ほのぼの回
9月2日。
俺は体育祭への準備を粛々と進めていた。
昨日の反省を踏まえ、既に篠原を筆頭とする、会議を荒らすだけの反乱分子は、札束でビンタすることで黙らせている。
彼女達がそれで今後もつけ上がるようなら別の策を講じる必要もあるだろうが、今はこれでいい。
言うならば、彼女達を黙らせることは十分条件にはならず、体育祭を勝ち抜く上で本当にクリアすべき必要条件は別にある。
だが、それについても既に手は打ち、盤石の体制を整えた。
二日目にして、後は出場表の調整と作戦の細部を詰めるだけの段階である。
「そうだな。取り敢えず全員、俺と腕相撲をやろうか」
体育祭の準備として与えられた二時間のホームルームが始まった直後、教壇に上がった俺は全員にそう宣言した。
必要であれば、腕相撲では腕力だけでなく、手首を保つ力や肩と胴体の筋肉の連動、姿勢を崩されても立て直す身体操作を観察できることも説明するつもりだったが、その必要はないらしい。
何人かは顔を見合わせるものの、反対意見が出てくる様子はない。
体育祭を機に弱みばかり露呈しているが、統治が容易いのは少数精鋭の強みの一つだ。
「腕相撲と言えばお遊びに聞こえるかもしれないが、呼称を変えたアームレスリングには一握りだがプロもいるくらいだ。簡単なルールを説明する」
俺は教卓に肘をつき、あまりにも俺に不利な条件を説明していく。
肘を支点にして戦うのは俺だけ。相手は両手を使おうが、立ち上がって体重を乗せようが構わない。
こうして敢えて自由度を与えることで、腕相撲の経験や技術の差を抜きにした、姿勢や筋肉の使い方などのシンプルな身体能力のみを測ることができる。
「勝つつもりで全力で挑んでもらうためにも報酬を用意した。もし俺に勝てたら50万pt払うつもりだ」
男女の力の差を埋めるだけの明確なハンディキャップと、馬の鼻先に吊るされた人参に全員の目の色が変わる。
「随分舐められたものね。いいわ。その腕、へし折ってあげる」
「堀北さんに同じく。綾小路君が力強いのは知ってるけど、この条件じゃ流石に負けないって」
「ふっふっ、土俵入りだね。私の腕相撲は世界一だよ」
堀北と小野寺が戦意を剥き出しにして、エドモンド佐藤が腕まくりして近寄ってくる。
二人も後に続いたが、一旦は様子を見る余裕があるらしく、先鋒を佐藤に譲った。
佐藤がこのまま塩でも撒きそうなくらいどっしりと構え、俺の手を両手でがっちりと掴んだところで、静観していた茶柱先生に目配せする。
「先生、スタートの合図を」
「……いいさ。もう何も言うまい。お前がやる気になってるなら、それでいい」
俺に顎で使われた先生がそう呟いた後、渋々といった様子で開始を告げる。
無論、俺が開幕から速攻を仕掛けて試合を終わらせにいくことはない。これは彼女の0から100への出力の速さと反射神経を見るための措置でしかないからだ。
俺は彼女が懸命に腕を倒そうとする努力を数秒見届けた後、無慈悲にその手を教卓に押し倒した。
フレーム単位の世界で競う格闘ゲームにのめり込んでいる佐藤の反射神経は中々のものだった。それ以外褒めるところはない。
「いったぁい!もっと優しくしてよっ!」
「次は誰だ?」
「いや、話聞いて!?」
そこまで強く打ち付けた訳でもないのに大袈裟に手をフリフリと振る佐藤をいつものように雑にあしらってクラスを見渡す。
小野寺と堀北は今の一戦で俺の実力を感じ取り、俺の体力が削れるのを待つ方向にシフトしたのか前に出る様子はない。
