軽井沢宅。
室内を満たす淀みのない空気。塵も埃も一つとして存在しない床。水垢は言わずもがな、鏡面磨きまで施されたシンク。
キッチンは定位置管理と省スペース化が徹底され、調理器具に至っては動線と作業効率を緻密に計算し尽くした美しい配置。
住む人間に手間を意識させず、快適な日常を当たり前に提供する。
そんな細部まで行き渡る気遣いに管理人のプロ意識とホスピタリティを感じずにはいられない。
…うん。最近の俺の仕事だ。
「寧々ちゃん、シャワー浴びてから来るって」
「そうか。軽井沢も浴びてきていいぞ。今から準備に取り掛かるからまだまだ時間がかかる。今日は唐揚げだぞ」
俺は冷蔵庫を開け、昨晩から特製の醤油ダレに漬け込んでおいた鶏肉を取り出しながら、弾んだ声で答える。
ジップロック越しにさえ旨みが漏れ出してきそうな時限爆弾を前に、さしもの俺も、期待に胸が躍っていた。
国家存亡を脅かす爆破事件に命懸けで挑む爆弾処理班の中にも、一人くらいはこんな顔で爆発を心待ちにしている奴がいるのかもしれない。
…いや、そんな奴がいたら、それは犯人か岡本太郎だ。
「ねぇ」
「なんだよ。女はキッチンに立つんじゃねぇよ」
女尊男卑を信条とする俺に相応しい言葉を返し、軽井沢を振り返り、思わず目を眇める。
巨乳でもない癖に頻繁に肩凝りを訴える彼女は制服を早々に脱ぎ捨て、着心地のよさそうなスウェットに早変わりしている。
その姿だけを見れば何の問題もなく可愛いのだが、その上にエプロンらしき余計な何かまで着けているのは大問題だった。
…何こいつ?軽井沢にエプロンって諺を知らないの?豚に真珠、猫に小判と同じ意味だよ?
「………今日は私も手伝う」
「その前にその床に散らかした制服を片付けて、風呂に入ってこい。湯はもう張ってあり、お前が好きな入浴剤まで入れてある」
「そんなことしてたら終わっちゃうじゃん。……寧々ちゃんも来ちゃうし」
「軽井沢。人には向き不向きがある。適材適所と相互扶助によって、人間社会は今日も回っている。そうやって皆、平和な一日を享受してるんだ。だからもう一度言う。そこの汗の染み込んだ制服を片付けて、その供給元であるお前は風呂に入ってこい。さすれば、唐揚げグランプリ金賞間違いなしの逸品が、お前の帰還を指折り数えて待っている」
「…………やだ、私も手伝う」
な、なんて強情な奴だと思いながら、俺は取り出した鶏肉の余分なタレを切り、再びジップロックへ戻す。
その後はすぐにボウルに火傷しない程度の湯を張り、袋ごと浸した。
ふぅ、ひとまず難は逃れた。漬け込み時間は数分の超過でも致命傷。この綾小路シェフの目が黒いうちは、味付けに一片の妥協すら許されないのだ。
……もっとも、その完璧な味付けを根底から覆しかねない災厄は、まだエプロン姿で隣に佇んでいる。
「私、知ってるから。あんたが軽口叩く時って、本気じゃない時だって。……あんたの本気の言葉は、もっと胸の奥に突き刺さるんだから」
…手の内を知られている相手ほど、厄介なものはないな。
彼女の一歩も退く気のない視線に根負けした俺は泣く泣く声を和らげて答えた。
「とりあえず、制服だけは皺になる前に洗濯機に入れてこい」
「……うん。分かった」
「ついでに脱衣所で手も洗ってこい。それくらいなら出来るだろ?」
「…うんっ!」
何がそんなに嬉しいのか、ぱっと満面の笑みを咲かせて頷いた軽井沢は、制服を引っ掴んで脱衣所へ向かっていく。
こっちはこの後を思うだけで胃に穴が開きそうだというのに、まったく暢気なものである。
◆
「準備万端〜。さっ、始めよっか」
料理した事ない奴ほど、自信満々にやれば出来るでしょ?みたいな顔するのは七不思議の一つなのか?それとも、俺の学校の七不思議を一個増やして八にする気なのだろうか。
どちらにせよ、彼女が意気揚々と掲げた手にその包丁で一体何を切るつもりなのか、尋ねることすら怖かった。
調理師の国家資格が何故存在するのか、数多の飲食店が何故繁盛するのか、少しくらいは考えてみて欲しいものである。
「……軽井沢。まずはその包丁をゆっくり置け。この俺の指示の意味が分かったら頷いてくれ。間違ってもこっちに向けるなよ?……よし。じゃあ、次はそのまま後ろ向いて、出来たら右手をあげて合図をしてくれ。……よし。いい子だ。後はそのままキッチンから立ち去るだけだ。分かったな?」
