「はっ、はっ、はっ…」
後ろで束ねた髪が、尻尾のように左右に揺れる。
「はっ、はっ、はっ………」
一定のリズムで踏み締める地面の感触が気持ち良い。
「はっ、はっ、はっ、はっ………」
まだ目覚めきっていないロンドンの街並みの中を走る。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ………」
早朝の空気が肺に取り込まれ、身体中を循環する。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ…はぁ…はぁっ………」
公園まで辿り着き、大きくゆっくりと深呼吸。
「はぁーっ、ふぅーっ、はぁぁーーーっ………」
私のジョギング相手も、空を見上げながら全身に酸素を取り込んでいる。
「ふぅぅーーーっ、すぅぅーーーっ、はぁぁぁーっ………やっぱり朝は気持ち良いね。喜多さん」
「そうですね…すぅぅーーーっ、はぁぁーーーっ。…志麻さん、やっぱり体力あるなぁ…。ドラムの人って、皆そんな感じなのかな」
数回の深呼吸で、志麻さんはもう落ち着いてる。
「どうだろうね。余り自分じゃ意識出来ないけど。…廣井のせいで無駄に体力付いたのは…あるかも」
「ふふっ、あははっ!廣井さん、いつも志麻さんを困らせてますからね。イライザさんは…なんか、廣井さんと近いノリだけど」
「…あいつもノリで生きてるトコあるからなぁ…あれ?私のメンバー、困った奴しか居ないぞ?」
「ぷっ…あはははは!」
☆
冬の早朝。志麻さんとジョギングするのが最近のルーティン。志麻さんが地方にライブ行ってる時はお休みするけど。一人で行こうとしたら、ひとりちゃんに止められた。
『ア、アブナイので一人では行かないで下さいっ!』
って、泣きそうな顔で。…ひとりちゃんが付いてきてくれても良いんだけどね。…うん。無理なのは判ってる。
二人で協力してストレッチ。その後ベンチに座って水分補給する。ボトルに詰めてきた白湯を、コクコクと喉を鳴らして流し込む。…あぁ、身体に染み渡る。
「そういえば喜多さん。もう…そろそろなんだけど…後ひと月くらいかな。そっちはどうする?」
志麻さんもボトルを傾けながら話し掛けてくる。
「そう…ですね。私達も…戻ります。向こうに居る二人を、これ以上待たせちゃ悪いから」
「そっか。…そうだね。伊地知さんが怪我しちゃったタイミングだとは言え、廣井が無理矢理誘ったようなものだからね」
志麻さんが申し訳無さそうに謝ってくる。…でも、ホントに…ホントウに…来て良かった!私達は救われたんだ。
「そんな!誘って頂いたのは本当に感謝してます。皆さん良くしてくれたし、何より…自分を…ひとりちゃんも私も、自分を見詰め直せました。自分の立ち位置…私達の現状も把握出来たし。何より、素晴らしい出会いがありました。…生涯の宝物が…出来ました」
「…そっか。そう言ってくれると嬉しいよ」
こちらで出会った人達は、皆本気で向き合ってくれた。本気で何かを伝えようとしてくれた。
出会った人達は皆、一生の宝物。
これからの人生で、必ず恩を返さなきゃならない人達。
恩に報いなきゃならない…人達。
自分を奮い立たせる為に、勢い良くベンチから立ち上がる。
「…あとひと月、目一杯頑張らなくちゃ!」
志麻さんも微笑みながら一緒に立ち上がる。
「ああ、そうだね」
二人して、白い息を弾ませながら帰路に着いた。
ーーーーーーーーーー
「郁ちゃん…お帰りなさい…」
「…ひとりちゃん?何で拗ねてるの?」
「…何でもないです」
どう見ても何でも無くない雰囲気。頬が膨れてるし。…可愛い。
そもそも、この時間にもう起きてるのが珍しい。
「どうしたの?お腹空いちゃった?」
「…違います」
ホントにどうしたのかしら。…ん?
気が付くと、ひとりちゃんが私のウェアの裾をキュッと摘んでいる。…あぁ、もう!もう!
「…寂しかったの?」
「…っ!」
ふぃ、と横を向いてしまう。頬から耳まで真っ赤にしながら。それでも掴んだ裾は離さない。それどころか、顔を横に向けたまま私の身体に密着してくる。おずおずと腕を背中に回して。
…何、この可愛い生き物!もう、堪らない!