二人は勝負事になると冷静に勝率を上げるための行動が取れる人材だ。
だから、必然的に次は目先の金に目が眩んだ人間を相手にすることになる。
「佐藤さんは四天王の中でも最弱。綾小路君、私はそうはいかないよ?」
「四天王は四天王でも、クラスの下位4人を集めたワースト四人だろ。それは」
結果から言えば篠原は、佐藤から反射神経を抜いたような実力だった。特筆すべきことは何もない。
その後は待っていても埒が明かないので、じゃんけんをさせて負けた順に相手をしていく。
若干接待しながらの腕相撲は、さながらヨークシン編でのゴンの気分だった。
◆
そのうち白石の異名に肩を並べる通り名をつけられてもおかしくないと感じながら、俺は女子をバッタバッタと薙ぎ倒していく。
ここまでの収穫は、長谷部は意外と力が強いので怒らせない方が賢明だろうという事くらいで、他は軒並み予想通りの実力だった。
「よし!そろそろ、私行こうかな」
前に出てきた小野寺が袖を捲り、両手で俺の右手を掴む。
「綾小路君。手加減はいらないから」
「そんなものは出来そうもないよ。今は小野寺を女子だとは思わない」
「いや、それはちょっとなんか……、…まあいいや。なんか俄然燃えてきた」
余計な火をつけてしまったがこれもまた一興。開始と同時に彼女の背中から肩へ力が通り、腕が僅かに傾いた。
流石は水泳部エース。腕相撲とは名ばかりで、今回のルールで本当に必要なのは腕の筋肉ではなく、強靱な下半身こそが肝。彼女の場合、そこに文句は付けようもない。
「あは、いけるかも!」
「前向きだな」
「えぇ、余裕じゃん…。もっと必死になってよ」
期待に応えて押し返すと、小野寺の笑顔が引き攣った。
「……やっぱ、今のなし。もうちょい気楽にやって」
「注文の多い水泳部だな。俺は食べられるのか?」
「……?ごめん、どういうこと?」
「…読書は大事って話だよ」
草葉の陰で泣いている宮沢賢治の気持ちを手の平に乗せて俺は小野寺をぐいぐいと押し返していく。
彼女は足を踏み直して懸命に食い下がろうとするも、その抵抗は虚しく終わった。
「あ〜、やっぱ無理か〜」
最初から本気で勝てるとは思ってなかったのだろう。
小野寺はどこか達成感すら感じさせるほど快活に笑う。
「小野寺は足トレは地味だからってサボるトレーニーを反転したような体だな。筋力が下半身に偏りすぎだ」
ギター初心者がFコードで躓くように、トレーニーが足トレで躓くのは世の常だ。
ハムストリングスを鍛えようとするとどうしても高負荷のトレーニングになるし、短期的な変化は期待できないからな。
その点で言えば小野寺は筋トレの美味しいとこだけを残した状態で違和感がある。
「女の子は複雑なんだよ。だってほら肩幅は狭い方がいいし、腕は細い方が可愛いじゃない?」
「ありがちな男女の価値観の溝かもな。それは女子が好きな女子の姿だよ。断言できるが筋肉が嫌いな男はいない」
女の子の腹筋とか、ほら、なんて言うか、凄くいいよね。多分、男女の価値観の溝なんてシックスパックの溝を思えば平地と変わらない。
「それに俺は体型は髪型と同じで似合わせってものがあると思っている。小野寺の場合鍛える事は可愛さを損なう事にはならないよ」
性的嗜好が背中を押して賛辞の言葉を並べた俺に、目を丸くした彼女がぽしょりとお礼を言ってきた。
心なしか顔を赤らめた彼女がそれを誤魔化すように俺の腕に手を伸ばしてくる。
「それにしても、綾小路君の方は硬すぎない?何食べたらそうなるの?」
