それはあなたかもしれないし、あなたじゃないかもしれない。 作:茶漬四郎
あなたの耳には恐れていたマリンの発言が、落ちない汚れのように残っています。そして、そのまま時刻は昼近くになりました。杏樹は若干放心状態のあなたを牽いて宝鐘マリンの後をこっそりと着いて行き、創作フレンチレストランへとやってきます。
外壁一面ガラス張りというデザインのおかげで店内の様子が簡単に見て取れました。予想通りこの時間帯はOLやマダムたちが占領していたため、数少ない男女のペアはすぐに見つかりました。
メニューなど詳しく見ずに、あなたは勢いで入店することを決めます。一緒に来てくれた悪友に心の中で「ありがとう」一別しました。当の本人は「ほにゅ?」と首をかしげますが、何も突っ込みません。
「声漏れてるぞ。」
「まじ?」
二人はニカッと笑い合います。
しかし、杏樹はチラッと見えたマリンの笑顔に心が曇りかけました。
お椀を逆さにしたような前髪をさらりと流し、自然な笑みを作る彼女を見て「宝鐘本気じゃん」という言葉を押し殺したのでした。
人と人との縁はタイミングであり、勢いが不可欠である。片方が見つめても、もう片方の気が乗らなければデートどころか交流にすら先に進まない。リスクを考えずにインスタントを求めるならいくらか簡単であるが、そんな無粋な感情は置いといて奇跡的にマッチしたカップルを祝福するのが、去りゆく敗者の正しい姿と言えよう。
内なる感情と向き合うのは鋭痛なる想いであり、それが手元から消えて初めて覚えた感情ともなれば、その痛みは呼吸疾患にも通ずる苦しみなのだ。自分ですら目を見張るほどきれいになった彼女と同じテーブルに着き、その瞳を覗けば自分が映る。そんな権利が何よりも入手困難だということを、相手はわかっているのだろうか。
一緒のテーブルに着いた杏樹が何を考えているのかは、あなたにはわからない。セットでやって来たサラダをチマチマとつまんでいる姿は、性器の無い童貞とはいえ女の子である。
ここで一つ明記しておく。ここでの「あなた」は他の作品の様に惚れている相手は自身が選んだ人間と幸せになるべきという考えを持っていない。常に隙あらば、と言った心構えで多少の強引さを賭けにサイの目を振るのだ。
しかしその出目が良かった試しはなく、今もこうして無職独身になっているわけだ。
ふと、静かになった杏樹へと目を向ける。
彼女は瞳をひどく縮こませて、頬をこれでもかというくらいに膨らませていた。吸い込まれるように二人の視線が合い、そのままテーブルに置かれたポタージュへと目を落とした。
悪い予感がして急いでメニューを見るとその品は季節ものだそうだ。横には小さく「コーン粒入り」と書かれている。
この小さな粒は杏樹にとってあまりにも殺傷力が高すぎたのだ。
そんな杏樹とあなたの尾行はマリンにはモロバレだった。表情はあくまで正面の殿方に向けさせ会話は成立させているが、右耳のみ別の生き物のように機能を独立させて聞き耳を立てる。その目的は離れているあなた達二人の会話を聞き逃さないためである。
頭の巡る血液はまるで二つの台風の様に距離を保って渦巻いていた。カロリーをいつもより多く消耗したのか、舌が甘いものを異様に欲する。
相手の殿方はピチャリと唇を鳴らして「マリンは」と言って会話を継続させようとした。これは二人にとって勝利に近い駆け引きであった。お互い失うリスクの少ない間柄であり、まさに会うにはインスタントが最適だったのである。
しかしどうもやかましいペアが腹立だしい。店員から注意されないところを見ると、マリンが敏感になり過ぎているだけのようだった。
一味の声、あなたが食器を当てる音と会話の内容が恐ろしいほど目立つ。
「杏樹!口こっちに向けろ!ぶっちゅして吸い出してやる!」
は?
