「愛里いいよ〜、可愛いよー、そのまま谷間を寄せて上目遣い向けてみよっか?」
「……こ、こう?」
「うわ、これやば。何かしらの罪に問われちゃうんじゃないの?……ちょっと、上からの画角も撮らせて」
「は、はるかちゃん……、こ、これ、見えちゃってないよね?」
「大丈夫、大丈夫。下手に見えてるより見えそうで見えないこっちの方がえっちだから!」
質問の答えになっていないし、一体何が大丈夫なのかも分からないが、末恐ろしいことに長谷部がチラリズムの極意を習得してるという事だけは分かった。
長谷部がスーパーサイヤ人ゴッドを超える日も近いかもしれない。いや、今でも十分過ぎるほど身勝手だから、既にその域に到達している可能性も否定できない。
「まって、はるかちゃん、接写はほんとにダメ。盛れないから!」
「何言ってんの、この距離でこんなに可愛いのってバグなんだから。ほらほら〜、観念して早くその手を避けるのだ〜」
「もうっ、ダメってば。こんなに近くから撮ると遠近感で強調されて、鼻ばっかり大きく写っちゃうんだからっ!広角レンズの闇なんだから!幾何学的に証明されてるんだから!」
「お、おう……。やっぱ、愛里詳しいね…。でも、そんな理屈は昨今の編集技術と加工技術の前では無力なのだ〜!」
「き、きゃぁぁ〜」
佐倉の悲鳴が聞こえた後、パシャパシャと連続したシャッター音が部屋に反響する。
う〜ん……、生殺しとはきっとこういうことを言うんだろう。
ドア一枚隔てた廊下で待機を命じられている俺はイヤホンを取り出し耳に装着。焚き火の音を再生して瞑目して座禅を組み、沈思黙考、心頭滅却。
これ以上邪念を刺激されると、現在打率10割を誇る綾小路Jr.が勝手にネクストバッターサークルで素振りを始めてしまいそうだった。
◆
心も身体も完全に凪いで呼吸音だけが谺し、五感が研ぎ澄まされていく感覚が体を満たしていく。
しかし、そんな心地良さにどっぷり浸っている時でさえ、冷静を気取って俯瞰しているような自分は消えてくれない。
ホワイトルームで形成され定着した人格が、その心地良ささえ分析し管理しようとする。
どれだけ感情に身を委ねたつもりでも、その手綱だけは離してはくれないらしい。
(………それにしても遅いな。このまま自己分析の果てに悟りを開いてしまったらどうするんだ。俺がネットで拾ってきた教訓を流暢な関西弁で垂れ流すゾウの話を愛読書として紹介するようになったらひよりに心配されちゃうでしょうが)
俺は自己啓発するよりひよりに開発されたいのだ。
と、悟りとは対極にある扉へ手をかけていた自分に気付き、俺はすぐさま邪な思考を振り払う。
これも全て、こんなに焦らしてくる二人のせいだと断じて、腰を上げ、ドアの向こうへ声をかけた。
「なぁ、そろそろいいか?」
「き、きよぽん!?ま、マジでダメ。今は絶対開けないで!開けたら絶交だから!」
「はるかちゃん、それは都合がいいんじゃないかな?私の時は『編集するのはきよぽんだって思うと恥ずかしくないでしょ?』とか言って際どいところまで—」
「そ、それは、愛里のアピールになると思ってのことでしょ!?」
「じゃあ、はるかちゃんも一緒にアピールしよっか。綾小路君、入ってきていいよ〜」
部屋の主である佐倉の許可が出たところで俺はドアを一思いに開く。
必死の抵抗の声をあげて、取り乱す長谷部だがもう遅い。
俺の視界は水着を身につけた長谷部を撮影する佐倉という、完全に立場の逆転した光景を収めてしまった。
「なるほど」
「…………………きよぽん。それ、感想として終わってると思うんだけど一応聞いたげる。…何がなるほどな訳」
止めたのにもかかわらず俺が部屋に入ってきた不満、長谷部の水着姿(佐倉のものを着用)に対しての感想への不服。
