#24 最初にして最大の勝利とは自分自身に打ち勝つことだ
豪華客船―4階客室。
俺は横たわる一人の少女を前に哲学的思案に耽っていた。
古来から伝わる据え膳食わぬは男の恥という諺は、現代では女性を食事に見立てる差別的側面をもつのではないかとフェミニスト顔負けの屁理屈を捏ねる。
…いや、分かっている。これは詭弁だ。
ジェンダーロールに囚われた先代の負の遺産を臆病な背中を押すためではなく、己の感情を掻き消すために使っているだけ。
「……にゅ……」
弱々しい寝声をあげるだけの無抵抗な彼女。
俺はそんなあられもない姿にどうしようもなく魅惑されていた。
◆
「綾小路君、マジでヤバくない!?」
敵を欺く為にはまずは味方から。
俺の戦略を今更知る事になったクラスメイト達は冷めやらぬ興奮の渦中にいた。
しかし、それは眼下に彫深いクマを浮かべて色濃い疲労を引き摺った重い足取りをアドレナリンが無理矢理突き動かしているだけで。
…控えめにいってゾンビだ。俺はそんな彼女達に囲まれていた。
(ゾンビ✖️美少女は流石にノンシナジーなのでは?)
女性に滅法弱い俺には振り払う事も逃げ出す事も出来ない。
可愛いゾンビに噛まれる事はご褒美だと認識しているくらいだ。ゲームプログラミングの時点でゲーム性は崩壊しているのだ。
「綾小路。少し顔を貸してもらおうか」
だから、今回ばかりは割り込んできた茶柱先生に感謝を示したい。
スマブラに片翼の天使が参戦した時くらいには嬉しかった。
…もしかしたら、俺と茶柱先生はクラウドとセフィロスみたいな関係になれるのかもしれない。…というのは流石に拡大解釈だ。
「ご苦労だったな。正直、予想以上の結果に驚いている。素直に感心した」
「でしょうね。他の先生方の反応を見て察しましたよ。特別試験とはいえ380ptという数字は余りに大きすぎる変化だったと」
人の気配が完全に無くなった船尾で茶柱先生は話を切り出した。
宿願に向けて大きな一歩を踏み出した事がよほど嬉しいのか、声が心なしか弾んでいる。
「ですが油断はできませんよ。今回は相手の慢心に付け込んだラッキーパンチです。次はこうはいきません」
「…つくづく高校生離れした感性だな。だが、謙遜ばかりでなくクラスメイトの賛辞をもっと直球に受け取ってもいいんじゃないか」
夢追人。本当に現実が見えていない人だ。
俺が高校生離れしているように見えるのは、自分の感性が高校生のまま成長していないだけのこと。
「そうですね。なら、今日くらいは甘えることにします」
俺が張り詰めていた気を緩めると、茶柱先生は柔らかい笑みを見せる。
きっと、この瞬間だけを切り取れば生徒と教師の額縁に当て嵌めることもできただろう。
「…なっ、綾小路、どういうつもりだ」
「茶柱先生のアドバイスを真摯に受け止めただけです」
俺は柵に背中を預ける茶柱先生に全体重を預けるようにして倒れ掛かる。
彼女が避ければ俺は海に落ちてしまう勢いで。
彼女は駄目だと理解していても俺を受け止めるしかない。
「俺はクラスのリーダーです。仲間に弱さや甘えを見せればそれは隙になります」
「…だから、私か」
「ええ。いけませんか?」
「…………」
教職を従事する身には肯定できるはずもない質問をした。
けれど、今更否定する事だって出来ない質問でもある。
「先生。頑張った生徒にはご褒美が必要だと思いませんか?」
「…だから、さっき褒めてやっただろう。感心したと」
「あれが飴のつもりならおあずけもいいところです。俺の体は貴方の鞭で傷だらけです。言葉ではなく行動で示してください」
そもそも、あれは労いの言葉ではなく彼女自身の感情が漏れただけだろうに。
俺の視線に根負けして、俺の肩を支える彼女の両手から力が抜けていく。
彼女にもまだギリギリ、原型を留めていないものの人の心と呼べるものはあったらしい。
言い方を変えればそれは罪悪感と呼ぶだろう。
「……分からない。私はどうすればいい」
「可愛いですね。歳下の俺にリードを求めるんですか?」
「私は生徒にご褒美なんてあげた試しがないんだっ。どうなっても知らんからなっ」
