アグネスタキオン「この世には不思議なことなど何一つないのだよ―――」   作:桜霧島

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史記の天官書にいはく、海旁蜃気は楼台に象ると云々

蜃とは大蛤なり

海上に気をふきて、楼閣城市のかたちをなす

これを蜃気楼と名づく

又海市とも云


『今昔百鬼拾遺』鳥山石燕



プロローグ①

 

 

 

 部屋には二人分の荷物が広がっている。

 

 わたしは、間違っていないはずだ。

 

 そも、世界が間違っているのだ。

 

 わたしとあの子、何が違うのか。

 

 わたしはあの子。あの子はわたし。

 

 何も違いなどありはしない。

 

 然し乍らわたしはあの子ではなく、あの子はわたしではない。

 

 父は何と云うだろうか。母は何と思うだろうか。

 

 きっとわたしに対して「なんと愚かなことを」と非難するだろう。

 

 しかし父も母も実のところわたしと変わりはないのだ。

 

 わたしはあなた。あなたはわたし。

 

 世界がそれを認めてくれないと云うのであれば―――

 

 わたしは耳も尾も引き千切り、海の底で物云わぬ貝になりたい。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 8月の茹だるような暑さの中、栗毛のウマ娘がカポカポと云う足音を鳴らしながら中庭に敷かれたレンガの道を踏み進んでいく。

 

 約6割。

 

 いきなり聞いた人は何の割合で何の話だかわからないと思うが、『中央のレースにおいて未勝利で終えるウマ娘の割合である』と聞けば、ああそうかと得心が行く人もいるだろう。

 

 彼女たち未勝利バのトレセン学園における生涯は短く、デビューしてだいたい2年で地方へ行くか、障害(フリースタイル)に転向するか、引退して指導者になるべく別の人生を歩むか、はたまたその存在が夢幻であったかのように()()()()になるかである。

 華やかな舞台とは裏腹に、勝てないウマ娘には無情な世界なのだ。

 

 私は歩みを止めると、三女神像の見える広場のベンチに腰掛け「はあ」とも「ふう」ともとれる溜息を吐きながら、脳内でこれまでの競争人生を振り返った。

 

 私こと“シャーロキアン”は2勝クラスに属するウマ娘だ。美浦寮所属で、学校のクラスはマンハッタンカフェやダンツフレーム、ジャングルポケットたちと同じである。

 彼女らのデビューより遅れること1年、ジャングルポケットが優勝したダービーの後に行われたメイクデビューに私は出走した。

 初戦こそ敗れたものの、マイルから中距離へ条件を変えた次戦で勝利。先ほど挙げた数字を借りれば、2戦目という早さで私は学園の上位4割のTierに食い込んだのである。

 

 しかしながら、そこから先は実力の世界である。1勝クラス、2勝クラス、3勝クラス、オープン、重賞、そして栄光のG1。1段、2段飛ばしで駆けあがっていくウマ娘もいるが、何年も当該条件を脱することが出来ず藻掻いているウマ娘もいる……寧ろそちらの方がほとんどだ。

 条件戦は退学の危機こそ無いものの、一度(はま)ってしまえば脱出が難しくなる沼のようなものであり、そこで腐って退学したり地方へ転属したりする子も多い。

 

 私もその例に漏れず、至極順調に2戦目で未勝利を脱したものの、結局その後、ジュニア期は5着、8着とあまり振るわない成績であった。

年明け、「いやはや、果たしてこの先この身をどう処していくべきだろうか」などとこの先の競争人生をあきらめかけていた矢先、私はとある事件に巻き込まれることになったのだが―――七転八倒した結果、2勝目を挙げることが出来たのだ。

 

 "私は恵まれていたのだ"とは心から思ってるし、周囲の認識も似たようなものであった。今の自分より強い未勝利バだって居るだろうし、実際に居ただろう。巡りあわせと云うものもあり、運良く自分が勝ち抜けてしまっただけのことだ、という見解は私にとっての公式見解であったが、事実の一端でもあった。

 

 ただし自身が恵まれた方だと云う自覚はあるものの、先日の宝塚記念を制したダンツフレームをはじめとするクラスメイトたちの活躍を間近で見ていると、こうして居なくなってしまった子たちのことを思い黄昏れるくらいのことはしてしまうのだ。

 

「ロッキー」

 

 ベンチの背もたれに深く腰を掛け、とめどない思考の海に溺れかけていた時、ふと愛称を呼ばれ、うん、と顔を上げると想像通りの子がそこにいた。

 

「カフェ……久しぶりだね、元気?」

「うん、ロッキーも元気そう……」

 

 そう見えるかなぁ、と云いながらベンチの空いているスペースへ座るようマンハッタンカフェを促すと、彼女は素直に腰を掛けた。相変わらずの涼しげな表情ではあるが、学園指定のジャージを着てほんのりと汗ばんでいるところを見ると、何かトレーニングでもしていたのかもしれない。