負の感情を一緒くたに混ぜたような目で長谷部は俺を睨んできた。
ここでの一言を間違えれば、この状況を作った功労者である佐倉の努力が水の泡になってしまうだろう。
俺は脳内で広辞苑にアクセスして、長谷部の水着姿へ贈る言葉を吟味する。この間約0.2秒。一か八かの領域展開。
「長谷部、お前も(グラビア)アイドルにならないか?」
◆
図らずも猗窩座みたいになってしまった俺の誘い文句に、当然、彼女が二つ返事で頷くことはない。
『長谷部、お前は高育の柱になれ』の方が良かっただろうか。いやでも、これは部活でも何でもなく私的な活動だからなぁ……。
そんな見当違いの反省をしている間も、長谷部は答えを出しかねた様子で黙っていた。
その沈黙の最大の理由は、隣で爛々と目を輝かせている佐倉だろう。
やがて、その視線に押し負けたように溜息をついた長谷部から『着替えるから出てって』と告げられ、俺は廊下へ蜻蛉返りすることになった。
数分後、部屋に呼び戻されたものの、長谷部の表情はまだ晴れない。
もとより、一朝一夕で彼女の根底的な部分を覆せるとは思っていない。俺はこちらは本気だということだけ伝え、それ以上は言葉を慎んだ。
彼女が目立つことを嫌い、内向的な性格であることは理解している。
返事を急がせば、頷く理由より断る理由を探させることになるだろう。
だが、それでも佐倉は引き下がらなかった。
俺がパソコンの前に座って編集作業を始める背後で、長谷部へ懸命に言葉を重ねていく。
「はるかちゃん、一緒にやろうよ。私、はるかちゃんが一緒だと心強いよ」
「……こんなこと聞いていいのか分かんないんだけどさ。…愛里は、その……恥ずかしくないの?」
「……恥ずかしいよ。人前だとこんな格好は絶対無理だし、目立つのも怖いもん」
「まあ、愛里って普段は地味な格好に扮してるから、そこは説得力あるんだけど……ネットだと違うってこと?私にはその感覚、分かんない」
「ううん。直接見られてないとはいえ、ネットでも恥ずかしいよ……。でもね、私には多分、この形しかないの」
背後で交わされる二人の会話に、俺は感銘を受けていた。
佐倉の話術には一切の打算を感じさせない。
相手の警戒を解く前置きも、断りにくくするための理屈もなく、ただ自分が何を恐れ、それでもどうしたいのかを、不器用なまま差し出していた。
「本当の自分を曝け出して認められるのって何よりも嬉しいの。…って、こんなこと話す方が恥ずかしいね」
照れたように締め括った佐倉に、長谷部はすぐには言葉を返さなかった。
長谷部以上に内向的で、目立つことを怖がっている。
そんな佐倉が、今は誰よりも眩しい。
長谷部の心に言葉を響かせるのに、佐倉以上の適任はいない。
◆
加工と編集を終え、ダブルチェックにも十分な時間をかけてから、俺は本日分のデータをアップロードする。
作業の終わりを見届けた佐倉が、珈琲を運んできてくれた。
マグカップには、いかにも彼女が好みそうな可愛らしいキャラクターが描かれている。
「お疲れ様、綾小路君」
「労われるべきなのは佐倉の方だよ。万事、ここまで滞りなく運ぶとは思わなかった。よくやったな」
「えへへぇ、うまくできた?」
佐倉は唯一無二の説得力を発揮し、長谷部に首を縦に振らせることに成功した。
だが、彼女が本当に欲しいのは、仲間の獲得という成果ではなく、俺の評価の方だろう。
「ああ、期待通りの動きで非の打ち所がないくらい完璧だった。もし、あのまま押し切れば長谷部はヌードすら受け入れてたと思う」
「そ、それはダメだよ。私もまだなのに……」
「そこは対抗意識を燃やすところじゃないだろう。これ以上露出を増やす必要はないよ。愛里」
「あ、名前……」
「そういう約束だったからな。けど慣れないもんだな。少し小っ恥ずかしい」
