キリが悪くて長めです
一ヶ月。
この一ヶ月は、我ながら目紛しく、そして随分とだらだら過ごしてきたものだと思う。
忙しかったのか暇だったのか、どちらかにしろと言われそうだが、両立するのだから仕方がない。
季節と関係だけは目紛しく変化し、俺の気持ちがだらだらと同じ場所に留まっていた。
いや、留まっていたというのも正確ではない。終わったことと終わっていない気持ちをずっと引き摺っていたに過ぎないのだから。
思考の狭間で、世界が日付変更線を跨ぐ。
暦の上では全国各地の神様が出雲に招集命令を下され、時には恋のキューピットの役目を果たし、時には厄介事を持ち込み引っ掻き回してくるラブコメの神様もその例外ではない。
時の運にも、環境のお膳立てにも頼らず、この身一つで向き合いたい相手がいる俺にとってそれは好都合だった。
「まだ起きてるか?」
控えめにノックして、扉越しに声をかける。
心境を割合で表すなら、女々しさ半分、切なさ半分。
勇気が一割も含まれていないのは心許ないが、女々しさに足を運ばせ、切なさに背中を押させれば、ここまで来るのに十分だった。
自分が何を考え、何に突き動かされて、こんな時間にこんな場所までどうして来てしまったのか。
今はもう、嫌になるほど理解している。
そして、理解してしまった以上、それを無視して明日を迎える訳にはいかない。
「……馬鹿じゃないの?今、何時だと思ってるの」
「零時ちょうど。シンデレラなら魔法が解ける時間だな」
「魔法が解ける時間を狙ってくるなんて、王子様としての自覚ないわけ?」
「…トラップカードは宣言して設置しないと反則なんだぞ。自認王子様の男子高校生って痛すぎるだろう」
「どっこいどっこいでしょ。こんな時間に女子の部屋に来る自意識過剰の男子高校生と。神経疑うんだけど」
「そう思われるのも承知の上だよ。それでも櫛田と話がしたいんだ。部屋に入れてほしい」
短いやり取りの後に要求だけを突き付けた俺に返ってきたのは長い沈黙だった。
彼女とて、この時間に異性を部屋にあげる事に何の含意も認めないほど無頓着ではない。
否定も拒絶もされなかった事にひとまず安堵した俺は高鳴る鼓動を押し鎮めるように息を吐き、ただ扉の前で次の言葉を待つ。
「……寝巻きだし、すっぴんなの。……これだけ言えば、鈍感なあんたでも分かるでしょ」
「確かに、俺は鈍感なのかもしれない。けれど、分かっていないのは櫛田もだ。俺は櫛田に化粧をして欲しいわけでも、お洒落をして欲しいわけでもない。ただ会いたいんだ。櫛田に」
口にしてから、扉を見つめる。
顔も口もない鉄の板一枚に、嘲られている気分だった。
本人を前にすると喉につかえて出てこない言葉が、扉を挟むだけでこうも容易く出てくる。
再び長い沈黙が訪れ、兵糧攻めも視野に入れ始めた頃、鍵の回る音がした。
ゆっくりと開いた扉の向こうから櫛田が半身を覗かせる。
淡い色の唇。ワントーン下がった肌。頬にかかる少し乱れた髪。ああ、やっぱり問題なく可愛い。
つぶさに観察する俺の不躾な視線に居住まいを正すように、彼女は寝巻きの袖口を指でつまみ、口を開く。
「……それは可愛くなくていいって言われてるみたいで、なんかやだ」
やっぱり、櫛田は俺のことなんて1ミクロンだって分かっていない。
俺の中に、可愛くない櫛田なんて存在しないというのに。
◆
櫛田はぼすっとベッドに腰を下ろすと、こちらを見もせずクッションを投げてきた。
受け取ったそれを手に、初めてこの部屋へ来た時のことを嫌でも思い出す。
あの時は、どこへ座ればいいやら分からなかったものだが、今は迷わない。
俺はクッションを抱えたまま、彼女のすぐ隣に腰掛けた。
「…………前に言ったよね。ベッドに座んないでって」
「我が物顔で俺のベッドを占領していた櫛田にそれを言える資格があるのか?」
「……忘れてって言ったでしょ。蒸し返さないでよ。……もういい。じゃあ、私が床に座る」
彼女が立ち上がろうとすることは想定の範囲内。
腰が浮いたところで、俺はすかさず手を伸ばし、その手を取って引き止める。
今夜だけは逃がさないことと逃げないことを胸に誓っていた。
