パパ・アーンショーは不機嫌になった。
やっちまったな、ロックウッド。
間借人のくせして、家主が黙って聞いてりゃあ、あんたの息子は無気力だの枯れきってるだの。
なぜ気付かない。
自称ジャーナリストだったか。
目の前の相手を怒らせて、どうしてネタを吐かせられるんだよ。
それでもパパから、ある程度のことは聞き出した。
大口の仕事をもらっている、ヴィクター博士なる人物から、ヒースクリフを預けられたのだ。
博士はウォアザリング・ハイツのことを熟知しているので、彼はきっと役に立つよと、自信満々だったという。
パパ・アーンショーは、博士がそこまでおっしゃるならばと深くは詮索しないで連れ帰った。
車中で彼とそれなりに対話もしたそうなのだが、その内容を訊くと難しい顔をされるばかり。
ロックウッドは、さきほどの肚いせにいじわるされているのかな、と心の中で考える。
パパの表情がどんどん険しくなっていったので、今日はそろそろ引き下がろう。
学習室へ戻ると、ヒースクリフがブランウェルに三平方の定理を教えていた。
ロックウッドは溜め息を漏らす。
このままだとヒースクリフが跡取りだ。実子のブランウェルは、よくて下僕に甘んじるしかなくなるぞ。
他人の家だから知ったことではないのだが、それにしてもブランウェルよ、もっと闘志を見せたらどうだ。
また溜め息をつく。
外の嵐にくらべたら、観測不能なほどの対流だ。なんと虚しい。
メイドがお茶を淹れてくれたので、休憩にした。
さりげなくヒースクリフに、好き嫌いや自慢話を教えてよ、と絡んでみる。
ヒ「ずっと山の上で暮らしてたから、牛の乳搾りなら得意だよ。
朝、100頭くらいのヤギを放牧場まで連れてって、一日草食わせて、夕方降りてきてそれぞれ持ち主の家に返して回るって仕事を半年ほどしてた頃がいちばん楽しかったな。耳にタグついてるんだけど、どいつにも個性あるから今でも全員の名前当てられると思う。
おれ、学校の先生とか向いてんじゃないかな。
ペーターはハイジのこと好きだけど、ハイジは相手にもしてねえなー、とか毎日眺めてんの面白いじゃん」
君はリヴァプールから来たんじゃなかったっけ?
いまどきどんなに田舎でも、そんな牧畜してないだろう。とやんわり問うロックウッド。
ちら、とブランウェルの表情を窺う。
乳搾り・放牧・学校、それから地名などのイメージを頭の中で具現化できないようで、ぼんやり聞き流している。
ヒースクリフは、リアクションの薄い先輩に対する興味をすぐに失った。ロックウッドの方だけ向いて、身振り手振りで説明を重ねる。
ヒ「それはグラウビュンデンにいた頃の話。博士はドイツ人だから、スイスにも友達多いんだよ。
おれも方々転々としてきて、なんだかこんな地の果てまで来ちゃったけど、世界にゃまだまだ秘境があるもんだね。
幾何なんて習ったの初めてだしよ。めっちゃ楽しい。
カルキュラスっての使えば、こんなデコボコだらけの土地でもすぐに面積出せちゃうんだろ?科学ってスゲェね」
ロックウッドの表情が固まった。
カルキュラスだと?
微分積分のことだろ。そんなの教えちゃいないぞ。第一、僕がわからない。
さっきピタゴラスを説明してたのは、ブランウェルに合わせてやってたのか?
幾何自体が初めて?嘘つくなよ、おい。
この子は、いったい、何者だ……?
おそれていたことは、すぐ現実となった。
ヒースクリフから発せられる質問に、ロックウッドは答えることができない。
するとヒースクリフは「質問の仕方が悪いようだ」と考え、幾度も表現を変えていく。
この過程でどんどん語彙を増やす。
口調はぞんざいで、ブロークン・イングリッシュの粗雑さが抜けないけれど、礼儀正しさを尊びたがるブランウェルの英語より何倍も実用的で、伝わったときのインパクトがデカいからついついそれがスタンダードとなっていく。
マジヤバすぎだろ、こんなの。
溝は深まるばかりだった。
ブランウェルはますます孤立してゆく。
唯一味方になりえたロックウッド先生も、ヒースクリフと話している方が全然たのしそうに映る。
ヒースクリフの、いちいちオーバーアクションでなんとか伝えよう理解してみせようと努力する姿は、対話相手との親密度を爆上がりさせる。
いい子でいなければとプレッシャーを背負うブランウェルには、この壁が越えられなかった。
何も気にしていないかのように振る舞い、静かにひとり考えにふけるポーズをとっている以外に手も足も出せなくなり、出さなくなった。
家族全員が内心困り果てながらその変化を見守るようになる。それでも本人が「大丈夫だよ」としか言わないことだし、うるさく構うと嫌がられるので、そっとしておく方向に落ち着くのだった。
そんなことより、メキメキと成長を示しアーンショー家の一員に馴染んでいくヒースクリフを見ている方がずっとずっと面白いのだ。
だから、溝はますます深まるしかなかった。