俺の肩を支えていた彼女の手が背中に回り、体が密着する。
妙齢の女性の色気に包まれて、桁違いの包容力を実感する。
一方的に抱かれている状況を俯瞰的に見れば、皮肉にも彼女が俺に依存している様相を呈しているが、俺が目と鼻の先の海ではなく彼女の体に溺れそうになっていることもまた事実だった。
「もう一押しあれば、次の試験も頑張れそうです」
「……言ったな綾小路。言質は取ったからな」
茶柱先生は覚悟を決めた声音が聞こえたのと、俺の後頭部に手が回ったのは同時だった。
―むぎゅ。
………茶柱先生が導き出した結論は、奇しくも星之宮先生と同じだった。
彼女も伊達に長くは生きていない。
星之宮先生より男性経験が少なくとも男が喜ぶ行動は本能的に熟知しているということか。
俺の徹夜あけの朦朧とした体に彼女の火照った体温は心地が良くて。
俺は視界だけでなく意識すらも暗転させてしまった。
…………。
Aクラスの特権になんて微塵も興味がないが、Aクラスに向かう過程にあるこの特権は…吝かではないと思う。
◆
敵意や害意を向けられれば、どれだけ体が疲労困憊の状態あったとして飛び起きる。
ましてや、直接体に触れられているなら意思に関わらず反射で反撃するように出来ている。
そのはずだったのに……。
俺の意識が覚醒した時には誰かが既に俺の頭を撫でている最中だった。
「……本当に変な人。無頓着で無関心で無責任。なのに、貴方はいつも勝利の中心にいる。クラスメイトだけじゃなくて茶柱先生まで……、いいえ、きっと兄さんまでもが貴方の力に魅せられてる」
彼女は独り言として昇華しなければ思考を整理出来なかったのだろう。
だから、これを俺が聞いている事は彼女の意図するところではない。
正真正銘、二度目の盗み聞きだ。
「……いいえ、変なのは私ね。格好つけたこの髪を綺麗に丸刈りにして笑うチャンスなのに…、それを無碍にしてる」
(……おいおい)
余りに頓知の効いた宣言に体が震えそうになったが、悟られまいと俺は死体のフリを続けた。
俺の髪に通された綺麗な手に悪意は一つも感じ取れなかったからだ。
「…認めるわ。私の完敗よ。綾小路君」
自分の調和の取れてない心を自覚して、弱さと向き合い敗北を認める。
それを寝ている俺に吐露しているところに彼女らしさは残っているが、ヒビが入った外殻が完全に剥がれ落ちるのは時間の問題だと思えた。
「…………ここは?」
「ようやくお目覚めかしら?寝坊助さん」
光の速度で引っ込んでいた彼女の手の影は寝惚けて見えなかった事にする。
しかし、俺にそれがバレていようといまいと自覚なき行動には変わりなく。
恥じらいを覚えるのは必至で。
起き上がった俺に彼女は捲し立てるように状況を説明した。
「ここは綾小路君の客室よ。茶柱先生が血相を変えて戻ってきたと思ったら、貴方が電池が切れたように倒れたことを聞かされたわ。先生はここまで貴方を運んで、後は私に丸投げして何処かに行ってしまって今に至る」
戻ってきたという表現から読み取るに、恐らくはこっそりと俺達の後を追ってきた堀北に見つかった茶柱先生が迫真の演技で誤魔化したとみるべきだろう。
俺は寝落ちした挙句、そんな面白いシーンまで見逃してしまったらしい。何とも勿体無い。
「案外、貴方も子供みたいなところがあるのね」
「櫛田と無意味に張り合ってた堀北に言われちゃおしまいだな」
和らかく笑いかけてきた彼女に皮肉を返すと、いつものつんけんとした表情に戻った。
堀北が笑うと、素材が持つ可愛さに拍車がかかって心臓に悪いんだよな。俺にはこっちの方が断然落ち着く。
「さて、折角二人きりなんだ。今回の試験の総括といかないか?」
俺はベットから抜け出して、備え付けの冷蔵庫から無糖の缶コーヒーを二つ取り出して片方を彼女に渡す。
彼女が血糖値の上昇を気にしてブラックを好む事はこの4ヶ月の付き合いで覚えてしまった。
「討議と協議は割愛。少しの事実確認のみで審議しよう」
「いいわ。なら私から発言させてもらっていいかしら」
敗北の味を噛み締めた彼女は憑き物が取れたかのように清々しく口火を切った。
