神室と別れた後、俺は学校へと戻ることにした。
主な目的は二つ。体育祭で勝ち抜くための情報収集と生徒会に対抗しうるだけの能力を持った人材に目星を付けること。
そしてこの二つは並行して進めることが出来るタスクであると感じている。
そう考えた矢先、教室に立ち寄ると櫛田だけが一人残っていた。
窓際に佇み、頬杖をついて暮れかけた空を眺めている。
夕陽に照らされた彼女は、思わず心を奪われ足を止めてしまうほど絵になっていた。
「…櫛田。今、ちょっといいか?」
ぼんやりしているように見えたが、教室に入ってきた俺の気配には気づいていたんだろう。
特段驚くこともなく、こちらに視線を向けることもなく、櫛田はまるで会話の相手が窓の外にいるかのように応えた。
「……なに?」
かつて誰にでも振り撒いていた愛嬌は見る影もない。
その代わりと言うように、その横顔には儚げに影が差していて、哀愁を漂わせている。
以前の彼女とは別人のようにさえ思える。
けれど、見惚れるほど綺麗な事だけは絶対不変の事実だった。
そんな彼女にある種の緊張を覚えながら、俺は口にすべき言葉を探す。
「今朝は助かったから、お礼を言おうと思ってな。櫛田がいなかったら、手に負えない状況になってたと思う」
「大したことしてないのに、いちいち大袈裟だね。でも、お礼くらいは受け取ってあげる。どういたしまして」
ようやくこちらを向いた櫛田が、にこりと微笑む。
自分が最も可愛く見える角度まで、緻密に計算されたような完成された笑顔には、可憐さの中に気品があり、美しさの奥に儚さがある。
まさに彼女の代名詞のような表情に俺は胸が締め付けられる気分だった。
顔にも言葉にも態度にも熱が無くて、どうしようもなく彼女を遠くに感じてしまっている。
「……なに?さっきから私の顔じっと見て。……まだ何かある?」
櫛田が会話の隙間に入り込むように不審そうに尋ねてくる。
沈黙すら心地よかったあの時間は彼女が作ってくれていたものであると突き付けられる。
いざ自分がその役割を担おうとすれば、たちまち何を話せばいいのか分からないのだから。
「……髪伸びたなって思ってな」
気の利いた冗談も、取り繕ったような滑らかな会話も、彼女には見透かされる気がして。
そう思うと目についた容姿に言及するようなあまりにも拙くぎこちない感想しか出てきてくれなかった。
俺の指摘に櫛田は自分の髪を一房手に取り、数秒ほど眺めた後、ふっと脱力するように笑った。
「なにそれ。それを言うならあんたもでしょ」
「そうだな。長らく美容院には行ってない」
「それは行きなよ。髪を伸ばすにしても、結局バランスってもんがあるんだからさ」
「切る方と伸ばす方で迷ってたら、足が遠のいてな。……櫛田はどっちが似合うと思う?」
口にしてから、少しだけ後悔した。会話の流れに便乗しなければ、こんな些細なことさえ尋ねられない自分が情けなかった。
以前は、彼女の方から積極的に俺の容姿について助言してくれていて、俺はそれを当たり前のように受け取って、知らず知らずのうちに甘えていたのだ。
だが、そんな俺の臆病さは今回ばかりは功を奏した。
こんな機会は滅多に無いことで、櫛田の意表をつけたからだ。
予想外の質問に対して、彼女は窓の外に視線を逃がして、ぼそりと呟いた。
「……なんで私に聞くの。もっと適任がいるでしょ」
「櫛田以上の適任がいるとは思えないな。俺の今のこの外見だって、ほとんど櫛田プロデュースだろ」
「……やめてよ。それじゃ、私があんたを自分好みに仕立てたみたいじゃん。……別に、そういうつもりじゃなかったし」
「そういうつもりがなくたって構わない。俺はただ、櫛田がどう思っているのかを聞きたい。それだけなんだ」
やはり勇気がいる。彼女に対して、前のめりになるのは。
けれど、それはもう足踏みしていい理由にはならない。
彼女に与えてもらったものに比べれば、こんなものを勇気と呼ぶことすら烏滸がましいのだから。