自分の汗塗れのウェアも構わず、ギュッと抱き締める。
あー、ひとりちゃんの寝間着も私の汗で濡れちゃう。でもひとりちゃんが悪いんだからね!そんな可愛いのが悪いの!一緒に洗濯すれば良いわ!ついでに一緒にお風呂入って貰うわ!
「…目が覚めたら…」
「うん」
「…背中が寒くって…」
「…うん」
「郁ちゃんが居なくって」
「………うん」
「どっか行っちゃって…」
「………」
「帰って来なくなるかも…って」
「…もう…」
「…ちょっと、泣いちゃって…」
ああ…神様………もう限界!もう良いよね!
「…こっち」
「…え?郁ちゃん?」
お風呂場に連れて行くと、剥ぎ取る勢いでひとりちゃんの服を脱がし、ついでに私もペイッと汗塗れの服を脱ぎ散らかす。
ええ。もう、洗いましたとも。ひとりちゃんを。隅から隅まで。磨くように。撫でるように。慈しむように。全身隈なく。残す所無く。
久々に暴走モード突入!
何故か二人共精魂尽き果て、再びベッドの中。今は向き合って、ひとりちゃんの胸に顔を埋めております。…ああ、良い匂い。
もう、昼に近い時間。あー、もう少しでレッスンに行かないと。ひとりちゃんもライブハウスに送り出さないと。…でも、良い匂い…じゃ無くて!
「あのね?ひとりちゃん」
「ぅん、何?郁ちゃん」
ひとりちゃんが私の髪を梳くように撫でてくれる。あー、さっきみたいにダイレクトなんじゃ無くてこういうのもイイ………じゃ無くて!
「朝に、志麻さんと話してたんだけど…あとひと月位で帰国…するって。ひとりちゃん…どう」
…する?って聞こうとしたら、即座にひと言。
「帰りましょう」
「…良いの?」
「待ってます。リョウさんと、虹夏ちゃん」
ひとりちゃんの瞳に…蒼い炎。…そうね。その為に来たんだものね。
「そうだね。うん。…帰ろう」
ふふ…やっぱりひとりちゃん、格好良い。
「でも…その前に…」
「…うん?なぁに?」
「…ちょっとだけ…眠らせて…」
「…うん…おやすみ…」
ちょっと疲れさせちゃったかな…
今度は私が胸に抱き締めてあげる番。ひとりちゃんの柔らかい髪を、そおっと、そおっと…梳いてあげる。
安心しきった表情。
可愛い。
あと1時間位で起こしてあげなきゃだけど、起きててあげるから。それまで…おやすみ。
…
………
……………
「わああっ!」「うひゃあっ!」
…はい、見事に寝ちゃいました…
二人して大急ぎで準備。それぞれの場所に向かって行ったのでした。
ーーーーーーーーーー
「イクぅ〜?パートナーと仲が良いのは良いのだけれど、寝過ごしちゃダメよぉ〜?」
「そうだよイク。ヒトリが大事なのは解るけど、アタシ達を忘れないでね」
メアとレヴィに散々冷やかされました。え?でも何で遅れたか言ってない!
「な、なん、わ、え?私何も!?」
言ってない!と言おうとしたら…
「寝癖」とメア
「胸元」とレヴィ
部屋の隅にある姿見の前に瞬間移動。確認。
…あ
何かに押し付けてたような寝癖。
胸元にはギリギリ見える所に赤い花。
はい…状況証拠バッチリね…
「…ゴメンナサイ」
もう、謝るしか無い。頭を下げる。…今気付いたけど、何故か履いてるキュロットの中…感触がオカシイ。
あれ?…これもしかして…私、ショーツ…穿いてない…
…その場で崩れ落ちました。
「ヒトリとイクが仲睦まじくて、嬉しいわぁ」
「ヒトリも、情熱的だねぇ。ねぇイク?」
…恥ずかしくて、穴があったら入りたい…
ちなみに、ちょっと前から私は二人に「イク」と呼ばれるようになった。
「イクヨ」って、発音し辛いみたい。
更にちなみに、ひとりちゃんもそれに倣って「郁ちゃん」と呼ぶようになった。「何で?」って聞いたら、「より可愛いから」だって!…だって!!!
もう!