 暦の上では既に秋になっているとは云え、此処東京府中はまだまだセミの鳴き声と暑さが続く時期である。

 

「トレーニング上がり? 夏休みになってから全然会わなかったね」

「ロッキーは……北海道に居たし……。阿寒湖特別、2着……惜しかった」

「カフェが勝ったレースだったから私も勝ちたかったんだけど、何か一人、どえらく強いお嬢様がいたんだよ……」

 

 呆れるように手で顔を扇ぎながら、私は「G1バでもないのにSPが付いているウマ娘なんて初めて見たわ」と嘆息した。

 

「むしろ格上挑戦で……あれだけの激走……快挙……?」

「格上だなんて酷いな。相手は一応、同じ2勝クラスだよ」

「ロッキーは2勝クラスに上がったばかり……。それにロッキーみたいに汚いウマ柱の子なんて……()()()要素は無い……」

「汚いって何よ、もう……そのお嬢様は3戦目だったんだけどね。それに昇級戦はノーカンだよ。出遅れるわ、引っかかるわで、全くいいところが無かったんだから……」

 

 ため息を吐きながら、嫌がるマンハッタンカフェの頬を仕返しとばかりに指先でいじる。気落ちする私を尻目に、いくらかマンハッタンカフェは普段より饒舌だ。トレーニングによってアドレナリンが高まっているのか、はたまた別の理由があるのか、それは私にはわからなかった。

 

「さすが()()()()GⅠウマ娘サマは云うことも厳しいねぇ―――それよりさ、フランス遠征の準備はどうなの? 凱旋門、いけそう?」

「前よりも移動には強くなったから大丈夫……だと思う……」

「去年、東京から大阪に移動するだけでげっそりしていたカフェが?」

「新幹線は苦手。飛行機ならあるいは―――前に飛行機移動だった阿寒湖特別も勝てたし……()()()()()()()()阿寒湖特別も勝てたし……」

「いや、もうわかったから、当て擦るのは止めてよ。ほっぺたツンツンして悪かったって」

 

 再び苦笑いする私を尻目に、マンハッタンカフェは不満げな顔をしながら鞄から取り出したハンカチで自身の額ににじむ汗を拭いた。木陰とは云え風が少ないせいか、体感としては日向とあまり変わらない。

 

「しかしまた、何で凱旋門賞へ? 国内の方が万全に走れるだろうし、ポッケやダンツと同じ国内中長距離路線じゃダメだったの?」

「私がやりたいことだから……魂が……呼んでる……」

「ふうん―――魂、ねぇ。ウマソウル、などと呼ばれるものなのかな。……そう云えばアグネスタキオンが何かそれらしいことを云っていたかもしれない。あの訳わからんクラスメイトは普段から人を実験台にしたり何やりしたりして皆を困らせているけど、偶に役立つことを云うものだから評価に困るのよ」

 

 そのアグネスタキオンは昨年の皐月賞以来レースから身を引くことを宣言し、いつもの研究室に引きこもっていたのだが、昨年の末、ちょうどジャングルポケットがジャパンカップを制した後あたりに急遽復帰宣言を行った。彼女にどのような心変わりがあったのかは周囲が知る由もない。

 

「フランスにはイーグルさんも帯同してくれるし……洋芝も問題ない……たぶん大丈夫」

「イーグルさんはあっちのGⅡに出るんだってね。二人とも、応援してるよ」

「ありがとう……【お友だち】も……発奮してる……」

 

 いきなりぶち込んできた話に「げぇ」と声を上げると、抗議するかのように肩のあたりをバシッと衝撃が襲ってきた。マンハッタンカフェの【お友だち】は、彼女を知るウマ娘にとってもはや常識だ。

私はその存在に慣れてはいないものの、彼女の友人扱いをされているのだろう。彼女の担当トレーナーのようにあまり酷いことにはなっていないから。

 

【お友だち】が何なのかと云う話は、私の中では未だに腹落ちしていないものである。マンハッタンカフェが頻繁に見たり悩まされたりしている霊や妖の類とはまた異なるようで、曰く「私を外に連れて行ってくれた大切な存在」とのことだ。

私はその話を聞いてから、それのことを『見えない猫』とでも思うようにしている。猫にじゃれつかれたり、噛みつかれたり、いたずらされたりと思えば可愛いものである。或いは、カフェの外付けウマソウルか何かなのかもしれないとも思えば、愛着の一つくらいは湧いてくる。

 

 残念ながら私に霊感と呼ばれるものは備わっておらず、マンハッタンカフェの【お友だち】を除いてそうした霊的な何かは見たことも話したことも感じたこともない。マンハッタンカフェはその黄水晶の瞳を輝かせてベンチの右前方辺りを見つめているが、私には何も見えないのだ。ただ、青々と茂る雑草と夏の終わりの空気だけがそこにあった。

 

