午後8時。第4回グループディスカッション。
龍園は体調不良で欠席だった。十中八九仮病だろう。
これ以上の話し合いは無駄だと切り捨てて、今頃厳正なる調整とやらを暴くのに躍起になっているに違いない。
俺が優待者の権利を一之瀬に売ったところで、残りの4分の3の試験は最終日まで続く可能性が高いからな。
(だが、龍園が仮に優待者の選定に何かしらの規則性も見つけたとしても、n数3のデータでは論証として成立せず、完全には絞り込めない。だからこそ、龍園は俺から優待者の情報を買おうとしたのだ)
(…自身の実力を丁半に委ねる覚悟を決めたようだな)
『龍園は血迷ったようだな。試験を投げ出して損する事があっても得することはない』
『…多分、龍園君はそうするしかなかったんじゃないかな?私達が筆談という手段を持ち込んだ事で、試験に参加して得られる情報はなくなったから』
『それでも、俺には合理的には思えないな。試験に参加しない事は基本的に不利益しかないからペナルティが用意されていないんだ』
『私もそう解釈してる。どうして龍園君がそういう選択をしたのか分からないからもどかしいんだけど、彼が合理的な枠にハマるとも思えないんだ』
『考えすぎるなよ。一之瀬。存外きっぱり諦めた可能性も捨て切れない』
…不毛だな。一之瀬が今の状況が外れ値であると仄めかしている事に気付かず、神崎は一般論を持ち出して答えている。
基本に忠実なのは結構なことだが、その上でイレギュラーへの対応力は備えてなければ話にならない。
『一之瀬の肩の荷を軽くしようとした気遣いなのかもしれないが、それは楽観的すぎるんじゃないか?龍園を甘く見すぎだ』
『…その言い草だとお前は龍園の行動の意味を分かっているようだな』
『優待者を炙り出すことに必ずしも話し合いを介す必要はないからな』
『何を言っている?これは優待者を会話と推理で見つける試験のはずだ』
『優待者を基点としたシンキング能力を問う試験。俺はそういう風に説明を受けたが?』
特別試験の説明を人力でやっている以上、一言一句違わず同じ説明をされているとは考えていない。
だから、教師陣にはここだけは押さえておけというポイントが与えられ、ベースは変わらないような措置が取られているはずだ。
例えば、人狼ゲームの話を持ち出してこの試験を大まかに説明する事。
そして、これは作為的なミスリードでもある。
学校側が与えている情報全てが手放しに信じていいものではないという裏付けだ。
『龍園は恐らく、優待者が何らかの規則性をもって選定されていると踏んで、そのルールの看破を目論んでいる』
『なるほどにゃあ。学校側が公平性とか厳正なる調整とか不自然なワードをチョイスしていたのはそのためか〜』
俺が神崎に思考力の違いを見せつけている時、いくらでも口を挟めた一之瀬はここでようやく会話に参加してきた。
俺が龍園の戦略の中身を語るのを待っていたんだろう。…抜け目がない。
『…いいのか?敵に塩を送って』
『俺達は敵なのか?少なくとも俺の方は神崎達をもう敵とは認識していない。さっきの延長線上で話すなら、俺は俺なりに考えて導き出した答えを既に見せているつもりだ』
『…お前達の試験はもう終わったも同然か。悪い、嫌な言い方をした。忘れてくれ』
『構わない。俺としては龍園なんかよりも一之瀬に勝ってほしいと思っているからな』
神崎を適当にあしらって、俺は話題に出した龍園の策略について再考する。
…彼は気付いているだろうか。いや、気付いてはいないだろう。
真っ当に試験に取り組む一之瀬や葛城の裏をかく自分に自己陶酔して、肝心なところを見落としてしまっている。
もしもブラフではなく、本当に学校側が優待者を意図的に設定していたとするなら、それは学校側に想定された試験への回答だという事に。
そして、それは抜け道でも邪道でもなく、分岐しているだけの用意されたレールを歩いているに過ぎないという事に。