「俺はベッドに座りたいんじゃないよ。櫛田の隣にいたいんだ」
櫛田が息を止めたように口を閉じ、こちらを振り向く。
驚きに見開かれた目を、俺は正面から見つめ返した。
俺が本気である事を察した彼女の視線がわずかに揺れ、やがて俺の手元へ落ちる。
俺が退く姿勢を見せなければ、動揺して目を逸らすのは、最近は専ら彼女の方からだ。
「……や、やめてよ。あんたの話って、もしかしてそういうこと?」
「濁されても伝わらないよ。俺の鈍感っぷりをあまり舐めるなよ」
「…鈍感と天然は自称した途端に破綻する属性って知らないわけ?」
「生憎、学習機会に恵まれなくて初耳だ。これからは気をつけよう」
これからは。
つまり、今回は見逃してもらいたいという意図を、言外に忍ばせた。
これは初回無料キャンペーンみたいなものである。
世に溢れるそういう類のものは半分は財布の紐を緩める前に警戒心の紐を解いておく販促手法で、もう半分は詐欺だと聞くけれど。
「…好きとか嫌いとか、そういう話をしに来たのって聞いてる」
「だったらハズレだな。もうそんな感情はとっくに通り過ぎたよ。俺の話はその先、どうしたいかだ」
繋いだ手を軽く引き、空いた隣へ視線を向ける。
櫛田は俺とベッドの上を見比べた後、固唾を飲んだ。
何か言いたげに唇が開き、けれど、言葉になる前にぎゅっと結ばれる。
やがて観念したように腰を下ろすと、彼女は膝に視線を落とした。
二人三脚で見慣れたはずの横顔が、今は赤い。
時折こちらを窺う視線には熱があり、繋いだ手にも、さっきまでとは違う力がこもっている。
彼女がいまだ俺を強く意識している。
そのことが分からないほど、俺は鈍感ではない。
「櫛田。顔を見せて欲しい」
「……やだ。絶対、やだ」
「そんなに可愛くて綺麗なのに?」
「……そういうこと、嘘でも言わないでよ。私の気持ちも知らないで、……ほんと、ばか」
「これでも俺は天才として育てられ最高傑作とまで呼ばれていたんだけどな。だけど、その罵倒はこの後に取る強引な手段の免罪符として丁重に受け取っておくよ」
その後は一瞬だった。
俺は身を捻り彼女の肩を掴む。彼女の動揺も無視して、身軽な彼女にそのまま覆い被さるようにしてベットへと押し倒した。
俺は真っ赤に染まった彼女の顔にキスでも迫るのかとばかり顔を近付けておでこを突き合わせるようにぶつけた。
「私の気持ちも知らないでか。ならば櫛田には俺の気持ちは分かるのか?俺が櫛田が可愛くて綺麗だと思っていることも、それに目どころか心まで奪われていることも、嘘だと証明できるのか?出来るならやって見せて欲しい」
付き合わせたのはおでこだけじゃない。
鼻も手も胸も太腿も無遠慮に重なり合っている。
混じり合う熱い吐息が。リンクする心臓の鼓動が。連動する体温が。
全身がお互いを好きだと咆哮をあげ、心の底から求め合っている。
知り、知られ尽くしてしまった俺達がこの距離で誤魔化せる事など何一つない。
「…鈍感系主人公なんて二度と気取らないでよ。私の気持ちが変わってないって確信してなきゃ、こんな真似、絶対できない」
「気取った覚えはないよ。俺は他人からの好意には聡い方だ。だから、鈍感なのは自分に向けてなんだよ。俺は自分が育んだ感情には、中々気付くことが出来ない。失って、時間が経って、初めて気付いた」
この一ヶ月ずっと感じていた焦燥感はこの櫛田への想いが風化してしまう事への恐怖だったのだと今は思う。
忘れられることに、忘れてしまうことに、怯えていたのだ。
「ずっと前から櫛田のことが好きで—」
「ずっと前から櫛田のことを俺のものにしたいと思ってた」
そう気付いてしまった以上、俺はもう手段を選ばない。
彼女にモテるために、優しさなんか微塵だって必要じゃなかった。
「……今更、遅い。もう、私、あんたのことが好きでも、あんたの彼女になることなんて望んでない」
「彼女になる必要なんてないよ。俺は櫛田が側にいることに何の資格も何の条件も求めない。どれだけ重い愛情を向けられても、どれだけ嫉妬されたって構わない。そういうものをひっくるめて丸ごと全て櫛田を自分のものにしたい」
「…………私が拒んだらどうするの。あの時のあんたみたいに」