「……別にどっちでもいいと思うよ。悪い意味じゃなくてね」
夕陽が彼女の白い頬に反射する。
彼女の本心を太陽が隠してしまった気がして煩わしい。
まさか、太陽に嫉妬の炎を燃やすことになるなんて思いもしなかった。
「だったら、もう少し伸ばすことにするよ」
「ふぅん。いいんじゃない? それで」
「櫛田が伸ばすなら、俺も伸ばしてみたくなったからな」
「……なによそれ。私に合わせる必要なんてないでしょ」
「あるさ。バランスってものは、自分だけで完結するものじゃないだろ?」
櫛田が一瞬、ぽかんとして、それから何かに気づいたように目を見開いた後はみるみる頬を赤く染めていく。
いや、彼女だけじゃない。朱に交わればなんとやら。
きっと俺だって、普段の俺とはかけ離れた顔をしている。
そして、今の俺は、それはポーカーフェイスの下に隠すべきものではないと気付いている。
「…………やめてよ、そういうの……」
彼女は顔を覆い、胸の内に燻る熱を振り払うようにぶんぶんと首を振る。
だが、その抵抗も虚しく、やがて持て余した感情は行き場をなくす。
櫛田は一歩こちらに踏み込むと、ごつんと俺の胸に額をぶつけてきた。
「あー……だめだ。……やっぱ、あんたといると、調子狂う」
視界には彼女の形のいいつむじしか映らず、彼女の表情も感情も分からない。
複雑に感情が入り混ざり渦巻く中、額越しに伝わる微かな熱がさらに混ぜっ返すように乱してくる。
俺にはもう、彼女を抱きしめたいという衝動を我慢すること以外できなかった。
何一つ清算できていない今、彼女の感情を無視して突っ走る訳にはいかないという、俺に最後に残された理性だ。
「あのさ……。いろいろ、ごめん。……今さらだけどさ」
「謝るべきは俺の方だよ。櫛田は何も悪くない」
「……そんなことない。……私が勝手にあんたのこと好きになって、暴走して、振り回したんだよ。あんたが迷惑がるのも当然でしょ。私なら嫌いになる」
「面倒だと思ったことはあるが、迷惑なんて思ったことはない。好きだと思ったことはあるが嫌いだと思ったことは一度もない。楽しかったんだ。櫛田との時間は」
紛れもない本心で返した言葉に彼女は小さな声で呟く。
「……そっか」
それから、櫛田はゆっくりと顔を上げて微笑んで言う。
「……うん。私も楽しかった」
内側も外側も全てを曝け出している俺達の言葉はお互いに嘘も偽りない。
けれど、彼女の目を見た瞬間、胸の奥が冷えていく。
好きだったと告げられて、その言葉に同じだけ熱量を持たせた言葉を返すことができて、それでも俺の心が満たされ晴れることはない。
悲しみを帯びた笑顔を見て、彼女がそれを過去のものとして語っていることに気づいてしまったからだ。
「……それでもさ、もうやめたんだ。あんたのこと、好きでいるの」
「このままじゃ自分のことまで嫌いになりそうでさ」
櫛田は笑う。いつものように、誰よりも上手に。
「だって、自己愛だけが取り柄の私がそうなったら、笑い物にもならないでしょ?」
皮肉と自嘲を混ぜたその笑顔を最後に、櫛田はすっと俺の胸から頭を離した。
触れていた熱が消える。温もりも、重みも、色々なものが纏めて綺麗さっぱり消えていくような感覚に襲われる。
それなのに、彼女の匂いだけがこびりついて消えてくれない。
良くない流れだと分かっているのに、俺の言葉は口から出る前に、彼女の拒絶するような表情一つで喉に引っ込んでしまう。
「…そうだな。俺も、自分のことを好きな櫛田が一番可愛いと思う」
挙げ句の果て、口を衝いて出たのは、何の救いにもならない空虚な感想だった。
「……でしょ?自分で言うのもなんだけどさ、今の自分、気に入ってるんだ。うーん、例えるなら蛹から蝶になった気分かな?私情とか私怨とか余計な殻は全部脱ぎ捨てて、私は誰よりも自由に、誰よりも優雅に、誰よりも高く飛ぶの」
彼女の底に棲む承認欲求の魔物は依然として残っているが、今までのものとは本質がまるで違う。