失う驕りも誇りも粉々に砕け散った事で、後顧の憂いなく前を向けている。
「今回の特別試験。貴方のテーマは『何もしないこと』だった」
「中々ユニークな切り口だな。その論拠を訊こうか」
「貴方は高円寺君を出稼ぎに向かわせ、クラスの統一を櫛田さんに一任し、私には他クラスのリーダーの特定をさせるように誘導した」
思考の枷が外れたことで、思考が冴え渡っている。
文句の付け所のない分析と着眼点だ。
「けれど、数字だけを冷静に見た時にこの勝利の立役者と崇め奉られている貴方の功績はどこにもないわ」
幸村をリタイアさせて、思い出作りと称して遊び道具の購入も先導して行ったことを踏まえれば、むしろマイナスだな。
「つまり、過程は度外視して結果だけ見れば俺は堀北に貢献度で劣ると言いたい訳だ」
「ええ。貴方はまるで雄蜂よ。狩りをすることもなければ巣を守ることもなく、ただただ雌蜂を求めてほっつき回って遊び惚けていただけ」
「困ったな。その嘲弄を含んだ揶揄を否定できる材料がどこにも見当たらない」
凶暴性ばかりに注目され、生態を見落としがちだが雄蜂は人畜無害な生き物だ。
人間の世界と同じで、毒を持つのは雌だけなのである。
そう考えると、堀北に日常茶飯事のように刺されている俺がアナフィラキシーを発症していないのは天文学的確率を潜り抜けているのかもしれない。
「だが、否定はできなくても前提を覆す事は可能だ」
堀北の論理は無理筋だったが、筋は悪くなかった。
ただ、相手が悪かっただけだ。
下唇を噛みむくれている彼女に俺は言葉を続ける。
「『結果が全て』という成果主義の格言は『過程がダメだったけど、運よくいい結果に繋がった』結果オーライのケースにしか適用されない。つまり今回は適用外だ」
「俺のプロセスには再現性が存在する」
どれだけ理屈を捏ねくり回したところで、結果は降って湧くものじゃない。
卓越した過程によって、齎されるものなのだ。
実際に、手のひらで踊らされた張本人の彼女はそれを痛いほど実感しているだろう。
「…奇想天外の一手ではなく、徹底的な分析に裏付けされた論理的思考。それが打ち出の小槌の正体ということね」
「言い得て妙だがそんな万能な道具でもない。結局は誰がどう振るうかが肝心だ」
馬鹿に知恵は身に余る装備だからな。
沈痛な面持ちを見せる彼女だが、それは視野狭窄から抜け出せた証拠だ。
狭い世界を飛び出て、自分がどれだけちっぽけな存在かを理解したからこその表情。
「異論はないようだな」
「…ええ、審議にうつってもらって構わないわ」
一瞬口籠ったのを俺は見逃さない。
まだ、彼女が俺に面と向かって敗北を認めるのは高いハードルだな。
「なら、お互いに勝ったと思った方を指差す。それでいいか?」
「育ちの悪さが出てるわよ。褒められた行動ではないわ」
「これはまた困ったな。否定できる材料が見当たらない」
親が親なら子も子。
倫理や道徳をまともに教えられた覚えはない。
「なら、これで審議は終了としよう」
「え?」
「堀北の発言は俺を指差す前提でなければ成り立たないだろ?俺の勝ちだ」
鎌をかけられた事に気付いた堀北の悔し顔ときたら、それはそれは傑作だった。
彼女は手に握りしめた珈琲を一気に喉に流し込んで、苦味と一緒に怒りを呑み込んだ。
「性格が悪いわよ」
「自覚してる。だが悪いのは俺じゃない。教育が悪い」
他責志向からくる責任転嫁。そんな軽口のような本音を薄ら笑いで流す。
他人の家庭事情に土足で踏み込むような真似をしない育ちのいい堀北がそこを追求する事はなかった。
俺はベッドの脇にある椅子に腰掛けていた堀北に近付き手を伸ばす。
「堀北。俺がお前をAクラスに連れて行ってやる。クラスの統一も済み、勝つ為の計略は俺の頭の中には既に組み上がっている」
「…一つ訊きそれびれていたわね。貴方はAクラスに興味がなかったんじゃなくて?」
「その気持ちは今も変わらないな」
「なら、どうして?」
立っている俺と座っている彼女。
必然的に上目遣いになった彼女の揺れた瞳を覗き込む。
……まだ、時期尚早だ。
