ろう。ギルドで正式に報告をするんだ。俺たちの手に負えなかったなら、ほかの冒険者に協力を仰ぐ必要がある」

 レナもうつむきがちに頷く。

「そうね。グリフィンが本当に倒れたのかどうか……はっきりさせたい。もし奴がまだ生きているのなら、また被害が出るわ。グレンのことだって、情報が出てくるかもしれない」

 クレハは少し迷ったが、最終的にはそれに賛同した。誰かがこのままグレンを待ち続けるのはあまりにも非現実的だし、何より傷ついた今の身体では、またすぐに魔獣に襲われれば命はなかった。クレハは悔しさを滲ませながら、小さく「わかった……」と答える。

 

***

 

 こうして三人は村を出て、街道を一路、大きな街へと進んだ。道すがら、クレハは何度もグレンとの思い出を反芻する。くだらない冗談を言い合い、ドラゴンの巣窟と噂される山に挑んだとき、遺跡の罠にかかった仲間を助け合ったとき……鮮明に蘇る記憶ほど、今の自分を痛めつける凶器となる。

 ドロンもレナも、そんなクレハを慰めるだけの余裕がないようだった。三人とも心に深い傷を負い、体力的にもギリギリの状態で歩みを続けるのみ。ときおり木陰で休憩をとり、わずかに持ち合わせた携帯食を口にしながら、全員が言葉少なに進んでいく。

 

 数日の道のりを経て、ようやく石造りの壁で囲まれた大きな街が視界に入る。冒険者ギルドが大きく構えている場所でもあるが、三人にとってはいつもとまったく違う趣を見せる。いつもなら「さあ、次の依頼を頑張ろう」と胸が弾むはずなのに、今は重い荷物を引きずるような気持ちだった。門番が声をかけるが、ドロンが沈んだ声で応じると、それ以上は何も聞いてこない。三人が皆、暗い表情をしているのを悟ったのだろう。

 

 ギルドの建物の扉を押し開けると、賑やかな酒場のような空気が迎えてくる。多くの冒険者たちがテーブルを囲み、談笑や情報交換をしている。その光景は、グレンと共にここを訪れた日の記憶をまざまざと思い出させる。クレハは思わず息を詰まらせ、肩を小さく震わせていた。

「……もう、グレンはいないんだ」

 その事実を、酒の匂いや雑多な人声が容赦なく突きつけてくる。仲間を失った痛みに浸っていても、この場所はいつもどおり。まるで世界がクレハたちの悲劇など知らないかのように、ひしめき合っている。

 

 受付に向かったドロンは、厳粛な表情のまま書類を差し出し、グリフィン討伐依頼を報告しようとする。受付係の若い女性は、三人の見るに堪えないほどの疲れと傷に眉をひそめつつ、丁寧に話を聞き取ってくれる。

「……グリフィンと戦闘し、パーティメンバーのうち一名が死亡。討伐の確証はなし、ということですね」

 淡々とまとめる彼女の口調が、どこか機械的にさえ聞こえた。現場を知らぬ人々は、いつでもこうだ――とクレハは思う。仕事柄仕方のないことだとわかっていても、胸の奥に苛立ちが芽生える。しかし、その苛立ちはすぐに萎んでいく。何を言ったところで、グレンが戻るわけではないのだから。

 

 続いて受付係は書類を確認し、頭を下げる。

「危険な依頼を引き受けてくださったこと、感謝いたします。グリフィンの件については、討伐確定と見なせない以上、継続的に調査を行います。皆さんはしばらく静養に入られるとよろしいでしょう……お怪我の具合もありますし」

 その言葉に誰も反論しない。ただドロンが一言、「そうする」と答えるのみだった。周囲で待っている冒険者たちは、「彼ら、あのグリフィン退治に行ったパーティじゃないか」「死にそうな顔をしてるぞ……」などと噂しているが、三人は気にする気力さえなかった。

 

 廊下へ出た途端、クレハは力が抜けたように壁にもたれかかり、その場に崩れそうになる。ドロンがとっさに支え、レナが慌ててクレハの手を取る。するとクレハは唇を噛みしめ、痛みをこらえるように俯く。

「ごめん……身体が、もう」

「無理をするな、クレハ……もう宿を取って休もう」

 クレハはその申し出を受け入れるしかなかった。グレンを捜すこともままならず、体力だけがすり減っていく。気づけば三人は、自分たちの弱さを突きつけられ、ひたすら途方に暮れている。