「………鶏胸肉だ。それ以外ない」
危うく『強くなりたければ喰らえ』的な感覚で答えてしまいそうになったが、何とか蛋白質の代名詞的存在が口を衝いて出てきてくれた。
「かや乃ちゃん。後ろ詰まってるから」
小野寺が夢中で唐揚げの下拵えをするかのように俺の腕を手揉みし始め、本当に食べられちゃうのかなと戦々恐々としていると松下が割り込んでくる。どうやら助かったみたいだ。
ありがとう。松下。やはり持つべきものは良き友人だ。
「普通にやっても負けちゃうだろうからね。私は頭を使ってみようかな」
「お手並み拝見だな。期待してる」
「やめてよ。こう見えても緊張してるんだから」
「なるほどな。こういうのははじめてか?」
「……綾小路君が相手だと知ってて言ってるのか分からないからもどかしいけど、それ友情崩壊する奴だから。二度と言わないで」
無論知ってる上で、知らないフリをして言っている。
俺としてはそういう崩壊の仕方ならありなのかもしれないと思っているくらいだ。
松下が椅子に座って俺の手を片手で握った。
「片手でいいのか?」
「うん。多分これが一番勝率高いから」
彼女の言葉を聞き、俺は茶柱先生に目配せして合図を促す。彼女はもうBOTを彷彿とさせるほど事務的に開始のゴングを鳴らした。
松下は開始と同時に右手に力を込めたが、俺の感想としては他の多くの女子と遜色がないレベルというものだった。
「やっぱ動かないかー。私、走力はまあまあ自信あるけど、力は無いんだよね」
「だったら、両手でやった方がマシなんじゃないか?」
「意地悪だね。かや乃ちゃんの全力で無理なのに私がやっても勝機なんてないって分かってるでしょ」
確かにその通りなのだが、全力でやってもらわないと趣旨がブレるだろう。そう思った矢先だった。
「言ったでしょ。頭を使うって。左手はそれより有効な使い方があるんだよ」
俺の疑問を解消するかのように松下の左手がにゅるりと伸びてきて、俺が机に乗せていただけの左手の小指に軽く触れる。
不意の接触に小指の先から背中にかけて電流が走るような錯覚すら覚えてドギマギする。
だが彼女は素知らぬ顔で俺の反応を楽しそうに窺いながら、爪先から第一関節、飛んでは第二関節までゆっくりと指先を滑らせていく。
やがて小指の根元まで辿り着くと薬指との間に指先を捩じ込ませて小指同士を絡み合わせてきた。まるで何かの契りを交わすみたいに。
白く綺麗で柔らかい指が明確な意思を持って動き、俺の左手を好き勝手弄んでいる事に心地良さを覚え始めたところで、
だんっと彼女の右手を机に押し付けて試合を終わらせた。
「…松下。緊張するってのはこういう事をする前提だったという事か?」
「うん。こういうのはじめて?」
「…そういうのは二度と言うな」
「……意味知ってんじゃん。えっちだね。…お互い」
それに関して否定するつもりはなかったが、最後に自分を含めるような言い回しに思わず言葉を失った。
そんな俺の姿に彼女は肩の力を抜いたように笑って席を立った。
もしかしなくても松下って……
「綾小路君、綾小路君。あれは絶対Sだよ。間違いない。私が保証する」
「……佐藤。余計なことを考えてる暇があったらその辺で四股でも踏んで下半身を鍛えとけ。ただでさえ弱いんだから」
「いや、ひどっ!?」
口ではそう言いつつも構ってもらって嬉しそうに去っていく佐藤。
そんな事は彼女に言われなくたってやられた俺が一番分かってるのだ。
今日の格言。松下はSで佐藤はドM。以上!
腕相撲やろうぜ!
