前半 可愛い 後半 可哀想
「最近はミステリーばかり手に取るようになりまして。もし、これは読んでおくべきだという一冊があれば、教えていただけませんか」
「…参ったな。これは『読者への挑戦』もかくやという難問だ。少しばかり、考える時間をもらいたい」
「清隆君、大袈裟ですよ。どうか肩肘張らず、忌憚のないところを聞かせてください」
たかが一冊。されど一冊。
柔らかく微笑んだひよりの言葉に甘え、脳内の本棚から無難な作品を羅列してお茶を濁すのは、読書家としての矜持が許さなかった。
ましてや、これは恋人になってから彼女に贈る、最初の一冊でもある。
ここで妥協をするくらいなら、伊吹に頼んで本当に性転換する道を選ぶ。それくらいの覚悟を持って臨むべきだ。
E=mc²。エネルギーは無から生まれない。
俺は脳をフルで稼動させる為に、珈琲に手を伸ばした。
だが、口元へ運ぼうとしたカップは見事なまでに一滴も残っていなかった。
「伊吹、追加の珈琲を頼む。今度はミルクと砂糖を多めに入れてくれ」
「……あんた調子に乗ってない?私はお茶汲みじゃないんだけど?」
「さっきそれを賭けたじゃん拳に負けたのは伊吹だろ。早くしてくれ」
「……あー、くそっ!!なんでグーはパーに勝てないのよ!!ムカつく!!こうなったら毒盛ってやる!!」
何故グーはパーに勝てないかという議題は面白いが、仮にもミステリーの話をしてる時にその癇癪の起こし方は洒落になっていないぞ……。
伊吹がぶつぶつと文句漏らしながらも、部屋備え付けの全自動ドリップマシンで珈琲を淹れ始めたの見て、ひよりがほっと相好を崩した。
俺と伊吹も学習する生き物なので喧嘩はやめた。…という訳ではなく揉め事があったらじゃん拳で決着をつけるというひよりの提案を呑んだのだ。団員同士のマジギレは御法度なのである。
俺は伊吹がはいと渡してきた甘ったるい珈琲に素直に礼を言って受取り、流し込む。無論、ヒ素は混ざっていなかった。
「…それにしても甘いな。砂糖をどれくらい入れたんだ」
「文句ばっかり言うな!甘い方が美味しいでしょうが」
伊吹が隣で自分のカップに角砂糖をぼちゃぼちゃと落としながら睨んでくる。
質問に答えてくれなかったが、恐らくは俺のカップにも同等の角砂糖が入っているのだろう。夕食は炭水化物を摂らない方が良さそうだ。…こいつ、絶対偏食だろうなぁ。
いや、今は伊吹の事はどうでもいい。
俺は摂りすぎた糖質を全て消費するかの如く、ひよりへの想いを巡らせることに集中した。
一口にミステリーと言っても、その裾野は広い。
本格派、社会派、サスペンスもの、はたまた純文学やホラーなどのハイブリット型のものまで。
俺の勝手な分析だが、彼女には国内外を問わず、硬派な作品を好む読書傾向があると考えている。そして、その嗜好は著者の知名度によって左右されるものではない。
「参考までに聞きたいんだが、ひよりは新しい本を見繕うとき、タイトルから本を選ぶタイプか?」
「…勿論それがないとは言いませんが、基本的には著者から芋蔓式に探すことの方が多いですね。例えば東野圭吾先生の作品を読むと、彼の人生に大きな影響を与えた『アルキメデスは手を汚さない』は抑えておきたくなりますよね?」
「なるほどな。その気持ちはすごく分かる」
自分が重度の小説オタクである事を自認しているからか、その気持ちが一般的でない事を理解しているのだろう。
俺は不安そうに共感を求めてきたひよりに深く首肯する。
端正な顔を綻ばせて笑ったひよりを見ながら、やはり定番と言える著者周りは無しだなと判断する。
例え、俺が挙げた本を読んでいなかったとしてもひよりならいずれ辿り着く作品。それでは意味がない。
だからこそ、俺はガラッと方向性を変えることにした。