「さ、ここに座って?」
メアに促され、鏡の前の椅子へ。髪を優しく梳かしてくれた。
はい、もうショーツ穿いてないのは諦めました。言わなきゃ誰にも気付かれない…筈。もう堂々としてやる。
「女の子は常に可愛く居なくちゃね。…はい、ホラ可愛い!」
不意に鏡越しのメアと目が合う。あ、そうだ。今…言わなくちゃ。帰る事。お姉ちゃんに、伝えなくちゃ…
「…真剣な目をして、どうしたの?」
…私…伝えないとならないのに…涙が…泣いちゃ、ダメなのに…
「メ、ア………わた、私…帰る事に…なった、の…」
鏡の中のメアが目を見開いて…俯く。それからは、滲んで良く見えない。視界が滲んで…見えないよ。
メアがいきなり後ろから抱き着く。その突然の行為に、声を掛けようとしたら。
「う、うふぅ…え…うぁぁ…ぁぁ…ぁぁぁ!」
声を押し殺して泣き出した。身体が凄く震えて。私を逃さないように掻き抱いて。
どう考えても尋常じゃ無い。
困惑してレヴィを見遣る。メアの肩に手を置いたレヴィも、表情は沈痛に沈んで。
「レヴィ、メアは…?」
「メアはね…妹が居る…居る、筈…だったんだ」
☆
メアのお母さんはメアが5つの頃、妊娠した。
女の子…だったらしい。
お母さんの大きなお腹に、歌が大好きだったメアがいつも歌を聴かせていた。
早く生まれて来て?私と一緒に歌おう?って。
でも…もうすぐ臨月、という頃。
階段から足を滑らせて…
すぐに病院に連れて行ったけど…死産になってしまった。
そのお母さんも、身体の負担と心労で。
2年後に…亡くなった。
その後、メアは歌の道を志した。
素晴らしい歌声。
でも、心を何処かに置き忘れてきたように。
いつの間にか、「氷の歌姫」と呼ばれるようになって。
周りの何の感情にも、心動かされる事が無くなり。
二十歳の頃。そんなメアとレヴィが出会った。
レヴィは、少しずつ…少しずつ、メアの心を溶かしていって。
そして、掛け替えの無いパートナーになる。
☆
「…メア…」
「いや!………ないで!居なくならないで!嫌よ!もう、嫌…」
「メア…私はここに居るよ?…だから、ちょっと離して?」
「イヤぁ!」
「…メア。愛してる。だからちょっとだけ離して?そうしないと、貴女を抱き締められない」
メアの腕をトントンと軽く叩く。
「………」
「…ね?」
おずおずと。そろそろと。やっと腕を解いてくれた。抱き締められていた腕が赤くなるくらい力が入っていた。
やっとメアの方を向ける。やっとメアと目を合わせられる。
振り向いた時、メアの顔は、まるで全ての感情を忘れたような表情。目が合っている筈なのに、何処を見ているか判らない。
レヴィを見る。
私に優しく頷く。まるで「メアの心を取り戻してやって」と言っているように。
「メア」
ギュッと抱き締める。私の心が伝わるように。強く。
一瞬ビクリと震え、それから私に寄り掛かるメア。
「メア」
もう一度名前を呼ぶ。まだ聞いてくれているか判らないその耳に囁く。
「…私はね、日本に居る時は自分が何者か解らなかったの。ある程度は勉強が出来て、ある程度はスポーツも得意で…友達もそれなりに居たわ。周りからの人気もそれなりにあったの。…でもね、それだけ。皆、「私の外側」を評価してくれていた。でも、「私の内側」には、何も無かった。何も…入って無かったの。まるで「風船」のような自分が怖かった。いつか「周りからの評価」だけを詰め続けた自分が、破裂してしまうんじゃ無いか…って」
ダラリと垂れ下がっていたメアの腕が、ソロソロと私を包んでくれる。「そんな事無いよ」って言ってくれてるように。
「本当にそう思ってたの。なんの身も入ってない自分が破裂してしまったら、薄皮だけが飛び散って…後には何も残らない。…でもね。そんな時に、ひとりちゃんと出逢ったの。ひとりちゃんは、私の中に「種」を植えてくれたの」
ひとりちゃんとの出逢いは、今でもはっきり思い出せる。それ程私の中で、衝撃的な邂逅だった。
「ひとりちゃんが植えてくれた「種」は、どんな花が咲くか、どんな実が成るか解らなかった。でも、何にも無い私の中に、土を入れて、水を与えてくれたの。例え花が咲かなくても実が成らなくても懸命に育ててくれた。でもある日、芽が出たの。その芽を枯らさないように手を掛けてくれたけど、育ててくれてたひとりちゃんも、自分自身で迷ってしまって。そして、二人してロンドンに逃げて来たの」
決意した…と言えば聞こえは良いけど、少なくとも私は「逃げて来た」と言う意識が拭えなかった。現実から逃げて、非現実に身を置いて誤魔化すような。