俺が頬をかいて破顔して言うと、佐倉は赤面して俯き、ぽしょぽしょと返すように俺の名前を復唱する。
…分かるよ。今まで苗字で呼んでた人間を名前で呼ぶのって難しいよな。
長谷部がニックネームに拘るのも、呼び方一つで関係値が変化する事を知っているから。
最初にその線引きをしておけば、関係を構築していく上で楽だからな。
俺達もその例外ではなく、関係に変化の兆しを感じて戸惑う佐倉を、俺は手招きする。
不思議そうに首を傾げて近付いてきた彼女に、膝を軽く叩いてみせたところでその足が止まった。
「……す、座っていいの?」
確かめるような声に頷くと、彼女は俺の顔と膝の上を交互に見て、分かりやすく頬を染めたままおずおずと腰を下ろす。
両手は自分の膝の上で固く重ねられていた。
いや、手だけじゃない。肩には力が入り、表情まで強張っている。今、立ち上がって歩き出せば、右手と右足が同時に出てしまいそうなほど、全身が緊張していた。
俺が彼女の後ろ髪に手を置くと、佐倉の肩が小さく跳ねる。
それに構わずゆっくりと髪を梳くように撫でているうちに、その肩から少しずつ力が抜けていった。
「顔を合わせてなければ、緊張も和らぐだろ?」
「……うん、き、清隆君」
俺の名前を呼ぶ。たったそれだけの事で達成感を満たされたのか、彼女の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
俺はそんな彼女に背中を預けるよう促すと、彼女は肩越しにこちらを窺い、ゆっくりと上体を傾けていく。
その重みが静かに俺へと移ったところで、優しく語りかけるように言う。
「愛里。実はもう一人、自分の本当の価値を分かっていない可愛い先輩がいるんだ。殻を破るのを手伝ってくれるか?」
「…うん。清隆君の頼みなら何でも聞くよ。頼ってくれるの嬉しい…」
「これからも遠慮なく頼らせてもらうよ。これでも、佐倉のことは誰よりも正当に、誰よりも高く評価してるんだ。学校の評価なんて気にしなくていい」
俺は彼女に学力も運動能力も最低限しか求めない。
能力の低い彼女が違う路線で誰よりも輝いているからこそ発揮できる力を理解しているからだ。
それは″人を動かす力″。
俺は彼女自身は無自覚なその力を自覚を持って利用する。
「…成功したら、またご褒美くれる?」
「ああ。俺も愛里の言うことなら文字通り何でも聞くよ。俺には思いも付かないような、とびっきりのお願いを考えておいてくれ」
その日、ファンサイトのアクセス数はいつもの倍を記録した。
佐倉の知名度を土台に長谷部という少女がまた一人、世間へと名を轟かせていく。
◆
9月第2週の月曜日。
俺は朝早くロビーに出向き、人を待っていた。
ちなみに、毎日一緒に登校している一之瀬には、前もって予定があることを伝えてある。その辺に抜かりはない。
朝からゴミ捨て場の決戦のようなキャットファイトに付き合う元気はないからな。
何人かの同級生が登校していくのを見送ったところで、ようやく彼女がやってきた。
「待たせて悪かったわね」
「いきなり連絡した俺の落ち度だ。謝る必要はない」
「あっそ。だったら、もう謝らない。話って何?」
「歩きながら話そうか」
そう誘うと、神室は溜息を吐きつつも、スタスタと歩き出した。俺はその隣に並び、彼女の歩調に合わせる。
「あんた、一之瀬と付き合い始めたんだって?」
「ああ。かれこれ、二週間になるな。あ、1ヶ月記念って何かした方がいいと思うか?」
「私に聞く?それ。…まあ、記念日に祝われて悪い気になる女子はいないと思うけど?」
「そうか。じゃあ、神室にはこれを贈呈しよう」
俺は握った右手を神室の前へ差し出す。
彼女は訝しげに眉を寄せ、俺の顔を何のつもり?と問うような視線を向けてくる。