「そういうことなら一冊、ひよりが読んでいないであろうタイトルに心当たりがある」
「本当ですか?…聞かせてくださいますか?」
「ああ。だが、ひよりのリクエストの趣旨とは少しズレている事を許して欲しい。実は俺もまだ読んでいないんだ」
ひよりが小さく頷いたのを見て、俺はズバリとタイトルをコールした。
「『豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ事件』」
「は?豆腐?なにそれ」
「ふふ。伊吹さん。その反応はすでに著者の術中にハマっていますよ」
ミステリーのジャンルの中では一際目を引く、慣用句を上手く引用した秀逸でポップなタイトルに、ひよりが満足気に笑う。
「清隆君のさっきの質問の意図が分かりました。私がタイトルで本を選ぶタイプであれば、真っ先に手を取ってしまうくらいには中身が気になっています」
「ありがとう。そう思ってもらえただけで、薦めた側としては嬉しい」
「いえ、お礼を言うのは私の方ですよ。ありがとうございます。学校に帰ったら早速読んでみたいと思います」
「……その事なんだが、良ければ一緒に読まないか?」
ひよりは顔に驚愕の色を浮かべながらも、その後すぐに顔を赤らめながらも静かにはいとはっきり頷いた。
…彼女のことだ。恋愛に侵され、絆された俺の思考如きを読み解くのは赤子の手を捻るも同然だろう。
ひよりと一緒に本を読みたい気持ちは大前提として、俺はその先を期待している。彼女はそれを分かった上で受け入れてくれている。
それが嬉しくてたまらなかった。
「二人してニヤニヤして気持ち悪い。本を読むことの何がそんなに楽しいんだか。授業で頭使わせられてるのに、何でわざわざ自由な時間まで頭が疲れることするの全く理解できない」
「その頭とやらを使ってる形跡は一向に見当たらないけどな」
溜め息混じりに肩を竦めて馬鹿にするような伊吹に自然と毒が口を衝いて出た。だが、吐いた唾は飲めない。
さて、飛びかかってくる伊吹を今度はどうやって拘束しようかしらと思案するもそれは無駄骨に終わる。
「……うざ。そんなに言うなら私の意見に反論してみてよ。読書って趣味としてのコスパは良いかも知んないけど、タイパが悪いって思うわけ。タイトルをネットで検索すれば、内容が要約されてるしそれでいいじゃん」
俺に頭を使えと指摘されるや否や、伊吹は感情論を捨て、意外と筋の通った論理を展開してくる。
慣れない横文字を使っている姿は、小さな子供が背伸びをしている光景に見えて微笑ましかった。
しかし、俺はその背伸びを馬鹿にするような人間にはなりたくない。
背伸びしなければ手が届かないものもあるのだ。
「伊吹さん。清隆君相手にそれは無謀じゃないでしょうか…?」
「うっさい。椎名は黙ってて。てか、椎名はこいつに惚れたからって神格化しすぎなのよ。ここらで黙らせて、こいつなんて実際は大したことない薄っぺらい生き物だって私が証明してあげる」
困ったように頬を掻いたひよりの横で伊吹は胸を張って腕を組んでいた。
彼女は自分の中に揺るがない芯を持っていて、それを正しいと思い込んでいる。だからこその自信。
口喧嘩でこそ彼女に負ける気は一切しないが、勝つ事もまた簡単ではない。
彼女の根底に染み付いた思考を覆すというのは、人生の価値観を変えるという事に等しいからだ。
「綾小路、なにボケーっとしてんのよ。反論は?ないの?」
「ある。だが、少し落ち着け。ディベートの真似事を始めたいなら伊吹の主張を整理する必要がある」
「…どういうことよ」
「伊吹は趣味として読書はタイパが悪いと言う話をしたが、本来趣味とはコスパタイパを度外視して、如何に無駄を楽しむかが肝だろう。知識を得る手段として読書は効率が悪いと言う主張なら自然だけどな」