『一之瀬、さっきつけた条件は覚えてるな?』
『うん。優待者を告発するのは今日の0時ぴったりでいいんだよね?』
『ああ。その条件に付き纏うリスクは当然、理解しているよな?』
『大丈夫。分かってるから』
俺は既に一之瀬からpptを受け取っている。
それは龍園が示した破格の対価には遠く及ばないが決して安くはない値段。けれど、交渉すればもう少し吊り上げられるであろう値段。
そこに付け込んで、俺が条件としてつけた3時間のタイムリミットの意味は誰にも教えていない。
一之瀬は俺に全幅の信頼を預けてくれているが、この3時間は龍園や葛城に情報を売り裏切ることが可能な時間だ。
俺のことをよく知らない神崎や津辺としては気が気ではないはず。
だが、彼らは俺を真っ直ぐに信じる選択をした一之瀬を信じている。
『いいクラスだな。俺が入りたいくらいだ』
『うん。私の自慢のクラスなんだ…。って、えぇぇ!?』
さらりと付け加えた衝撃の一言に一之瀬はスマホから顔を上げて長い睫毛に縁取られた目をこれでもかと丸くする。努力と時間を費やせば、円周率を観測できそうだった。
『冗談だ。多額のポイントもらった後に言うにはリアリティがあり過ぎるが冗談だ。俺個人で占有していいptじゃないしな』
『そ、そうだよね…』
すぐに弁解するも、一之瀬の思考は既に還らぬところまで突き進んでいるように思えた。
叶う事はないと分かっていながら、懸命に流れ星に祈っているような悲痛な表情。
その湧き出てくる想いは止まる事は知らず、心からすぐに溢れた。ほんとに来てくれてもいいんだよ?という声にならない声を口パクで伝えてくる。
それはきっと隣にいるクラスメイトには見えず、目撃できたのは正面にいた俺と櫛田だけ。
だが、読唇術でも会得していない限り、それを意味あるメッセージとして受け取ることは出来ないだろう。
(…揺らいでしまうな。本格的に白波千尋と一之瀬を取り合うのも一興かもしれないと思っている自分がいる)
そんな存在しない記憶のような愉快な妄想に浸っていると隣の櫛田が一心不乱にスマホを操作し始めた。
何事だと思って、横目で画面を盗み見ると、『やめた方がいいんじゃない?クラスの男子が全員いなくなった後、適当に抱かれて捨てられるのがオチだよ?』と打ち込んでいる最中だった。
「おい、櫛田」
「………どうしたの?綾小路君」
「誤解を招きかねないメッセージは消しなさい」
「え〜?誤解かな〜?限りなく現実に近い真実だと思うけど〜?」
言葉では説得できそうもない綺麗に作られた笑顔を見て、背に腹は変えられないと俺は判断した。
俺は彼女のその笑顔をコピーして、自分の顔面にペーストする。普段の俺とはかけ離れたその表情は、相撲の奇襲戦法である猫騙しのような効力を発揮する。
格ゲーで例えるなら、➕5フレームの有利状況を作った俺は、ひょいと櫛田の手からスマホを軽々と取り上げた。
「ちょ、ちょっと!かえして!」
「用が終われば、すぐに返すから大人しくしてろ」
俺は櫛田に背を向け我が子を守るかのように、素早くメッセージを取り消し始める。
しかし、俺の忠告虚しく、それを阻もうと櫛田は背中越しに身を乗り出してきた。
…必然的と言うべきか、背中には夢心地のような柔らかさが押し付けられた。
(……ぐっ)
以前、茶柱先生と似たような経験あったのに、奇声をあげそうになった。
過去にしがみついているアラサー女と今を生きる女子高生とではこんなにも鮮度が違うというのか…。
俺は湧いて出てきたそんな邪な思考をすぐに振り払い、出来る限りの冷静を装って、
「櫛田、その凶器を当ててこないでくれ。セクハラだ」
「…凶器?……うわっ、サイッテー。てか、最初からそれが狙いでスマホ取ったって事?」
「人は自分が思いつける範囲でしか人を疑えないんだ。俺をそうやって疑うってことは、俺にスマホを取られるような情報を漏らそうとした櫛田こそ、そういう企みがあったんじゃないか?」