櫛田は自分の価値を自分だけで証明できるように進化を果たしたのだ。
「まあ、その代償として、友達は減ってく一方だろうけどね」
「…もし友達がゼロ人になって、一緒にご飯を食べる相手がいなくなったら連絡してくれ。便所飯くらいは付き合うから」
「あは。ほんとそういう冗談上手くなったよね。モテる訳だ。これはもう、『私が教えることは何もない!』ってやつだね」
教えることは何もない、か。
彼女はそうでも俺は違う。俺はまだ、彼女から教わりたいことが山ほどある。
会話の続け方も、相手を喜ばせる方法も、相手が離れようとした時にかけるべき言葉も。
肝心なことは、何一つ身についていない。
今、一番モテたいと思っている相手に、愛想を尽かされてしまうくらい、俺はまだ未完成品なんだ。
「だからさ。お互いに全部忘れて、やり直そっか。私達」
そっちの方が、今よりきっといい関係になれると思う。と続けた彼女の根拠のない言葉は、放心状態の中かろうじて聞き取れた。
俺の返事を待たずに笑顔だけを残して教室から去っていく彼女は最後まで綺麗だった。
引き止めようと思えば、出来たはずだ。
名前を呼ぶだけで、彼女の背に手を伸ばすだけでよかった。
けれどいつの間にかそれに値する資格は失効していた。
「……確か、フラれた時は慰めてくれるって言ってたな」
「こういう場合はどうすればいいんだろうなぁ…」
暗中模索の中に迷い込んだ感情がさっきの光景を反芻させる。
カップルじゃないのに、カップルみたいで。
別れ話じゃないのに、別れ話みたいだった。
きっと、俺が感じていた不健全とはそういう意味だったのだと思う。
踏むべき順序を飛ばして、お互いの感情だけが先行して。
揺るがない前提がないまま距離を縮めたから、ほんの少し歯車が狂っただけで、なし崩し的に破綻してしまった。
もう彼女は、無条件で隣にはいてくれない。
◆
夕陽が沈み、最終下校時刻が迫っていた。
俺は重い足を引き摺りながら寮へ戻る道すがら、花壇に水を撒く茶柱先生に遭遇した。
「知らないうちに用務員に転職したんですか?」
「馬鹿を言うな。校内の景観を維持するのも、教員の業務の一環だ」
……非効率な労働だなぁ。農業の自動化はマストだろうに。
村人を連れてきて、ブロックで囲っておくだけでいいんだから、そこまで難しい話でもない。
「期待外れで残念です。先生が辞めれば、俺にとっても先生にとっても吉報だと思ったんですけどね」
「……綾小路。言っておくが、私は船上試験の結果に満足していない」
「俺の働きに見合う成果が得られていないからですか?」
「そうだ。少しやりようを変えるだけで、結果は大きく違ったはずだ。例えば、一之瀬の信頼を逆手に取り、偽の情報を掴ませるとかな」
先生も俺が船上試験である程度の主導権を握っていたことは把握している。
その上で、得られた成果が物足りないと感じるのも当然だ。
約束のプライベートポイントは一之瀬に預けたまま、先生の目の届かないところに置いてある。
先生から見れば俺が持ち帰ったものは、一之瀬率いるBクラスとの友好関係くらいだ。
「出来ませんよ。俺は可愛い女の子には滅法弱くて、甘いんです」
「……お前が一之瀬と付き合い始めたことは掴んでいる。だが、再度忠告しておく。私がお前に見込みがないと判断した時が、お前の最後だぞ」
「もう少し長い目で見てほしいものですね。先生は生き急ぎすぎです。まるで婚期を逃すまいと必死なアラサーですよ。大人の余裕がまるで足りません」
「……彼女が出来て現実が見えなくなっているようだから教えてやろう。学生時代の恋人とそのまま結婚する人間は10%に満たない」
「それは若人達の特権をよく表したデータですね。茶柱先生のように相手の年収や実家の太さに目を光らせる必要はなく、目の前の恋愛にだけ集中出来るという」
経験豊富な星之宮先生とは違い、こと恋愛において茶柱先生に言い負かされる未来は想像できなかった。
俺より一回りは長く生きているはずなのに、不思議なこともあるんだ。
