一之瀬はまだお留守番です
櫛田が耳まで真っ赤にした顔を上げる。
悔しさを噛み締めるような悲壮な表情だが、いつまで経っても否定の言葉は出てこなかった。
「図星だな」
「……あんた、ほんとっ性格わるい」
「なるほど。そういう一般的に悪いとされている性格すらも憎めないほど好きになってしまったと言いたいわけだ」
「…なっ……!!そ、そういう台詞を何の気なしに言えちゃうのがムカつくのっ!!!」
「ムカつく……、けど……、悔しいけど……、気になっちゃうぅ………ってやつだな。邪念塗れの癖に変なところは乙女なんだな」
「……っっ!!!もういいっ!!!」
一点変わって茶化し始めた俺に痺れを切らした彼女が、日大を彷彿とさせるようなタックルで俺を弾き飛ばして出て行こうとする。
だが残念ながら、俺の不動っぷりは森下に壁だと比喩されるほど。
もしも、デビルーク王女の発明品のころころダンジョくんで性転換を果たした暁には駅構内の壁の中に閉じ込められて、街行くサラリーマン達の玩具される一生を送っていたかもしれないぐらいの壁っぷりなのだ。
……いや、あのジャンルは壁よりも穴の方がメインだっけ。
「…どいてよ」
「無理な相談だな」
「……なんでよ」
この状況で、彼女を一番刺激する言葉を的確に探し当て、俺は突き付ける。
「鍵をまだ返してもらっていない」
櫛田が爆弾の発火を想起させるほどに頬を紅潮させた。
怒り七割恥じらい二割照れ一割の櫛田爆弾は爆発物処理班も裸足で逃げ出す炸薬量だ。
「〜〜〜〜〜〜〜‼︎‼︎」
「あ、あんたなんか!!だいっきらいっ!!!!!」
(……嘘をつけ)
(そんな捨てられたみたいな表情で叫ばれて、誰が信じるんだよ)
櫛田の大音声が手狭なワンルームに反響する。
勝手に作ったであろう合鍵を投げ捨てドタバタと出て行く一幕は一瞬で場を凍らせた。
この寮がSRC造で良かったと思う。都内の激安賃貸のような防音性能だったら、ご近所さんに通報され、警察沙汰に発展していたかもしれない。
「綾小路君。大丈夫ですか?」
「……人生上手くいきませんね。どうやら、フラれちゃったみたいです」
失恋直後で精神的に磨耗しているにも関わらず心配してくれるお人好しな先輩に頬を掻いて答える。
「え、でも……追いかけた方がいいんじゃ……」
「橘先輩。それは俺が先輩に堀北先輩にもう一度アタックしにいけって言ってるみたいなもんですよ。時間と恋愛は不可逆なんです」
「そ、そうですよね……。釈迦に説法ですよね……。誰が誰に何言ってんだって感じですよね……。ごめんなさい」
こと恋愛において失敗したばかりの橘先輩が自分の意見に自信を持てるはずもなく、分かりやすく肩を落としてしゅんとする。
そんな動作が小動物みたいで保護欲を引き立てられる可愛さがあって見守っても良かったが、橘先輩をこれ以上落ち込ませるのは本意ではない。
後輩に言われるがままに部屋にのこのこついていってしまうくらいだ。
もうやめて!橘先輩のライフはとっくにゼロよ!状態なのである。その場合、俺は闇遊戯の畜生である。
「構いません。って、先輩の前でフラれた自分が言うのもおかしな話ですね…。今日で自称恋愛マスターは閉業します」
「じ、人生山あり谷ありですよ!綾小路君。株価と同じです」
「そうですよね!全世界株式なら最終的には右肩上がりですもんね!インデックス投資最高!井○優香万歳!」
俺は蛇口を捻るようにテンションを無理矢理あげる。それも、うっかり無関係な名前が漏れ出るくらいには適当だ。
だが、傷心中の身で慰めようと必死な橘先輩は「おー!」なんてノってくれる。ぐう聖人すぎる。夜を知らないなんj民くらい純朴。
でも、オルカン投資って長期保有が前提だよな?今の状況はどっちかと言えば短期トレードで櫛田銘柄を損切りしたみたいな感じだけど大丈夫なんだろうか……?
