綾小路は恋がしたい   作:Кудрявка

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#34 一度開けたパンドラの箱は、もう閉じられない

 

 

『…私には何もなしですか?』

 

甘美な響きが脳を巡る。その脳が間違った指令を出したのか、全身に流れる血液がいつもより過剰に分泌されている。

熱っぽい椎名の視線に体を内側からぐちゃぐちゃにされている気分だった。

 

…だからこそ違和感を感じる。いつになく色っぽい椎名に。

 

彼女は基本的に受け身だ。大好きな読書についても、誰彼構わずに語ろうとするわけじゃない。

意思表示ははっきりしているが、自己主張は控えめ。それがこの1学期で見てきた彼女の総評だ。

 

だから、椎名が今、俺に対して前のめりになっているのは、何か未知の原動力が働いているという気がしてならない。そして、俺にはその心当たりがあった。

 

「…椎名、もしかして怒ってるか?」

 

地雷だと分かっていても、俺の知らない椎名がそこにいるなら、踏み込み起爆させる事に些かの躊躇もない。

 

「怒ってません」

「相変わらずだな。嘘を見抜くのは上手いのに、嘘をつくのはてんでダメだ」

「仮に事実だとしても酷いです。本当に怒りますよ?」

「ああ。気の済むまで怒ってくれていい」

「…意地悪です。綾小路君は。ほんとうに」

 

俺の発言の意図を理解した椎名は不貞腐れたように目を背けた。

美しく均整のとれた横顔はその黄金比を崩し、不満が刻まれていた。

 

「悪い。今のは悪癖だな。誘導するような真似をした。…こんな気持ちは墓まで持っていくべきだと思っているが、敢えて正直に言うなら、俺は椎名に一度叱られてみたい」

「変態。性的倒錯者。……好色家」

「……罵られたいとは言ってない」

 

いや、椎名相手なら罵られたくないとも断言できないんだけれどとは口が裂けても言えなかった。

 

こちらが一方的に明け透けに話すことで、相手の心の隙間に入り込むような真似をほんの1時間前に櫛田にしたばかりだ。

そんな一辺倒なやり方を最後の好色家という言葉だけで彼女は赦してくれる。

 

そんな俺の見苦しい内面を全て見透かすかのように椎名はじとりと睨んでくる。まさにレントゲンかMRIにでもかけられているような気分だった。

 

「…ずるい。…その上、卑怯です。怒っている人に対して叱られたいだなんて禁じ手ですよ」

「本気なんだ。それぐらい。椎名に」

「…分かってます。…分かっているんです。だからこそ……、手に負えないんじゃないですか……」

 

椎名の目の熱が、質量を伴ったものへと変換されていく。

それが頬伝って顎先に向けて流れていくのを見届けてから、ようやくそれが涙であると気付いた。

 

泣かせてしまったんだろうかという自責の念に駆られるより前に、綺麗だなんて思ったのは不謹慎だ。

でも、それは仕方ないことだとも思う。涙がこんなに綺麗なものだなんて知らなかったから。

 

「…私、本当に怒ってるわけじゃないんです。ただ、すごく寂しかった。愛していた分、切なくて、侘しくて、悲しかった。…綾小路君。私の事をほんとうに大事に思ってくれているなら、何か言うことがあるんじゃないですか?」

 

考える必要のない問い。いや、考えてはならない問いだった。

椎名に求められている答えを模索するのではなく、俺の言葉で俺の気持ちを紡げばいい。

 

「俺が椎名に抱いているこの特別な気持ちを椎名が大事にしているものに向ける事が出来なかった。ごめん」

 

椎名が愛しているとまで言ってくれた時間。

俺が心の中に強く刻んでいた時間。

二人でゆっくりと大事に築き上げてきた時間。

 

共有財産だったそれを俺は櫛田を誤魔化すためだけに持ち出した。

 

椎名はきっと大切なものを無惨に引き裂かれた気持ちだっただろう。

 

「…本当ならこんな謝罪を迫るような真似したくなかったんです。私、謝罪は赦しを強要するものだって思うんです。なのに、その謝罪そのものを強要するだなんて主客転倒です。傲慢にも程があります。だから、その恥を忍んででも綾小路君を赦したかった。綾小路君に対して感じるこの憤りを鎮めたかった」

 

椎名は感情を言葉で解くの抜群に上手だと思う。

今まで夥しい数のシナリオを前にしても、ただ他人事のように感じていた。

そんな俺が彼女の感情に泥沼のように引き摺り込まれていく。

 