「あの時は、思い返せば酷い態度を取ったものだとしみじみ思う。櫛田の想いに気付いて、気付かないフリをして、いつしかそれが当たり前になって、最後には傷付けた上で突き放した。それでも戻ってくると思っていたんだ」
「……戻りたかったに決まってるでしょ。だけど、次、あんたに拒まれたら、今度こそ終わっちゃう気がしてさ。…そう考えると、もう無理だった。自然消滅するくらいなら—」
自分の手で終わらせてしまった方が楽だ。
続きは聞かなくても分かる。
寸分違わず、俺も同じ気持ちだったからだ。
「櫛田が俺の告白を拒んだらどうするかだったか?」
櫛田は唇を結んだまま、俺を見据えた。
答えを求めるその視線へ、俺は淡々と告げる。
「その時は櫛田を退学させる」
結局、必要な覚悟だったのはこれだけ。
櫛田を好きだと認めることなんてとうの昔に済んでいたのに、それでも前に進めることが出来なかった理由はただ一つ。
俺がフラれるのが怖くて告白できなかったチキン野郎だっただけだ。
だから、フラれた後、どうするか。
そこに答えを出した時、恐れるものは何もなくなった。
筋トレが趣味の社員が、上司の叱責に対して「お前が生かされているのは俺の気まぐれだ」と開き直るのと、方向性は同じである。
櫛田はそんな俺を笑う。一瞬、目を見開いた後、堪えきれなくなったように息を漏らす。
それから、呆れと可笑しさを隠そうともせず、俺を見た。
「馬鹿でしょあんた。私に影響されすぎ。堀北を退学させるって言い出した私にそっくりじゃん。性格が悪いって次元じゃない」
「今更だな。俺が櫛田に影響を受けてる事も、性格が悪い事も、とっくの昔に分かってることだろう?」
「……うん。そうだね。分かってる」
櫛田は笑みを残したまま、一度息を吸った。
今度は言い淀まず、溜めていたものを吐き出すように続ける。
「あんたは顔がちょっとかっこよくて、勉強も運動が出来て、誰より頼りになる男だよ。でも、それを全部マイナスにするくらい性格が悪くて、それをひた隠しにして周囲を騙すような生活を送ってる。……ちょっと前の私と全くおんなじ」
「まあ、櫛田の場合、運動も勉強も俺ほど出来るわけじゃないけどな。よくて上の下。悪くて中の上だ」
「……そういうところが性格悪いって言ってるの、分かんない?」
「分かってるよ。だけど、これが今の俺なんだ。どこまでも自分本位で性格が悪い。他人の能力なんて道具としか認識してないし、時には感情すらも利用する。手段を選ばず、勝ちだけを追求するのが俺にとっては日常だったんだ。だから今でも、『最後に俺が勝っていればいい』なんて利己的な考えが根底にある」
彼女は驚きもせずに、ただ分かっているとでも言うように笑う。
彼女には立派な人間として好かれ、慕われる必要はない。
そう思うと、ボロボロとメッキが剥がれるように取り繕わない素直な言葉が口を衝く。
「しかも、そんな俺に櫛田が飽くなき承認欲求を産み付け、孵化させて、余分な栄養まで与えて育てたものだからもう収拾がつけられない、まるで特級呪物みたいなモンスターになってしまった。そんな自覚がある」
手塩にかけて育てた部下が、いつの間にかラスボスクラスのモンスターになっていた。
これは、そんな売れないライトノベルみたいな話だ。
「情けない事に、俺は櫛田なしじゃ、どう生きていいか分からなくなってしまったらしい」
まるで出口のない迷路かえんえんトンネルにでも迷い込んだような感覚に支配されていた。
考えても考えても、同じところへ戻ってくる。そのくせ、戻るたびに何かを取りこぼしているようで、立ち止まることさえ出来なかった。
それが、櫛田を前にするだけで視界が開け世界が色付く。
「私のせいにするんだ?」
「ああ。これは他責とかじゃなく、本当に櫛田が元凶だよ。『私を好きにさせる』。あれは俺にとって正真正銘、呪いの言葉だったんだ」
「…あんなの、その場の弾みで言っただけの言葉なのに?」
「だとしたら悪女だな。誑かしておいて、その気がないなんて。依存した状態でお預けにされてるこっちの身にもなって欲しい」
櫛田桔梗は違法ドラッグみたいな女だ。