「…なら、そっちでいい。別に他人の趣味にとやかく言う気はないし」
そもそもタイムパフォーマンスなど微塵も気にせずに生きてるであろう伊吹を説き伏せ、俺は勝ち筋を練っていく。
読書の楽しさを読書を毛嫌いする人間に教えるのは、人参を食べられない子供に、どうにかして人参を食べさせようと工夫するのに似ている。
だが、この土俵に持ち込んだ時点で勝ったも同然だ。相手の逃げ道を一つずつ塞ぎ、最後はそのまま土俵の外へ押し出せばいい。
「だったら話は簡単だな。読書とネット検索でかかる時間に差があるのは、そのまま会得する知識の厚みに差があるからだ」
「はっ、舐めないでよ。そんな屁理屈で誤魔化せると思ってるの?だったら勝負よ。今から三十分、同じように知らない本を一冊選んで、あんたは読書、私はネット検索。三十分後、どっちがその本について詳しい知識を披露できるか比べる。それでハッキリする」
「別に構わないが、その勝負で俺が負けたとしても、読書の価値が否定されたことにはならないぞ」
「……は?」
伊吹が何言ってんの?こいつみたいな馬鹿を見るような間抜けな顔をしたのに若干の苛つきを覚えながら、努めて理知的に返答する。
「伊吹が証明しようとしてるのは、三十分という制限時間の中で、どちらが多くの情報を頭に詰め込めるかだろ。それなら、検索のほうが有利なのは最初から分かってる」
「だったら―」
「だが、それは知識を得る速度の話だ。理解の深さとは別問題だ」
「……またそれ?」
伊吹が露骨に顔を顰めたのを見て、俺は勝利を確信する。
彼女を納得させるのに論理的な主張は必要ないのだ。
「さっきからそればっかりじゃん。理解だの、厚みだの。具体的に何が違うのよ」
「簡単に言えば、それは知っている気になっているだけだ。重要なのは何を知っているかじゃなく、それをどう理解しているかだろ?」
「知っている気になっていることの何が悪い訳?」
「悪いとは言ってない。効率を求めるなら、それで十分な場面もある」
俺は一度言葉を切って、彼女の目を捉える。
「ただ、お前はさっき『知識を披露する』って言ったよな」
「言ったけど?」
「だったら、一つ聞く。お前は嫌じゃないのか?一人歩きしている情報だけで、赤の他人に知ってる風に語られるのは」
「………」
ついに推し黙った伊吹を見て同情を覚える。
彼女の不器用な生き方は、先入観や偏見と隣り合わせにある。そして、きっとそれに対して苦しんだ経験がある。
だからこそ、彼女は周囲に理解を求めなくなり、代わりに反発するようになった。
「それはムカつく。私なら殴って黙らす」
「なら、この勝負、俺はお前を殴って黙らせれば勝ちか?」
「…そうね。それが出来るもんならね。やっぱ、私はこっちの方が分かりやすい」
敗北宣言とも取れる伊吹の言葉に俺は拳の代わりに無言で空になったカップを突き出した。
渋い表情ながらそれを受け取った彼女は文句を言いながらお代わりを注いでくれる。
自分が作った激甘珈琲を完飲してくれた事が嬉しかったのか、満更でもなさそうにドリップマシンを操作する姿に砂糖はいらないとは言えなかった。
「清隆くん。少しズルしましたね?論点がズレてますよ」
「分かってる。伊吹には内緒にしておいてくれ」
知識獲得だけを目的とするなら、読書が最適解でないことくらい分かっている。検索、要約、動画、AI、論文データベース。これらを組み合わせたほうが圧倒的に効率的だ。
彼女にとっての知識獲得の定義が、情報を知ることと理解することが混在している状態になければ、俺に勝ち目なんてないテーマだっただろう。
伊吹が戻ってきて、珈琲と定義すればバリスタに平手打ちされそうな伊吹ブレンドの激甘ドリンクを渡される。
そして、その珈琲とは対極的な苦々しそうな表情の伊吹が問いかけてきた。