◆
「憎たらしいくらい疲労を感じさせないわね。貴方の体力に底というものはないの」
「この程度の試合数で底が見える腑抜けた鍛錬はしていないからな」
例えるなら今までの試合は既に世界を救った勇者が最初の村周辺で魔物と戯れているようなものだ。こんなものは余興に過ぎない。
椅子に座り、堀北は差し出した俺の右手を取り臨戦態勢へと移行する。最初は同条件の片手から挑むところは彼女らしい。
「私が勝ったらポイントはいらないわ。その代わりに、放課後、私と付き合って」
「それは大事なところが省略されていて、実は放課後から私と正式に付き合ってとかじゃないよな?もしそうなら、応えられない」
「…動揺を誘ってるつもり?だとしたら浅はかよ」
「その割に顔が赤くなっているように見えるが?」
「当たり前でしょう。私、貴方のこと好きだもの。その気持ちは貴方が一之瀬さんと付き合っていても変わらない」
多くのクラスメイトはぐったりと項垂れている上に堀北に関心がないが、近くで試合を観戦していた小野寺と松下はその限りじゃない。
堀北の堂々とした物言いに俺と同じく呆気に取られていた。
「茶柱先生。合図を」
「…堀北。綾小路のそういうところばかりを倣ってくれるな。生意気な生徒は一人でも手に余るんだ」
「今でこそ彼は不遜ですが、入学当時はもう少し殊勝だったように思います。彼を変えたのは先生なんじゃないですか?子が親の背を見て育つように、生徒もまた教師に倣うものですから」
一番近くの特等席で俺の変遷を見てきた彼女の言葉には簡単には覆せないほどの説得力があった。以前に比べて随分と周りが見えるようになったものだと感心する。
まあ、周りと言っても俺に限定したもので、周囲のクラスメイトがどう思うかなど微塵も考えていないところに彼女らしさは残っているが。
…案外、俺を茶柱先生の執念から解放してくれるのは彼女かもしれないな。
だが、その茶柱先生とて誰かに何かを言われたところで折れるような生半可な覚悟ではない。堀北の投じた一石を一笑に付して、開始の合図を告げた。
直後、瞬時に立ち上がった彼女は左手を添え、開幕フルスロットルで力を入れてきて、それに呼応するように俺の全身の筋肉も唸った。
「貪欲だな。最初、片手で挑もうとした姿勢はブラフだった訳だ」
「勝つために手段は選ばない。貴方から教わった事よ」
「それは大きな誤解だな。学ぶ姿勢を忘れた人間が平等を謳う時に『天は人の上に人を造らず』を持ち出すのと同じだ」
俺は徐々に出力を上げて堀北の手を押し返していく。
「強者は勝つために手段を選ばない。弱者は勝つために手段を選べない。そして、その強者と弱者が正面から対峙した時」
「弱者は負け方すらも選べない」
彼女の手の甲を優しく机に押し付けて試合を終わらせる。
脱力したように椅子に座って固まったまま、思考だけを回す彼女の表情には悔しさはなく、ただ反省の色だけが残っていた。
「……何が足りなかったのかしら」
「圧倒的に力が足りない!と言いたいところだが正直足りてるものを探す方が難しいな。技術も工夫も勝つ気概も何もかもが足りていない」
負けず嫌いの彼女が大して悔しがっていないのは俺を負けても仕方のない相手として既にカテゴライズしてしまっているから。
歯に衣着せぬ物言いに眉を寄せた彼女の手を掴み、もう一度俺は手を組ませる。実演してテコ入れをする必要があると考えたからだ。
「逆の立場で実践するぞ。もし、俺が堀北の立場だったとしても、最初は堀北がやったように両手を使って押してみる。身体の向きを変えたり、体重を乗せたりもするだろう。だが、それは勝つための本命じゃない」
「…貴方の反応を見るため?」
「その通りだ。それと、俺は本気で腕を倒そうと全力を尽くしていると思い込ませるため。堀北、押し戻そうとしてみろ」
俺の指示に頷いた彼女が押し戻そうとしてきた瞬間に俺は力を緩め、相手の力を利用して腕を勢いよく引き上げる。
「肘が浮いたな。これで堀北の反則で俺の勝ちだ」
俺が手を解くと、彼女はジロリと俺を見て負け惜しみのように言った。