「だって…、今更、綾小路君を嫌いになるなんて無理なんですっ…」

「……椎名」

 

俺の感情の回路は壊れていて、脳を介さずに話そうとすると、彼女の名前をただ呼ぶことしかできなかった。

気の利いた返しも貰った感情の分お返しすることも叶わない。

 

裸一貫となった俺はこんなにも脆いものだったんだな。

 

醜い自分を直視して思わず脱力しそうになる。

椎名はそれを食い止めるかのように繋がったままの俺達の手を持ち上げて、もう片方の手で優しく包んだ。

 

そして、それを自分の胸へとゆっくりと誘い抱え込んだ。

不思議と櫛田の時に感じたような劣情は湧いてこなかった。

 

「…私の胸のずっと奥の方に大事なものを閉まっておく箱があるんです。外側には無骨な南京錠が、中は適切な温湿度で保たれています。埃が被らないように、錆びないように、厳重に管理されてます」

 

とくんとくんと秒針よりもずっと速い速度で刻む音が手からダイレクトに伝わってくる。

椎名の恥じらいや緊張も伝播してきて、やがて俺の心臓も早鐘を打ち始めた。

 

「この箱の鍵は綾小路君が持っているんです。…開けてくれますか?」

「…まるでパンドラの箱みたいだ」

「惨いですよ、綾小路君。私の中に厄災があるだなんて思っているんですか?もしそうなら、三日三晩寝込むかもしれません。大好きな本も喉を通らないかも」

「…意地悪だな。椎名。俺がそんな風に思っているわけないだろ。好奇心を擽られるという一点のみの比喩だ」

「ふふ、分かってます。仕返しです。ですが、文字の上だけで言えばあながち間違ってはいないかもしれません。パンは全て、ドーラは贈り物を意味するって知ってましたか?もし開けるなら、好奇心だけでなく覚悟も持ってくださいね」

 

俺がさっき特別なタグをつけずに感じたままを言葉にしたのはこれが恋愛感情だと決め付けるのは早計だと思ったからだ。

俺達はまだ出会って半年も経っていないのだ。椎名のような魅力的な女性に惹かれるには十分な時間だとも取れるが、それでもだ。

 

俺は女性に対して経験が無さすぎる。椎名と同じくらいの時間を別の女性と過ごせば同じ感情を持ってしまうかもしれないと懸念している。

 

けれど、彼女は違う。

 

椎名はさっき俺に合わせて、嫌いになんてなれるわけがないと言葉を濁して伝えてくれたが、きっと答えはずっと前から決まっていたのだ。

 

そして、その直球すぎる想いはこの箱の中にぎゅうぎゅうに詰まっている。

 

「狡くて卑怯なのは椎名の方も同じだな。こんな物騒な鍵、いつ俺の懐に忍ばせたんだ」

「違います。綾小路君が勝手に持っていったんです。不法侵入に窃盗。前科二犯です」

「一度に複数の罪を犯しているなら、有罪判決を受けるのは一度だけじゃないか?」

「むぅ。屁理屈です。大事なのはそこじゃないはずです。綾小路君はとんでもないものを盗んでいきましたってところです」

 

…いや、そんなどっかのポンコツ警部みたいなことは言ってなかった気がするけどな。

 

「…それより、私だって恥ずかしいんですよ?…女の子をこんなにも待たせるのってどうなんでしょう…?」

 

言われてハッとする。制服一枚隔てただけの椎名の胸の感触が急に生々しく感じられて、身体感覚が研ぎ澄まされていくような気がした。

 

身の危険を感じた(本当に身の危険を感じるべきは彼女なのかもしれないが)俺は極力手を硬直させたまま、ゆっくりと手を引き抜く。

 

彼女の手は抵抗を示すことなく解放してくれた。

 

「……いや、やっぱり椎名もズルいよ」

 

そんなどっち付かずの返事をした俺だったが、すぐに覚悟を決める。

もう、目の前の彼女を泣かせるような選択肢だけは取れる気がしなかった。

  

「そんなこと言われて、俺が椎名を拒めるわけない」

 

一度離した手を掴み直して、ゆっくりと引き寄せて背中に手を回す。

椎名もすぐに応えるように俺の背中へと手を回した。

弾けるような笑顔に、俺まで満たされていく気がする。幸せをお裾分けされているような心地だ。

 

「…うれしいですっ……。私、ずっとずっと、こうしたかったんです」

「椎名。俺もだよ。この地に足のつかない感情で応えるには不純かもしれないけど」

 