「本当に口の減らないやつだ。危機感というものが足りないようだな」
「先生は何も分かってませんね。俺の尻に火をつけたいのであれば、それは悪手ですよ」
「……何が言いたい」
警戒するように目を細めた先生に、俺は肩を竦めてみせる。
「言ったはずですよ。俺は可愛い女の子には滅法弱くて、甘いと」
「……それで?」
「少なくとも、脅して働かせようとする人よりは、困ってるから助けてほしいと頼む人の方が、手を貸したくなるでしょう?」
「……まさか私に可愛げを見せろとでも言いたいのか」
「現役女子高生とあざとさや可愛さの分野で競おうとすれば目も当てられなくなりますよ。どちらかと言えば求めているのは茶目っけですかね。普段はお固い先生だからこそ、時に柔らかい部分を見せればそれは強力な武器になります」
冗談と隠喩を交えて応酬し、俺は彼女が惜しみ無く晒している胸元に目を向ける。
だが、彼女は身を捩ることも臆することもない。こういうところだけは大人の余裕や色気を感じてしまうから少し気まずい。
だが、それと俺の言葉が癪に触ったこととは別問題だったようで、先生のホースを握る手元に力が入ったのが分かった。
「……お前の軽口に付き合っている暇はない」
「では、真面目な話をしましょう。先生は俺に何をしてくれるんですか?」
「全面的に協力してやってるだろう。船では深夜に差し掛かる時間に対応してやった」
「それは当たり前でしょう?俺は茶柱先生の為に頑張ってるも同然なんですから」
これは詭弁でしかなくて、俺は茶柱先生に脅されずとも、遅かれ早かれ堀北や松下と共にAクラスを目指すことになっていたと思う。そしてその時、能力の出し惜しみをする事は恐らくなかった。
だが、彼女がその角度から攻めてくることはあり得ない。
唇を結び、俺を睨んで、声色を落として責めるように言う。
「…綾小路、船での事は覚えてるな」
「ええ。鮮明に。あの時は『どうなっても知らんからなっ』とか何とか言った茶柱先生が俺の後頭部に手を回し—」
「詳細はいい!兎に角、私はその時、言質を取ったはずだ!」
「ええ、約束通り頑張りましたよ。ただ、頑張れば成果が出るほど世の中は甘く出来ていなかったというだけですよ」
「三流の言い訳だ。そんな理屈は通らん。私の払った対価に釣り合うだけの活躍をするのお前は約束したはずだ」
「へぇ〜、先生は随分と自分のプロポーションに自信があるようで」
「客観的事実だ。そして、お前が私のそれに魅力を感じているということもな」
先程から遠慮なく注いでいる不躾な視線を指摘された気がして俺は肩を竦める。別にそれに関しては否定するつもりは微塵もない。
「これは男の性みたいなものですよ。俺が先生に対して性的魅力を感じている話と直接結びつけるのは些か恋愛経験の乏しさと満たされない承認欲求が前面に出すぎていると思いますが?」
確実にダメージを与える武器を選び、それを正しく振う。
これがもしもRPGなら、彼女のHPゲージは赤く光っているだろう。俺は歪んでいく彼女の表情に容赦する事なく、止めの一撃を加えるべく舌を滑らせる。
「今の俺は異性に困ってませんから。先生と違い彼女は弾力も柔らかさも造形美も段違い。例えるなら彼女は特注しないと手に入らないA5ランクで、先生は薄利多売されているスーパーの市販品。しかも、もうそろそろ50パーセントOFFの割引きシールが貼られ—」
言葉遊びに毒を混ぜるのが楽しくて夢中になっていると、足元のすぐ側に水がビシャっと撒かれる。
「綾小路。超えてはいけないラインが分からないくらい、頭に血が上りすぎているようだな。それ以上御託を並べるなら、少し冷やしてやる必要がありそうだ」
ふぅと息を吐き、俺は思考を一旦クリアにする。
すると、確かに俺は着地点を忘れて突っ走っていた気がした。
「先生、水のやりすぎは良くないんですよ」
「…花に関してなら、そうだな。根腐れを起こすことがある」