彼女はチグハグな心と体を、敗北のせいだと決め付けた。
勝利の味を知ってもなお、その違和感が拭えない事に気付いた時にその感情の名前を知る事になるだろう。
「実力が足りない中、懸命に戦い抜こうとするお前に心が打たれただけだ」
「……嘘ばっかり」
俺の手を掴んだ彼女の手は、異常なほど熱を持っていた。
◆
豪華客船は4階には女子の客室が並んでいる。
制限はないが、男子生徒がそこに不要に立ち入れば悪目立ちする。
だが、今はそのフロアは無人に等しい。
無人島生活から一転した今、船内の豪華な設備を堪能せずに客室に引き篭もっている人間はよほどの物好きだけだ。
「お待ちしてました。綾小路君」
俺はそんな物好きもとい本好きの椎名ひよりに会いにきていた。
通された客室に同室の生徒の姿はなく、例外なく遊びに出ているようだ。
「紅茶か珈琲。どちらがよろしいですか?」
「なんとなく今日は紅茶の気分だ」
「ふふ。さては昨日寝る前にカフェインを過剰摂取してあまり眠れませんでしたね?」
会う頻度や話す頻度が減ったとはいえ、椎名の観察眼は衰えていないな。
本当に椎名は、俺を理解してくれすぎる。
「まずは特別試験お疲れ様です。紅茶は私の奢りです」
「気持ちは有難いが客船内のサービスは全て無料だろう」
「ふふ。私の気持ちの前では有料か無料であるかなんて些細な事です」
横並びのソファに二人で腰掛けて乾杯する。
ローテーブルには椎名が用意してくれたティーセットと愛読書が何段かに積まれていた。
これが魔法陣なら、椎名はそれによって召喚された少女なのかもしれない。
「……なんだか、ドキドキしますね」
彼女の独特の世界観にあてられて脳内にファンタジーが咲いていると、俺の耳がか細い声拾う。
それはまるで不意に器から水が溢れ出てしまったかのようで、彼女はきょとんとしていた。
「今、何か言ったか?」
「え?私が…ですか?」
難聴系の鈍感主人公のような反応で探ってみるも、手応えはない。
俺は一言一句違わず聞き取れてしまっていただけに、その心境が伝播したように心臓がうるさかった。
「いや、俺の気のせいだった。まだ疲労が取り切れていないのかもな」
「ふふ。あれだけの結果を残されたんです。それでピンピンされていては私達に立つ瀬がないというものです」
静かで柔らかい笑みを浮かべた椎名に釣らせそうになった表情筋を何とか諌める。
笑う時に口元を隠す。そんな楚々とした佇まいが和風美人を彷彿とさせるが、彼女にそんな癖はない。
「謙遜するのが下手なのか、称賛するのが上手いのか分からないな。椎名の活躍がなければ、暫定Bクラスまで上り詰めていなかっただろう?」
今回の特別試験結果を加味したクラスポイントはこうだ。
坂柳・葛城クラス 1140pt
一之瀬クラス 740pt
龍園クラス 790pt
綾小路クラス 380pt
2学期には早くもクラスの変動が発生する予定になっている。
「実は今朝、連絡を頂いた時点で綾小路君に私が関与していたことがバレていると察していました」
「察していたのに、二人で会うことを承諾してくれたのは誤魔化せる自信があったからか?」
「まさか。それは全くの見当違いですよ。もし私が綾小路君に『二人きりで会いたい』と望めば、断られますか?」
「断る訳がないな。親戚の冠婚葬祭があろうとドタキャンして椎名の元に向かう自信がある」
「…お、お気持ちは嬉しいですが、それは流石に親族の方を優先してください。困ります」
俺の中で一親等が椎名より優先されることは、天地開闢によって世界が丸々作り変わるくらいのことが起きない限りは有り得ない。
だが、俺の家庭事情を露ほども知らない彼女にこの気持ちを押し付けて理解してもらおうとするのはエゴだろう。
困り果てたような照れて言葉が出ないような彼女に俺は話題を引き戻して対応する。
「俺が龍園に突きつけた条件はBクラスとCクラスのリーダーの特定によるptの保障のみ。冷静さを失った龍園が弓を引く余地を意図的に残していた」
「コンコルド効果ですね。Dクラスのリーダーを当てれば、失ったものを相殺できます」