椎名を抱擁してる今の俺でさえ、感情の縁をなぞったポーズを取っているだけかもしれない。

だから、真っ直ぐに自分の感情を向けてくる彼女が少し羨ましかった。

 

「綾小路君。私を大切に思ってくれる気持ちは本物なんですよね?」

「ああ。そこだけは自信を持って言える。今回の件を経て、椎名が大切にしているものも同じくらい大切にしたい。そう本気で思っている」

「だったら、感情の名前なんて気にせず、堂々としてください。きっとその感情の名前を探している間に、私を好きになってます。いえ、虜になって、私なしでは生きられない体になってるかもしれません」

「……それは少し困るな」

 

もしかして、椎名があの時に問うてたのは一生を添い遂げる覚悟だったのだろうか?

…だとしたら、重すぎるかもしれない。俺には到底抱えられないほどに。

 

バッドエンドが決まってる恋愛コメディなんて誰も手に取りはしないだろう。

 

「私は綾小路君が私への気持ちについて真剣に考えてくれてるだけで飛び跳ねるくらい嬉しいんです。それを忘れないでくださいね」

「ああ。肝に銘じておく。そして、俺はこの感情について考える事をやめないと誓っておく」

「ふふ、嬉しいです。もし、まだ自分が納得できていない中途半端な気持ちで私の告白を受けた事に後ろめたさがあるのなら、罰を与えなきゃなぁと考えていたところでした。無用だったようですね」

「……罰?」

 

椎名は少し考えるような素振りを見せて、照れ臭そうに笑って言う。

 

「…はい。…私のお願いを叶えてもらうという体で、…その、名前で呼んで欲しいなと…」

「ひより。それは罰じゃなくてご褒美って言うんだ」

「…うれしいです。…清隆君」

 

全身から伝わってくるひよりの体温が心地良い。

このまま抱かれて、溶けるように眠ってしまいたい。そんな風に思ってふと時計を確認する。時刻は23時を回り始めたところだった。

 

(…今からなら、まだ作戦を遂行できる時間がギリギリある)

 

(けれど、ひよりの胸の中で眠る幸福に比べたら、そんなことは瑣末な事だ)

 

 ——バタンッ。

 

突然、部屋のドアが無遠慮に開く。

と思えば、続いて無遠慮な声が飛んきた。それはまるで、部屋の中で行われた事を一部始終把握してたかのような振る舞いだった。

 

「はい。はい。いつまでそうしてるつもり?綾小路君にひよりん」

「あ、櫛田さん。…ごめんなさい。清隆君を独占しちゃって…。この後用事があったんですよね?」

「別に謝らなくて良いよ。ひよりん。私としては、大事な友達二人が付き合った記念とかで盛大にパーティとか開きたいし、もっと言えば、インスタに二人のイチャイチャカップルの日常とか載せたいくらい」

 

…なんか、そういうカップルっていつの間にかインスタの投稿が全部消えてて、周りからはうっすら破局をネタにされる風潮がある気がするんだが。気のせいだろうか。

 

「でも、もう時間ないし。堀北さんとかうっすらキレてるし。だから、綾小路君借りてくね。…ほーらっ、いつまでそうやってんの」

 

椎名にしなだれかかるようにしていた俺を櫛田が無理矢理に引っ張って、引き剥がしていく。

 

あぁ……、俺のmy bust placeがぁ……。

 

「櫛田さん。心配には及びません。元より、私は清隆君を独占するつもりはありませんから。清隆君だけじゃなく、清隆君が大事しているものは全て愛したいと思ってますから。それが例え、女の子であっても」

「…ひよりん。変わったね。恋する乙女は変わるってやつ…?」

「ふふ。そうかもしれません」

 

通信交換進化がぼっちに厳しい話だというのは通説だが、恋するのが進化条件だとするなら、それは炎上するレベルの特殊進化ではないだろうか。

ほら、ポケモントレーナーってサトシ以外基本モテないし。

 

「いい加減にちゃんと歩いてくれない?綾小路君」

「む、櫛田に飼いなされているような構図で廊下を横断するのもユニークだと思ったんだが」

「はぁ…?……綾小路君は多分、恋で退化するタイプだね。頭まで蕩けてるよ?別れたほうがいいね。今すぐ」

 

もしそれが原因で俺が堕落の道を歩めば、ひよりが悪いみたいになるか。それはよろしくないな。そう思い直して、俺は気合を入れ直す。

特別試験に関してもやれることはやっておくべきだろう。ひよりのためにも。

 