「あんたさ、なんでそんなに強くて、頭もキレるのにその力を誇示しないわけ?」
茶柱先生に唆されて、充分に能力を発揮しているつもりだが、伊吹の言いたいところはそこではない。
要はどうして龍園のような横柄な人間にならないのかということだろう。
天才は罪を犯しても許されるなんて話は有名である。
伊吹はそれを何でもないように問いかけてきたが、俺にとって即答できる類のものではなかった。
だから俺は自分の行動を分解し、感情を分析してみる。
「…もしかしたら、俺は理解される事に飢えてるかもしれないな。さっき伊吹が言っていた大したことない薄っぺらい人間という言葉、実は少し嬉しかったんだ」
「……は?キモ。いきなり何言ってんの。まさか、あんたドM—」
「そう言う意味じゃない。自分で言うことではないが、頭脳明晰、運動神経抜群、一年女子に統計を取ったイケメンランキングでも繰り上げで三本の指には入る俺は表面的には分厚い人間だと思うんだよ」
「厚いのは、そんなことを恥ずかしげもなしに言えるその面の皮なんじゃないの?てか、何その主観マシマシのキモいランキング。私、投票してないんだけど」
しれっとディスってきた伊吹にお前は集計した人間からゴリラ認定されて除外されてたんだろと言い返そうとした時、椎名も隣で知らないですと首を振った。
信憑性が無さすぎるデータだな。これは…。
「まあこの話はいい。つまり、伊吹が俺の上っ面じゃなく、中身を見て評価してくれたってことが重要だ。確かに、言葉は酷いものだったが、その事実がそれ以上に嬉しかった。それだけだ」
それに、伊吹の薄っぺらい生き物という評価は的を射ている。効くことはあっても怒ることはない。
俺の話を聞いて、再び黙った伊吹の代わりにひよりが話に入ってきた。
「今の話を聞いて、私は運が良かったんだと思いました。私と清隆くんには読書という共通の趣味があり、それに相応の時間を費やしたからこそ、お互いに意気投合して本音を言い合える第一人者なれただけ。少しでも歯車が違えば、伊吹さんが清隆くんの彼女だったように思います」
「…ありえないでしょ。こいつが彼氏なんて。てか椎名、付き合ってんならそういう事を軽々しく言うな」
「違いますよ。だからこその牽制です。この位置は誰にも譲る気はありません」
「譲るも何も要らないって言ってるでしょ。…彼氏なんて」
「……それは、裏を返せば友達としてなら私達は必要ということでしょうか?」
「そんなこと、いちいち聞くな!!」
照れや恥じらいといった類のもの、声を張り上げることで隠した伊吹はふいっと目を逸らす。
だが、照れや恥じらいは隠しても本音だけは隠す気がないようだ。顔を僅かに赤らめている。
「どうしましょう。清貴くん。伊吹さんがデレました」
「デレてない。……てか、友達でしょ。なら、澪でいい」
「どうしましょう!清隆くん!!澪さんがオチました!!!」
「オチてない!!!!」
…いや、客観的に見て、どの角度で見てもデレてるしオチていた。
「伊吹、それは俺も友達に認定されたってことでいいのか?」
「似た者同士のバカップルが!小っ恥ずかしいからそんなことをいちいち聞くなって言ってんの!!」
気が合い、気兼ねすることなく、本音を言い合える関係。
こういう関係を馬が合うとでも言うのだろうか。
かつて、馬に蹴られて地獄に堕ちろと思った女相手にこんな感情になるとは、我ながら皮肉が効いているなと思った。
◆
ひよりと澪とそのまま夕食を共にした後、俺は自室で堀北、松下、みーちゃんの三人に昨日のあらましを話した。
怪我の功名か、軽井沢の一件は彼女達の機嫌を取るのに一役買ってくれた。
俺が一之瀬との交渉の結果を報告する約束をすっぽかした言い訳にはもってこいだったからだ。
