それはあなたかもしれないし、あなたじゃないかもしれない。 作:茶漬四郎
町内ラーメン対決の思い出は、あなたにとって初めて「地元」に触れた瞬間でした。それは親が求めたあなたへの「普通」だったのかもしれません。そこからゆっくりとですが、人生は向上していきました。当然と言えば当然ですが、その中心に「ぼたん屋」があったことは語るに尽きます。
数週間ぶりに降り立った最寄り駅は、学生だったころと比べても店は変われど、街並みに大きな変化は見られません。
海と風から吹き込む涼しい風は初夏の暑さを和らいでくれました。その吹き方はあなたを一歩前へ進むのを手伝ってくれるようでした。
一杯のラーメンですら食すのを躊躇しているあなたが、1500円払ってラーメン人気投票へ参加したのにはある人物とのやり取りが決定的に影響した。
その人物とはモブ男である。
彼は例のチューターとの親しいやり取りを暇さえあれば伝えてきた。傍から見れば仕事上のコミュニケーションであるが、当時のあなたにはそこに明確な線引きをすることが出来なかった。故に、意気揚々と語るモブ男の話を素直に聞いてしまい、彼の妄想を止めることが出来なかったのだ。
「マンツーマンでの受験相談」「連絡先の交換」等、予備校へ行くモチベーションが誰よりも高かった。
「で?君は何かないの?」
頬を小山の様に持ち上げたモブ男が、眼鏡の奥からいやらしく目を細めるのが見えた。
あなたは少し押し黙った。一人心当たりがあるのだが、女子大生とは比べ物にならないほど人生経験が豊富であろう。ただそんな思考などどうでもよかった。あなたは今日も「ぼたん屋」に行こうと資金をやりくりしていたのだ。季節外れの中間テストが待っているというのにそれを後回しにしてまで考えていたのだ。
あなたはモブ男に答える。
「今はいないね、あんまそんなこと口にしちゃダメだよ。ツキが逃げていっちゃうよ。」
ラーメン人気投票会は平日の昼間、ひまな学生や家族連れと共に緩やかに開催された。1500円の参加費を払い、好きなラーメンを食す。そして完飲したどんぶりの数で優越を決める。寿命と引き換えに推しラーメンへの愛を伝えるイベントなのであった。
あなたは数日前に礼儀として「中華一番」へとやって来た。下手な変装はすぐにバレ、店主であるオヤジに呆れられたが前回とは違って気さくだったのが印象的だ。
咥えたばこもほどほどに、半開きになった扉から流れ込む風がオヤジの目の細める。
「お前とは、親父の○袋にいた頃からの付き合いだな。」
今の発言は下手をしたらセクハラだ。
「あのぼたん屋とは仲が悪いんですか?」
「いや」とオヤジは言葉を区切る。
「本能的に好かん。」
ぼそりとつぶやいたオヤジを置いといて、あなたは「中華一番」のラーメンをすすった。手に持っていたはずの単語帳はいつの間にかカバンの中へ、無意識のうちにしまっていた。
大会当日、大通りは平日休みの家族や暇な学生でごった返していた。みな我先にとラーメンのどんぶりを空にしている。
「ぼたん屋」と「中華一番」は隣り合わせで参加者を奪い合っている状況だった。双方ともターゲット層は違えども、やはり人気なのだと再認識した場面である。
そして偶然にも運悪くモブ男と遭遇してしまったのだ。
「君も来たのか!」と彼は眼鏡を曇らせニタリと笑みを浮かべる。あまり近づきたくなかったが、適当に相槌を打っていると彼はもう帰るところなのだと勝手に言い出した。
「一杯で腹いっぱいになっちゃった。」
そして「ここで食べればよかったな。」とぼたん屋を指さした。
そこには玉手箱を開けたようにモクモクと舞う湯気を一身に浴びながら麺を茹で、スープをかき混ぜる獅白ぼたんと口を富士山の様に開けている角巻わためがいた。
さてはコイツ、巨乳のお姉さん好きだな。それか輝いている人に惹かれるのか。
「おい、チューターはどうなった。」
あなたは少し焦りを声に乗せて聞いてみる。相変わらずニタリと笑って「まあまあ」と彼は返した。
「俺は明日の試験準備があるから先に帰るよ。」と言ってぼたん屋の二人を気づかれないように見つめながらその場を後にした。
あなたがぼたん屋の列に並ぶとぼたんがすぐに気づいて声をかけてくれた。
「おっ来たね。」
彼女は口角を上げる。Tシャツを緩く着こなし、首にかけたタオルは既に汗でしなやかに垂れていた。
隣で雑用をしていたわためは「ぼたんちゃんのファンが来た!」とネジが緩むような声を上げる。
