過去一、長いです。ゆっくり見てください
「綾小路君。今、いいですか?」
「山村か。相変わらずのステルス性能だな。悪いが後にしてもらえるか。今は橘先輩に合う特上のチア衣装の選定に忙しいんだ」
「…よく分かりませんが、片手間でいいので話だけでも聞いて貰えませんか。坂柳さんに言い訳が立ちませんから」
表情の起伏が乏しいながらも、彼女は困り顔でそう言ってくる。そんな彼女を無駄に困らせてみて反応を伺い、パーソナリティを探ってみるのも一興だが…、何だか少し気が引けた。
俺はスマホを閉じポケットへしまい、山村にアイコンタクトで聞く姿勢が整ったことを示す。
わざわざ片手間でいいと保険をかけてきた彼女に対して、坂柳の遣いという理由だけでぞんざいに扱うのは違う気がしたのだ。
「坂柳さんが体育祭に関してお話がしたいとのことで、粉をかけて……、いえ……、油を売ってる綾小路君を連れてこいと言われまして…」
山村よ。坂柳の毒を訂正するにしても、もう少し早い段階でどうにかならなかったかね?
そこまで言っちゃうと揚げ物でも作るのかと勘違いしちゃうでしょうが。
「断ると言ったら?」
「…多分、次の遣いが来るかと。恐らくは森—」
「行こう。案内してくれ」
口を滑らせた山村に対して意地悪してやろうという気になった俺だったが、何故かそんな気は綺麗さっぱり消え失せた。たぶん、妖怪のせいだと思う。
俺は橘先輩に控えめに手を振って挨拶して、先導する山村に黙ってついて行く。
彼女から話題を取り持つような真似をされることもなければ、俺から干渉する事もないが、それでも気まずくなることはない。
これが今の俺と山村の自然かつ適切な距離感だからだ。
「今朝ぶりですね。綾小路君。フラグを立てることには成功しましたか?」
「呼び出しておいてそんな事か。素性を知るお前に俺が何かを失敗する姿を想像できるのか?少なくとも俺には出来ないな」
「ふふ、それもそうですね。そんな初歩的な事を見落とすとは、私もまだまだですね。もしかしたら、新しい犬を手に入れて柄にもなく舞い上がっていたかもしれません」
まさかとは思うが、それは横で控えている森下のことを言っているんだろうか。彼女に比べればまだ、ゴールデンレトリバー橋本の方がいう事を聞くんじゃないだろうか。
「犬というにはじゃじゃ馬すぎるんじゃないか。そして、体の悪い坂柳じゃ乗りこなすのは無理だろう?」
「仮に馬だとしても、調教師と騎手は別物なのが基本ですよ。私の仕事ぶりをそこまで疑うなら一度乗られてみますか?コツはそうですね。彼女はお尻に鞭を入れるとより早く走るんです」
「どう考えてもその絵面はアウトなので遠慮しておくよ。…いや、森下相手なら人権問題に発展する事もないのでセーフなのか?考えようによっては、乗馬経験が積めるいい機会なのかもしれない」
「み、身の危険を感じます。誰かー助けてー!綾小路清隆が私のお尻を狙ってます!!きゃー!」
俺と坂柳の会話の流れで貞操の危機を感じ取った森下が感情のない声で叫ぶ。
しかし、Aクラスの人間は取り合うどころか、目を合わそうともしない。……人権ついでに人望もからっきしらしい。
俺達Dクラスが高円寺の素行の悪さに慣れてしまったように、Aクラスの人間にとっても彼女のおかしな言動は日常茶飯事なのだろう。どこの世界でも異端児の扱いは同じなのである。
「坂柳、彼女に構うのは時間の無駄だ。さっさと本題に入ってくれないか」
「ふふ。少しくらいは余興に付き合っていただいてもよろしいじゃないですか。それに、私に冷たくしてもいい事はないんじゃないですか?」
「言ってる意味が分からないな。お前の手足と違って、俺にお前を甘やかす義理はない」