実際は寝坊だとしても、遅延証明書のある遅刻は許されるみたいな話である。
俺は三人を帰した後、軽井沢の見舞いに行くことにした。
看病役の星之宮先生がいることを思えば、正直なところ気は重い。とはいえ、今後のことで話しておきたいこともある。見舞いに行かないという選択肢もないだろう。
手ぶらで訪れるわけにもいかないので、まずは差し入れを調達するため、売店へ向かうことにする。
船内の売店には食料品や飲料だけでなく、この豪華客船をモチーフにした土産物まで並んでいた。
外部との接触が禁止されている以上、土産物を買っても持ち帰る相手は先輩くらいだ。だが、部活動に所属していない俺にそこまで関わりのある先輩は……
(色々と世話になった橘先輩になら、贈ってもいいかもしれないな)
俺は彼女が喜びそうな土産物に目星をつけたところで、本来の目的である見舞い品を見繕い始めた。
差し入れの定番と言えばポカリだが、あれは発熱や体調不良時に水分や電解質の補給を目的とするもの。
精神的には疲弊しているものの、肉体的に元気な軽井沢に送るはお門違いな気がした。そうなると、非常にチョイスに困り…、俺は考える事をやめた。
…スタバの珈琲でいいか。仮初とはいえギャルだし。
目標が定まり、ドリンクコーナーへと足を運ぶと険しい表情を浮かべる神室を見つけた。
「未成年者飲酒禁止法により、二十歳未満に酒は購入できないぞ」
声をかけた瞬間、彼女の肩が跳ねる。そのまま数歩後ずさった彼女は、怪訝そうにこちらを振り返った。
「……不審者に声をかけられたと思ってびっくりした。音もなく近づいてこないでもらえる?」
「挙動不審だったのは、そっちだと思うがな」
「私は別に挙動不審じゃないし。てか、未成年者飲酒禁止法って、販売業者側を規制する法律でしょ」
「よく知ってるな。だから、もしもここの店員が遵法精神に乏しい人間なら、購入できる可能性は0じゃない」
俺は酎ハイを一つ持ち上げ、試してみるか?と目で問いかけると、彼女は馬鹿じゃないのと目を逸らす。
「我ながら馬鹿な提案だと思う。だが、貧しい身の上ながら、ショーケースの中で眩いばかりに輝くドレスへ憧れを募らせる女のような神室を見ていると、その夢を叶えてやるのも一興かと思えてきたんだ」
「誰が貧しい身よ。酒くらい買えるポイントあるし。あと、言い回しがキモい」
「ポイントさえあれば豊かな生活が送れると思っているその心が貧しいって言ってるんだがな」
俺は偉そうに諭して、持っていた酎ハイを棚に戻し、代わりに緑の女神が描かれている特徴的なラベルを籠へと放り込んだ。
そんな俺の横でジロリと睨みを利かせ続ける神室を無視して立ち去ろうとした時、彼女はようやく口を開いた。
「……坂柳に何か聞いたわけ?」
「それは聞かれて困ることがあると自白しているようなものだな」
「質問に答えて」
「俺が素直に答えたとして、お前はその答えに満足するのか?しないだろ」
このやり取りは不毛だと吐き捨てて、俺はレジへと向かい会計を済ませる。
購入したのはお茶請け菓子と珈琲と果物を少々。そして、橘先輩へのお土産だ。豪華客船価格なのか割高に思えて、少し損をした気分になった。
売店を出ると、廊下の壁に背中を預けた神室が待っていた。結局、何も買わなかったらしい。
「ねぇ、これから暇?」
「先に要件を話してくれれば、暇を作る価値があるかどうかを考えてやってもいい」
「……やっぱ、性格悪。坂柳と幼馴染なだけあるね」
それに関しても、坂柳が勝手に言っているだけだ。
だが、それを事情の知らない赤の他人に説明するのは面倒で憚られた。
俺は無言の圧力で言葉を待つと、彼女は渋々と言った様子で話し始めた。