……考えないようにしよう。あぁ、橘先輩は可愛いなぁ。長期で保有したい。出来れば非課税で。
「橘先輩。威勢よく連れてきてしまった手前言いにくいんですが、ちょっと疲れてしまって……。今日は余り物でもいいですか?」
情けないところを見せてしまったばかりだ。
今更絶品料理を振る舞って慰めるムーブをするよりは、彼女と同じ目線に立って傷を舐め合う方針にシフトした方がいいだろう。
そう思っての提案に、先輩は柔らかく微笑んで了承してくれた。
◆
「全くっ、会長は事あるごとに私を呼んで、『橘。明日の俺の予定は?』って…、私は書記ですよ。秘書でもAlexaでもないんですっ!」
「……改めて、なんで好きになったんですか?そんな人」
「ふ、不可抗力だったんですっ!毎日繰り返し名前を呼ばれたら、いつの間にか意識してしまうものなんです!これだけ呼ばれればAlexaだって、会長のこと好きになりますよ!シンギュラリティここにありですよ!」
そうだろうか。『私のこと好き?』って訊いても『私は人間のような感情は持ち合わせていません』とか平然と返ってくると思う。
でも、そのくせして翌日こっちが何も言わなくても『昨日の質問についてですが……、まだ考えています』とか言ってくる気もする。
…なにそれ、可愛い。Alexa萌える。
新しいジャンル開発しちゃったんじゃないの、これ?
脳内で次世代を担うかもしれないプロットに夢を膨らませていると、俺が黙り込んだことに腹を立て、頬を膨らませた橘先輩に睨まれる。
うん。やっぱりAlexaよりも先輩の方が百倍可愛いや。
「うぅ……、なんだか、私ばっかり恥ずかしいじゃないですか。ずるいですよ…」
「ずるいのは照れて恥ずかしがる先輩の超高校級の可愛さだと思いますけどね。希望ヶ峰学園からのスカウトはまだ来てないんですか?」
「…こんな時によく分からない口上で口説こうとしないでくださいよ。うっかり本気になっちゃったらどうしてくれるんですか…」
「俺にその役目が務まるなら謹んでお受けしますよ」
その場合、本気には本気で返して欲しいと言った先輩に返せる気持ちが浮気しかないのが問題だが、まあそれも些事だろう。
本気だろうと浮気だろうと行き着く先は一つに収束する。
「もうっ!揶揄ってばっかり!こうなったら傷に塩を塗り込む覚悟で訊いちゃいますからねっ!綾小路君は櫛田さんのことをなんで好きになったんですか!」
赤面した橘先輩が話を逸らすように早口で質問をしてくる。
後の祭り。今更、彼女の勘違いを訂正する気は起きなかった。
それに櫛田の嘘はもう終わらせた後だ。どうなっても構わない。
「まあ、性格以外の全てですかね」
「み、身も蓋もないですね……。…櫛田さんほど性格が良い人も中々いないと思いますけど?」
「そんな風に考えていた時期が俺にもありましたねぇ」
どこか遠くを見つめるように俺がそう溢すも、橘先輩は俄には信じ難いとばかりに真顔を浮かべた。
櫛田が築き上げてきた信頼はそれだけ強固で、他者の噂話一つで覆せるものではないのだ。
「まあ、簡単に言うと櫛田は束縛気質なんです。『明日何するの?今日何時に帰ってくるの?昨日は何食べて何時に寝て何時に起きた?地球の周りを太陽が何回回った時?』の終わらない質問責めです」
「いいじゃないですか。櫛田さんなりの愛情表現ですよ。天動説で小ボケを入れてるのもお茶目で可愛いです」
「これは綺麗な部分を切り取ったほんの一部ですよ。答えにくい過激な質問もありますし、量もこれの比じゃないです。これが質問箱サービスならAIフィルタリングに全て弾かれるか、メッセージの多さにサーバーがパンクしますよ」