『もう少しここで余韻に浸っておきたいんです』と堂々と惚気たひよりを部屋に置いて、俺と櫛田は部屋から出た。

すると、開口一番に

 

「…綾小路君。馬鹿じゃないの?何で彼女作っちゃうわけ?前に言ったよね?モテたいなら特定の誰かと付き合わない方がいいって。しかも、舞い上がっちゃってさぁっ。バッカみたい!!」

「ぐ、仕方ないだろう。俺にとってはひよりが初めての彼女なんだ」

「うわぁ〜、付き合って早々名前呼びとか恥ずかしくないの!?」

「恥ずかしくないな。ひよりを大切に想っている気持ちも隠すつもりはない。むしろ、誇りに思っている」

「…マジで重症だね。気付いてないの?ひよりんはCクラスで綾小路君はDクラス。これってある意味、禁断の関係でオープンにしない方がお互いの為だと思うんだけど?」

 

…一理ある。将来的には同じクラスで共に過ごすという構想を描いていただけに、完全にその事実を見過ごしていた。

 

この関係が龍園に知れ渡るのはあまり宜しい展開とは言えない。俺の明確な弱点だからだ。

 

とはいえ、ひよりがそれを隠し通せるとは思えないので、それ前提で立ち回りを考えるしかないわけだが…。

 

「……ほんとっ、何で付き合っちゃうかな……もうっ」

 

櫛田が独り言のようにボソッと呟いた言葉を聞き直そうとした次の瞬間、彼女は俺の背後に周り飛び乗ってきた。

首元に腕、腰には足が回され、仕舞いにはむぎゅっと俺の肩付近で柔らかい何かが押し潰れている気がした。

 

「あんたを探し回ってたら歩くのに疲れた。足痛い。おんぶくらいはする義務はあると思うけど?」

「…そんなことよりいいのか?さっき散々文句言ってた割に、胸が当たっているんだが」

「別に減るもんじゃないし、まぁ、いっかなって。てか、こんなんに幸せ感じるなんてほんと男子ってバカだよね〜」

「櫛田に言ったラッキースケベのラッキーはそういう意味じゃないんだか…、ていうか、無駄に押し付けてこないでくれ」

 

布越しとはいえ、下着のワイヤーの位置くらいは特定出来てしまいそうだった。

櫛田は完全に開き直ったのか、俺の反応を弄ぶようにお構いなしにぐいぐいと押し付けてくる。

 

「どうしたのかな〜?黙っちゃって。もしかして、反応しちゃった?」

「背負い投げするぞ。こら」

「あはっ、冗談じゃん〜。それより、早くしないと時間になっちゃうよ〜。ほら、はやくはやく」

 

まるで競走馬のお尻を叩くように背中を叩いてくる櫛田に大人しく従って、歩を進める。

彼女に対して申し訳ないという気持ちが多少はあったし、時間が残されていないというのは本当だったからだ。

 

「…このまま茶柱先生のとこまで直行するけどいいんだよな?」

「え?全然良いけど?」

 

いいのかよ!!全くもって、他人に見せるべき格好ではないと思うんだが!?

 

 

 

 

『龍グループの試験は終了いたしました』

『兎グループの試験は終了いたしました』

 

午前0時ジャスト。

締め切り間際に原稿を提出する漫画家のような滑り込みで、何とか予定通りに作戦を終えた俺は、胸を撫で下ろす。

ひよりのためだと思うといくらでも頑張れる。家族の為に出稼ぎに出ている旦那の気持ちが少しわかった気がする。

 

「……待て。何を一仕事終えたみたいな顔をしている。こんな時間にこんな案件を持ち込んでおいて、私が本気を出していなきゃどうなっていたか」

「酔っ払っているにしても、本気を出すとか中学生男子みたいなこと言わないでください。それに教師なんですから、俺みたいな可愛い生徒の頼みには粉骨砕身して働いてもらわないと困ります」

「相変わらず口が減らないな。お前のどこに可愛げがあるんだ?」

「これは失言でしたね。どちらかといえば茶柱先生の方がまだ茶目っ気がありますもんね」

「………つまらん冗談はいい。用が済んだらさっさと帰ってくれ。これ以上は知恵が良からぬ想像を働かせそうで面倒だ」

「引き止めたのは茶柱先生ですけどね。お酒は老化を促進させるので、適量を心得た方がいいですよ」

 

俺はそんな余計な一言を茶柱先生に忠告してその場を後にする。

俺と茶柱先生の関係性はこんな風に鍔迫り合いをするような距離が丁度いい。

 