「ふふ、私相手に誤魔化しは通用しませんよ?今の綾小路君に、私の助力が必要なのは状況から明らかです」
…なるほど、そうきたか。確かに坂柳すなわちAクラスと全面的な協力関係を結ぶ事は俺達が今回の体育祭で結果を残す上での必須条件の一つ。
俺はそんな坂柳のカウンターに無表情無口を貫いたにも関わらず、目敏く思考を読み取ったのか、態とらしく口元を歪ませる。
「まあ、私としては綾小路君が″ど〜〜〜〜〜しても″と言うなら協力することは吝かではないんですよ?」
伸ばし棒が長すぎて、京都銀行の某CMみたいになっていた。それだけ彼女が今朝のことを根に持ってるということだろう。
「ふっ。だから忠告したでしょう?綾小路清隆。坂柳有栖に意趣返しをするのは怖いもの知らずだと」
「森下さん。お口にチャックです」
裏で何が行われたのか、すっかり坂柳に手懐けられた森下はジジッと口にしながら、ファスナーを引く仕草で口を閉ざした。
口を完全に閉じるまで自前の効果音を鳴らしていて、最後の最後まで騒がしい。まさに筋金入りって感じだ。
こういう奴は墓に入っても、三日と経たずに退屈だと這い出してくるんだ。というか今の森下こそが恐らくはその姿である。
「どうしても頼むよ。兼ねてよりずっと坂柳と組んでみたいと思ってたんだ」
「存外、社交辞令がお上手ですね。椎名さんの教育の賜物でしょうか?」
「そうかもしれないな。少なくとも、この面に関しては親父は一切の寄与をしていない」
「ふふっ。素直なのは大変よろしいですが、私以外も聞いていますよ?」
「聞いてたとして問題はないだろう?この場に俺の話を理解できるのは坂柳たった一人だ」
事実、俺の過去や出生を知る人物は彼女だけだ。
それは期間限定の仮初の優越感だが、彼女との交渉を進める上で浸らせておくのは悪い手じゃない。
「まあ、奇妙な縁だと思って一つよろしく頼む。それに俺と坂柳が組めば、向かうところ敵無しだろ?まさに最強のふたりだな」
「続け様に随分と嬉しいことを言ってくれるものですね。ですが、キャッチコピーは天才の二人の方がいいのでは?無論、天然と人工の違いはありますが」
皮肉を織り交ぜた比喩をして満足気に笑う彼女の鼻を、俺は間髪入れずにへし折っておく。
「世界中で大ヒットしたフランス映画も知らないとはな。確かに坂柳の世間知らずは天然記念物級かもな」
世間から隔離されたホワイトルーム生の俺にそう言われるのは坂柳にとって不服どころの騒ぎではないだろう。
しかし、俺はこの学校に入学して以来、世間で流行する音楽や映像作品はもちろん、サブカルチャーに至るまで、貪欲に知識を吸収してきた。
今となっては、その方面の造詣において箱入り娘の彼女とは比べるべくもない。そしてその知識の差がわからない彼女じゃない。
「…天才は往々にして俗世に疎いものなんです。そんなんだから、綾小路君は紛い物なんです」
「そうだな。俺は坂柳に出会わなかっただけの凡夫かもしれないな」
彼女に対して伝わらないことを確信して俺は適当に返答すると、彼女は分かりやすくクエスチョンマークを浮かべる。攻める角度が分かれば後は容易かった。
「ほんと、坂柳は天才だと思うよ。えらいえらい」
「………それは以前聞きました。芸がないですよ?綾小路君」
「大事な事だから二回言ったまでだよ」
どの言葉も借りてきたもので俺のものではない。それでも、彼女にそれが伝わる事はなく、反復法による強調表現くらいにしか思っていないだろう。
京都弁の婉曲的な嫌味が通じていないような感覚に近いだろうか。
「で、どうする?俺と組む事は坂柳にとって、いい事尽くしだろう?私情を抜きにすれば不都合は何もないはずだ」
「……いいでしょう。そこまで綾小路君が待望してくれるのであれば叶えてあげる事にします」