「さっきの話なんだけど、もうあんたが坂柳から私の話を聞いたかどうかはこの際どうでもいい。私はそんな無意味なことで悩みたくないの」
「と言うと?」
「だから、私の話を聞かせることにした」
「思い切った判断をするものだな。それは弱みを差し出してるのと変わらないんじゃないか?」
「別に知られて困るような事だと思ってない」
その毅然とした態度は開き直ったという訳ではなさそうだ。
俺は神室の隣に並び、同じように壁に背を預ける。
人間一人分のスペースを設け、声を張らずともギリギリ聞こえる距離を作り、言った。
「手短に頼む」
見晴らしのいい廊下。誰かが近付いてきたら会話を中断でき、会話を盗み聞きされる心配もない。
神室は色のない顔で頷き、訥々と語り始める。
俺はその話に粛々と耳を傾けた。
◆
目を閉じて、横槍も挟まず、相槌も打たない。
おおよそ、世間一般で推奨されているであろう聞く姿勢とは真逆の態度で、神室の明瞭な声を右から左へと流して処理していく。
まるで部品工場の生産ラインのような作業。
違いがあるとすれば、その仕事には終わりがあるということとL/Tがないことくらいだろう。
「…程度が低いな」
神室の声が途切れ、彼女が話し終えたという実感を得る前に、俺は感想を突き付けた。
彼女が勢いで反駁する前に、俺は先程買ったレジ袋から葡萄を一房取り出した。
「スリルや興奮を得たいにしても、俺ならそんな手前の手段を選ばない。例えば、この葡萄だが保管方法を少し間違えるだけで万引きよりも重い罪に問われるのは知ってるか?」
面接で私にペンを売ってくださいみたいなノリで葡萄を取り出した俺に、神室は戸惑い混じりに首を振った。
「まずは葡萄を瓶に詰めて潰し、そのまま瓶を密閉せずに放置する。たったこれだけでも、条件が整えば発酵が起こる。葡萄は発酵するとアルコールを生成し、それは果実酒と呼ばれるものに変貌する。立派な密造だ。しかし、自家消費する目的であればバレることはまずないだろうな」
実害が伴う万引きと違ってなと締め括ると神室は顰め面を浮かべた。
「神室。お前はさっき、俺に知られて困るような事ではないと言ったがあれは見誤っている」
「…話聞いてた?坂柳にも言ったけど、私は別に学校にチクられたって構わない。覚悟は最初から出来てる」
「覚悟が出来ているなら自首すればいい。嫌いな坂柳からの拘束から逃れることができるのに、それをしないのは何故だ?」
神室が言葉を詰まらせた隙を埋めるように俺は言葉を続ける。
「わざわざスリルを得るために万引きという手段を選んでるのは、こんな私を知ってください、見てくださいと周囲に言っているようなもの。恥を知って欲しいものだな。それは自慰行為に他人を巻き込む露出狂と変わらない」
俺は一拍置いて、突き放すように言う。
今度は彼女が俺の言葉にしっかりと実感を得るように。
「だから言ったんだ。程度が低いなってな」
話は終わりだと俺は葡萄をビニール袋にしまい、意気消沈した彼女の元を離れる。
廊下の突き当たりの角を曲がる際に見えた彼女は、廊下に完全にしゃがみ込んでいた。
まるでダンゴムシみたいだと思う。
危機に瀕した時、小さく身を丸めることでしか、己を維持できない弱い生き物。
フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』
天才は罪を犯しても許されると主張していた天才ラスコーリニコフさえ罪悪感に押し潰され、最後は自首した。
…なら、凡人である神室真澄はどうなるのだろう。
凡人故に罪悪感すら感じずにのうのうと生きていくのか。
それとも、葛藤し悩み抜いた先に違う末路を辿るのか。
恐らくは後者。そして、そこにハッピーエンドは用意されていない。
箸休め回なのに話が重いのはご愛嬌。
次回は船上試験 最終日。