「はぁ?何言ってんの?私にとってメリットなんか一つもないんだけど?」
「そうでもない。異性に触られたいという欲求はノーマル寄りな性癖の一つだ。現にそういう表現をしている文献は少なくない」
「ま、マジで何言ってんの?頭おかしいんじゃない!?」
俺が文献と言ったのは、あからさまにエロを売りにしたコンテンツではないという主張を含めたからなのだが、興奮で顔を真っ赤に染めた彼女にそれを弁解したところで理解は得られないな。
Bクラスの3人も同じことだ。大きく取り乱した櫛田より、俺に驚きを隠せていないのは俺の考えが一般的ではないから。
「純文学にはよく官能的な描写が描かれる。それは何故だと思う?俺は人間というテーマに対してそれがありきたりなものだからだと考えている」
脈絡はギリギリ繋がっている。ただ、それだけ。
いきなり何を語り出しているんだ?とドン引きされたって責める事は出来ない。それが普通の反応だ。
だが、俺の批評じみた意見をそうは受け取らない女の子がこの場に一人いる。
「私もそう思いますよ。綾小路君。ですが、それには正の表現と負の表現が必ずと言っていいほど付き纏います。愛し合っている二人が結ばれる事は正の表現。逆に痛みを伴うDVや強姦は分かりやすい負の表現ですよね」
入学から今にかけて、ゆっくりと積み重ねてきた時間は伊達じゃない。俺達は幾度と言葉1つで夜を越してきた。
深く鮮明に刻まれた俺の記憶から、椎名との感想戦をここに顕現させることは難しくなかった。
この四面楚歌な状況を一人で引っくり返すのは難しいが、この二人なら…。
そう考えた矢先だった。椎名裁判官による断罪が始まったのは。
「ではここで一つ、綾小路君と櫛田さんの場合、どちらの表現を当て嵌めるべきか考えてみましょうか?」
「……椎名?それとこれとは話が別じゃ—」
「ないですよね?綾小路君はそれが人間にとってありきたりなものであると考えているんですから。そして、櫛田さんと綾小路君は人間です」
今からでも俺が実は半世紀先の未来で精緻に作られた人型のロボットという事にはならないだろうか…。ならないな。
「では、この件の肝である櫛田さんに伺います。綾小路君に触れられてどう感じましたか?率直な感想をお聞かせください」
「……ひよりん。そんなの決まってるじゃん。嫌だったよ」
「それはどうしてですか?」
「何故って……。好きじゃない相手に不用意に体に触られて不快に思わない人はいないでしょ?」
「それに関しては同感です。ですが、私には櫛田さんから綾小路君に触れにいったように見えました」
櫛田が表情が曇らせたことに同調するように、事態の雲行きも変わってきた。
…どうやら、椎名裁判官は思ったよりも俺の味方らしい。
藁にもすがる気持ちで椎名に話を振った俺の判断は間違ってなかったということだ。
逆に自分の勝訴を確信して、椎名の裁判に出廷した櫛田の判断は敗着の一手となった。
ふはは、これは俺と椎名の絆を見くびった罰だ。甘んじて受け入れるがいい!!櫛田!!
「それはその時、頭が回ってなかったっていうか…」
「確かに櫛田さんは判断力を欠いてたかもしれません。ですが、そういう時にこそ素は出るものです。あの時の櫛田さんには一切の躊躇がありませんでした」
「…ひよりん。何が言いたいの?」
「櫛田さんは凶器だと言われた事にカッとなってしまっただけで、綾小路君に事故的に触れてしまった事に関しては、恥ずかしいという感情はあれど、不快には思っていないとお見受けしました」
流石の椎名の考察力だが、櫛田の感情を100%言語化出来るわけではない。当たらずも遠からずが関の山だろう。
だから、重要なのはその正確性ではなく、身体的接触が行われたのは櫛田からだったという一点のみ。
俺が唯一持っているアドバンテージを活用して椎名は櫛田の反論を封じていた。
勝ったなガハハ。風呂入ってくる!!
