それはあなたかもしれないし、あなたじゃないかもしれない。 作:茶漬四郎
人生それなりに生きていると、様々なことについてその真意に気づかされます。私が最近分かったのは「普通」と呼ばれていることの実現がいかに厳しいか、ということです。
つまり、「普通」とは多くの犠牲によって築かれる「標準」であり、そこまでたどり着くのに並大抵の努力では実現不可能なのです。
例えばですが父がいて、母がいる。そんな家庭環境が理想とされていました。そしてそれが「普通」と呼ばれていた過去が長い間存在していました。20も半ばになった頃、同級生や社会に出て知り合った人たちと少し深い話をしていると、両親が離婚していたり、片方の親とは血が繋がっていないなど中々にザラです。そしてふと、私が「普通」から逸脱したのは、ホロ学園に入学してすぐの事だったと思い出すの
放課後の教室では、すでに受験を控えた生徒たちが予備校までの間に各々時間を潰していた。あなたはクラスメイトの秀才であるイケメン君とひょんなことから志望大学について話し合っていた。
「この調子だったら、指定校推薦はもう少し上のランク目指せるな。」
あなたは素直に「ふええ」と声を漏らした。
「もうそこまでいってんのか。」
「高校受験もこんな調子だったからね。」と彼はあっけらかんと返す。
「こっちは一般かなあ。」
あなたが何気なく言うと彼は少し複雑そうな表情をした。
「そうだった、ごめん気が使えなくて。どこ狙うの?」
そう言って少し考えなおしてから秀才君は再び話し始める。
「国立って言ってもなあ…最近は学費高いからなあ。どうだい、防大や海上保安大学校なんてのは。学費かからんし、商船学校なんてのも卒業後の稼ぎいいらしいぜ。」
「嫌だよ。有事になったら国よりも家族守りたいもん。」
「商船学校は大丈夫だろう。」
「バカ言え、戦争になったらわからんよ。」
秀才は黙り込み、「君は頭がいいなあ」とぼやいた。
「そういやモブ男君の話聞いたか?彼女と別れたってさ。」
「えっー!転入生でしょ?先越されたーって嘆いてたのに。ひと夏のアバンチュールってコト…?」
彼はグイッと顔を近づける。
「それがどうも次の候補見つけてるらしいぜ。」
「おいおいおい、プレイボーイだねえ。」
「相手は同じ予備校の人らしい。」
「他校生かい。」
「…チューター。」
「まさかの女子大生!」
恋はいいね、人を豊かにする。なんてモブ男はほざいているとの事だ。いったい彼のどこにそんな自信と魅力があるのか。
あなたの予備校は高校から二駅ほど離れた田舎の方でも栄えた街にあった。ここでは最近同じ系列のバーガーチェーン店ができたらしく、ちょっとしたお祭り騒ぎになっている。しかしあなたはその渦中に入ることはできない。
今日も親から支給された500円玉を握りしめて、夕飯と飲み物を物色する。昔からこの辺りは知っていて有名店の話はよく耳にする。だから息抜きに行って見たいと考えてはいるのだが、資金面でそれがなかなか難しいのだ。牛丼の特盛りではまだ満たされない育ち盛りの胃袋では、多少の一人前では満腹にならないのだ。
しかしラーメンは別だった。
有名中華チェーン店のラーメンは500円払ってもおつりがくる。そしてスープで腹を満たせる。あなたはそこに目をつけた。
「そうだ、ラーメン。今日はラーメンを食おう。」
大きな独り言は静寂な街に消えていった。
以前から行って見たいところがあなたにはあった。
大通りと中道をつなぐ小さな路地にその店はある。赤色の看板が目を引き、四六時中人の流れが絶たないが、行列ができているところを見た事が無い。
近くを通れば常に小麦をゆでる匂いが漂い、「辞めて、食べないで―」というおっとりとした女性の叫び声が聞こえてくる。
噂によればラムで出汁を取っているらしい。
ガラリと引き戸を牽くと、U字型のカウンターの奥に調理場があり、寸胴から立ち上がる湯気とにらめっこしているモコモコとした銀髪のすらりとした女性が立っていた。
「あ、いらっしゃーい」店員である女性は気だるそうな声であいさつをする。
こちらに振り向く彼女の八重歯が見えた。床が油でぬるぬる動く。
「食券どうぞー」
言われるがままに、券売機へと足を進めと「あ!」と心の中で叫んだ。
ラーメン一杯600円からだった。
500円しかない。しまったと思った。
閉じられた引き戸、カウンターには既に水の入ったコップが置かれている。後戻りはできない。それにあなた自身の意地がそこにはあった。
せっかく意を決してここまで来たと言うのに何も得ずに引き下がれるものか。
なので血眼になって券売機を見渡す。すると下の方に100円の商品があった。
「白米か」
気づかれないように小声でつぶやく。そしてその隣に「まかない飯」と書かれた表記があった。値段は350円である。これなら買える。