ひとりちゃんもある日、「わたしは逃げて来たようなものかもしれません」と言っていた。
あぁ、私も同じだ…とその時実感した。
「それでね?ロンドンに来てからも、その「芽」は枯れこそしなかったけど、ずうっとそのまま。育たなかったの。でも…ある日。その「芽」を成長させられるかもしれない出来事があったの。メア。貴女に「教えて下さい」って、声を掛けた日」
ピクリとメアが反応する。良かった。聞いててくれたんだ。
「それからメアとレヴィの所に通って、色々な事を教えて貰っている内に、その「芽」が成長している事に気が付いたの。ひとりちゃんが植えて、育てて、見守ってくれた芽が…メアとレヴィが成長させてくれた。それはね?「木」だったの。すぐには花が咲かないかもしれないけど、とても大きな木になる可能性があったの。希望を持てたの。」
私の肩が温かい物で濡れてゆく。メアの中の「氷」が溶けてきてくれたのかな。
「その「木」はどんどん成長を続けて行くの。メアと…レヴィと…触れ合う度に、育って行くのが解るの。自分で怖くなる位、枝が伸びていってくれる。そして、いつかは解らないけど…メアとレヴィのように、綺麗で、大きくて、素敵な花が咲いてくれるのを願ってる。だからね?その素敵な花が咲くのを見て貰うまで…私は絶対居なくならない。居場所は離れてしまうかもしれないけど…私は間違い無く貴女の「ココ」に居る」
言いながら、メアの胸に、心に手を当てる。
「貴女の妹さんと一緒に、「ココ」に居る。メアを絶対独りぼっちにしない。…私の大切な大切な「お姉ちゃん」だもの」
メアの息遣いが荒くなる。でもさっきの「氷の息吹」じゃ無い。暖かな、吐息。
「ふぅっ…イク…愛してるわ。私の大切な、妹」
抱き締めてくれる腕に力が籠もる。肩が温かい…熱い雫で濡れていく。
私もメアの肩を濡らしてしまう。
レヴィが「ありがとう…イク」とひと言。慈しむように、ひと言。
暫くして。
皆が落ち着く頃。私は二人に「ある物」を渡そうとしていた。
それは少し前にひとりちゃんとショッピングに出掛けた時。偶々雑貨屋さんで目についた、ソレ。
「メア。レヴィ。私から…贈り物があるの」
「まぁ、何かしら!」
「イクから贈り物なんて、嬉しいな!」
…そんなに期待されると恥ずかしいんだけど…
「コレ…なんだけど」
トートバッグから小さな箱を取り出す。その箱の中には…シンプルなシルバーリングが、3つ。
「良かったらこれ…貰って欲しいんだけど…とても二人に渡せるような高価な物じゃ無くて…でも、持っててくれると…嬉しいな」
思わず俯いてしまう。少しして、ソロソロと顔を上げると…
二人、目がまん丸。え?どういう表情?
その内メアは両手を口に当て…何か泣きそう。
対するレヴィは、満面の笑み。
嬉しそうで良かった…でもね、まだそのリング…意味があるの。
「これ…この表面の花の意匠、何の花?」
レヴィが問う。それにメアが答える。
「これは…サルビアかな?うん、サルビアね」
そこでメアが何かに気付く。
「イク…これの、意味は?」
やっぱり花言葉に気付いたみたい。でも意味までは解りかねてる。
あのね?それはね?
「「長寿」、「尊敬」、そして…「家族の愛」」
聞いた途端、メアの瞳からはボロボロと涙が溢れ、レヴィからは「キャーーーッ!」と奇声が上がる。
「メア。レヴィ。二人のお姉ちゃん。…いつまでも、愛してるわ」
レヴィも泣き出してしまい、私も頰を濡らす。
三人して泣きじゃくる。抱き締め合いながら。
「ありがとう…ありがとう…イク。いつまでも愛してる。困った事があったら、すぐに言って。いつでも会いに行く」
「ああ…そうだイク。すぐに呼んでくれ。何処からでも駆け付けるよ」
「…あり…がとう。お姉ちゃん達。二人も、何かあったら言ってね。助けられる力は無いけど…寄り添う事は、出来るから」
「ありがとう!愛してるわ」
「アタシも愛してるよ」
「うん!私も!」
ーーーーーーーーーー
「ヒトリ。それは…どんな意味かな」
え?意味?…わたしの生きてる意味?どんな…って言われても…スミマセンわたしにも解りません。生きててスミマセン!ただギターだけは離さない人生でした。もしわたしが死んだらギターを郁ちゃんに渡して下さいでも死んじゃったら見限られちゃうかなそうだよねそれじゃギターを恵まれない陰キャ協会の教会員に寄付して下さいあでもそのギターがまるでモノリスのようになって陰キャが触れたらド陰キャにクラスチェンジしてしまうかも…
「ヒトリ?ヒトリ?…うーん………トッド、やってくれ」
「はいよボス」
バシーン!