「上からだな。言っておくが俺達Dクラスはあくまで対等な協力関係を望んでいる。それ以外はお断りだ」
「無論です。しかし、立場は対等でも上下関係は常に存在するものですよ」
…坂柳なりの忠告だろうな。これは。
要は依然として、Aクラスの中にはDクラスの生徒を下に見ている人間が多いということ。それを覆すためには確固たる実力を示す他ない。
「分かった。詳細は今後詰めよう。ここでこれ以上の話は無しだ」
「それが賢明でしょうね。時に綾小路君、本題とは関係なく一つ興味深い土産話があるんですがいかがですか?」
「坂柳、もしかしてお前もクラスメイトに話し相手がいないのか?」
「森下さんと並べられるのは心外ですね。偏差値に差があると会話が成り立たないとよく言うでしょう?私の場合はそれです。それで、どうしますか?聞いていかれますか?今なら土地と綾小路君名義の権利書も付けますよ」
「……そこまで言うなら、土産話だけ貰っておくよ。俺は無料とつくものに弱いが、入学当初に山菜定食で痛い目を見たからな。後ろ二つは明らかに怪しい」
タダより怖いものはないとはよく言ったもので、俺は既にそれを経験した。
これは将来無料案内所と呼ばれる場所に行き有料な場所へ案内されるという痛い目を見る経験を未然に防止したということ。失敗は成功へのプロセスの一つなのだ。…うん、冷静にそんな未来が俺に訪れる日は来ない。
「では、少し耳を貸してください」
椅子に座った坂柳がそう言って手招きしたので俺は姿勢を低くする。
坂柳が俺の耳に手を添えたところで、盗み聞こうと森下が寄ってきたので容赦なく蹴り飛ばしておく。
目の端で森下が白石に泣きついているところを見届けていると、か細い声が耳朶を打った。
「神室さんは学校側に自ら罪を告白し謹慎を望みました。そんな彼女は今、最寄りのコンビニで無償で働いているそうです」
「……さっき俺以外では会話が成り立たないと言った意味が分かったよ。でも、どうして俺にそんな事を?」
「綾小路君ならもうご察しのことだと思いますが、私は彼女を脅して心理を掌握し、手駒にするつもりだったんです。必要とあれば特攻させ、不要となれば切り捨てる。そんな都合の良い手駒に」
神室に初めて接触したのは無人島だ。
その時の神室は自分の中に揺るがない信念を持っていて、坂柳に従属していることを不自然に感じていた。
あの豪華客船の売店で神室が俺にあっさりと過去を打ち明けたことも坂柳への忠誠の低さが読み取れる。
「ですが、どうやら私のやり方は失敗してしまったようですね。誰かさんのせいで」
「お前のやり方が甘かっただけだろう。最初から、最後までな」
神室の命運を俺に託すような真似をした彼女にそう告げ、俺は早々に体育館を後にした。
◆
2限目。残された時間を確認し、3限目までに帰って来れると判断した俺はコンビニへと出向く事にした。
龍園が早々に体育館を後にしたように、顔合わせの時間の使い方は基本的に個人の裁量に任されていて、その際限はない。
神室と接触する上で、生徒全員が校内に残ってる保証のあるこの時間を無駄にしない手はなかった。
コンビニへと着き入店する。貧困層の俺がコンビニに訪れたのは実に入学初日以来で、民間住宅のドアフォンのような効果音が少し新鮮だった。
「いらっしゃいまs……」
まあ、その新鮮味もコンビニ店員の制服に身を包んだ神室に比べればすぐに忘れ去るような事。
お菓子コーナーで品出しの最中だった彼女が俺を目視すると、石のように固まって俺が近くに行くとようやくその硬直から解放された。
「……あんた、なんでここに?今は授業中のはずでしょ。……不良」
「素行が悪いのは自覚してるよ。まあ、神室に比べたらそれも可愛いものだけどな」
「……何をしにきたわけ?小腹が空いたとしても、ここまで来る必要はない」