券を台に置くとそれを手に取った店員は、怪訝そうな表情をあらわにした。しかしすぐに様子を察したのか厨房へと消えていき、すぐさま「まかない飯」なる物を持ってきた。
どうぞ、と置かれたその料理は、茶碗一杯に白米とその上にネギ、チャーシューが乗せられている。ラーメンとはあまり関係のないものだったが、すぐに彼女はもう一品茶碗を出してくれた。そこには茶色に濁った液体がいっぱいに注がれている。
一口レンゲで啜るとそれはスープだった。ストレートにかます鶏ガラの風味に、こってりとした豚骨が後追いする。そしてしょっぱすぎる醤油の味と胃がもたれる油が口いっぱいに広がった。
正直、二回目はないかな、と思って店を出たが、その実腹は7割ほど膨れていた。これはなぜなのか。牛丼よりも力になる。
それから数回、資金に余裕が出来たらそこへ行って「まかない飯」と頬張る日が続いた。
ある日、先客がラーメンと共に「まかない飯」と注文している場面に遭遇すると、それが一種のステータスのように感じられるようになったのだ。
中年太りのだらしない体形に、半分頭皮が死滅しているオヤジが顔をしかめながらハフハフと麵をすすっている。
それは「普通」の最上級であり、資本主義の象徴のように見て取れた。と同時に自らの選択肢を恥ずかしがった。
ここはラーメン屋である。茶碗一杯の白米を食べに来たのではない。
だから次の週、色々とやりくりをして600円を持ってきた。ポン、と台に食券を載せると彼女はにわかにほほ笑んだ。
「お好みは?」
これは事前に調査済みだ。
「麺カタメでお願いします。」
「ハイ、麺カタメね。あ、君学生証ある?」
キョトンとしたあなたは彼女の獅子の様な瞳に能動的に定期入れを出した。
「ウチ、学生は無料で中盛りにしてるの。どうする?」
「お願いします。」
ラーメンはすぐにあなたの目の前に出された。
海苔に御浸し、ウズラの卵。灰汁の様に泡立つスープ。「普通」への一歩だ。
吐く息は感銘を表現するかのように店内に響くと、彼女は少し笑った。
「ようやく頼んでくれたね。たんとお食べ。学生さん。」
ツン、とした人物だと思っていたが、ここに来て初めてその優しさに触れたような気がしてあなたは気恥ずかしくなった。
その時、引き戸が勢いよく開いて白い調理服に身を包んだ高齢の男性が大声を上げて入ってきた。手には状況を飲み込めずに目を回している金髪の女性がガシッと掴まれている。
「オイ!獅白ぉ!オメエんとこの従業員がこっちで飯食ってんだけどどういった魂胆だ!」
思わぬ来客にあなたは麺を口から吹き出した。
ラーメン界隈に境界線でもあるのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。これはつまり、近日中に開催されるラーメン人気投票を控え、ピリついているという状況だった。
「どこで食べようが勝手でしょ。ウチのわためがテロでもしたのかい。」
「勝負を控えた陣営に、相手を送りこむってのが気に食わねえ!」
相手は中華ラーメン屋の亭主、オヤジだった。
「ウチはトラディショナル・ジャパニーズ・ラーメンで勝負してんだ!一杯500円で生き残ってるんだぞ!それをなんだ。おたくのトコはえらい高い金で客から巻き上げやがって。」
文法が違う。
「あれは本家から分派した奴らが勝手にやってることだよ。」
「オメエだって分派の分派じゃねえか。」
あ、これはやばい。
獅白はあくまで表情を変えずに冷静だったが声が高ぶっていた。
「分派だって本家の意思は継いでるつもりだよ。いくら町内の年長者だからって今のはいただけないね。」
ラーメンが延びてしまう。あなたはズルズルと慣れない口で麺を啜り始める。
二人の間でやり取りがされていたが、咀嚼音が邪魔だったのかオヤジから「うるせえ!」と注意されてしまった。
「ウチの客は関係ないでしょ。金払って食べに来てんだから!」
「年下のくせに言い応えするんじゃねえ!」
当時学生だったあなたはこのやり取りがいかに規格外であるかは思いもしなかった。同じ町内の仲間同士、しかも下克上である。この獅白という女性の反骨精神がいかに大きいかを、後になって知ることになる。
ラーメン人気投票は近々駅前で行われる参加費1500円の実食会である。通常通りの量を食し、その杯数で勝敗が決まるというのだ。参加店にはここ「ぼたん屋」とオヤジの経営する「中華一番」がその名を連ねていた。面白いことに、両名とも町内の麺は食した過去があるが、お互いの麺は食べた事が無いのだという。
二人とも息を合わせて「ない。」と一刀両断した場面がツボにはまった。
しかし、わためさん。あなたはその状況で笑ってはいけないだろう。