俺は口だけで説明し切るのは不可能だと察し、ここ数日の犇くようなメッセージの履歴を橘先輩に見せる。
ひよりと付き合い始めたくらいから、櫛田の俺へのアプローチは苛烈を極めている。それがメッセージの履歴には如実に出ていた。
俺が気を許してしているのを良い事に調子に乗っているのだろう。
俺の部屋の合鍵を無断で作成して、勝手に居座っているのが良い証拠だ。
「…ぅ、これは確かに重いかも……。ですが、それでも贅沢な悩みですよっ!愛されているが故の悩みじゃないですか!!」
贅沢か。本当にそうだと思う。
限度はあるが、櫛田のような可愛い女の子に愛され束縛されるのはむしろ本望だ。
問題は俺と櫛田の間にあるのは崩れかけている師弟関係だけで、交際関係にないということ。
だが、それが解決するのも時間の問題だ。
だから、本当は悩んでなどいない。
喧嘩別れをしたような形になったが、これは俺達の関係をさらに深めるための布石でしかないと確信している。
「…その点、私なんて、自分の予定なんて一度も聞かれたことないですよ……。きっと、私の予定なんていつでも空いてるって思われてるんです……。安い女だと思われてるんです……」
予定は空いているのではなく空けていたことは想像に容易い。
しかし、その健気すぎる努力も堅物の生徒会長には片鱗すら伝わっていないだろう。精々、橘は忠義に篤いなあくらいにしか感じていない気がする。
やはり腐っても堀北の血筋。異性に対しての細やかな気遣いなど出来るわけもないのだ。
放っておけば、おいよおいよとそのまま泣き崩れてしまいそうな橘先輩にいてもいられなくなって、俺は隣に並んで肩を抱き寄せる。
無気力な体は軽く、吸い込まれるように俺の肩に頭を預けた。
「…ダメですよ。綾小路君」
「辛くて泣きそうな女の子に肩を貸すことの何がダメなのか俺には分かりかねますね」
櫛田が招いた誤解は、橘先輩から彼女という分かりやすいストッパーを取り外してしまった。
あとは残りの薄い障壁を一枚一枚丁寧に取り払うだけで、俺たちの間を遮るものは何もなくなるだろう。
俺はお団子の乗っていない頭に手を添え、愛でるように撫でる。
橘先輩は逡巡した後、ふるふると軽く頭を振って俺の手を払い除けた。
「ダメですよ…。私は先輩で、綾小路君は後輩ですから。そう何度も甘えるわけには—」
「悲しいですね。この期に及んで暦の上での関係がそんなに大事ですか?」
「……え?」
「先輩を女の子として意識しているのが俺だけなら寂しくて悲しいって話です」
目を丸くして驚く先輩に俺は困ったように照れ笑いを浮かべる。
優しさには十全の優しさを返してしまう彼女は、俺の寂しいや悲しいといった中身の伴わない感情にもきっと同じ角度で返してしまう。
「………大丈夫です。私もきっと同じですから……」
「よかったです。ですが、その場合は経験の差で俺の方がちょっとだけ先輩ということになりますね。橘先輩」
「……即刻矛盾してるじゃないですか。先輩って言ってるじゃないですか」
「ならば、ご注文は茜さん呼びですか?」
意図せず、癒し系萌えアニメの略称みたいな語呂になってしまったが、これはご発注ではない。
前述の通り、今日はうさぎの気分なのだ。それはもう、夜が始まっちゃう勢いなのだ。
「……なんで下の名前なんですか」
「だって、橘って呼ばれると意識し始めて最終的に好きになってしまうんでしょう?それはいただけないなぁ、と」
「……どういう意味ですか?」
「折角好きになってもらうなら、ちゃんと好きになってもらいたいので」
「………………そういう話なら、もう手遅れですよ」