「うぁっ!…あれ?あ、トッドさん」
「モーニン、ヒトリ。目が覚めたか?」
「あ、はい…ありがとうございます?」
両肩に、トッドさんの丸太のような腕。
「…ボス、戻ったぞ」
「うん、ありがとう」
両肩を勢い良く叩かれ、現世に復帰。
「で、ヒトリ。それは何だい?何かのまじないかな?」
わたしの頭を指差すケニーさん。え?何って…いつも被っているキャップですが…そう言えばツバが無いな。あ、逆さに被って来ちゃったんだ。道理で眩しいと思った。焦って来たから判らなかったよ。そう言えば道中、すれ違う人がギョッとした目をしてたような…逆さに被るだけでそんな顔されるとは、わたしも有名になったのかな…へへ。ゆくゆくはここロンドンのストリートでも歩けなくなるくらい人集りに…そして伝説のギタリストと呼ばれるように…うへ、うへへへ…
あいやとにかく眩しいから被り直そ…あれ?後ろにツバが無いよ?…おかしいな。
手を頭に乗せてみる。何故か柔らかな感触。そして穴が両方に空いて………え、ちょっとだけ馴染みのある触り心地。…主に夜とか………ゥエ!?ちょちょちょ、ちょま!
両手で触る。…前面に…何やらリボンのような…モノ………が…
壁に掛けてある鏡の前に瞬間移動。
恐る恐る覗く…と、そこには………
パンツを被った桃色髪のヘンタイが…しかもこれ、郁ちゃんの…ヤツ…
……………
「アギャユヨゥピェャニュアぉ!!!!!」
「ウハッ!ヒ、ヒトリ!だ、大丈夫かぃ…ぷふ…う…ゴホゴホッ!ぅふ!…フゥッ!」
…ケニーさん…笑いを堪えなくて良いです…いっその事、思い切り笑って下さいぃ………
違う意味でストリートの伝説になりそうです。
「パンツを被ったヘンタイギタリスト」として…
しかし、余りに恥ずかし過ぎると身体が形状変化する間も無いんだなぁ。皆もそうなのかな…
これが「大人になる」ってヤツなのかな。
遠い目をしてみる。決して現状が恥ずかし過ぎて現実逃避してる訳じゃ、無い。
「よお!ヘンタイ!」
「ウホァッ!グ…ハ!…アハハハハハハハハハッ!ウアッハッ!ゲホゲホッ!ァハハハハッ!た、助けてくれ!腹が!腹が痛い!」
いきなりギタリストの彼が来店。トッドさんに聞いたらしく、無事「ヘンタイ」認定を受けました。
我慢してたケニーさんも火が付いたように笑い出す。お腹を抱え、涙まで流して。
わたし…もうここに居られないかも………
「いやぁ…ヒトリはやっぱり、伝説に成るべくして成る女だな!」
「も、もうヒトリのそれは…運命だね」
彼とケニーさんに好き放題言われてます。まぁ、わたしが悪いんだけど…つい寝ちゃったから遅刻したんだし…それで焦ってあんな事に…あれ?…寝ちゃった原因って…え、犯人は郁ちゃん!?でもキモチイ…じゃ無く!…はい、やっぱり自分の責任ですね。
「と、とにかくご、ごめんなさい………」
「いやいや、遅刻って程の時間じゃ無いしね。ヒトリは普段、とても真面目だから。大丈夫だよ」
「そうだぞヒトリ。大体時間なんて、決めるヤツが間違ってるんだ。時間厳守なんて、ロックじゃねーよ!」
「君はそう言って、ここで働いてた時は絶対時間通りに来なかったよね」
「おれの信念だ!」
「ヒネクレた信念もあったもんだよ…」
そう言えば、彼に聞きたい事があったんだ。
「あの…聞きたい事ががあるんですけど」
「おお!ヒトリからの質問なんて、嬉しいねぇ!何でも聞いてくれ。ただし、俺のワイフには会わせねぇ!お前に惚れちまうと困るからな!」
彼の欧米ジョーク(?)を「へへ…」と華麗に躱し、質問する。
「あ、あの…この間、ギターをお借りしたじゃないですか」
彼はちょっとムッとして「…やったんだぜ?」と呟いた後「お前は俺との絆を解きたいのか?」と悲しげに俯く。
「ちょあっ!そそそそうではなくて未だに畏れ多いと言うかわたしには分不相応というかわたしには何も返せないというか!………」
咄嗟の事で日本語で叫んでしまう。それをケニーさんが訳して伝えてくれた。優しい。
「ヒトリ〜。俺はお前と同じ「只のギタリスト」だぜ?そのギタリストの友達が、ただ、ギターを譲ったってだけだぞ。…あぁ、俺は悲しいぜ………友達にまでまともに接して貰えないのか…」
「ちょっ!まっ!やっ!そそそんな事は…」
うう…。………ん?友達?…トモダチ!?