「と、ここまで勝手を申し上げましたが、私はこの件に関して、悪いのは100%綾小路君だと考えています」
「……椎名?」
「綾小路君は櫛田さんに抱き付かれて満更ではなかったはずです。その証拠にこれでもかと人中を伸ばしていた癖して、凶器・セクハラ・性癖などと神経を逆撫でするような言葉で煽っていました。櫛田さんが怒るのも当然です」
椎名の綺麗な掌返しに俺だけでなく、当の櫛田さえも困惑を隠せないでいた。
だが、椎名の言葉が正しいと言わんばかりにオーディエンスであるBクラスの3人が頷いていた。
ミステリアスなのに力強くもある椎名の独特な雰囲気がこの場を支配していく。
「挙句の果てに都合のいい言葉で私を巻き込んで、事なきを得ようだなんて言語道断です。謝ってください。櫛田さんに」
まるで被告人に判決を言い渡すかのようだった。
完全に主導権を握られている。…よもやあの小さな手で握り潰されていると言っても過言ではない。
櫛田の様子を横目で伺うとバッチリ目が合う。こちらも椎名節全開の椎名ワールドを前に呆気に取られているようだ。
彼女の中の怒りの灯火が消えかかっているように感じた俺は、この流れに乗じて収束を図る事が最善手だと判断する。
俺にとっては頭を下げる行為は大した意味を持たない。
「櫛田。その…悪かった。調子に乗った」
「…それで終わりですか?頭の良い綾小路君にしては主語とかその他諸々が抜け落ちているように感じました。綾小路君が感情を言葉に乗せるのが苦手な事は理解してますが、そんな簡素な謝罪では相手に何も伝わりません。いいですか?心を込めるのが難しいなら、その分言葉で尽くすんです」
椎名は大仰な手振りで説明して、誠心誠意とはそういうものですと付け加えた。
上手く歩けない俺をスタートからゴールまで手を引いて、優しくリードしてくれているような感じだ。
…心を込めるのが難しいなら、その分言葉を尽くす。
雷に打たれた気分だった。今の俺にこれ以上ピッタリな解答にはもう出会えないと確信できるほどに。
俺は櫛田に改めて向き直り、今度は頭を下げず、一言一句を彼女の目に残さず置いてくるつもりで話した。
「櫛田。あの時俺は内心焦っていたから本当に下心は無かった。だけど、今思い返してみれば、スタイル抜群で可愛い女の子に抱き付かれるなんてラッキースケベだなとも思う。そんな変態と蔑まれても文句を言えない感情を抱いていたのに、逆に櫛田を変態扱いする事で場を乗り切ろうとした。本当に悪かった」
「……まあ、いいよ。元はと言えば私が悪ノリしたのが原因だしね。……こっちこそごめん」
照れるように、困ったように、笑って許してくれた櫛田は、この流れにおいて最も自然と言える立ち振る舞いだった。
けれど、明け透けに話した俺に対して、あれだけの事をしでかそうとしたのに悪ノリの一言で済まそうとする豪胆さも垣間見えて…。
彼女の表裏が段々と一体化しているような気がした。
「ふふ。やっぱり皆仲良しなのが一番ですからっ。一件落着ということで、これにて閉廷としましょう。傍聴人の皆さん、お耳汚し失礼致しました」
パンと快活に手を鳴らして、椎名は柔らかく微笑んだ。
仲直り直後の俺と櫛田が微妙に気まずくて口を開きづらい事を察してから周囲を軽口で冷やかすフォローまでしてくれた。本当に頭が上がらない。
「…にゃはは。なんか凄いのを見ちゃった気分」
「ていうか、見せつけられたって感じ」
「俺もだ。それに、あんな櫛田は初めて見た」
「いや、神崎君はそんなに櫛田さんのこと知らないよね?分かった風に言うのやめた方がいいと思うよ?」
「……」
津辺の正論パンチラインが神崎にクリティカルヒットしたと同時に、試験終了のアナウンスが鳴り響いた。
いや、神崎にとっては1発KOの判定のゴングだったかも知れない。
……てか、色々あったけどこれ試験中なんだよなぁ。
◆
試験が終わっても、俺は椅子から立ち上がれずにいた。
もう、一之瀬達や葛城一派を見送ってから随分と時が経ったように思える。
この後は、俺の作戦の最後の工程が残っている。
料理で言えば味付けくらい大事な工程で、これ無しでは当然成り立たない。
…けれど何故だろう。
これから起こる事はDクラスの命運を握っている作戦よりも大事な気がしている。
「えっと…、私がいたらお邪魔かな?ひよりん」