ボソボソと口の中で殺したような声もこの距離では聞こえてしまったが、俺はそれに言葉ではなくもう一度先輩の頭を撫でることで応えた。今度は振り払われない。
そのことが嬉しくて調子に乗って、先輩の前髪を分けたりカールをつけたりして遊んでいるとふるふると頭を振って弱い抵抗を示した。
「…もうっ、私で遊ばないでください」
言葉遊びのついでに『女遊びが趣味なもんで、つい』と真実味が帯び始めている台詞を返そうかと迷ったがすんでのところで止める。
彼女の雰囲気に茶化してはいけない何かを感じ取ったからだ。
「すいません。反応が可愛くて、つい」
「……褒めても何も出ませんから」
「茜さん以外のものは何一つ必要ありませんよ」
「もうっ……。揶揄ってばっかり……。いたずらっ子なんですから」
俺は何度振り払われても、彼女の髪を弄んだ。やがて、もはや無抵抗に等しかった可愛い抵抗すらやめて、俺の手を受け入れる。
俺は無言で髪を優しく撫でながら、彼女が心の内を話し出すのをゆっくり待った。
それが彼女の最後の一枚だ。
「………私、怖いんです。熱に浮かされた感情に突き動かされているだけの自分が。このまま止まることなく突き進めば、また傷付いて後悔してしまうんじゃないかって」
「そんな思いをするくらいなら…ってやつですか?」
俺の肩に頭を預けたままコクリと頷いた先輩の目には怯えがあった。人は失敗することを恐れる生き物なのだ。
「茜さん。後悔の正体は夢のように美化された理想と現実を比較して出来たギャップなんです」
「…理想に目を瞑れば後悔しないと言うことですか?」
「ええ。ですが、後悔したくないからといって二の足を踏めば、将来何もしなかった自分を後悔します。もしもタイムマシンが開発されれば昔好きだった子に告白したいと宣う人達が後を絶たない理由です」
結局、生きている限り、後悔は切っても切り離せない。
日本一有名な自伝の『恥の多い生涯を送ってきました』の恥も後悔に置換することが出来るくらいに、人生とは密接な存在だ。
「後悔とは生き様そのものなんです。後悔のない人生なんてこの世のどこにもないと断言できます。ですが、その上で敢えて言わせてください」
俺は両腕で橘先輩の頭を包み込むように抱く。
胸に抱いた女の子に言うに相応しい台詞は、彼女の真っ直ぐな目を直視して言うには嘘すぎた。
「俺を好きになることにだけは後悔はさせません」
「…いいんですか?この感情を認めて突っ走ってしまっても…、いいんですか?」
「全力で受け止めるので、どんとこいです。壁としての性能には自信があるんです」
そう冗談めかした俺に破顔した橘先輩は抱きついてくる。俺もそれに応えるように背中に手を回した。
後悔させないことは胸に誓ったが、傷付けないことは約束ができなかった。
きっと彼女はそのことに気付いている。
気付いていてなお、傷付く覚悟で俺を求めている。
きっと、人間関係で負った傷は人間関係でしか穴埋めできない事を本能で理解しているのだろう。
いくら学業や趣味に没頭して忘れ去ろうとしても、傷は確かに心にあって、ふとした瞬間に膿んで痛みに苦しむことになるから。
「茜さん。もう恋なんてしないなんて言わせませんよ。絶対」
「…ふふ、気持ち悪い日本語ですね」
「俺もそう思います」
…マッキー。なんかごめん…。
◆
目が覚めたら隣にはあどけない寝顔を浮かべて静かな寝息を立てる先輩がいた。幸せそうだ。
俺の人生でこれほどまでにチュンチュンと小鳥が囀ってファンファーレを響かすに相応しい朝はないと思う。
そんな清々しい朝なはずなのに、部屋の外で微かに聞こえる蝉の鳴き声ややけに煩く聞こえて落ち着かなかった。