(私は、何を以て彼女の【お友だち】の存在を認識しているのだろうか―――)

 

 実はウマ娘にとって心霊現象やそれに類するものはかなり多い。学園の中では『夜中にグラウンドを走る黒い影』といった話や、寮でも『消えるウマ娘』や『開かずの部屋』といった噂話もある。マンハッタンカフェなんかは毎週のように怪奇現象に出くわしているらしいし、学園の外でも夏合宿に行ったら()()()()()()()()()と聞くこともある。

 

 いずれにしても、見えなければ、認識しなければ、存在しないことと変わりは無いのだ。

 

「―――うん、まぁ、ほどほどにね?」

「何が……?」

「つまり、まぁ、カフェが怪我無く帰ってきてくれたら、それだけで私は嬉しいってことだよ」

 

 微妙な投げかけに対し、彼女もまた微妙な顔をして返答する。私は【お友だち】について考えていたことを多少誤魔化しながら云った。

 

「……? ありがとう、ロッキーも頑張って。次は……?」

「次? あー、来月9月の兵庫特別かなぁ。まぁ人気のない長距離だし、抽選も無さそうだから出走は出来るでしょ。だけど何かトレーナーはそこで勝てたら重賞挑戦も夢じゃないとか云っているし……」

「ロッキー、勝てる。私は多分渡仏していると思うけど……応援してる」

「うん、カフェ、ありがとう。カフェも―――どうか無事で帰ってきて」

「……!」

 

 幾分まじめなトーンでカフェに返すと、彼女は長く美しい前髪に隠れがちな瞳を見開き、驚いたかのような表情で私を見た。数瞬の間、視線が交錯したが、彼女は視線を切り一言短く「うん」と頷くと、ふわふわと浮いているのであろう【お友だち】を視線で追いだした。

 そう、私はまだ未来について語ることが出来る、恵まれた方のウマ娘なのだ。

 

 気づけばかなり日も傾いてきている。そろそろ寮に帰らなければならない時間が近付いてきた。お互い同じ思いだったのか「うんしょ」と云いながらベンチから立ち上がるので、私もそれにつられて立ち上がった。

 

「いつか……ロッキーとレースで走りたい。だから……」

「私も、カフェと走りたい。本気のカフェと」

「……うん」

「じゃあ、帰ろうか」

 

 並んで美浦寮までの道のりを、少し背の小さいマンハッタンカフェに歩幅を合わせながらタイルで舗装された道を歩く。

 

 無言ではあるが、心地よさを感じる。

 

 この心地よさは『見えないのにそこに有るもの』だ。そしてカフェの【お友だち】もまた『見えないのにそこに有るもの』だ。それの影響を受ける人と受けない人がいる、そう云う意味ではカフェとの時間と云う心地良さと全く同じである。

 

 逆は何か。『見えるのにそこに無いもの』だ。あまりパッとは思いつかない。まるで謎々か哲学者みたいな云い回しだ。強いて云うなら蜃気楼だろうか。

 

 こういう連連とした意味のない思考でさえ、『見えないのにそこに有るもの』の良いアクセントになっているのだ。

 

 そのような思索にふけりながらふとグラウンドの方を見ると、間もなく下校時刻になるのにもかかわらず必死に汗を流してターフあるいはダートを駆けている子が何人か見える。実力のある子たちは海へ合宿に行ったり実家や避暑地で休んだりして秋以降のレースに備えているから、おそらくは殆どが未勝利の子か、1勝クラスの子たちだろう。

 

 ここに居る子たちは皆、必死だ。学校に残っている私を含めた『その他大勢』のウマ娘は、生き残りをかけて必死なのだ。特に「何とか一勝を」という未勝利バ達は縋るように、祈るように、ターフあるいはダートを駆けている。

 

 なぜなら未勝利戦はもうあと1週しか残されていないのだ。具体的には今週末の開催が最後。そこで勝てなければ即引退……とまでは云わないが、中央での生活はお終い。

 

(私も何か一つ間違っていれば、今頃あそこに居たかもしれない。―――まぁ、カフェなんかと比べたら私もそこまで胸を張れるような成績ではないけど)

 

 

 

 ―――そう、例えば『努力』なんてどうだろうか。

 

 私は『目に見えるのにそこに無いもの』の例としてそれを思いついた。

 

 努力する姿は皆の目に見えている。皆の目には見えていなくとも、努力していることを自分は知っている。だけど具体的な形は何一つとして存在しない、将来的にそれが結実すると約束されたものでもない―――これこそ『目に見えるのにそこに無いもの』ではないだろうか。

 

 その努力が結実するかどうかは誰にもわからない。

 

 私とカフェは揃って寮への道を歩んでいる。

 

 私たちが無事に寮へとたどり着くかどうかは誰にもわからない。

 

 未来はいつも目に見えず、不確定なのだ。

 

 まるで、真夏の蜃気楼のように。

 

 

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