気付かぬ内に中毒になり、気付かぬ内に自分を見失う。
それでも、彼女が側にいてさえくれれば、全てを取り戻したような全能感と幸福感を与えてくれる。
「…その気はある。……ううん、その気しかない」
ポツリとそう零した櫛田はぱっと切り替えるように笑った後、それを体現するかのように唇を奪ってくる。
不意打ちのようなそのキスは俺が長い間、頭を悩ませていた問いへの答えみたいだった。
蕩けるような彼女の表情と溶けるようなキスに、瞳孔が開き、脳が痺れる。
俺の手は定められた運命に導かれるようにして、櫛田の胸へと伸びた。
「ん、は、ぁ⋯⋯」
くぐもった悩めかしい声は口の中で殺され耳には届かない。
それはただ嬌声を聞くよりも、ことさらに俺の行為をエスカレートさせる。
獣のように、ケダモノのように、バケモノのようにお互いを貪り合い満たし合う。
呼吸すらも忘れて夢中になっていた俺達を、窒息死直前で本能が引き離してくれる。
「……ねぇ、私の事、堀北より好き?」
「ペッティングの後に最初に出てくる言葉がそれかよ」
「答えてよ。私にとっては至上命題なの。多分、その答えでこの後の感度も変わる」
感度とかサラッと言わないでくれるかなぁ。
さらに、興奮しちゃうじゃないか………。
「そうだな。櫛田の方が堀北より倍くらい好きだよ」
「倍くらいって具体的な数値は?それは過去データ比?」
「なに?お前は大学の面倒な教授なの?……でも、そうだな。無理矢理100点満点の好感度として表すなら堀北は50で櫛田は100だな」
「………ふ、ふぅん。私、100なんだ。……じゃあ、一之瀬さんは?」
「堀北と同じ50くらいだよ。体は100点なんだけどな」
「うん。そこまでは聞いてない。気付いてる?最低なこと言ってるよ」
「一般的にはそうかもしれないな。けど、帆波はきっと喜ぶと思う」
うわぁ、と彼女が隠すこともなく嫉妬と嫌悪で顔を歪める。
完全に嗜好は倒錯してしまっていて、そんな表情すらも可愛い、愛おしいと思ってしまう。自然と、俺の手はまた彼女を求め始めた。
「………うん。でも、あんたが私を好きすぎるって分かったから今は満足かな」
「ああ。櫛田は俺の中で一番可愛いよ」
俺はそう言って再開を求めるように彼女に口を寄せるが、手で遮られる。顔にはまだ言いたい事があるとデカデカと書いてあった。
「……世界一とか誇張して言わないあたり、本当だって信じるけどさ。だったら、ひよりんはどうなるわけ?」
「余裕で測定値不能のエラーだな。茂野吾郎が100マイルを超えた時みたいになってる」
「……………やっぱり外れ値か。……殺るしかないか」
「悪いが、それだけは全力で守らせてもらうよ。ここを通りたければ、俺を倒してから行けだ」
「うん。今更ヒーロー気取りの善人キャラとか寒いだけだから。それに、それは私を倒せる前提で話を進めてるよね」
手でぐいっと顔を押し返されて、そのまま上体を起こした櫛田が全身を押し付けるように抱きついてくる。
俺が彼女の積極的な姿に驚いてる事にさらに気を良くした櫛田は乱暴にキスをした後、投げ出すように俺をベッドへ押し付ける。
それから、俺のお腹に跨った彼女は寝巻きのボタンをプチプチっと外していき、白桃のように白い肌と荒い呼吸に合わせて上下する胸を露わにした。
「……私、初めてのことでも何となくで出来ちゃうのが取り柄なんだよね。…多分、あんたより上手いと思う」
喰う側から喰われる側に。
そうやって自分の立場を理解した時にはもう、手遅れだった。
◆
『本当に彼女にならなくていいのか?』
そんな俺の野暮な質問に、彼女は身を寄せて笑いかけてきた。
「うん。私、あんたの何人もいる彼女のうちの1人じゃ多分…、いや絶対に満足できない。すぐに嫉妬で狂って全員退学させようって躍起になると思う」
「それにさ、今のあんたって私から見れば、緋の目を棚に並べた隣で佇むクラピカみたいなもんなんだよね。だから、狙ってたのは最初からここ。あんたの隣って席」
「私をさ、あんたのたった1人のセフレにしてよ」
悪女の私とクズで外道で人でなしでモラルが欠如したあんたとの関係でこれ以上ピッタリなものはないでしょ?