「え!?と、友達!?」
「…違うのか?」
「や!そそそうじゃなくって!………と、友達って…思ってい、良いんですか?」
「え?思ってたの俺だけ?」
「いえ!そう!いやそうじゃなく!………嬉しいんです。素直に」
そう、嬉しいんだ。とても。凄く。
「…わたし、高校に上がるまで、友達が一人も居なかったので。ずっと、ずっと…一人きりでただギターを弾いてたんです。バンドを組みたい気持ちはずっとあったけど、どうしても勇気が出なくて誰にも声を掛けられませんでした。いつも押入れ…クローゼットの中に籠もって、一人で、一人だけでギターを弾いてたんです。そんな時、声を掛けてくれる人が現れました。今のバンドの、ドラマーの人です。わたしが歌詞を担当するようになって、「わたしのままで良い」と言ってくれる人が居ました。そのバンドのベースの人です。こんなわたしを大切に、大事にしてくれる人が居ました。バンドのギタボの郁代ちゃんです」
そう、その出逢いは掛け替えの無いもので。大切なもので。
「だから、そのバンドを大切に思う余り…わたしは自分の力以上に頑張らなくちゃと思って…ある日、行き詰まりました。ロンドンに来たのは、ある意味「逃げ」でした。ロンドンに行こうと廣井さんに誘われなければ、わたしは日本で潰れていたかも…いえ、潰れていました。だから、こちらに来ても自分が「変われる」なんて意識が持てませんでした。何か自分の外からの影響で、変えて欲しい…なんてズルい考えを持ってたんです」
黙って聞いてくれていたケニーさんが、言葉を発する。
「ヒトリ。でも君は「欲した」んだ。自分でね。このライブハウスでサポートギターを始めたのだって、誰かに言われた訳じゃ無い。君はあの時、「やらせて下さい」って自分から言ったんだ。誘われたんだとしてもね。それが「今」になっている。ここのスタッフ、トッドやアル…勿論僕も…全員君の「友達」さ。君が引き寄せた結果だよ。そして、君は君自身で切り拓いたんだ。それを誇ってくれ。自分を、誇って欲しい」
そうだ…ちょっと前に自分で気が付いたじゃないか。相手の気持ちを「本気で」受け取るって。
そんな事を考えてると、彼が真剣な表情でわたしに向き合う。
「ヒトリ。さっき俺が言った「友達」って言う言葉、撤回させてくれ」
…そうだよね。こんなわたしじゃ、友達になんてなれないよね。贅沢だよ。
「友達じゃなく、俺達は「親友」だ!」
…え?シ、ン、ユ、ウ…?な、何?何の言葉?…親友…ああ…親友かぁ。ベストフレンド………え!?