「ちょっとは信用してよ!私、やれば出来る子だって!」
両肩に手を置きそのまま力強く送り出そうとした俺に、彼女は体を前に向けたまま、首だけを捻ってこちらを振り返り、抗議の声を上げる。
「それは自称する事じゃなくて俺が判断する事だ。指示に従えないなら、このまま裸に剥いて浴槽に一日漬けて放置するぞ」
「唐揚げの仕込みみたいな扱いされてることよりも、しれっと裸にされてる事に恐怖を感じるんだけど!?」
「俺の指示に従えない女は全員肉塊だ。煮て焼いて捨てるだけのな」
「男尊女卑!!亭主関白!!人でなし!!」
なんとでも言うがいい。人には時に信念を曲げてでも守りたいものがある。
今の俺にとってのそれは、キッチンの秩序ただ一つ。
「とにかく、エプロンの結び方も知らない人間に包丁を握らせる訳にはいかない」
「…え、エプロン?」
「じっとしてろ」
俺は背後から彼女のエプロンの首紐に手を伸ばし、結び目を解いた。
軽井沢の顎がわずかに上がり、何か言いかけた唇が閉じる。
さっきまであれだけ騒いでいたのに、急に聞き分けがよくなったな。
長さを調整してリボン結びにまとめ、次に、前で結ばれていた腰紐を解き、背中へ持ってくる。
紐を左右に引くと、彼女の背筋がぴんと伸びた。
「苦しかったら言ってくれ」
「だ、だ、大丈夫。ぜ、ぜんぜっん余裕だから!」
全然大丈夫じゃなさそうな返事に俺は心なしか緩めに結んでおく。
腰紐を結んでいる間も、軽井沢は前を向いたまま、行き場のない両手でエプロンの脇をつまんでいた。
結び終えて手を離すと、彼女はそっと背中へ手を回し、俺が作った結び目に触れた。
「揚げ物をやる際は特にだが、エプロンは基本的に紐を余らせないのが常識だ。前に垂らしてるのは論外だな。次着る時は自分でやれよ」
「……え、次?」
「口が滑った。軽井沢に次はないんだったな。今日限りでクビになる予定だし」
「…ならないし。明日も手伝うから」
一体全体、どういう風の吹き回しなんだか。はたまた、風邪でも引いてしまったのか。
無性にやる気を出している彼女が手持ち無沙汰になった両手で髪を弄ばせているのを見て、もう一つ言っておくべき事があったのを思い出した。
「後は髪型だな。それくらいは自分で出来るだろ?」
「……」
「聞いてるのか?調理場でぼーっとするなよ。追い出すぞ」
「…へ?あ、ああ!髪ね!いや〜、伸びたよね〜」
……ダメだこいつ、早くなんとかしないと。
「世話の焼けるやつだな。俺はハーフアップくらいしか出来ないから、可愛くなくても文句言うなよ」
俺は彼女の髪ゴムを外し、ほどけた髪を指で梳く。
両耳より上の髪を掬って後頭部で一つに結び、その毛束を三等分する。左右の束を交互に中央へ重ね、毛先まで編んで細いゴムで留めた。
いつもの彼女とは思えないほど大人しく一連の動作をただただ受け入れる彼女はまるで着せ替え人形のようだが、俺にとっては好都合だ。騒がれ、暴れられても面倒なだけだからな。
俺は作った三つ編みを根元に巻き付け、編み目が表に見えるよう小さなお団子にまとめる。毛先を内側へ隠して固定し、下ろした髪を巻き込んでいないか確かめてから手を離した。
「まあ、最低限だが、これなら髪が垂れて油にプットインすることもないだろう」
バレンタインチョコに髪の毛を混入させる話はメジャーだが、髪の毛を揚げる女子は流行らないだろうからな。
「…なんか手慣れてない?」
「たとえ髪型とはいえ、お団子作りは料理のジャンルの一つだからな。綾小路シェフに不可能はないよ」
「それは軽口云々関係なく、普通に無理あるでしょ」
茜先輩の髪の毛を弄るのが趣味で覚えましたなんて馬鹿真面目に答えたって、そっちの方が信じてもらえないだろう。
「軽井沢、そんな事より言うことがあるんじゃないのか?」
「明らか誤魔化されてる気がするんだけど……。まあでも、…………ありがと」
「声が小さくて聞こえないな」
「〜〜っ‼︎ありがとっ!これでいいっ!?」
「どういたしまして。よし、じゃあ始めるか」
顔を真っ赤にして頷いた軽井沢を連れ、ついに調理に取り掛かる。
これが最後の晩餐にならない事を祈るばかりだ。
◆