「お邪魔というほどではありません。ですが、これからする事は私にとってすごく恥ずかしい事なので綾小路君と二人にしてくれると助かります」
「ふふ。この流れでは私も聞いた方が良さそうですね。私としては二人の行先を見届けたい気持ちで胸がいっぱいで、是が非とも同席したいのですが…」
「坂柳さんは邪魔なので帰ってください。私と根性比べがしたいのなら別ですが」
「まあ、それは魅力的な提案です。三人でこのまま朝を迎えるのも乙かもしれません。何事も経験ですから」
机の下で俺の手を握る椎名の手に力が込められる。絶対に離さないという強い意志をふつふつと感じる。
…椎名にここまで嫌われるやつなんて坂柳くらいではないだろうか。
「えっと…、じゃあ先戻ってるね。綾小路君」
「ああ。他のメンバーに遅れるって伝えておいてくれ」
「…うん。了解」
この後は俺の部屋で今日の結果を堀北や松下、みーちゃん達に報告する運びとなっている。
上手く場を回してくれる櫛田が退室すると、パタンというドアが閉まる音さえ大きく聞こえるほどの静けさがやってくる。
ただこの空間に佇むかのように黙り込む坂柳。
それに対して少し怒っているような雰囲気すら纏う椎名。
(…いや、椎名に話があるから残ってくださいと言われた時から彼女は少し不機嫌だったように思う)
(もしかしたら、坂柳は嫌われているのではなく、ただ八つ当たりされているだけなのかもしれない)
「坂柳。悪いが席を外してくれないか?」
「綾小路君まで私を邪険に扱うんですか?酷いです。私はこんなに綾小路君のことを想っているのに」
しくしくと泣く態とらしい演技を見て、椎名の手にさらに力が込められる。
華奢な手からは考えられないほどに出力が大きい。フォークボールを投げさせれば一級品かもしれない。
「別にお前に動く気がないなら、俺達が場所を変えるだけの話。その選択を取っていないのは優しさだと思って欲しいものだな」
「私の熱い想いをフルシカトなんて寂しいですね」
「その気持ちのベクトルが本当に俺に向いてるなら、真剣に応えるさ。だが、お前が固執してるのはどこまで行っても自分の事だ」
「ふふ。私のことをよく理解されていて嬉しい限りです。ですが、他人に興味のない綾小路君が、どうしてその対象の筆頭である私に対してそこまで理解が及ぶのか分かりますか?」
「訊いてもいないのにお前が身の上話をペラペラ話すからだろう」
何を軸に、どういう日々を過ごし、どんな人格を形成してきたか。それを逆算にできるくらいに坂柳は俺に情報を落としている。
しかし、坂柳が欲している解答はそうではなかったらしく、首を振った。
ウミガメのスープのような水平思考クイズと同じで、完璧に当て嵌まっていても正答になり得ない。
「違います。綾小路君が私を理解できてしまうのは、私と綾小路君が同類だからですよ。魂の形が一緒なんです」
「同類相憐れむとでも言いたいのか」
「憐れみという感情は私達にとって特別ですよ。お互いにたった一人にしか向けることの出来ない感情です。劣情と区別がつかない愛情とは比較にもなりません」
坂柳の言う通りかもしれない。
俺にとって恋愛は独り善がりなものだ。彼女がいる自分を想像出来ないから実現してみたい。恋愛感情というものを理解したい。その先に訪れる自分の変化を体験したい。
本質は坂柳と同じ。経験・知識を己の血肉に変えようとしているだけ。全ては自分の利に帰結するように出来ている。
「そうだな。坂柳の言う事は間違ってない」
「半分正解みたいな言い回しですね」
「ああ。それは今までの話であって、これからは違う」
「三つ子の魂は百まで。変わろうとしている時点で、それは解釈を歪めているだけ。本質が変わる事はありませんよ。貴方なら分かっているはずです」
分かっている。どれだけ理屈を捏ねたところで、結果は揺らがないことくらい。
感情は合理的ではない。ならばと、俺はその非合理すら合理的に変換して解こうとする。…何と浅ましいことか。
手段の段階から間違っていて、自分の都合のいい方に結果を誘導しているだけじゃないか。
自分の事だ。自分が一番理解している。理解と同居していると言ってもいい。
だから、この胸の奥が疼くような苦しみだけが理解できない。