「一応入店したからには何か買おうとは思っているが、そんなのはおまけだ。神室に会いにきただけの事」
「……冷やかしってわけだ。私の惨めな姿を見て笑おうなんていい性格してるね」
「コンビニ店員を惨めだなんて思ったことはない。立派な職業だ」
俺はそう吐き捨てた後、彼女の手が止まっている事を指摘すると慣れた手つきで品出しを始めた。
商品の陳列は難しい作業じゃないが、こまめな前出しに商品の扱い等、細やかな気遣いが必要な作業ではある。
「真澄ちゃ〜ん。それ終わったらドリンクコーナーの補充も頼んでいい?あ、言っとくけど盗んじゃダメだよ〜?」
「…店長、お客がいないからってそういう冗談はやめてください。もう絶対にしませんから」
「あはは。それにしてもラッキーだなー。こんな可愛い子がバイトに入ってくれるなんて、ビールの一本くらい安いものだと思えるね〜」
「それ、セクハラですよ。店長」
「え、今の子ってそうなの!?難しいな〜」
仕事の覚えの早さもさることながら、バックヤードから声だけ飛ばしてきた店長と神室の会話を聞いている限り、神室は社会適合能力が高いらしい。
彼女には一匹狼のような印象を持っていたが必要とあれば発揮できるだけの能力はあるのだろう。
「一応、俺客なんだが?」
「さっき、私に会いにきただけって言ってたじゃん。だったら、別に欲しくないもの買う必要ないでしょ」
「…マナーみたいなもんだろ。トイレを借りたからお礼として何か買うみたいな」
「マナーじゃなくて強迫観念でしょ、それ。それに、店員の私がいいって言ってるからいいの」
ただの禊ぎバイトの分際で随分と口がでかい、なんて思ったが、よくよく考えればここはコンビニとはいえ学校の施設だ。
普通のコンビニと違ってエリアマネージャーや本社の人間が視察にきてノルマを押し付けて帰るような事はないのかもしれない。そう考えると、商品が減ることは発注の手間が増えるだけなのかもな。
「……私、もうそろそろ次の仕事行くけど?……何か用があるんじゃないの?」
「ああ。話したいことがある。放課後、時間を作ってくれ。場所はそうだな。カラオケでいいだろう。部屋番号は連絡する」
「え……、は?何?いきなり、意味分かんないんだけど」
「ああ、言い忘れてたが俺だけだ。安心してくれていい」
「むしろあんたと個室で二人きりとか全然安心できないから!てか行かないし、連絡先も知らないし」
「連絡先は坂柳から貰った。これである程度の事情は察してくれ。悪いがこれ以上時間は取れない。俺は神室と違って授業に戻る必要があるからな」
神室が俺と会話する口実として残していたであろう段ボールの中に最後に一つだけ残っていたスナック菓子を拾い上げ、見様見真似で並べる。
これで、今店長に見られれば、彼女が俺と会話している事に言い訳は立たなくなった。
「……何それ、嫌味?」
「ああ。さっきの余計な一言に対して文句があるなら、それは放課後受け付けるよ」
俺はそう言い残して、神室の不満気な視線を背に受けコンビニを後にした。
◆
授業がすべて終わると、俺は早々に教室を後にし、カラオケへと向かった。
受付を済ませ、案内された部屋から神室に連絡を入れる。すると、すぐに既読がつき、それから数分もしないうちに本人が姿を現した。
他の生徒と鉢合わせないよう、バイトを早めに切り上げ、近くで待機していたのだろう。
「何よ、話って」
「その前に飲み物を頼ませてくれ。ワンドリンク制なんだよ、ここ」
俺がそう告げると、神室は不服そうに眉を寄せながらも、それ以上の追及を控えた。
彼女としては早々に用件を済ませて帰りたいのだろう。だが、残念ながら今回ばかりはそう簡単に解放してやるわけにもいかない。