「腕を倒すことばかりに意識を向けさせて、別のところで決着をつけるってことね。…相変わらず卑怯な手を考えさせれば右に出る者はいないわね」
「志が低いんじゃないか。お前が求めてる場所は俺の下や後ろではなく俺の隣なんだろう?ここまで上がってきてもらわないと困る」
俺は彼女を立ち上がらせるように手を差し出し、遠慮なく掴んできた彼女を引き上げる。
「堀北。お前の実力は女子の中でも屈指のものだ。体育祭で戦う相手のほとんどは格下になるだろう」
堀北のように真正面から勝てる実力がある人間は、多くの場合それだけで事足りてしまう。
だが、俺が彼女に求めているものは多くの場合事足りる実力ではない。
「想像するんだ。実力で劣る相手が、お前に勝つために何を仕掛けてくるのか。お前が当然だと思っている条件の中に、相手だけが見つけた抜け道がないか。負ける可能性を1%も残さないために」
俺の言葉に彼女が新たな決意を胸に、確固たる闘志を目に宿していくのが分かる。それが嬉しくて頬が緩んだ。
「頼りにしてるよ。相棒」
だからだろうか。
少しクサい台詞も、恥ずかしげもなく突き出した握り拳も今は心地良い。
「ええ、勝ちましょう。綾小路君。体育祭、目指すは一位よ」
「いや、それは多分無理ってか、絶対無理だ」
「…そこは最後まで格好つけるところじゃないかしら。しっかりしなさい」
突き出した拳に堀北の拳がぶつかりゴチンといい音が鳴った。
少しは手加減を知ってくれ。そう言いたくなるくらい痛かった。
◆
「私はパス。やんなくても結果分かるから」
最後の一人になった櫛田が、頬杖をついたまま平然と言う。
「え〜、桔梗ちゃんもやろうよ。綾小路君、連戦で疲れてるから案外勝てるかもしんないよ?」
「そうそう。私達、全員やったんだからさ」
以前と変わらぬ調子で誘う声に、彼女は曖昧な笑みを浮かべ、それでも「やんないかな」と拒否を突きつける。
教室の盛り上がりに水を差すような態度は、周囲の口を軽くした。
「……なんか最近、キャラ変わったよね。櫛田さん」
「前はこういう時、一番ノリよかったのに」
彼女はそんな安い陰口を軽く聞き流して、また一人の世界へと戻っていく。
この空気を変えられるのも、彼女をその世界から引っ張り出せるのも俺しかいない。そう思っているくせに、昨日の今日でかける言葉は見つからない。
だって、今日は一度も目を合わせてもらっていない。
彼女の綺麗な横顔ばかりが、脳裏を過ぎっていく。
「ふっ。プリティガールから一転、随分とクールになったものだねぇ。それとも、それが君の本当の姿だったのかな?」
高円寺が手鏡を閉じて、櫛田の席へと向かう。
そしてそのまま前屈みになり、彼女の表情を覗き込んで笑った。
「何か用かな。高円寺君」
「私は素直に感心しているのだよ。嘘を見破る私の目を欺いていたこともそうだが、それ以上に、美を自分のためだけに追求する君の姿勢は素晴らしい」
「ありがとう。別に褒められるためにやってるわけじゃないけど、嬉しいことには変わりないから、お礼は言っておくね。それで、もう一度聞くけど、何か用かな?」
「君に用はないさ。ただ、道端に咲いた一輪の花を、気まぐれに愛でただけのこと」
クラスの空気を一変させた男が櫛田の席を離れ、思わせぶりな笑みを浮かべて近付いてくる。
「当然、私の相手も務めてくれるんだろう?綾小路ボーイ」
まさかの人物の参戦に、教室がざわつき始める。
櫛田も目を見開いていた。いや、彼女だけじゃない。茶柱先生を含めた全員が、驚愕の色を隠せずにいる。
「ああ。必要であれば、ハンデでも何でもつけてやるぞ」
「愚問だねぇ。私にはハンデもポイントも必要ないさ。無論、君と違って他人からの評価さえもね」
「そうか。なら、余計な会話すら省こうか」
「そうしたいなら、そうすればいい。君のボロが出ないうちにね」
彼の薄ら笑いに見透かされた気分になるのは、きっと心当たりがあるからだ。
自分の実力に限って言えば、俺も高円寺と同じく、他人の評価という天秤に載せるつもりはない。自分の優秀さは、自分が一番よく分かっている。