一度上下関係をはっきりさせてしまうとそこから抜け出せないだろうから。

 

「よく分かんないだけど、こんなことして意味あるの?」

「意味があるかどうかは分からないから、意味があるんだ」

「…日本語大丈夫?酔ってる?」

 

なんか今日の櫛田はいつにも増してナイフの切れ味がすごいな……。

 

「…ふぅん。まあ、別にいいんだけど。私としては何でも。それよりこの後どうするの?」

「松下や堀北に説明する必要はあるだろうが、こんな時間だしな。日を改めさせてくれって連絡した。幸い、明日はインターバルで完全休日に設定されているからな」

「でも、堀北も松下も綾小路君の忠誠な僕って感じだから、部屋で草履温めて待ってるかもね」

「…それは少し面倒だな。色々と文句を言われるのは目に見えている」

 

櫛田への返答に間があったのは他でもない。

草履を温めるとはよく聞く昔の表現だが、現代に生きる松下や堀北がそれをする場合、具体的にどこの部位で温めてくれるんだろうと沈思していたからだ。

 

……櫛田の言う通り、俺はひよりとの関係値が進んだ事で人間強度が落ちているのかもしれない。思考が原始人まで退化している気がする。

 

「…じゃあ、私の部屋くる?堀北も松下もいないけど」

「いや、その二人がいなくてもクラスの人間が他にいるだろ」

「…ふぅん。問題視するのはそこなんだ。なら、もしも私と二人きりだったらノコノコ付いて来てたってこと?」

「意味のない仮定だ。考える必要性すらない」

「でもさ……」

 

隣を歩いていた櫛田が言葉を切って、すっと距離を詰めてくる。柑橘系の香りを纏う髪が視界の端で舞い、頬を掠めた。

 

「胸。ひよりんより大きかったでしょ?」

 

不意打ちのように囁かれてドキリとする。事実どうこうではなく、すぐにあの感触がフラッシュバックしたからだ。

…今の妙な駆け引きはこの一言の威力を最大化するためだけのものか。

 

「…重要なのは大きさじゃないと思うけどな」

「へぇ、じゃあ何が大事なの」

「触れるか触れないかだ。それがなきゃただの幻想だ」

 

俺の下衆な発言に、うわ、サイテーなんて反応でこのくだらない問答は終わるものだと思っていたのに、一向に彼女の反応が返ってこない。

 

攻めすぎた発言にドン引きしてそれどころではないのかと、櫛田の様子を伺うと腹を括ったような目を浮かべていた。

 

「…別に、私の方だって触れると思うけど?」

「流石に笑えない冗談だ。誘惑するのはよしてくれ」

「そ、そんなんじゃないって!さっきも言ったでしょ。減るもんじゃないって。私からすれば大したことないもので、綾小路君が勝手に恩を感じてくれそうってだけ。ほ、ほらギブアンドテイクでしょ。私たち」

 

早口で捲し立てる櫛田からは、焦りと動揺以外の感情は読み取れない。

事が終わって、蓋を開けた時にハニートラップでしたみたいな線は消えたと言っていい。

そう確信が持てるくらいに今の櫛田は素だった。

 

「怪しいな。何を企んでいる」

「そ、そんなに疑うんなら録音でもすれば?…なんなら、綾小路君にそういう趣味があるなら、録画でもいいけど?」

 

俺の知らないうちに悪い魔物にでもエンカウントして変な呪文でもかけられたのかと疑ってしまうくらい、今の櫛田はどこかおかしい。

表情は取り繕っているが、テンパっているという表現が適格だ。

 

…録画なんてしていいわけないだろ。証拠能力を失うだけの自殺行為だそれは。

まあ、証拠能力を棚に上げて、別の行為に転用できる汎用性を鑑みればそれも悪くない選択肢な気もしてくるが…。ってそんなわけあるかっ。

 

思わず脳内で陽気なノリツッコミをしてしまうくらいには、俺にもそのテンパりが伝染し始めていた。

 

「櫛田。場所を変えよう」

 

この話がどの方向に転ぶにしろ、こんな一目のつく廊下でするべきではないと判断した俺は廊下の端にある緑色に光る非常口を指差して言う。

櫛田は生唾を飲んだ後、無言で頷いて俺の後をついてきた。

 

その何も言わずに俺に従う姿や唾を飲み込む喉の動きすら婀娜っぽくて、揺さぶられる。その生唾にどんな意味が含まれていたかなんて考えることも出来なくなるくらいに。

 