俺は烏龍茶を注文し、神室にも希望を尋ねる。すると彼女は、渋々といった様子でアイスコーヒーを指定した。
やがて店員がやってきて、俺たちの間に漂う険悪な空気を察したのか愛想笑いと飲み物を置いてそそくさと退室していく。
その背中を見送ってから、俺は口火を切った。
「先んじて聞いておく。神室こそ、俺に話したいことがあるんじゃないのか?」
「……なんで、そう思うわけ」
「見ていれば分かる。内容もおおよそ見当がつく。そして、それを伝える相手として、俺が適当だろうとも思う」
そこまで一息に告げ、烏龍茶で喉を潤す。
神室はそんな俺から視線を外さず、開き直ったように答えた。
「……あっそ。まあ、隠すようなことでもないかな」
一拍置いて、彼女は続ける。
目には怯え一つすらなく、それどころが俺の表情の些細な変化すら見逃さないといった気概すら感じた。
「私、謹慎が明けたら学校辞める。あんたの考えてたことと合ってる?」
「ああ。予想通りだ」
「そっか。あんたに分かるくらいだから、坂柳も分かってるんだろうね」
「どうだろうな。坂柳は基本的に他人に興味がないからな。神室に感謝こそあれど、そこまでの関心はないように思える」
「…基本的にってことは、自分は例外だって分かってるわけだ」
「あれだけ執着されれば嫌でも分かるさ。その理由にも心当たりがあるからな」
ふぅんと神室にしては興味ありげに呟くものの、それ以上踏み込んでくることはなかった。
すでに彼女の中では、俺も坂柳も興味の対象ではなく、過去へとカテゴライズされているのかもしれない。
「それで、辞めた後はどうするつもりなんだ?」
「別に何も考えてない。行く当てがあるわけでも、やりたいことがあるわけでもないし」
神室は手持ち無沙汰にストローの先で珈琲の中の氷を小さく突いて言う。
「でも、あんたのおかげでやらなきゃいけないことは見えたから。……一応は感謝してるつもり」
「贖罪か」
「うん。この学校で万引きしたのはあの店だけだけど、遡ればそうじゃないからね」
「だが、それは卒業してからでもできることだ。この学校に未練はないのか?」
「あるように見える?私が」
神室は自嘲気味に笑い、それを誤魔化すようにアイスコーヒーを苦そうに流し込む。
彼女に未練なんてあるように見えるわけがない。それこそが問題で、それを自覚していないことが問題を深い闇の底へと突き落としてしまっている。
「神室。他覚症状というものを知っているか?」
「……知らないけど。何、また医学?」
「そんな大層なものじゃない。至って日常的な話だよ。例えばそうだな」
俺は鞄から有線イヤホンを取り出し、片方を聴診器に見立てて胸元に当てる。
「医師は聴診器を使って心音を聴き、異常な雑音が混じっていないかを確かめる。本人が自覚していない異常を、第三者が客観的に捉えるわけだ。こうした所見を他覚所見と呼ぶ」
「……わざわざ鞄からイヤホン取り出して、ジェスチャー交えて説明する意味ある?健康診断くらい受けたことあるんだから、口で説明すれば分かるんだけど」
「…………」
「てか、今どき有線イヤホン使ってる人いるんだ」
そんな指摘に恥を覚えた俺は、いそいそとイヤホンを鞄にしまう。
しかし、俺がこの時代遅れの産物を所持していることには、れっきとした理由がある。
今後、佐倉が写真だけでなく、動画コンテンツに興味を持ち始めることがあるかもしれない。
その際には、他意はないがバランスボールの上で跳ねるだけの動画や、他意はないが細長い野菜を食べる動画、あるいは他意はないが溶けかけたソフトクリームを舐める動画などを撮影することになるかもしれない。
撮影は長谷部に任せるとしても、編集は俺が担当する可能性は十分にある。