あながち間違えではないので気恥ずかしそうに頭を掻いたあなたとは対照的に、ぼたんは心配するように表情を緩めた。
「これ参加するために結構頑張ったんじゃないか?」
「えっ?」
「まあ、一杯食べていきなよ。」
そう言って手渡してくれたラーメンは、いつもより熱かった。行儀は悪いが立ったまま麺を啜る。
周囲は騒がしく、祭りを楽しむ人々に囲まれている。そしてなぜか英語が聞こえる。
「どんな感じっすか。」
あなたが言葉を投げかけるとぼたんは小さく鼻で笑った。
「隣のオヤジより、ちょっとばかし後かな。」
隣の中華一番に目をやるとそこにはなんと屈強な男たちの集団が、慣れない手つきで箸を持っていた。
「外国人も来るんですね。」
「あれね、在日米軍。」
「は?」
「ネイビーの若い衆だって。」
「は??」
伝統的な鶏ガラ醤油であるジャパニーズ・トラディショナル・ラーメンの人気は、やはり伊達ではなかった。
ラーメンを許容範囲まで完飲すると今度はオヤジの列へと並ぶ。
「あー、なるほど、ナルトか」そこには普段見慣れない具材がぴょんと乗っていた。
オヤジはあなたに目配せすると、菜箸とカッカと叩いて耳打ちする。
「外人なんかに負けるなよ。」
それはゴーサインだった。てっきり他にも何か言われると思ったが杞憂だったようである。
このオヤジにとって気の好かないライバル店との勝敗は論点ではないのだ。正確には部外者であるあなたには関係がないのだ。これが町内を巻き込んだ勝負事だとしてもあなたは関わりがない。部外者は部外者なりに別の事で勝負をすればいいのだ。
あなたにできる事は、一心にラーメンを食すことだった。
そして相手は軍人の集団である。
勝ち目など鼻から無いのだが、それでも挑むのであれば万人ができない勢いを持って勝負するしかないのだ。
鳥の旨味が沈殿する出汁を啜りながら、あなたは本来のラーメンとは何かを考えた。脳裏に浮かぶのは、一挙にエネルギーを体内へ運ぶ自分の姿である。そしてその姿はぼたんの目にも自然と映り、彼女自身にも自分が何をもってラーメンを食していたのかを思い出させるのだった。
豚骨、鶏ガラ、醤油。このすべては肉体、精神問わず汗をかく労働者にとって必須な要素である。当初の感動は憧れへと移り、その道に進んだのである。
しかしオヤジの作るラーメンは元祖にして至高、基礎にして最強であり、一周回った人間であれば多くが好む活力なのであった。
彼女の複雑な心境は、カランと鍋底で音を立てる豚骨の様に虚しさだけが広がった。
そんな時、あなたは三杯目のラーメンを求めにぼたんの前へと歩いてきた。
「獅白さん」
その姿はまだ頼りなかったが、意を決したような眼差しはそんな感想など投げ捨てるほど鋭かった。
「ぼたんでいいよ。」
「…ぼたんさん」
相手の表情が和らぎ学生らしい無邪気さへと変わる。急に親しみを込められて動揺している様子だ。
「ここのラーメンって、ラムで出汁を取ってるって本当ですか。」
隣のわためがびくりと肩を上げて反応する。それを見たぼたんはニヤリと笑い、油の滴るどんぶりをあなたに差し出した。
「当ててみな。」
怒涛の攻防戦はここから始まった。物珍しさとエネルギーを欲する海軍の人間は、不慣れながらも一口ずつ麺を噛みしめている。肺活量はどこへ置いてきたのか、啜るという行為を知らないようだ。
対してあなたは中太麺すら躊躇することなく喉へと押し込んでいく。欧米人の観察力を侮ってはいけない、彼らはすぐに対策を講じて来るからだ。
彼らはあなたのバキューム呑み込みを見て「クレイジー」とささやいた。まるで落語家がかけそばを啜るように、一切の無駄がないのだ。
丼の数で行けば負け戦だが、熱量はどこにも負けず、じり貧の意地を見せる。
勝手に敵認定していた軍人たちの中には顔を真っ赤にして笑いを堪える者もいる。しかしそんな姿もお構いなしに一心にスープへと視線を向け、自分の汗で塩分の上がった最後のパーツを飲み干した。
そしてぼたんに3杯目を所望する。
彼女を除いて、周囲は唖然とした。オヤジはニヤリと笑みを浮かべた。
受け取った4杯目、トータル5杯目のラーメンを食すには、もはや理性を捨てなければならない。一口啜ると麺が口から吹き出した。
胃がけいれんし、上半身が打ち上げられた魚のようにバタバタと跳ね上がる。「オーウ」という黄色い声援にテンションを上げなければ、もはや意地だけでは戦いきれないまで追いつめられていた。