俺はバゲットをスライスして、ペーストした明太子を塗り焼き、片手間に中華風の卵スープを簡易的に作る。雑だが、女性の朝食として充分な献立だろう。
俺は橘先輩宛てに書き置きをして部屋を後にする。
漠然と、ひよりに会いたい。そう思った。
◆
正座している俺にジト目が突き刺さる。
「つまりそれは……、ヤっちゃいましたって報告ですか?」
「……はい」
「二つの意味で事後報告ってことですか?」
「流石はひよりだな。文学少女の名に恥じぬレトリックだ」
「清隆君?」
「ごめんなさい」
俺は誠心誠意頭を下げる。地面に額を擦り付けても良かったが、ひよりがそんな形だけの謝罪を望まないのは分かっている。
「別に謝って欲しくなんかありません。清隆君が新しい彼女を作ろうが、私以外の女の子にデレデレしてようが分かりやすく嫉妬なんてしてあげません。綾小路君にとって、私ってその程度なんだなぁって勝手に悲しくなるだけです」
ギュッと本を抱いて椎名は沈痛な面持ちを浮かべる。
胸に抱かれた本には『豆腐の角に頭をぶつけてしまえ事件』というユニークな文字が場違いに踊っていた。
「ひより、その本って—」
「知りませんっ。これは先日、私がたまたまと行きつけの本屋で見かけて衝動買いしただけの積読本です。今日読もうと思って本棚から持ち出しただけです。清隆君とは何の関係もありません」
にべもなく放たれる言葉には失望が込められていて、今更ながら、朝から抱えていたモヤモヤが罪悪感だと知る。
それは俺の軽率な行動がひよりを傷をつけたことへの罪悪感で、そしてその事実が俺自身を深く傷付けていると自覚していることへの罪悪感だ。
「…ひより。本当にごめん。寝落ちした橘先輩が離してくれなくて結果的に同衾してしまった。振り払おうと思えば出来たのに、何となくそれが出来なかった」
観念するように白状した俺にひよりは訝しむように眉根を寄せた。
「……同衾?……この部屋に入ってきて、清隆君は開口一番に『橘先輩と寝てしまいました。ごめんなさい』って私に言いましたよね?」
「ああ。言ったな」
「私の一つ目の質問に、はいと答えましたよね」
「ああ。まさにそんな感情だったからな」
「……私の『二つの意味で事後報告ですか?』の質問を誤魔化したのは叙述トリックを成立させる為ですか?」
「ああ。実際は指一本触ってない」
頭を撫でた事はノーカウントとさせていただく。
ご利益目当てで狸の置物の頭を撫でたみたいなものだ。…兎だったが。
恋心を利用され、ミステリー小説を嗜む人間として単純な叙述トリックに引っ掛けられた事に一層むくれたひよりはそっぽを向いて、
「なんですか!!じゃあ、私は『S○Xしましたか?』って訊けば良かったんですか!?」
怒りを糧に直接的な表現をしたはいいものの、顔は淡く光を放つルビーのように赤くなっていた。
「その時は『初めてはひよりに捧げるって心に決めている』と答えただろうな」
「…………」
「まあ、ひよりが直接的な単語を好まないことくらい分かっていたからそんな未来は無かっただろうが」
俺がおどけてそう笑うと、ひよりは恥ずかしさに耐えられないとばかりにツンと小突いてくる。可愛い。
張り詰めた空気が弛緩していき、甘い時間が訪れそうになったところで、ひよりは思い出したようにもう一度ジト目を向けてきた。
「…言っておきますが、同衾もギリギリアウトですからね。私は初歩的なドアインザフェイスなんかで誤魔化されません」
「なら、代わりにひよりが毎晩俺と寝てくれるか?先に断っておくが、その場合は我慢できない」
「………………キ、キスじゃ、ダメですか?」