そして俺は、そんな佐倉のコンテンツに関して一切の妥協を許さないと決めている。
無線イヤホン特有の、コンマ数秒にも満たない音声遅延すら看過するわけにはいかないのだ。
……と、ここまで妄想を繰り広げたが、そんな予定は今のところ微塵もない。取らぬ狸の皮算用とは、まさにこのことだろう。
あと、他意はないという言葉は、そこまで万能ではない。(2回目)
「憧れてるんだよ。有線イヤホンを片耳ずつ分け合うシチュエーション。平成取り戻したみたいでエモいだろ」
「……馬鹿じゃないの?」
「まあ、理解してもらおうとは思ってない。それに今はそんなことはどうでもいい」
「自分から言い出したんでしょ……」
「ツッコんだのは神室だ」
彼女の至極もっともな反論を他責で返して、俺はひとつ咳払いをして姿勢を正す。ここから先は、多少の反発を覚悟する必要あるだろう。
「話を戻す。神室、お前は俺から見れば万引きを止めることが出来ただけで何ひとつ変わっていない。いや、むしろ悪化していると言っていい」
「…………悪い冗談でしょ。私は万引きしてた方がマシって言いたいわけ?」
「神室にとっては、そっちの方がまだ健全だったかもしれないな。スリルを求めていたなんて言葉で誤魔化していたが、要するに快感があったから繰り返して続けていたんだろう?以前、突きつけた評価は今でも変わっていない。神室は自分で自分を慰めていただけに過ぎない」
「……あんた、わざとそういう言い方してるでしょ」
「否定はしない。だが、客観的事実だ」
「ほんっと、最低。そういう軽薄なとこ大っ嫌い」
悪態を吐き捨て、敵愾心を剥き出しにする神室に俺は沙汰を下すような気持ちで続ける。
「好きになってもらおうとは考えてないからこその言葉なんだけどな。軽薄って言葉はこの状況に乗じて甘い言葉を吐く人間に向けた言葉じゃないか?それに、俺が伝えたい本丸はそこじゃないって分かってるんだろ?」
彼女の沈黙を肯定と捉え、俺は彼女に聞かせるように声色に真剣味を帯びさせていく。
「以前のお前は、少なくとも自分の欲求に従っていた。歪んだ形ではあっても、そこには自分の意思があったわけだ」
「……結論だけ言ってよ。それで伝わるから」
「今はそれすらない。罪を償うという大義名分を得たことで、自分の人生をどうしたいのか考えることまで放棄している」
神室の表情がわずかに強張り、自分が琴線へと触れていることが理解できる。これは介錯に近い行為だ。
「お前は未来に展望がなくても、それを大して不安に感じていない。今の神室は、危ういくらいに自分の人生に無頓着なんだよ」
彼女はもともと、どこか破滅願望に近いものを抱えていた。
万引きを繰り返していたのも、単純な快楽だけでは説明がつかない。
発覚すれば、これまで築いてきたものを失う。彼女にとって犯罪とは、その願望に近付いているような錯覚を起こすトリガーだったのだ。
だからこそ、俺や坂柳に犯行を知られても、取り繕う事をしなかった。それこそが彼女の本願だったから。
「自主退学して、贖罪を済ませて、それからお前はどうするつもりなんだ?」
「……そんなの分かんないし。でも、あんたには関係ないでしょ」
「本当にそう思っているなら重症だな。この件は神室が俺を巻き込み、関わらせたんだろう」
豪華客船で彼女が俺に罪を打ち明けなければ、こうして深く干渉することもなかった。
これは神室が始めた物語で、俺が加筆したシナリオだ。
それがバッドエンドかトゥルーエンドかはまだ分からない。
それでも俺にはもう彼女を幕引きまで面倒見なければならない。
「……だから、何だっていうの」
神室が苛立たしげに声を落とす。
「万引きを辞めて、ちゃんと働いて、盗んだ分だけ返そうとしてる。それの何が気に入らないわけ?」