そう締め括った彼女に言い過ぎだろと即座に否定できない自分が情けなかったが、それ以上に嬉しかった。
◆
体育祭当日。
俺は朝早くから図書室を訪れた。
「おはようございます。綾小路君」
「……姫の身分に早起きは辛かったんじゃないのか?髪、結い損ねてるぞ」
指摘するや否や、彼女は髪へ手を伸ばした。
しかし、見当違いの場所ばかり触っていて、肝心の一房には一向に辿り着かない。
見かねた俺はその手を軽く払い、結び目から逃れた髪を指で掬って、結い直してやった。
言動には可愛げの足りない彼女だが、早起きしてでも身なりは整えてくる。
その努力に一房だけ綻びがあるところまで含めれば、ただの女の子として扱ってやる余地は十分にあった。
「……気安く触らないでくれますか」
「ツンデレめ。そういうのは終わる前に手を払って言うんだよ」
「私は貴方が集めているアクセサリーとは違います。デレたりしません。勘違いはよしてもらいたいですね」
……うん。お前も堅苦しい実用書ばかりでなく、たまにはライトノベルを読むといい。
それは、ツンデレキャラがツンデレと指摘された時の反応として、一ページ目に載っているような態度だから。
「真澄、お前まで早起きさせて悪かったな。坂柳、寝起きに暴れたりしなかったか?」
「無口で無愛想で、紅茶を飲むまでは一言も喋らなかったけど、暴れるまではしなかったかな。……てか、いきなり名前で呼ばないで」
「それは前もって連絡していれば許してくれるってことか?」
「…そういうこと言ってんじゃない。バカ小路」
うん。こっちはツンデレを教科書にした時、表紙を飾るレベルのやつだった。しかも、ツンの要素がだいぶなくなってきた終盤のやつ。
…なんか俺の周りってツンデレ多くないか?
可愛いから、何も文句はないんだけどな。
俺は軽口をほどほどに坂柳の向かいへ腰を下ろす。
テーブルには将棋盤が置かれ、駒はすでに初形へ並べられていた。
彼女の手元には紅茶。傍らには神室。準備の周到さだけを見れば、早朝から俺の相手をすることに不満はなさそうだ。
それもそのはず、元よりこれは坂柳が提案した勝負だ。
自分の悲願を果たすため、俺との勝負を対等な条件へ近付ける。そのために必要な人員を、AクラスからDクラスへ移す。
その為に必要な資金はお互いが負担して、その人選の選択権はボードゲームにて決める。
そして、今日この場ではこの盤上の勝敗によって2人分の運命が決まる手筈になっている。
言わば、これは前哨戦である。
「時間はあまりない。持ち時間は設けず、最初から一手十秒でどうだ?」
「構いません。早指しでは実力が出ないなんて言われますが、それは素人目線の話です。定跡を知らない人間が、どれだけ盤面と睨めっこしたところで、思考停止の域を出ません」
「同感だな。棋力があると豪語していいのは、目の前の盤面から最善手を直感で指せる者だけだ」
どんな状況にも臨機応変に素早く対応する。
それはリーダーに求められる重要な要素の一つだ。
坂柳は満足そうに微笑み、盤の脇へ置かれた駒箱を寄せる。
勝ちを疑っていない彼女に了承を得て振り駒を行い、先手は俺、後手は坂柳に決まった。
「秒数の読み上げは?」
「ふふ。その為に森下さんをお呼びしていたのですが、まだ来られていないようですね。彼女には追加のお仕置きが必要なようです。仕方がありません。神室さん、お願いできますか?」
神室が露骨に面倒そうな顔をした、その時だった。
「ふぁぁ……、藍ちゃん、げんちゃくでーす」
扉の方から、眠たげな声。
背中に悪寒が走り、振り向いた先には森下がいて目を見張る。