「俺もまだ蕾ですよ。先生の育て方が悪いから、性根が腐り捻じ曲がり、目上の貴方に対してどのような態度を取るべきか忘れてしまった」
「…責任転嫁も甚だしいな。それは入学前からだろう」
彼女が俺の素性を全て知っているなんてつゆほども思っていないが、俺の父親が先生と呼ばれる立場にあることくらいは知っているらしい。否定出来ないところを突かれた。
俺の足元では、アスファルトが水を弾いていて、ズボンの裾を濡らしていく。
「それより先生、もう足元が濡れてるんですけど。枯れますよ、俺」
「ここら一帯は私の管轄なんだ。そんなところに立っているお前が悪い」
「なるほど。不可抗力ということですね」
俺が一歩退くと、ホースの水もそれに追従するようにやってくる。それを何度か繰り返したところで彼女を見る。
茶柱先生はいつもの顰め面よりも少しだけ頬を吊り上げていて、不覚にもドキリとした。…そういう茶目っけは出せるらしい。
俺はさながらフリーザのデスソーサーに相対した孫悟空の気分で、退くのではなく彼女との距離を詰めることで対応する。そのフリーザの末路は皆知っての通りだ。
「…ホースの扱いがなってませんね。先生は」
俺は茶柱先生の華奢な手からホースを軽く奪い取り、彼女の足元に向ける。
俺が同じことを仕返そうと彼女に思わせた瞬間、ホースの先端の下半分を指で塞ぐ。
押し出されるようにして勢いよく噴射した水は、ホースの角度を変えずとも上方向へと飛来した。
「――っ…」
びしゃあと白のブラウスに水が染み込み、茶柱先生が、声にならない声を発しているのを横目に水を止める。
「水をあげすぎな俺に対して、乾いている先生にはこれくらいが適量でしょう?……その花柄の刺繍の入った下着もそう言ってます」
「……体育祭。2位以上の結果を残せ。それ以外は許さん」
「この状況で出る言葉がそれなのは本当に救えませんね。…俺以外には」
俺はそんな人間である事を忘れて執心だけを残した茶柱先生に不敵な笑みを返しておく。
正直に言えばこれは鬱憤を晴らすことだけを目的にした八つ当たりだ。
茶柱先生に対して申し訳ない気持ちを持つことは難しいが、やり過ぎたとは反省している。
「先生、近いうち勝てるだけの戦略を持って、相談に来ますよ。その時は一人の教え子として対応してください」
「そういう台詞は思い付いてから言え」
「たった今思いついたから格好をつけたんです」
自信を浮かべた表情でそう言うと、茶柱先生は満足気に生意気だなと呟いた。
俺はそんな茶柱先生の谷間に溜まった水が作ったI字を見て、さっきの比喩表現は心の中で撤回する。
半額シールを貼られた安売りの肉だなんてとんでもない。
まさか天然だったとは。もしかしたら彼女が日本の畜産業に改革を齎すかもしれない。
◆
今日は今までのツケを凝縮したようなとても長い1日だった。
野暮用という名のタスクを終わらせて、時刻を確認すると午後10時。俺の9月一日はまだ終わらない。夜は始まったばかりだ。
俺は飽きることもなく、ひよりの部屋に訪れていた。
「……清隆君いいんですか?こんなものを見せてもらって」
「ああ。俺がひよりに隠すことなんて一つもないよ」
俺は僅か1日で制作した原案とも言える出場表を彼女に見せる。無論、アナログな紙面ではなく俺のスマホにしかないデジタルデータだ。
「…ふーん。あんた第一走者なんだ。じゃあ、私も一番に走る」
同席していた澪が隣にやってきて、何の遠慮も知らない感じで覗き込んで言う。
「澪、知らないのか?走力を競う競技は二人三脚と最後のリレーを除いて男女別だ」
「そうなの?なんかつまんな。だったらあんたのクラスで早い女子教えてよ。そいつと戦う」
「伊吹も知ってる人物で言えば堀北。知らない人物で言えば小野寺だな」
「…堀北ってあの無人島に偉そうにしてた奴?へぇ、あいつ早いんだ」
「ああ。喧嘩の腕も立つし、学力も秀でている。コミュ力は澪と同等だが、総合力で考えれば澪の上位互換かもな。あと、胸もデカい」