「何も気に入らないとは言っていない。神室が罪を償おうとしていることは評価している」
「だったら……」
「ただし、それはお前が自分の人生を投げ出していい理由にはならない」
神室の言葉が止まった。
「罪を犯した人間には、相応の責任が生じる。だが、その責任は罪を償うことで果たすべきものであって、自分の将来まで差し出すことを要求するものじゃない」
神室が犯した犯罪は何も終身刑になるような類ではない。
アメリカでは950ドル以下の万引きでは警察が取り扱ってくれない話は有名だ。
これは軽犯罪なら犯してもいいという話ではなく、更生する意思があるなら彼女はまだ取り返せる位置にいるという話だ。
「神室。罪を償うことと、幸せになろうとすることは両立できる。少なくとも俺は万引きをしていた過去があるというだけで、お前が将来を望む資格まで失ったとは思わない」
言葉を見失い、自分を見失った彼女の指先が、グラスの表面をゆっくりとなぞる。
水滴がひとつ、指に押し流されてテーブルへの落ちていく。
「…私、そんな立派な事考えてない」
「いや、お前は考えてるよ。肝心な事から目を逸らす為に必死だからな」
「……好きとか嫌いとかじゃなく、もうちょっと言葉を選んでよ。人間として」
「それに関しては鋭意邁進中なんだ。多めに見てくれ」
…何よそれと俺の言い訳を聞き流した後、神室はじっと俺に視線を寄越して尋ねてきた。
「ねぇ、だったら私はどうすればいいわけ」
「俺が決めていいのか?」
「……いい。あんたが決めて」
「そうか。だったら大枠だけは決めてやる。俺が神室の事を諦めるまでは自分で自分を諦めるな。退学する事は俺が許さない」
彼女が求めていたのは具体的な解決策なのかもしれないが、そればっかりは自分で見つけるしかない。
だがそれすらも手助けしてやろうと今は考えている。
「それにさ、本当に何も望まない人間はわざわざ罪を償おうなんてしないよ。神室は、今までの自分とは違う人間になりたいと思ったんだろう?それは立派な欲求だと俺は思う」
「……あ」
彼女の口から、短い声が漏れた。何かを言いかけて、しかし言葉にはならない。
やがて神室は、張り詰めていた糸が切れたように背もたれへと身体を預けた。
「……そっか」
天井を仰ぎ、ぽつりと呟く。
「私、ちゃんと変わりたかったんだ」
「そういうことだろうな」
「……なのに、変わる前に全部終わらせようとしてたんだね」
「随分と気の早い話だ」
「……ほんと、馬鹿みたい」
その自嘲には、先ほどまでの投げやりな響きがなかった。
むしろ、長い間解けずにいた問題の答えを、ようやく見つけたような安堵が滲んでいる。
「……ねえ、綾小路」
「私、もうちょっとだけ考えてみる。学校のことも、その先のことも」
「当たり前だ。そうしてくれないとここまでした俺が報われない」
神室は小さく頷くと、しばらく黙り込んだ。
そして、何かを決心したようにこちらへ向き直る。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「……何よ、あっさり」
「感謝を受け取るのに、何か特別な作法が必要だったか?」
「……別に。そうじゃないけど」
神室は気まずそうに視線を逸らす。
それは多分、今まで恐れる事なく真っ直ぐ見据えていた未来に不安を感じた正常な身体反応だ。
「……あんたに言われなかったら、たぶん何も考えずに生きてたから」
「だろうな」
「だから、その……本当にちゃんと感謝してる。あの船で言われたことも、今日のことも。言葉は酷かったけど、変わりたいと思えるきっかけをくれてたんだって気付けたから」
棘が取れたような、思いのほか素直な言葉だった。
「余計なお節介を焼いただけだよ。俺への感謝なんて、そのうち忘れても構わない」