マリンの中の空気が止まった。それから目の前の会話はおろか、肝心な声すらうまく聞き取れない。
杏樹が悪のりで女友達に行うのは想像できるが、不器用なあなたがそれをするのだろうか。
気になって相槌が空回りしてしまった。殿方もそんな様子に気が付いたのか、ふと目線を彼らへ向け「騒がしいな」と言葉を漏らした。
しめた、と振り返る彼女はこれで堂々と観察ができると思い好奇心とゲテモノ見たさが混合した表情は複雑にも明るかった。
「お昼からお肉食えるって幸せだな」と杏樹はメインディッシュを一口つまみ、口の中で素材の味を楽しんでいる。
「ローストポークだもんな」とあなたが答えると杏樹はぴたり、と両手の動きを止めた。
「ポーク?ポークってことはこれ豚か?」
「うん」
杏樹の皿にはマッシュドポテトの上に滲み出る赤い液体がさらさらと流れ出ていた。
「なあ…赤いんだけど」
「ローストって大抵赤いだろ。」
「牛は平気っていうけどさ…豚ってダメじゃん?」
豚の生は危険である。杏樹の脳内は警告を発していた。あなたはしめた、とほくそ笑んだ。
「心配なら、貰うよ?」
あなたの助け舟に、杏樹は抵抗無く素直に皿を差し出した。その上に乗っているチャーシューのように丸く形成されたポークを丁寧にフォークとナイフで掴み、それと食べかけの自分の物に重ねた。
「やった、パンケーキだ」と言うあなたのボケも杏樹は静かに受け流す。そして半ば申し訳程度にポテトを頂き、てっぺんへとバターのように置いた。
そしてモグモグと口を動かすあなたは、残念そうにお皿を眺める杏樹に対して種明かしをすることにした。
「ローストポークってね。低温調理の料理なの。」
「ん?」
悪い予感を感じた彼女は目を点にしてあなたを見つめた。
「じっくり焼いてるから生じゃないよ。この赤いのは血液じゃなくて豚のうまみ成分。良く焼けてるよ。」
あえて火が通っていることを二回伝える。
そして「安全安全」とナイフを立てて付け加えた。
「えっ」と小さく声を出した杏樹は状況を理解し、すぐに乱闘へと動き出した。
「返せよっ…返せよッ!俺のローストポーク!」
「うう」と感情が爆発して声にならない嗚咽が吐き出される。
「無職が人権持ってんじゃねーよ!」
「あ!この野郎!ライン超えやがったな。面接受かんねーんだよ!」
マリンの殿方はそんな二人を無表情で眺めている。同じ空間にいるのに様々な感情の中心にいることを実感したマリンは、藁にも縋る思いでポケットの中の「好感度可視化眼鏡」を握る。それからテーブルの上にそっと置くとそれを見た殿方は、似つかわしくない話題を変えるようにマリンに向き直る。
「眼鏡?君の?」
「あはは、伊達なんだ。」
誰に言われるまでもなく彼女はかけて見せると、相手は一言「似合ってるね。」と微笑んだ。
「今日はこれから時間ある?」
マリンは自身が配信者であることを隠している。なので、ミーティングがあることを伝えた。
「この前伝えてなかったっけ?」
「そうだったね、一応確認だよ。」
眼鏡越しに移る彼に数値が現れる。表記は32だった。
男女の会話というのは他愛のない会話であり、悪い言い方をすれば中身がないのである。しかしそれは第三者からすれば「惚気」と受け取られる。これは当事者にとって特段意識していなくても、内容を覚えているかが重要なのだ。
「うん、楽しかった。」マリンの答えは杏樹の問いに対してだった。
陽の高いうちにデートは終わり、海の見える公園で潮風にあたりながら二人の女性は対面している。
杏樹は「でもなんか。」と何か言いたげだ。
「あ?なんだ?」
「相手の男ぉ…ホーショーの言ってたタイプと大分違う気がするんだけど。」
マリンはきっぱりと「違う。」と答えた。
筋肉質でなければ眼鏡をかけたオタクでもない。
背が高く、年齢が上という点だけは一致しているが、彼女は常に言っている「マリンを一番愛してくれる」という条件は当てはまらない気がした。
それは女の勘なのだそうだ。
世の中、数字がものをいう世界。人間関係ですら自己の判断を数字に委ねる。マッチング率やらイイねの回数やら、それらをベースに手にしたのが「ちょっと仲の良い友達」位の深い仲なのだ。そして「仲良くなりましょう」と宣言してから徐々に進行していく関係は、近道のような遠回りのようで、毒が無ければ勢いもないフラットな印象なのだ。もちろん例外はあるし、そこからスタートする人もいる。
実は少し前、マリンは杏樹のいない間にあなたから感情をぶつけられたのだった。
何かしらの行動があるのではないかと内心期待していた彼女だったが、いざ本当にされると驚きのあまり思考が停止してしまった。
「言えよ、あーゆう人がいるってさ。」
あえて曖昧な表現をするあなただったが、言われた側は思わず言葉を詰まらせる。
「何回も誘って、バカみたいじゃんか。」
今まで塩対応してきたせいか、あなたの心が大きく揺れていたことをこの時実感した。マリンは何とか返答しようとしたが、口が思うように動かない。頭も真っ白になった。茶化して「お前がいつまでも無職だからだろ。」とは言えない。それは感情で理解した。今は口にしてはいけないセリフだった。
杏樹はまたも女の勘が発動し、マリンに対して口調を弱める。いや、これは勘と言うよりはあなたの行動を期待してのやり取りなのかもしれない。
「なんか、アイツから言われたの。」
「うん、まあ、難しいなあ。」
「眼鏡かけてみなよ。」
「…これ本当に当てになるの?もう占いとか信じないって。」
溜息と共に声が出て、眼鏡を手に持った。
その時ちょっと離れて鳩と戯れていた当事者のあなたが、マリンに顔を向けた。
「マリン、今日確か配信あったよね。打ち合わせあるんじゃないか。」
言葉にならない返答をして、ごまかすように眼鏡をかけてみた。杏樹を無視してひたすらレンズにあなたを映す。
当の本人はすぐさま鳩を追いかけて行き、こちらを見向きもしない。
数値が出た。72だった。
心臓が一回り大きくなるのを感じる。呼吸は一瞬にして荒くなり、それと比例するように頬が髪と同じルビー色になるのが分かった。
杏樹は「えっ」と驚く。その声を耳にしてか、マリンは速攻で眼鏡を外して、困惑と喜びの交じったクシャクシャな表情で杏樹の目を見た。
「…どうした」杏樹はマリンの顔を覗き込む。
「…カトリーナァ」それは幼女の泣きそうな声だった。
「バカ宝鐘、ここでは加藤杏樹だ。」
マリンは突っ込む余裕がない。
「このメガネ、壊れてるゥ…」
そういってマリンは誰にも顔を合わせないように、そっぽを向いた。
マリンタワーは晴天を突き抜くように堂々と建っている。以前は灯台の役割を成していたが、今や人々の感情を見守る象徴となっているのであった。