俺はその視線には応えず、ただ沈黙を貫き待っていると、彼女が渋々といった様子で掌を差し出してきた。
俺はその掌の上で拳を開き、赤い囚人服を着たウサギのストラップを落としてやる。
「謹慎明け記念だ。ケヤキモールで見つけた時から神室に似てるなと思って隠し持っていた」
「……あんたには私の顔がこんな間抜けに見えてるわけ?」
「この可愛さに共感できないとは少し残念だな。一度、原作のショートアニメを見てみるといい。癒されるぞ」
俺は神室に渡したストラップの片割れとも言える緑の囚人服を着たウサギのアクセサリーを取り出し学生鞄へとつける。
それに視線をよこした神室は嫌そうに顔を顰めて、学生鞄の中へとストラップをしまった。
「あんた、趣味悪いでしょ」
「ほっとけ。俺はちいかわやおぱんちゅうさぎみたいな世界観よりこっちの方が好みなんだ」
「…有線イヤホンといい、平成に取り残されすぎでしょ。リプトンのレモンティーとか飲み始めたらいよいよ末期だからね」
「俺は専ら珈琲派だが、気取ってる坂柳あたりがそれを好み始めたら間違いなく俺の影響だろうな。彼氏の影響で煙草吸い始めるサブカル系女子みたいな感じだ」
「なに?坂柳のこと狙ってんの?やっぱ趣味悪いじゃん」
「比喩だよ。分かってる癖に粒立てて揶揄うなよ」
神室は硬かった表情を崩してようやく笑う。
彼女も久し振りの登校に緊張をしていたのだろう。これから周囲にどういう目を向けられるのか考えれば、それはとても自然なことだ。
「ありがと。一応お礼言っとく。けど、謹慎明けに囚人服を着たウサギのストラップを見せびらかすのは、流石にクレイジーすぎるから、もうちょっとセンス考えて欲しかったかな」
「……言われてみればその通りだな。捉えようによっては、開き直ってるようにしか見えないかもしれない」
「でしょ?……まあでも、色々落ち着いてからなら、つけてあげてもいい」
「なんだ。案外気に入ってくれてるんじゃないか。その様子だと、この憎めない可愛さの虜になる日も遠くないな」
「よく言うね。そういうつもりで渡したんでしょ?」
俺の軽口に、神室が探るような視線を向けてくる。
グレてもAクラスか。記念に物を貰って喜ばない女の子はいないという言質を取った上で会話を進めたことに彼女は気付いている。
「謹慎に伴う学校側のペナルティは、プライベートポイントだろ?その詳細を教えてくれ」
「……なんでそう思うの?クラスポイントって可能性もあると思うけど」
「その線は薄いと見てる。船上試験の最中、Cクラスの生徒による虐めが発覚した時も、学校側が科したのは個人へのペナルティだけだったからな」
Cクラスへの打撃は、強制退学となった三人が残した負の遺産のみ。
俺と軽井沢が教師陣に口添えしたという事情はあるにせよ、残った諸藤を理由にクラスが追加の打撃を受けることはなかった。
学校側も、情状酌量の余地を残し更生を図るという建前だけは守っているのだろう。
神室個人の罪によってクラスに大きな損失が生じれば、彼女に向けられる非難も相応のものになる。
それでは学校自ら彼女の居場所を奪い、間接的に退学へ追い込むのと変わらない。
だから、課されたのは借金だ。
負債を踏み倒して去るか、それを理由に残るか。
分かりやすい強制二択を突きつける上で尤もなペナルティ。
学校の思惑から逆算しても、彼女の色々落ち着いてからという発言を踏まえても、俺の見立ては外れていないだろう。
「あんた、何でも分かっちゃうんだね。そうだよ。ペナルティは100万ppt。手持ちの50万pptは払ったけど、残り半分はまだって感じ」
「そうか。なら、今から生活防衛資金を含めた不足分を神室に振り込む。それで今すぐ学校への負債を帳消しにしてくれ」