その反面、自分に足りない部分まで十全に理解できてしまうから、こと恋愛においては、他人の承認……いや、櫛田からの評価や承認を得ようと躍起になっている。
そしてそれは今や抜け出せないパラドックスとして俺を蝕んでいる。
「男と手を繋ぐのは趣味じゃないんでねぇ。悪いが、速攻で終わらせてもらうよ」
「その点に関しては同感だな。負けるつもりがないというところまで」
俺達は教卓を挟んで立ち、互いに肘をつけた状態で手を組む。
心に抱えたモヤモヤと、現状維持しか出来ない苛々。そのどちらも自分に向けた感情だが、今は力に昇華して彼にぶつける。
待望の八つ当たり、第二シーズン開幕だ。
「始めっ!」
思いもよらぬ対戦に、流石に茶柱先生の声にも力が入る。
その合図と同時に、俺は開幕から全力を注ぎ込んだ。
指を締め、手首を固め、踏み込んだ足から肩まで力を通す。
全身の筋肉に悲鳴を上げさせた俺に対して、流石の高円寺も笑みを消した。太い前腕に筋が浮かび、その肩が僅かに沈む。
だが、組んだ手は中央から動かなかった。
「……ねえ、始まってるよね?」
小野寺の声に、誰もすぐには答えない。
高円寺が手首を起こそうとする。その動きを押さえ込むと、今度は横から重い圧がかかった。
押し返す。僅かに傾く。すぐに戻される。
その応酬が、外からは一つの静止画に見えているのかもしれない。速すぎて見えなくなる攻防は聞いたことがないけれど。
「もしかして、どっちも相手が動くの待ってる?」
「いいえ。二人とも、もう仕掛けているわ」
松下の問いに答えた堀北が、俺達の足元へ視線を落とす。
「肩も足も、少しずつ位置が変わっているでしょう。互いに有利な形を取ろうとしているのに、そのたびに潰されているのよ」
「……解説されないと分かんない腕相撲、初めて見たんだけど」
そんな周囲の反応にかまっている余裕はない。
俺は高円寺の腕を僅かに押し込む。その角度を維持しようと力を加えた途端、掌の内側から押し広げられるような圧力が走った。
握りを直し、肩を入れる。今度はこちらが僅かに押し戻され、
みしり、と。
肘の下辺りから嫌な音がした。
「……今の、どっちの腕?」
「腕からあんな音が鳴れば、勝負どころではないでしょう」
堀北の指摘に、周囲の視線が下がる。
肘の下で、天板が僅かに撓んでいた。
「ここでようやく動いた!」
「机がね」
松下が冷静なツッコミを佐藤に入れた後、「さっきからちょっとうるさい。解説席に素人混ざってる感じ」と追撃の毒舌を浴びせる。
それに対して全く怯まないどころか、心なしか嬉しそうにしている佐藤はもうクラシックへの変更は無理だろう。
そんなDクラスらしい光景の最中も俺達の攻防は続く。
高円寺が押す。俺が押し返す。そのたびに、古い木材が軋む音を立てた。なんかベッドが軋む音みたく聞こえるのが心底嫌で、さらに力が入った。
「茶柱先生、これ大丈夫なんですか?」
「分からない。備品に関して、そこまでの強度は想定されていない」
引き寄せの法則か。そんな不穏な会話が聞こえた直後、
ぱきり、と乾いた音が鳴り、天板の表面に細い亀裂が走る。
「もうやめて!教卓のライフは――」
佐藤が面白半分でそう言い切る前に、天板が真ん中から派手に割れて床へと落ち、肘の下からの支えが消失する。
誰もが薄々は想定していた事態だが、退くに退けない漢と漢の戦いだったこともまた周知の事実だった。
「……ねぇ、これ、どっちの勝ち?」
「二人とも負けでいいでしょう。肘が浮いているもの」
俺と高円寺は互いの肘を見下ろし、手を離す。
オーディエンスは最高潮の盛り上がりを見せたが、不完全燃焼でしかない幕切れに俺達は何とも言えない感じだった。
しかも、さっき堀北に教えたばかりの負け方を、まさかこんな形で実演することになるとは何とも格好がつかない話である。
……男子ってほんとバカ。
感想、ここ好きありがとう。
電子書籍版だけ発売日遅いの納得できるやついる?いねぇよなぁ?
って事でまだ最新刊読めて無いです。感想書く際はネタバレだけは注意してください。