結果から言えば、料理は何とか形になった。
途中、軽井沢がアルミホイルを電子レンジでチンしようとした時は肝を冷やしたし、味噌汁が沸き立ち、鍋の縁までせり上がった時は水見式でもやり始めたのかと疑ったが、今となってはそれも隠し味みたいなものだ。
今は食卓に料理を並べ、合流した森を交えた3人で席につく。俺達は手を合わせた直後、3人揃って唐揚げへと箸が伸びた。さぁ、いざ実食である。
「「うっまぁ!!!」」
二人ほどではないが、俺も思わず声を荒げてしまうほど美味かった。
薄衣が小気味よく砕け、その奥から熱い肉汁と染み込んだ旨みが噛むたびに溢れ出す。脳内でドーパミンがジュッジュワーと弾けているのが分かる。
「綾小路君、恵ちゃんが味の感想を気にしてるよ?」
「いや、なんで製作者みたいな面構えなんだよ。俺が一緒に作ったんだから、不味いわけないだろ」
「い、いいでしょ!?揚げたのは私なんだから!」
「素直じゃないね〜、二人とも。そんなに幸せだ〜って顔してる癖に」
なんてことないことのように言った森の指摘に思わず軽井沢と目を見合わせる。確かに軽井沢の顔はだらしないくらいに緩み切っている。…多分俺も。
「まあ、そうだな。これ以上ない幸せだと思う」
「……それって味の話だけじゃないよね。……ねぇ、最近、何かあった?」
彼女のこういう観察力の高さにはたまに驚かせられる。
壮絶な過去を持ち、人の目と機嫌を窺ってきたことで身につけたものだろうが、そこを何とか現代文の読解力へとつなげて欲しいものである。
「綾小路君。恵ちゃんがらしくもなく料理手伝うって言い出したのって自立とかそんな素晴らしい理由じゃなくて、ただ単に綾小路君が心配だったからって寧々様は考えるけどなぁ」
「おい赤点組。一人称、寧々様ってどれだけ厚顔無恥なんだよ」
「いいじゃん。自分で自分を敬うのって大事だと思うよ?あ、そうだ。綾小路君も寧々って呼んでいいよ?森って呼ばれるよりそっちの方が可愛いし」
自分で自分を敬う、か。自分で自分の機嫌を取るなんてよく言うが、彼女のその図太さもその一種なのかもしれない。
今の俺に必要な要素かもしれないな。…意外な人物に気付かされるものである。
それにしても、二人揃ってこれだけ人の機微に聡いのに、どうして現代文では赤点を取るんだろうか。
……いや、逆もまた然りか。
俺は文章の中なら、登場人物の心情を読み違えることは無い。
それなのに、目の前の彼女達が何を思っているのかは、こうして言葉にしてもらうまで分からないのだから。
「いい機会かもしれないな。そういうことなら、寧々、恵、相談に乗ってくれるか?」
「な、ななな、なんで、私も名前で呼ぶわけ!?」
「心配してくれたことが嬉しくて無性に呼びたくなった。それだけだ」
「そ、そういうこと、さらっと言うなぁー!さ、さっきもしれっと私に触ってくるし!」
「あはっ。恵ちゃん、動揺しすぎだって。バレちゃうよ〜?……って、なになに!?触ったってどこの、何を!?」
エプロンの紐と髪を結ってやっただけだと言いたいところだが、顔を真っ赤にしてブンブンと首を振る軽井沢を見てるとその過程で色んなところに触れてしまったような気さえしてくる。
………何しろ、あの時は鶏胸肉の命運が俺の手に託されていた。軽井沢の反応まで気を配る余裕はなく、詳しいことなんて、てんで覚えていない。
俺は彼女達が落ち着くのを待ってから、心の底にあった本当の悩みを打ち明けた。
「こうやって気の合う友達ととびきり美味いご飯を食べて、好きな相手と疲れるまでセッ○スして、柔らかいベッドで気の済むまで眠る。そんな普遍的な幸せをただ幸せとして享受出来るようになるにはどうしたらいいんだろうって最近は考えるんだ」
「しれっと、なんかすごい単語入ってた気がするけど、思った以上に重い内容で上書きされちゃった」
「…うん。清隆って多分、そういう境界線だいぶ曖昧なんだと思う」
「うーん、寧々様はとりあえずお手上げ。多分、住んでるステージ違うから、何いっても響かないと思う」
両手を大袈裟に上げて、場違いに明るい声を出した寧々が隣で黙っていた恵をつんと突いて笑った。
「恵が答えてあげなよ~」「え〜私〜?」「あんた以外誰がいるの〜」みたいなギャルの軽いノリ(妄想)を前にした俺は盥回しにされている気分になりながらも彼女達の次の言葉を待った。