「え、ちょっと待って。私、そんなの頼んでな—」
「神室。義務と意思を混同するなよ。お前がこの学校に残るのは、100%自分のためのみでなければならない」
俺は彼女を遮り強行する。簡単な操作を終えるとすぐに彼女のスマホが軽快な電子音を奏でた。
彼女は忙しなくスマホを取り出し、目を落として、次は愕然として動きが止まる。
彼女のスマホが示す残高に7桁の数値が肩を並べていたからだ。
「言っただろ。生活防衛資金を含めたポイントだ」
「……嘘つき。あんた、私が誤魔化した事見抜いて送ってきたでしょ」
「仮にそうだとするなら、先に嘘をついたのは神室の方だ。責められる謂れはない」
神室は言い返しかけて口を開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。
俺はその返答を待たず、予定していた用件は済んだとばかりに歩調を速める。
すると、すぐに背後で足音が慌ただしくなった。たった数秒で葛藤を済ませるあたりは実に彼女らしい。
追い付いた神室が学生鞄を振りかぶりバシッとぶつけてくるのを大人しく受け入れて振り向くと、彼女は唇をきつく結びこちらを睨んでいた。
だが、俺が何か言うより先に顔を背けそのまま隣へ並ぶ。
鞄の持ち手を握り締めたまま、前を向いて小さく言った。
「……返さないから」
「いいよ。それが神室自身のためになると思ってのことなら、大歓迎だ」
これは先行投資。
神室はいずれ、俺のために金を使い、俺のために能力を使う。
それが自分のためになるのだと疑わずに。
◆
九月3週目。体育祭まで早くも二週間を切った。
クラスの仕上がりだけを言及すれば上々の出来といえる。
解き放たれた櫛田をはじめ、抜群のセンスを持つ堀北や小野寺は着実に力をつけ、意地とプライドをそのまま走力へと変換しつつある前園と、惜しみ無く力を発揮する松下もそれに追随する。
長谷部やみーちゃんを含めた中間層に佐藤が牽引する下位層も懸命に取り組んでおり、雰囲気は悪くない。
総合力でなく、平均力で見れば今のDクラスは他クラスよりも明らかに勝っている。
しかし、以前の作戦会議で示したように、どれだけクラスの平均値を底上げしようと勝利には届き得ない。
勝敗を覆すプラスアルファの要素だけが、未だ足りていない。
「綾小路、坂柳が呼んでる」
「了解。今行く」
俺は神室に二つ返事で承諾して坂柳の元へ向かう。
いつも護衛を側につける気取った彼女には珍しく一人のようだ。
不審に思ってグラウンドの方へ目を向けると山村は練習に励み、森下はナスカの地上絵でも描くのかのようにグラウンドに白線を引いていた。
最近は森下の奇行にもすっかり慣れてしまったのか、そんな姿を見ても何かやってんなー程度にしか認識できなくなっている自分がいる。
「じゃ、私行くから」
「ええ、ありがとうございます。真澄さん」
「名前で呼ばないでって何回も言ってるでしょ」
そう吐き捨てて去っていく神室の後ろ姿に坂柳は頰を綻ばせていう。
「彼女、最初はあんな風に名前で呼ばないでと言っていたものですが、繰り返し呼んでいたら諦めるようにして受け入れていたんです。ですが今は逆戻り。きっと、私以上に名前を呼んで欲しい存在が彼女の中に生まれたんでしょうね」
「それは案外、橋本だったりするのかもな」
「彼にその役目は務まりませんよ。冗談にしてもキレのないカップリングです。動揺してますか?」
「心に迷い一つないよ。憂いならあるかもしれないが、それも地獄に堕ちた後で苦しむ話だ」
俺は目線で坂柳に隣に座ってもいいかと尋ねて、彼女が頷いたところでベンチに腰を下ろす。
「だけど、時々思い出す。坂柳の言った『変わろうとしている時点で解釈を歪めているだけ、本質は変わらない』って言葉を」