「龍園はDクラスを明確に下に見ていた上に、一之瀬との戦いに苦戦を強いられて他クラスの情報収集が疎かになってたからな」
Bクラスが早々にスポットの占有を諦めたことにより、BクラスとCクラスの戦いは熾烈を極めた。
リーダーの出番が無くなれば、リーダーの特定は簡単なことじゃない。
結果、一之瀬も龍園も俺の高円寺を最終日にリタイアさせてリーダーを変更するという戦略には辿り付けなかった。
一之瀬が高円寺を指名してptを失ったように、龍園も同じ末路を辿り共倒れするはずだった。
…椎名ひよりがそれを止めたのだ。
「気付いていたのか?俺の戦略に」
「いいえ。リーダーの特定を逃れる方法が明らかになったのは、砂浜に集合した時に高円寺君の姿がないと分かった時です」
戦略の全貌が見えていないのに、どうして俺の意図だけが正確に汲み取れるというのか。
椎名自身の噓偽りない言葉を聞いているはずなのに、真実はどんどんと遠ざかっているように思えた。
「ふふ。分かりませんか?私は綾小路君が詰めの甘さを見せるはずがないと信じていただけのことです」
「……それでよく龍園が説得に応じたな」
「はい。そこは何とか頑張りました」
握り拳を作り力強く頷いた、したたかな椎名を見て思う。
椎名が何の迷いもなく全幅の信頼を預けた、合理性の欠けた破綻した論理。
その名前を、恋心と呼ぶのではないかと。
…仮説を立てたなら、検証して、証明するまでだ。
「その説得にどれだけ骨を折ったのか想像に容易いな」
「最初は門前払いだったんですからね?誰かさんのせいで腑に充分すぎるほど火が通ってましたから」
楽しそうにくすくすと笑って見せる彼女に疲弊は一切見受けられない。
だが何一つ問題はない。
心体の疲労に関わらず、苦労人は労われるべきなのだ。
「そうか。なら責任を取らないといけないな」
「……え?」
椎名の困惑をの声を華麗にスルーして、体一つ分空いていた距離を詰める。
…なるほど。昨日、勢い任せに俺を抱き寄せた茶柱先生の気持ちが分かった。
相手に寄り添うというのは、中々に勇気がいるものなんだな。
「嫌なら拒んでくれて構わない」
俺は彼女の背中に手を回して、反対側の肩を掴み引き寄せる。
ひ弱な女子であろうと体に力を込めれば振り払えるほどの力で。
「……狡いですね。私に綾小路君を拒めるはずがないじゃないですか」
脱力して俺に体の所在を任せた彼女の頭を膝の上に乗せる。
一般的に言う膝枕というやつだ。
「固いです。綾小路君」
「……それは膝の事を言ってるんだよな?」
「他にどこがあるんですか?」
端正な横顔だけでは真意を伺えないのがもどかしい。
分かってて言ってる男誑しなのか、純粋無垢な天然物なのか。
……いや、どちらにせよ勘繰ってセクハラ紛いな言葉を返した俺が悪いな。
「いや、何でもない。頚椎の支持性が安定するから枕は硬い方がいいんだぞ」
「衒学的な返しで誤魔化された気がしますが、確かに寝心地はいいですね」
「ああ、このまま寝てもらっても構わないぞ」
「そういうことでしたら、子守唄と頭を撫でるオプションもお願いします」
膝枕をする直前は困惑していたのに、すっかり切り替えたのか椎名はしたり顔でハードな要求を重ねてくる。
俺のキャラクター的に出来ないとタカを括っているのだろう。
……やってやろうじゃないか。
「それでは聴いてください。綾小路清隆でMoonlight Serenade」
嬉しそうに控えめに拍手した椎名の頭を撫でながら、俺はアカペラを披露する。
俺は歌い出して早々の一説が、主人公が夜な夜な恋人の家にやって来て門のところに立ってるという女々しい意味だったのを思い出して選曲をミスった事を察した。
しかし、歌い終わって聞こえてきた可愛い寝息にそんな後悔は全て打ち消されたといっていいだろう。
そんな喜びと安堵を固めたような寝顔を無防備に晒す彼女に欲情しかけたのはまた別のお話である。
ギャグオチ失礼しました。
その別のお話は気が向いたらいつか、書こうと思います。
感想等いつもありがとうございます。励みになります