「ひより。そんな事をされたら尚更我慢できない。夜を共にするどころが朝を共に迎える事になるだろうな」
「……一線を超えないなら、ある程度のことは許します」
「ありがとう」
お礼を言うのも変な話だと思いつつも、ひよりの寛大さに向ける言葉は他に見当たらなかった。
「……それに、もしも一線を超えてしまったとしてもその後に私に会いたいと思ってくれるなら許します」
「どういう意味だ?」
「男性が性欲を失った直後に会いたいと思うなら、それは恋と呼んでも差し支えないって文献で読んだんです。正直、さっきの私は怒った体を成していただけで、心のどこかは安心してました」
「ひより、待て。その文献のタイトルを先に教えてくれ」
「ア○ロ田中って漫画です。櫛田さんが貸してくれたんです」
「それは偏見の塊なので今すぐに捨てなさい」
……櫛田のやつ、なんてものをひよりに布教してくれるんだ。
刃牙シリーズとア○ロ田中は男だけが楽しんでいいコンテンツで女子厳禁なのはお約束だろうが‼︎
女子が読んでいいのはジョジョな奇妙な大冒険までって暗黙の了解で決まってるでしょうが‼︎
そんな憤る気持ちに感情を乗せて、俺はひよりに胸の内を曝け出す事にした。田中の気持ちよりも俺の気持ちの方を信じて欲しい一心で。
「俺はいつだってひよりに会いたいし、一緒にいたい。ひよりに覚悟が整っているなら、今すぐにでもキスしたいし抱きたいと思う」
明け透けに語る俺の言葉を真正面から受け止めようとしたひよりが泡を食ったように動揺するが、構わずに言葉を続ける。
「性欲の有無じゃないんだ。ひよりを余す事なく感じたい。それだけなんだ」
「……そ、そんな風に想ってくれているのに、まだ私の事は好きじゃないんですか?」
「まあ、俺が拗らせているだけで、この感情に名前がつくなら恋なのかもしれない。もしかしたらそれを飛び越えて、愛と呼ぶに相応しいかもしれない」
それでも、俺はこの感情に名前をつける事はできなかった。
俺には彼女と一緒にいたいという感情はあれど、彼女と人生を共に歩んでいく資格も覚悟もない。
だって、俺達はいずれ別れる運命にあるのだから。
「難しいですね…。恋愛って」
「悪いな。面倒な男だって自覚はある」
「大丈夫です。私はそんなところもひっくるめて清隆君が好きですから。難しければ難しいほど燃えるってものです」
願わくば、燃えるついでにさっきの文献も燃やして欲しいものだ。
初心なひよりには悪影響しかない。乳飲子に大人の玩具を渡すようなものだからな。
「ひより。面倒事ついでに相談してもいいか?一之瀬のことだ」
「私でよければ、是非」
俺はこの三日間考え抜いた、一之瀬の告白を丸く収める計画をひよりに話した。
彼女は適当な相鎚を打たず、静かにその話を聞いてくれたが、作戦の根幹に触れると表情を曇らせた。
「……本気ですか?清隆君」
「冗談でこんなことは言わない」
「…ですが、それはあまりにも一之瀬さんに酷じゃないでしょうか?トロッコ問題みたいな究極の二択を押し付けているようなものです」
「別に結果を強要する訳じゃない。俺は一之瀬がどちらを選ぶか見てみたいだけだ。ひより、協力してもらえるか?」
「…あまり気が進みませんが仕方ありません。清隆君一人に任せるのは不安ですし、これはもう私にとって無関係な話でもありませんから」
ひよりの協力を漕ぎ着けた俺は早速一之瀬に連絡する。
すぐに了承の旨の返事が返ってきて、今日の午後に落ち合う流れになった。
俺はそこで一之瀬帆波を見極める。
その返答次第では…
彼女にはこの舞台から退場してもらう事になるだろう。
感想、ここ好きありがとうございます。感謝に濁点。