気の知れた澪にいつも通り口を滑らせた俺に対して、反対側にいたひよりがいじけた感じで脇腹を突いてくる。
…ひより大丈夫だよ。大きさと形とかそんなんじゃなく、俺の一番は君であることは揺るがないから。だって、それを恥じる君が世界で一番可愛い。
「堀北の順番は?」
「全競技で女子の1番目に据える予定だ」
「…じゃ、私もそうする。絶対負けないし」
「ああ。頑張ってくれ。健闘を祈るよ」
意気込む澪を応援する気持ちに嘘はない。
彼女もそれを感じ取ったのか、不審な目で見てきた。
「…ひよりはともかく、私にこんなの見せていいわけ?」
「構わない。龍園に伝わったとて何も思うことはない。俺の落ち度が招いたことだ」
「……別に言わないし。私が龍園を嫌いなの分かってるでしょ?」
俺はそんな澪の言葉に首肯だけ返しておく。
澪だけじゃなくCクラスの大半は龍園を嫌いながらも従っている。俺の考えでは澪はまだその一人から抜け出せるほど力は持っていない。
「私は龍園君の事は好きですが、やり方は嫌いです。嫌なことには従いません」
「……ひより、確認しておくがその好きってのに、余計な意味は含まれていないよな?」
「ふふ、心配症ですね。私が色んな意味を含んで好きなのは清隆君ただ一人ですよ。清隆君と違って」
意地悪な笑みを浮かべながら、嬉しそうにそんな事を言うひよりに俺は苦笑いを返しつつも、内心では尊い犠牲者を生ませずに済んだことに胸を撫で下ろす。
龍園相手は流石に骨が折れそうだからな。
「ひより。龍園に反発するのはいいけどもう少しコソコソでやってよ。ヒヤヒヤしたんだから」
「あれは龍園君が悪いんです。清隆君を目の敵するにしても、作戦内容が酷すぎます」
「だとしてもよ。もし喧嘩に発展したら守るのは私なんだからね」
「ふふ、守ってくれるんですか?」
「…当たり前でしょ。友達なんだから」
二人の話の内容についていけなかったので、咲き誇る百合の花にほんわか癒されていると、それに気付いたひよりと澪が顔を見合わせて頷きあう。
……もし、キスしようとし始めたら、それだけは止めよう。
澪が盾となってひよりを守ってくれるのは有り難いが、ひよりの唇を死守する役割だけは譲ることが出来ないのだ。
なんて決意とは裏腹に、彼女達が話してくれたのは龍園が今朝語った戦略だった。
なんでも俺相手に有効な策として、周りで俺をサポートする女子に狙いをつけて怪我負わせるみたいな乱暴な策を堂々と話したらしい。
龍園は俺が一番嫌がる手をよく分かっている危険な人物だ。
その後はさっき語った通り、ひよりが堂々と龍園に異議を申し立てた流れだ。その勇姿に西野や時任を筆頭とした龍園反発派がどう思ったかは語るまでもないだろう。
「……まあ確かに、あの時のひよりはかっこよかったけど」
「向こう見ずに突っ走るような危険なことはしないでよ。心配するでしょ」
嗜めるような真剣な表情で澪がそう言ったのを、咀嚼するように真摯に受け止めたひよりは俺のシャツの裾を引っ張って言う。
「清隆君。さっきの言葉は忘れてください。私も好きな人が出来たかもしれません」
「いいよ。男じゃないなら大歓迎だ」
「……でしたら、今日はこのまま三人で夜を過ごすのはどうでしょうか?」
「妙案だな。唱える異はない」
「……な、何もよくない!このバカ二人!もうちょっと自覚持て!!!私帰る!!」
バタバタと顔を真っ赤にして出ていった澪に、悪戯が成功した子供のように頬を綻ばせたひよりと俺は笑った。
「ふふ。えっちですね。澪さんは。私は夜を過ごすって言っただけですのに」
「ひより、本当に夜を過ごすだけでいいのか?」
「はい。清隆君はそういう夜は嫌いですか?」
ひよりと過ごす時間を嫌いになれる日が来るはずもない。
そう確信するのに、疑問は必要ない問いだった。
きっと、彼女は俺の些細な様子から俺が抱えている事情を察してくれている。
感想、ここ好きありがとう〜。
ストックしていた話が尽きたので多分、次の更新は来週です