「……忘れるわけないでしょ。私、そんな薄情に見える?」
「さっきまでならそう見えてたかもな。今は違うのか?」
「……うん。……全然違う」
「そうか。なら、その変化はゆっくりと見届けさせてもらうよ」
俺がそう告げると神室はアイスコーヒーを一気に飲み干す。
話が上手く着地できた実感を得た事だ。俺も彼女に倣って帰り支度を始めた。
すると、不意に彼女がこちらへ身を乗り出してきた。
「……ちょっと借りる」
断りを入れるのとほぼ同時に、俺の鞄へ手を伸ばす。
「……手癖の悪さは直ってないみたいだな」
「借りるって言ったでしょ」
「事後承諾に近かったが」
「…細かい男」
彼女が取り出したのは、先ほどの有線イヤホンだった。
俺の近くに腰掛けて、片方を自分の耳に差し込むと、もう片方を俺の方へ差し出してくる。
「……ほら」
「いや、意図が全く見えないんだが」
「……さっき、憧れてるって言ってたじゃん」
神室は俺と目を合わせないまま、差し出した手を小さく揺らす。
「……お礼。今日の」
どうやら彼女なりに、先ほどの感謝を形にしようとしているらしい。
あれは邪な思考を誤魔化す為に適当に言っただけだったんだが、今更だな。
「いいのか?俺と一緒にエモーショナルな気持ちになって」
「……うるさい。嫌ならいいけど」
「俺が言い出した事だ。嫌なんて思わないよ」
俺は彼女の隣に座って、イヤホンを受け取り耳に差し込む。
物理的にも精神的にも随分と近くなった距離にドギマギしていると、神室は流し目を向けてくる。…うん、やっぱエモいなこれ。あと、神室が普通に可愛い。
その流し目の意図を正確に汲み取った俺はスマホで適当なプレイリストを再生する。
二人の耳に、同じ旋律が流れ始めた。
「……ふぅん。こういうの聴くんだ」
「意外か?」
「……別に。もっと変なの聴いてると思ってた」
「今まで音楽に興味がなかったからな。流行りから取り入れようとしてるんだよ」
「ふぅん」
興味無さそうな返事だったが、嫌な気持ちにはならない。
彼女が流れてくる音楽に合わせて、小さく身体を揺らし始めて、喜びが伝わってくるからだろう。
やがて、気分が上がった彼女から鼻歌まで漏れ聞こえてくる。
……なるほど。これは新たな発見かもしれない。
「……神室って、もしかして音痴なのか?」
「……は?」
「いや、今の鼻歌なんだが、原曲との共通点を探す方が難しくてな」
「うるさいわね。音を楽しむって書いて音楽でしょ。私は楽しんでたんだからほっといてよ。てか、そんなに言うなら、あんたは相当上手いんでしょうね?」
「そうだな。なら特別に音楽の真髄ってものを教えてやろうか。…俺の歌声に惚れるなよ?」
「…そんなに私、チョロくないし」
俺の冗談に微妙にズレた回答をした神室をよそに、俺は流れている曲の旋律を頭の中で分解し、音程とリズムを正確に再現する。
声帯の使い方を調整し、抑揚や息継ぎに至るまで原曲に忠実に歌い上げていく。俺は松下に指摘されてからというもの、抑揚の付け方までをもマスターしたのだ。
今や純粋な歌唱力において俺の右に出るものはいない。
一曲丸々披露したところで、ちらりと隣の神室の様子を伺うと、揺れていた体が途中で一時停止したような姿勢でぴたりと止まっていた。
先ほどまでの照れたような表情は消え、代わりに珍妙な生き物でも発見したような目で俺を見つめていた。
「……なに?あんたってボーカロイド?」
この後は恥と気まずさで、言葉を失った俺は無言で神室とカラオケを後にした。
………なんだよ。これ。全然エモくないじゃん。
やっぱ平成より令和の方がいいわ。
感想、ここ好きありがとう
尺の都合でカットした櫛田回は次回へと繰り越しです
半分ほどできてるので今週中には出ると思われる