 

***

 

 ギルド近くの宿に滞在を始めたものの、クレハは毎晩、うなされて起きる日々を過ごしていた。ドロンとレナも時折部屋を訪れるが、彼ら自身も回復に専念しなければならず、思うように慰めることもできない。そんな時間が数日続いたある夜、クレハはふと、ひとり宿の廊下に出る。月明かりが差す窓辺に佇み、グレンの名前を小さく呼んでみる。

「グレン……」

 返事があるわけもない。それでも声に出さずにはいられなかった。仲間を失う苦しみはこれほどまでに重いものなのか。

 

 自分自身に情けなくなる。あのとき、もう少しうまく立ち回れていれば、グレンが囮になる必要はなかったのではないか。あるいは、グレンが囮を買って出ようとしたときに、全力で止めていれば――あらゆる後悔が渦巻いて、胸の奥を抉り続ける。誰かに叱ってほしかった。誰かに「そんなのは仕方がなかった」と言ってほしかった。けれど、そんな言葉で本当に救われるのだろうか。

 

 翌朝、ドロンとレナは、ギルドへ向かって再び情報収集に励む。グリフィンに関する新しい目撃情報はないらしく、彼らは宙ぶらりんのまま回復を続けているのが現状だった。クレハは宿の一室で休んでいたが、じっとしていると心が壊れそうになる。あの鮮明な記憶を振り払うように、彼女は意を決して宿を出る。

 何か、グレンの形見になるものでも探せないか――それが勝手な願いだとわかっていても、じっとしていられなかった。たとえ代わりにならなくても、何かしら自分の心を支えてくれる手掛かりが欲しかった。

 

 クレハは足の痛みと闘いながら、商店街の路地を歩く。小さい商店や屋台が並び、人々の喧騒が行き交う。平和で活気あるこの街は、グレンが生きていたころと何も変わらない。変わってしまったのは自分の内側なのだと、クレハは痛感する。あの優しい笑顔をもう一度見ることなど叶わないのだろうか――そんな考えが頭から離れない。

 

 ふと、クレハは露天の片隅で、魔術道具らしき古めかしい杖を見つける。装飾は朽ちかけていて、とても実践向きの代物ではない。それでも、グレンがいつも杖を大切に扱っていた姿が脳裏をよぎり、クレハは自然とその杖を手に取った。砕け散った彼の杖の代わりになるはずもないけれど、目の前にそれを感じるだけで、少しだけグレンを思い出せる気がしたのだ。

 

 店主とわずかな交渉をして杖を買い求めると、クレハは包帯を巻いた足を引きずりながら、また宿へ戻っていく。痛む足と、心の隙間を埋めるように、彼女はそっとその杖を抱きしめた。まるでグレンの温もりが残っているかのような気がして、涙がぽろりと零れる。気づけば人目もはばからず泣いていたが、この街の喧騒がクレハの小さな嗚咽をかき消してくれた。

 

***

 

 日が暮れ、ドロンとレナが宿へ戻ってくる。二人とも病み上がりの顔つきで憔悴しているが、ドロンはクレハに声をかける際、少しだけ表情を和らげるようにした。

「クレハ、少しは休めたか? 俺たちもギルドでいろいろと情報を仕入れたが、グリフィンの追加被害は出ていないらしい。目撃報告もさっぱりだ。ということは、もしかすると……」

 言葉をにごすドロンに、クレハは小さく頷く。グレンが命を懸けて討ち取った、または瀕死に追いやった――そう考えるのが妥当かもしれない。もし本当に倒れたのなら、グレンの犠牲は無駄ではなかったということだ。けれど、それがどれだけ救いになるだろう。彼が戻らない事実は変わらない。

 

 レナが窓辺に立ち、静かに言葉をつなぐ。

「……このまま、わたしたちはどうするの? いまのままじゃ、依頼を受ける余裕もない。クレハの足だって完治にもう少し時間が必要だし、ドロンもまだ痛むんでしょう?」

 ドロンは黙って胸や肩を触り、弱々しくうなずく。あのときの一撃で胸当てはひしゃげ、何度も衝撃を受けていたのだ。レナ自身も、隠しているがろっ骨にひびが入っているようで、時折苦しそうに顔をしかめているのを、クレハは知っていた。