彼女は学生鞄の代わりに枕を抱え、制服の代わりにパジャマを着ていた。
しかも、留め切っていないボタンからは形のいい臍が、ずり下がったショーツからは白の下着が覗いていた。
非常識、無防備、それをそのまま形にしたような姿だ。
「……森下。お前、その格好で来たのか?」
「はい。時間厳守と身支度を両立できなかったため、優先順位を付けました。もう、拷問はいやなのです」
「森下さん。結局、遅れては意味がないことです」
「正義の味方は遅れてやってくるものなのです。巨悪である綾小路清隆を成敗するのには十分な休息が必要だったわけです」
「森下の中で坂柳が正義だったとは驚きだよ」
俺の指摘にハッとなった森下は坂柳の様子をチラリと気にした後、ぬっと俺に身を寄せてコソコソ話をするように言ってくる。
「今のは些細な冗談です。森下ジャパンは綾小路清隆の活動を応援しています」
「……一応突っ込まずに話だけは聞いてやろうか」
「坂柳有栖から話は聞いてます。……私は使えますよ?馬車馬のように働いて働いて働いてまいる所存です」
「パンツと臍を丸出しにしたお前が出来る仕事があるなら教えて欲しいものだな」
俺が目線を下げて伝えると森下はゆっくりとその視線を追い自分の惨状を確認する。
そして感情の見えない顔で叫ぶように言った。
「きゃー!!臍を取られるー!」
「お前いくつだよ。怖がり方が五歳児だぞ」
「きゃー!!!!パンツを取られるー!!」
「…雷様への風評被害だろ。それは」
感情の起伏が分かりづらいが、恥ずかしいことに変わりはなかったようで、彼女はささっと身嗜みを整える。
そもそもパジャマ姿がおかしいので、いくら整えたところで焼け石に水だと思うが、まあ、見られる姿にはなった。
「…これが俺の動揺を誘う策略なら、大したものだな」
「彼女をハニートラップに起用するほど判断は鈍ってませんよ。と言いたいところですが、もしかしたら、存外有効な手立てなのかもしれませんね」
俺と坂柳のやり取りを側で聞いていた彼女は大袈裟に仰け反って、『きゃー!!!!!!処女を奪われるー!!!!!』なんて言っていた。
…うん、もうほんと、お前は黙れ。
「真澄、悪いがやっぱり秒読みはお前がやってくれないか」
「はぁ……。まあ、仕方ないわね…」
神室が俺と坂柳に交互に視線を送った後、開始を合図し、ようやく対局が始まる。
俺は初手無難に角道を開けたのに対し、坂柳はそれに応じず、初手で飛車を振った。
(……後手で振り飛車か。随分と舐められたものだな)
居飛車は、自ら主導権を握りにいく攻めの戦型。
対する振り飛車は、その攻めをいなし反撃を狙う戦型。
かつては互角と見られていた両者だが、今では『振り飛車は終わった』とまでまことしやかに囁かれるほど、評価に開きがある。
飛車を振る。研究の果てにその一手だけで、不利を背負うことは証明されている。
「腑に落ちませんか?私の指し手が」
「まあな。戦型がそのまま勝敗に直結する訳じゃないし、大事なのは土壇場での読み合いだ。だが、合理的な指し手とは言い難いな」
俺が手早く舟囲いを組んだのに対し、坂柳は美濃囲い。
囲いにかける手数を抑えた分、俺の攻め駒は彼女の陣へと迫っていた。
……相居飛車なら、居玉のまま攻めてもよかったんだが。
そこまで考えたところで、ふと思う。
(もしかして、こいつは俺との対局を長く楽しむためだけに、こんな指し方を選んだんじゃないだろうか)
中盤戦。
読み合いは苛烈さを増し、一手の選択が、そのまま流れを掴めるかどうかを左右する局面に入った。
互いに、一手十秒の制限をぎりぎりまで使ってから指すことが増えていく。
それでも、形勢は徐々に傾き始めていた。