「…ねぇ、一個だけ確認していい?その相手って一之瀬さん?」
「いや、それ以外に誰がいるの?ってか、そう考えると一之瀬さんも進んでるなぁ。けしからんおっぱいだ〜」
寧々様がとんでもない風評被害を垂れ流していたが、それすら無視して、恵はじっと値踏みするような目で見てくる。
彼女の観察力を誤魔化し切れるかは定かではないが、俺は強く頷きを返した。
実際は帆波とはキスまでしか進んでいない。
なんか合コンでレンタル彼女を本当の彼女って紹介する痛い大学生みたいになってしまったが、これは致し方ないことだろう。本当のことなど言えるはずもなかった。
答える気のない俺を見て、恵は視線を落とし、言葉を探すように箸先を揃えた。
「…うん、それはまあいいや。でも、清隆の言ってること何となく分かる。面白いアニメなら笑えるし、感動できる映画にも泣ける。美味しいもの食べたらちゃんと美味しいって思える。でも、それって結局、肉体を満たす行為で、心を満たせてる訳じゃない」
恵はそこで顔を上げる。
一点の曇りもない真剣な眼差しを受け止めながら俺は続きを待った。いつものように軽口を挟む気なんて起こるべくもない。
「探し続けるしかないんだと思う。心を満たせる何かを」
軽井沢は一度言葉を切り、それでも視線は逸らさず、俺をじっと見る。
まるで、私が見つけたそれは貴方だと言っているかのように。
「でも、それって多分楽しいことばかりじゃない。苦しいことも乗り越えなくちゃいけないし、やりたくないこともやらなきゃいけない。けどさ、そんな時こそ頼ってよ。私達を」
頼れる相手もなく、今日をやり過ごす事と明日への希望を持つことに精一杯だった軽井沢だ。
助けを求める難しさも、一人ではどうにもならない苦しさも嫌というほど知っている。
だからこそ、彼女の頼ってほしいという言葉を、ただの気休めとして聞き流すことは出来ない。
彼女の乗り越えた修羅場の数が、誰かを支えるために必要な言葉の重みを生み出している。
ふと隣を見ると、寧々も黙って恵を見つめていた。
いつものように笑って会話を引き取ることもせず、唇をわずかに開いたまま、次の言葉を待っている。
恵が差し出したものを、受け取ったのは俺だけではなかったらしい。
「ね?寧々ちゃん」
「…へ?そ、そうだね」
不意に話を振られた森は、一度瞬きをしてからこくこくと頷く。
「うん。綾小路君にはいつも世話になってるし、病める時も健やかなる時もこの寧々様が慰めてあげるよ〜。ほーら、手始めに、この唐揚げ爆弾を食らうがいい。あ〜ん」
「ず、ずるい!あ、あたしも!」
俺は苦笑しながら、左右から差し出された唐揚げを一つずつ頬張った。
「やっぱり美味いな。これを作った奴は天才だ」
二人は顔を見合わせて笑うと、今度は競うように箸を伸ばし合う。
行儀が悪いなぁと思いつつも、わんこそばの要領で差し出される優しさを噛み締めるように次々食べていく。
もう、何度美味いと繰り返したか分からなくなったところで寧々が破顔して言う。
「あは、なんか綾小路君、煉獄さんみたい」
「ちょっとやめてよ寧々ちゃん。それじゃあ、清隆が死んじゃうみたいじゃん」
「え〜、じゃあそこは、猗窩座に鬼にされた世界線の煉獄さんってことで」
二次創作にありそうな設定を語った寧々に吹き出しそうになりながら、俺は未だ皿にこんもり盛られた唐揚げを見て言った。
「作りすぎたな。…大食漢の佐藤も呼ぶか。喜んで食うだろう」
「麻耶ちゃんは名前呼びじゃない上に漢扱い。そこは平常運転って感じなんだね……」
「あいつはそれくらい雑な方が喜ぶんだ。win-winだよ」
佐藤には腹を満たしてやる代わりに俺の心を満たす手伝いをしてもらおう。
俺の中にいる主は仰られているのだ。右の尻を打ったなら、左の尻も打ちなさいと。
俺の右手が佐藤の到着を今か今かと待ち侘びていた。
感想、ここ好きありがとう。
軽井沢が主役だけど、普通に寧々様が好き。
虐めを行う人間は軽蔑されて当然だけど、逆はそうであってはならない。
本作の軽井沢は隠したい過去として持っているけれど、虐められた環境から立ち直った人間って寧ろ賞賛に値する。
次は恐らく体育祭本編になります