「え、あちょ、し、親友って………!?」
「何だよ、不満かよ!?」
「いやいやそうじゃ無くて!………良いんですか?…わたしですよ!?」
ギロリと睨まれる。
「お前だから俺は親友になりたいんだよ。それとも俺じゃ役不足か?」
世界的ギタリストが役不足って…ええ!?…あ、そうか
「親友が100人位居るとか…」
「居ねぇよ!親友はケニーとお前の二人だけ!」
え…こんな凄い人の、二人の親友の一人がわたし。わ、わたしで良いんだ。わたし、が…良いんだ。
気付いた時には頬が濡れていた。膝もびしょびしょだ。
「ズルいな。それじゃ僕も「親友」にしてくれないか?」
優しい表情で言ってくれる。わたし、親友が二人も出来たよ。
「あり…がとう…ございます。ありが…とう!」
ああ…「コレ」を用意しといて良かった。只の「お返し」の積もりだったけど…今の言葉で、しっかりとした意味を成せる。恥ずかしいから意味を伝えるつもりは無かったんだけど。
「あの…これ…今までのお返しの積もりだったんですけど、受け取ってくれますか?」
トートバッグから紙袋を出す。その中には、シルバーのバングルが3つ。
それぞれ手渡す。二人はとても嬉しそうに受け取ってくれる。
「ぜ、全然高いものじゃ無いので申し訳無いんですけど…」
「そんな事関係無ぇよ!うれしいよ!」
「ヒトリ、ありがとう。とても嬉しいよ。…それで、この花は何だい?」
そりゃ気付くよね。…その意匠が何の花かだけは伝えなきゃ。
「ぜ、ゼラニウムです。たまたまキレイだったから良いなーって思って…」
ケニーさんは花の名前を聞いた途端、顔を歪める。泣き出しそうな表情で。
「…ゼラニウム、か。君も「そう」思ってくれてたんだね」
慈しむように花の意匠を撫でる。…流石プレイボーイのケニーさん、気付かれちゃったか。…恥ずかしい。
「おいおい!知らないの俺だけ!?教えてくれよ!」
ケニーさんが潤んだ瞳で彼に答える。
「これはゼラニウム。花言葉は、真の…友情」
それを聞いた彼は一瞬目を見開きわたしを見る。それから、これ以上無い!って笑顔を咲かす。
「え、ええ!?最高じゃないか!俺達のアイテムには、最高だよ!これ!」
嬉しそうに早速手首に付けてくれる。
「もうこれは絶対外さない!例え腕を切り落とされようと、これだけは無くさない!なあ、ケニー!」
「ああ、生涯大切なアイテムが出来たよ。ありがとう、ヒトリ」
ケニーさんが涙を流す。ケニーさんの涙、初めて見たかも。わたしも涙が頬を伝う。嬉しい。とても、嬉しいな。
「よし!これで俺達は生涯の友だ!」
三人で、手首に付けたバングルを打ち付け合う。
「まるで、三銃士のようだね。彼等も確か、生涯の仲を誓い合ったよね」
「ザ•スリー•マスケティア、か!それなら、あの言葉もそのままだ!」
ワン•フォー•オール•オール•フォー•ワン!
「ちなみに、じゃあダルタニヤンは誰だろうね」
「うーん、そうだなぁ…イクヨか!?だってヒトリは、イクヨの為の騎士だからな!」
あ、あはははは!最高だ!この人達は、最高だ!
☆
皆でお茶を頂く。…そういえば…聞きたいことを忘れてた。
「あ、あの…聞きたい事…」
「ああ!そうだったな。余りに嬉し過ぎて忘れてた。それで、何だい?」
「お借り…頂いたギターをこの間ステージで弾いたんですけど、緊張なのか翌日左腕が張っちゃって…何か、ギターを変えた時に馴れる方法無いですか?」
「馴れ…か」
手を顎に当てて思案してくれる。
「…俺は余り意識した事無いからなぁ…まぁ俺よりヒトリの方が手が小さいってのもあるんだろうが…例えばそのギター、今2代目だよな?その時はどうだった?」
今日はパシフィカを持って来ている。…この子が拗ねないように。
「うーん…余り意識…しなかった…ような?」
「それは誰かから譲られた物か?」
「…い、いえ、初めて自分で買ったものです」
「…そうか」
「ちょっと貸してくれないか」とパシフィカ君を肩に掛ける。チューニングを合わせ、一息にダウンストローク。ジャラン!と。もうそれだけで、この人の腕が解る。素晴らしい。
一通りリフを掻き鳴らす。うぁー、贅沢だなぁ。世界有数のギタリストが、目の前でリフ鳴らしてるよ。
弾き終えて一言。
「うん、良いギターだ。弾きやすくて、何より軽やかだ。ヤマハは良いギターを作るな」
お褒めの言葉を貰っちゃったよ。デヘヘ。…わたしにじゃ無いのは解るんだけどさ。
「…でも、このギターだと、ライブ1本弾き通すのは無理かな」
…え?何で!?今、良いギターだ、って…
「何故か解るか?ヒトリ」
「わ、判りません…ギターが良くないから…?」
彼が苦笑する。「だから最初に良いギターだ、って言ったんだよ」と弁明してくれる。
「それはな?ヒトリ。このギターが「俺のじゃ無い」からなんだ」
え…確かにそうだけど…え?どういう意味?
「つまりな?もしこの時点でコイツをヒトリから譲られたとしよう。そうしたらもう、コレは「俺のギター」になる。すぐさまライブを何本も演れる。…分かるか?そう言うもんだ」
つまり、またあのストラト君とは…「ケイティ」とは信頼関係を結べて無い!?…名前まで付けといて!
