カポーン……と、風呂桶が小気味よい音色を奏でた。
「は〜……」
肩から足先まで、全身を熱に包まれる。地脈を流れる温水に煽られるかのように、内を巡る血液が沸く。身体の芯から命の炎が燃え盛り、活力がみなぎるようだ。
「やっぱ……違うな」
自宅で沸かした湯とは気持ちよさが違う。何がどう違うのかはよく分からないが、とにかく明らかな差を感じる。
すん、と鼻から息を吸えば、温泉特有の独特な香りがした。これはいわゆる硫黄の匂いなのだろう。
(いいなぁ温泉……)
目をつむり脱力する。食後なことも相まって、このままでは眠ってしまいそうだ。
「やべ、ホントに寝そう」
入浴中の居眠りは大変キケン。意識を覚醒させるため、ばしゃりとお湯をかき分け、沈みかけた姿勢を直す。
そして、寝入ってしまわないように頭を働かせることにした。入浴中は思考が冴えるため、考え事にはもってこいだ。
(こいしを認識する方法……)
すぐさま思い浮かぶ、こいしの件。話を聞いた直後なせいか、今は自分の記憶よりもこいしのことが気になって仕方がなかった。
「…………」
天井を仰ぎ少し考えるが、湯気に霞む木目が視界に映るだけで、良案は浮かんでこない。先ほどはいても立ってもいられず、こいしを認識する方法を見つけてみせるなどと表明してしまったが、何かしら策があっての発言ではなかった。
自分がこいしを認識できる要因がペルソナだと判明した今、切り口はおおよそ定まったが……果たして何から始めるべきだろう。
こいしとペルソナの類似性を調べる? ペルソナそのもについて詳しく調べる? こいしに色んなペルソナを見てもらう?
アイデアは浮かべども、正解は見つからない。結局は思いつく限りを試してみるほかないのだろう。
「ペルソナ」
名を呟き、己を呼ぶ。
赤光を発し、白い毛並みの霊犬『ヤツフサ』が宙に顕れた。
「こいしと近いところにいるんだってさ。……そうなのか?」
数珠の玉を携えた忠犬は黙するのみ。主に道を示すことはなかった。
「……何やってんだ俺」
無意識の具現たるペルソナが回答を持ちうるはずがない。まさに今こいしと意思疎通できる、有意識を持つ自分自身が答えを見出すしかないのだろう。
そう思考を締めくくり、湯船から出る。
(てか、デカイな)
改めて見渡せば、浴室は温泉宿を開業できそうなほど広い。燐と空以外にもペットはいるようだが、住人の数からして持て余していそうだ。
「おぉっ、露天風呂あるじゃん!」
洗い場の横には露天風呂へ繋がる扉がある。
少し体を冷ましたら入ってみようか……と浮かれる自分は、これより訪れる窮地など予想だにしていなかった。
「おー! 広いな!」
この場で聞こえるはずのない声が室内に響き渡った。
「!?」
反射的に声のした方を見ると、そこには一糸まとわぬ姿の──
「!!!??」
咄嗟に物陰へ隠れた。命をかけた闘争により磨かれた危機察知能力が活きたのか、彼女の生まれたままの姿を視界に収める寸前で回避できた。
(は!? なんで!!?)
思わず目を疑った。
なぜ布都がここに──その疑問はすぐに解決する。
(……あ)
規模の大きさに勘違いしそうになるが、ここは外から客を招く商業施設などではなく、さとりが所有する個人住宅だ。ならば、風呂場に男女の分けが無いのは当然のこと。
「さとり妖怪め、こんなものを隠し持っていたとはな」
思うに、彼女は先客に気づかず入ってきた。あの、大浴場を前にしてゴキゲンな布都なら有り得るかもしれないと思う今の自分は、とんでもなく不敬だろう。
「わーすごーい」
(こころもかよ……!)
注意力を欠き突入してくる輩はもうひとりいた。まさか気づいたうえであえて入ってくるなんて馬鹿なことは……多分、おそらく、きっと、ないだろう。
「見よ! 湯船も広いぞ!」
「おー」
2人がこちらに気づく様子はない。バシャバシャと水をかき分ける音が聞こえるため、一直線に湯船に入ったのだろう。
(先に体を洗うのがマナーですよ布都さん……!)