 

「わたしは……」

 クレハが口を開く。少しかすれた声だった。

「わたしは、もう一度、あの場所へ行きたい。足が治って、みんなの傷が癒えたら……グリフィンの亡骸でも、グレンの痕跡でも、何でもいいから確かめたい。もしそこで、何も見つからなかったら……そのときは、グレンの死を受け入れるしかないと思う。だけど、何もしないままじゃ……あの人がもう一度、ひょっこり笑いながら戻ってくるんじゃないかって、どうしても思っちゃうの」

 その懸命な声に、ドロンとレナは目を伏せる。クレハの気持ちは痛いほどわかる。自分たちだって、奇跡を期待したい。だけど、グリフィンとのあの死闘を思い返せば、奇跡を語るにはあまりにも現実が冷酷だった。

 

 それでも、沈黙のあと、ドロンが力強く頷く。

「……そうだな。オレたちだけでもう一度、あの荒野へ行こう。たとえ何も見つからなくても、もう一度だけ確かめに行く。グレンが最後に挑んだ場所を、しっかりとこの目で見届けたい」

 レナも同じように、そっと微笑む。彼女の瞳には、新たな決意がちらりと宿っているようだった。

「じゃあ、それまでに怪我を治しましょう。クレハの足も、ドロンの胸も、わたしの傷も……ちゃんと治して、それから行く。もし、グリフィンの本当の死骸が見つかるなら……ちゃんと報告をしなくちゃね」

 

 クレハは涙を浮かべながらも、必死に笑ってみせる。大事な仲間をこんな形で失った痛みは、一生消えることはないだろう。それでも、今はこの決意が、わずかな支えになる。グレンが守ろうとしたものを、無駄にしないために。彼が大切にしていた仲間という存在を、失わないために。

「ありがとう……二人とも……」

 その言葉は震えていたが、同時に温かさも宿っていた。クレハは胸の奥で、再び強く誓う。グレンが遺した思いを、わたしは背負って生き続けよう。そしていつか、あの場所へもう一度足を運び、彼の最期をこの目で見届けよう。それが、わたしにできる唯一の――そして最善の供養なのだと信じながら。

 

***

 

 こうして三人は、それぞれの深い傷を癒やしながら、グレンを失った世界を日々歩んでいく。現実は無情で、街には新しい依頼や冒険者の噂話が溢れかえっていた。人々は今日も生きるために、明日の糧を得るために動き続ける。

 それでもクレハたちは立ち止まったままではない。重ねた時間の分だけ、少しずつではあるが前を向く強さを身にまとっていく。グレンの不在は、言葉にできないほど大きい。それでも世界は続く。彼が守ろうとした仲間や、守ろうとした人々の暮らしも、こうして営まれているのだ。

 

 もう一度あの荒野へ戻る日が来るかもしれない。そのときこそ、三人はグレンの真実を知るだろう。彼が本当に息絶えたのか、あるいは奇跡的にどこかで生きているのか。疑問は尽きないまま、パーティの空席はぽっかりと空いたまま。

 それでも、クレハ、ドロン、レナ――三人は「生きていく」という苦しい決断を重ねながら、静かに心に誓った。グレンがいなくとも、いつか微かにでも笑えるようになるまで、自分たちは歩き続けよう、と。言葉にならないほどの感謝と罪悪感、そして愛しさを胸に抱いたまま、一歩ずつ、その足を前へと運ぶ。

 

 彼らがいつの日か、再びあの荒野を踏みしめたとき――その荒野は、かつての傷跡を風に吹き消され、何事もなかったかのようにただの大地として横たわっているだろう。そこで三人は、きっともう一度グレンを想う。そして、自分たちの物語を新たに紡ぎ始めるはずだ。彼の不在が、永遠の欠片となって心を痛め続けるとしても、仲間としての絆は今も揺るぎなく、三人の血肉に宿っているのだから。

 

 ――まだ、物語は終わらない。

 グレンという名の魔術師が残した痕跡は、三人の胸に生き続け、その運命を変えていく。何もかもが変わったようで、実のところ、彼らの旅はまだ始まったばかりと言えるかもしれない。彼の遺志を抱いて、クレハは小さな杖をそっと握りしめる。そこに確かに残る微かな温もりは、決して消えることはないのだと信じながら。

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