「お前が「借りてる」って言ったのがその証拠だ。まあ、技術的な慣れも確かにあるが…大方そんなもんだろ」
…そっ、か。あくまで「身体的」な慣れだと、思ってた。
「だから、あのギターを可愛がってやってくれ。そうしたらアイツは、どんな場面でも力をくれる。「ケイティ」を宜しく頼むよ」
「あ、はぃ…え!?な、なんでその名前を!?」
「…お前、さっき自分で呟いてたぞ?…良い名前を付けたな。…どうでも良い事だが、評判になった野外ライブの時…あの時はトッドの妹…ケイティが亡くなった次の日だったんだ。思わず自分でも訳が分からなくなる位、熱中しちまってな。ケイティも、俺が基礎を教えたんだよ。だから、その名前を俺が渡したギターに付けてくれるのは、俺も嬉しいよ」
よりあのギターの重みが増したような。でも、そうか…それを背負える。それが、嬉しい。
「あ、改めて、ありがとうございます」
「ああ、コキ使ってやってくれ。そうそう音は上げない。それに、アイツはお前が使ってくれた方がケイティも喜ぶだろ」
嬉しい。何にも無かったわたしの中に、どんどんと「暖かいモノ」が注ぎ込まれて行く。嬉しい。ひたすら嬉しい。
あ、そうだ!まだ言わなくちゃいけない事が!
「あ、あの!」
二人に向かって話し掛ける。スコーンを摘んでいたケニーさんが顔を上げる。
「ん?何だいヒトリ」
胸がドキドキする。呼吸が浅く、荒くなる。言わなきゃ…言わなきゃ!言葉が出ない!
「…帰る…って、話かな…?」
「………!」
「え!ちょっと待て!待てよ!ジョークだろ!?嘘だよな!?お前はもうイギリスに居るんだろ!?ずっと居るんだろ!?何ならピカデリーにある外務省に俺が掛け合って…」
「待った。ちょっと待ってくれ」
「いやでもケニー!」
「いいから…ヒトリ。君は帰らなければならない。…そうだね」
「………はぃ」
「それは、君を待っている人達が居るから。…そうだね」
「…そう、です」
「それは…絶対切らしてはいけない絆…そうだね」
「………は、い。わ、わたしを…わたしと郁ちゃんを、ずっと待ってくれてる人達が…居るんです。その人達は、わたしを、こんなわたしを救ってくれた人達で。わたしの力の限り、手助けをしたい人達で。その人達と一緒に、何処までも登って行きたい…そんな存在で。その人達が居なければ、今のわたしは存在して無かった…そんな人達なんです」
もう、涙で前が見えない。ああ、こんなに「この場所」が愛しくなっていたんだ。最初の頃は、「何でこんな所に居るんだ」と思ってたけど…もう、「なんで帰らなくちゃならないんだ」って思うようになっていた。
でも…帰らなくちゃならないんだ。あの人達に逢う為。あの人達の力になる為。あの人達から力を貰う為。
ケニーさんにふわりと抱き締められる。
「ヒトリ。「行ってくる」んだ。…そして、たまには「帰って来て」欲しい」
「ケニーさん…は、はい!」
わたしもケニーさんを抱き締める。ああ…なんて暖かい人達なんだろう。
「ヒトリ!俺達は親友だ!三銃士だ!だから…だから、何処に居ても「一緒」だ!」
彼も顔をクシャクシャにして見送ってくれる。ありがとう。親友。
「いつ頃帰るんだい?」
「…あと、ひと月位です」
「ヨシ!俺もあとひと月はロンドンに居るぞ!」
…奥さんと子供は大丈夫なんだろうか…
ーーーーーーーーーー
「ただいまです」
「あ、ひとりちゃんおかえり!ご飯できてるわよ」
「あ、ありがとうございます」
郁ちゃんのご飯、おいしそうたな。
「はやくコート、脱いでおいで」
「はーい」
身体を翻すと、テーブルの端にコートが引っ掛かる。
あ…
「…あれ?ひとりちゃんポケットからハンカチ落ちたわよ?」
郁ちゃんがそれをヒョイと拾い上げて…固まる。
………あ!あああ!
「ひとりちゃん…なんでこれ…ポケットの中に…」
郁ちゃんの目からハイライトが消える。
それは、郁ちゃんのパンツで。
「あ、あそそそれは、どど、どうしてな、なんですかね!?」
…その後、何があったか。…誰にも言いたくありません。
後藤ひとり、ロンドンではヘンタイ説