実戦を重ねるうちに、俺の指し手が洗練され、鋭さを増していく。
プロ棋士は一秒に三手読む。そんな話を耳にしたのは、もう十年以上も前のことだが、俺はたった今、その域に片足を踏み入れ始めている。
「坂柳、知ってるか? プロ棋士に女性はいないって話を」
「……ふふ。そんな遠回しな表現をせず、素直に仰ってはいかがですか?生まれながらにして、女性は男性よりも劣っていると」
そこまで言った覚えはない。
ある分野での実績の偏りを持ち出しただけで、性別による優劣全般の話にされては、こちらも返答に困る。
もっとも、坂柳が言葉の射程を見誤るとも思えない。
俺の発言を足場にして、何か別のことを言おうとしているのだろう。
「学者、医者、弁護士、官僚。碩学と呼ばれる職業に女性が少ないのは、何も社会の仕組みによって進出を阻まれているからというだけではありません。歴史的に見て、脳科学的に見て、統計的に見て、女性は知性という分野において男性に劣っている」
「例えそれが事実だとしても、負けた時の言い訳作りにしては稚拙だな」
「話は最後まで聞くものですよ。その事実を受け止められずに騒ぐのは、劣っている自覚があるからなんです。これは突き詰めれば、という話であって、多くの人間にとっては埒外のもの。馬鹿騒ぎとはよく言ったものですよね。その逆の言葉は存在しないんですから」
いや、坂柳はよく、天才だ天才だと騒いでいる気がするんだが……?
「いくら女性が男性に劣っていようが、それは私が綾小路君より劣っているという話にはならない」
坂柳が歩を突き捨てる。
定跡から外れた一手。ここからが勝負の始まりだ。
千日手も辞さずに構えられる後手が、受けて反撃するはずの振り飛車側が、自ら勝負を仕掛けてきた。
彼女の好戦的な性格が、そのまま盤上に表れたような指し手だった。
そして、俺は最初から、それを誘っていた。
敗着を決定づけるだけの一手を。
◆
「……これ以上は棋譜を汚すだけですね。私の負けです」
坂柳の敗北宣言を受け、神室が秒読みを止める。
悔しそうに歯を噛み締める彼女だが、決して一方的な勝負ではなかった。
終盤、坂柳は諦めずに詰めろをかけてきて、俺の背中に張り付いていた。
一手でも誤れば、形勢は忽ち逆転していただろう。最後まで、その気配が消えることはなかった。
時間があれば感想戦と洒落込むのも悪くないが、今日は体育祭当日だ。
俺は坂柳と視線を交わし、互いにスマホを取り出す。
二つの端末は、それぞれ2000万ポイントという、他人の人生を変えるだけの金額を示していた。
「ふふ。負けたばかりで悔しくて堪らないのに、綾小路君の選択に心が踊っている自分もいるんです。不思議な感情です」
「にぶちんですね。坂柳有栖。綾小路清隆が冷静を失っておらず、極めて合理的に判断を下せば、選ばれるのは自然と誰か分かるものです」
森下は得意げに鼻を鳴らし、抱えていた枕をぎゅっと抱くように持ち直した。
そのまま、俺へ答え合わせを求めるような視線を向けてくる。
……そんな目で見ないで欲しいものだ。決意が揺らいでしまいそうになる。
選ばないという決意から絶対選ばないという決意へ。
「俺の答えは最初から決まってるよ」
そう告げ、二人の名前を挙げた。
坂柳の笑みが一瞬止まり、神室は口を開けたまま俺を見つめ、森下に至ってはたたらを踏んですっ転びそうになっていた。
感想、ここ好きありがとう。
自分に上質なラブコメを提供できるような物書きになりたいね。
坂柳パートでチェスではなく将棋なのは完全に自分の趣味です。
(将棋ウォーズと雀魂はヘビーユーザー)
次こそ、体育祭本編で新生Dクラスお披露です。