本当に何のことだが分からないんだが、もしも俺に弾道というステータスが存在していたら、今日蓄えた経験値は着実に反映されていて、今打席に立てば、地区予選の会場規模ならホームランは軽く打てそうだった。

 

重い防火扉がキィーと音を立てて閉まる。この踊り場は上にも下にも階段が繋がっているのに、何故か密室空間であるように感じた。

 

「櫛田。先んじて言っておくが、俺は恩も有り難みも感じたりしない」

「…別にいい。さっきはそう言ったけど恩なんてほんとはいらない。…あんたが言ったんでしょ?……異性に触れたい触れられたいと思うのはノーマルな欲求だって。…もう、それを満たし合えるなら、それでいい…」

「…痴女みたいな発言だな。もしくはビッチ」

「同じ意味じゃん。でも、そんな野蛮な目付きで言われても、全然効かないし」

 

表でも裏でもなく、素の櫛田の新しい一面を開拓してみようと、意図的に刺激してストレスを溜めていた。

だが、まさかこんな形で爆発するとは思わなかった。

 

もうどうしてこういう話の流れになったかも思い出せないが、いくとこまでいかないと終われないだろう。

 

「目を瞑って後ろ向いて、背中の方に手を回してくれないか」

「ん。別にいいけど。…これは何で?」

「こっちの方が興奮する」

「…マジ、変態じゃん」

「お互い様だな」

 

櫛田は簡単なリクエストに答えるかのように言う通りにしてくれる。

背中の後ろに手を組み背筋を伸ばす事で、さらに胸が強調される。突き出されたそれはまさに対男性に特化した戦闘兵器のようだった。

 

「本当にいいんだよな。櫛田」

「しつこいって。そういうのもう訊かなくていいから」

 

俺の煮え切らない態度に苛立ちを感じているのか、櫛田の声には怒気が含まれていた。

けれど、彼女はすぐにそんな自分を諌める。そして、半身捻って顔だけこちらを向けて微笑んできた。

 

「…男見せてよ。清隆」

 

…これでイーブンかな。ひよりんに先を越されたくないしね。という小さい声も後に続いたが、俺にはもうそれをしっかり聞いて、脳で咀嚼する余裕はなかった。

1秒でも早く、今の状況にケリをつけなければ、この淫な欲情の逃げ道が塞がってしまいそうだと思ったから。

 

櫛田が目を固く閉じたのを見て、俺は彼女のそれに手をかけた。

 

パチッと彼女の背中から、軽快な音が響く。

そして、それはスルリと櫛田の制服から流れ落ち、床に着弾した。

 

「…ッッ!!?…は、はぁぁ!?あんた何してんの!?私はそこまで許可した覚えはないんだけど」

「そこまでって何だ?むしろ、俺はここまでしかやるつもりはない」

 

両手を上げて素知らぬふりをする俺を見て、会話する時間も惜しいと言わんばかりに櫛田は自分の胸を抱えるように抱きながら、いそいそと床に落ちてしまったそれを取り上げる。

 

まるで逆再生動画のように制服の下に滑り込ませて着け直していく様を見て、器用なもんだなっと思ったが、途中で苦戦し始めた。

 

「ホック、俺が留めてやろうか?」

「…どの口が言ってんのよ。外したのあんたでしょ……」

「櫛田の余裕を崩してみたくなったんだ。慌ててる時の方が数倍可愛いからな。ほら、すぐ終わらせるから後ろ向けって」

「……もうっ。…童貞の癖に、ブラの付け方なんて、どこで学んだわけ?」

「無人島試験ですり替えた時だな。悪いとは思いながらも、未知の構造を前に探究心が勝った」

 

手早くお色直し済ませ、背中をパチンと軽く叩くと櫛田は振り返って睨んできた。

ごみょごみょと口を動かし、文句の一つでも出るかと思った時、

 

「…や、やめ……もう、やめてッッ!!!」

 

途切れ途切れで懇願するような声が非常階段に反響した。

第三者の声に反応してすぐに居住いを正した櫛田と目を見合わせる。

 

「今の声は軽井沢か?」

「……多分ね。にしては荒れてたけど」

 

すぐに行った方が良さそうだと結論付けた俺達は声がした階下の方へと足を進めたのだった。

 





またもや約一万文字です。ご容赦を。

個人的、34話のお気に入りポイントはmy bust placeです。

※感想、ここすき、誤字修正。マジで感謝〜
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