「可愛いですね。まるで理不尽な現実に喚いている赤子のようです。今日のところは綾小路君の惨めを晒してまで足掻こうとするその心意気に負けてあげましょう」
坂柳が杖を持ってゆっくりと出口へと歩き始めた。
俺を小馬鹿にするような捨て台詞一つで自発的に帰ってくれるなら手間が省けた。瞬発的にそう考えてしまっている俺に後から気づいてさらに気分が滅入る。
俺の横を坂柳が通り過ぎる直前、左手の熱がすっと離れる。
「…負けてあげましょう?綾小路君は最初に言ったはずですよ。私達が体の悪い坂柳さんを置いて移動しないのは優しさであると。その優しさに甘えて我儘を言っているのは誰ですか?」
椎名は立ち上がり、坂柳の行手を阻むように立ち塞がる。
…俺への暴言の数々、椎名が黙っているはずないと、少し考えれば分かるはずなのに今の今まで失念していた。
「…聞き捨てなりませんね。私が甘えている?」
「はい。ですがそれは綾小路君に対して限った話ではありません。試験が始まって龍園君や葛城君を煽った時も、坂柳さんは彼等が自分の身体的ハンデを鑑みて、見逃してくれると考えている。これを甘えていると言わないなら何というんですか?」
「弱者の思考です。口喧嘩に勝てないと判断されて、万が一手を出されたとして、私は成す術もないでしょう。ですが、その手段を選ばれた時点で、雌雄は決しているんです。それに、その理屈なら体格差のある相手には何も言い返せないという事になります」
「…違います。私はそんな表面的な話をしてるんじゃないです」
あくまで不遜な態度を貫く坂柳に椎名は苦虫を噛み締めたような表情を浮かべる。
「人は支え支えられて生きているって一番痛感しているはずの坂柳さんが、どうしてそれを当たり前のことにしてしまっているんですか…?」
ここにきて、坂柳の余裕の笑みが初めて崩れ押し黙った。
椎名の指摘に思い当たる節があったのかも知れない。
「自分の事すら理解出来ていないのに、綾小路君に同類だなんて言わないでください。坂柳さんは綾小路君のことなんて1つも理解出来ていない」
「…では、貴方には理解出来ていると?彼の過去すら知らない貴方が?」
「確かに綾小路君のことは分からないことばかりで、知らないことばかりです。でもだからこそ、理解したいし知りたいんじゃないですか。私は坂柳さんみたいに決め付けたりしない。したくない」
感情が先行し、言葉が荒々しくなった椎名の横顔は凛々しく格好良かった。それに、どこか痛快で心にずっと乗せてた重しが消えたような気がした。
「……ふふ、完全に言い負かされてしまいました。立つ瀬がありませんね」
「坂柳。勝ちとか負けとかそういうことじゃないんだと思うぞ。……たぶん」
「…そうなんでしょうね。少なくともその分野では椎名さんに一方先に行かれているということでしょうか」
だから、そういうことじゃないだろ、と思わずツッコミを入れようとしたが、その前に坂柳が柔らかく微笑んで制してくる。
「いつか分かるようになるんでしょうか。私も、綾小路君も」
「しれっと俺を巻き込むなよ。言っておくが俺はもう概要は把握している」
「綾小路君。これは概要とかそういう類のものじゃないです」
椎名の鋭い指摘が飛んできて、俺と坂柳は首をすくめる他なかった。
「それでは今度こそ私はお暇しますね。ごきげんよう…と言っても、もうこの龍グループの試験は終わるので会うことないでしょうが」
「別に試験がなくたって会いに来ればいい。暇な時はチェスの相手くらいはしてやる」
「…さっきの概要という意味が分かりました。女の子の扱いが上手くなりましたね?」
「本音だよ。俺は坂柳の事を気に入ってるんだ。椎名はああ言ったが、俺は似た者同士だと感じている」
「……この言葉に甘えるのは椎名さん的にはアリでしょうか?」
椎名は感情と私情が入り混じった複雑そうな表情を浮かべたが、最終的にコクリと首を縦に振った。
その返事に満足した坂柳が軽い足取りで退室し、ようやく二人きりの時間が訪れ、椎名が俺の隣の席へ舞い戻るようにちょこんと座った。
お互いに言葉を待つような無言の時間が続く。
俺は言葉の代わりにさっきまでの熱を欲するように、椎名の手を取った。
「…綾小路君。私には何もなしですか?」
彼女の熱っぽい視線に、今日の夜は長くなりそうだとそんなことを思う。
最初に書き殴って後から削る書き方を身に付けたい。
※感想、ここすきありがとう。