「考えれば考えるほどドツボに嵌る。真理を追求するということはそれを分かっていながらその領域に足を踏み入れるということです」
「…皮肉だな。どんな難題を前にしても答えを出せる俺が、自分を前にすれば、忽ち出口の無い迷路に迷い込むなんてな」
「『自分を満足させる方法、手段が見つからない』。それは天才に生まれてしまったが故に抱える苦悩の一つ。だからこそ私達は未知に惹かれてしまうんです」
彼女の場合は、その対象が俺ということ。
ならば逆はどうなのだろう。俺を満足させるのに彼女は足るのだろうか。
「こんなことなら、目の前の幸福を疑いもなく享受できる馬鹿として生きた方が、幸せなのかもしれないな」
「私と張り合う楽しみも知らずに一生を終えるなんて、それこそ不幸だと思いますけど」
「随分と自分を高く買ってるんだな。だが、その坂柳から見て、今の俺と戦うことに満足できるのか?」
「私を失望させるような手抜きをなさらなければ」
「本当に俺が本気を出すだけで満足なのか?」
坂柳は杖の柄に重ねた指をほどき、俺の顔を見上げる。
「運動能力は言わずもがな、学力を比べたところで、俺は坂柳に負けるとは微塵も思っていない。本気を出すだけで満足だと言うなら、今から駆けっこでもしてみるか?」
「随分と安い挑発ですね。ですが、ここは敢えて言葉足らずだったと認めて、その挑発に乗ってあげましょう」
坂柳は笑みを消さないまま、杖の先が地面を小さく叩く。
「戦国の軍師が、皆一騎当千の武人だったわけではありません。人を束ね、進むべき道を示し、持てる力を勝利へ結び付ける。統率力、牽引力、求心力、そして知略。それらを総合した、人の上に立つ者としての器量です。私が貴方と比べたいのは、そういう力ですよ」
「だとしたら尚更拍子抜けだな」
俺は呆れたように溜息を漏らすと、彼女の杖を握る手に力が籠る。
「俺のクラスは、将棋で言えば飛車角に桂香まで欠いた六枚落ちだ。そんな相手に勝って、自分の器量が上だと満足するならアマチュアもいいとこだ」
「その駒を自ら捨てたのは、貴方でしょう。人を選び、手元に残すことまで含めて、指導者の力量ではありませんか?」
「それは、俺が初めからクラス単位で勝ち上がるつもりだったなら、成立する評価だな。俺が指導者の立場についたのは成り行きで、坂柳と競う前提じゃない」
「……随分と都合のいい指導者もいたものですね。親譲でしょうか?」
「低レベルの煽りだな。俺は個人の総合力では勝てないお前に譲歩して、クラスの総合力で戦ってやると示し、その上で対等でなければ意味がないんじゃないかと進言してるだけさ」
あくまで彼女のフィールドに乗ってやっているというスタンスはブラさない。
俺にとって坂柳はまだ興味が芽生えた程度の存在でしかない。
この勝負を心から待ち望んでいるのは他でもない彼女自身なのだから。
「ふふ。まさか、綾小路君は私利私欲の為だけに私の悲願すら利用なさるつもりですか?」
「俺に利点がないと言えば嘘になるが、本当の意味でそれが必要なのは坂柳なんじゃないか?よく考えて答えを出すといい」
考えるまでもない問いだろう。
『自分を満足させる手段』という問いに対して彼女が幾年もの時を費やした末に辿り着いた答えが俺との決着だったのだ。そこに思考の余地などあってはならない。
坂柳の悲願を利用する。これが俺が見出した体育祭を勝つ上で必要な最後のピースだった。
感想、ここ好き ありがとうございます。
ウサビッチとかもう知ってる人ほとんどいないんだろうなぁっと思いながら書きました。
綾小路の闇の部分が出てきてしまったのは全部茶柱と篤臣のせい!!
ひより!!帆波!!助けてあげて!!!
※坂柳のパートは速筆で書いたため、後に修正が加わるかもです