などと考えている場合ではない。今考えるべきは、この危機的状況をどう切り抜けるか、だ。
(……どうしよう)
浮かぶ策は3つ。
1つ。堂々と出ていく。
よく考えればこちらは何も悪くない。余計なことはせず、これは事故だと懇切丁寧に説明すればいい。
なんとなくだが、こころはそれで許してくれそうな気がする。布都は……
『弟子よ、見損なったぞ! うら若き乙女の湯浴みを覗くなど言語道断! 即刻火刑に処す!』
……無理だ。命が危うい。脳内シミュレーションをしてみたが、許す許さないではなく、問答無用で首を狩りにきそうな予感がする。
2つ。見つからないようにこっそりと浴室を出る。
知らぬが仏ということわざがある。すぐ近くに潜んでいたという事実も、本人たちが知らなければ未遂も同然だろう(暴論)。
3つ。2人が出ていくまで待つ。
あまり良案とは言えない。留まっていては見つかる危険性が増すうえ、彼女たちの入浴時間によっては体を冷やしてしまう。
あれこれと思考を重ねた末、選んだのは──
(逃げよう)
策の二、スニーキングの実行だった。難易度は高いが、最も生存確率が高く安牌だ。
細心の注意を払いながら顔だけ出し、出入口までの逃走経路を確認する。出入口へ向かおうにも、遮蔽物が無いため単純に走り抜けるだけではすぐに見つかってしまう。
ということは何かで気を引く必要があるのだが、あちらは2人分の視線があるのに対し、こちらは単騎。頼れるのは己のみだが、一人で陽動と逃走を担うのはかなり分が悪い。
(いや……俺は独りじゃない)
頼れるのは自分自身だけ。
正確には──自分と、もう一人の自分自身だけだ。
『己を信じ続けなさい。魂の声を聞き、現状に従わず、自分の信ずる道を迷わず一歩一歩踏みしめる──』
聖徳王の教えが力強く蘇る。あの日受け取った激励が、過酷な現状を打破するべく不屈の“勇気”を与える。
(ここを切り抜けるには……!)
勝利のルートが見える。カンザトは己の力と策を信じ、戦略的撤退の第一歩を踏み出した。
・
・
・
「ふぃ〜……極楽だのう……」
存分に足を伸ばして、天然温泉を享受する。さとり妖怪の言う通り少し熱いが、慣れてしまえば極楽の泉。溜まった旅の疲れが抜け出ていくようだ。
「……」
何が気になるのか、こころは洗い場の方を見つめている。
どこを見ていると尋ねるより早く、こころの口が開いた。
「布都……あれは」
「ん?」
布都が同じ方向を見た次の瞬間。
パキパキと、硬い物質が割れるような高い音が浴室中に響く。さらに、突如大量の湯気が洗い場から押し寄せてきた。
「なんだ!?」
2人は慌てて湯船から上がる。事態を把握できず戸惑っているうちに、湯気は洗い場が見えなくなるほどに広がる。
まさか設備の不調かとたじろぐ2人の視線の先、湯気の奥で黒い影が揺らめいた。
「何かいる」
「な、何奴だ!」
充満する湯気の中から姿を現したのは──
『ヒホ!』
マスコットキャラクターめいた丸っこいボディが可愛らしい、謎の黒い生き物だった。
「なんだこやつは……」
ソレは、幼子であれば鷲掴みにできそうなほど大きな右手を上げて近づいてくる。
『ヒホホー!』
「む?」
喋れないのか、鳴き声を発するばかりのソレは、当惑する自分たちなどお構いなしに近づいてくる。
そして、左手で二人分の風呂桶を差し出してきた。
「使え、と言いたいのか?」
『ヒホ!』
おそらく、肯定の鳴き声。
「ははーん、さてはさとり妖怪の従者だな? 我らが不自由ないよう差し向けてきたわけか。なかなか粋な計らいではないか」
『ホ?』
「……いや、このコは──」
「一緒に入ろーよ!」
こころの声を遮るようにして、喜色を帯びた少女の声が室内に反響した。
「今度はなん……だ?」
・
・
・
計画通り。
まずジャアクフロストの
出力の調整にかなり気力を削られたが、酉の市での後悔を糧に訓練したおかげで上手くいった。
その後、囮として出入口とは反対方向にジャアクフロストを出現させ注意を引けば、あとは脱兎のごとく逃げるのみ。
火事場の馬鹿力とでも言うべきか、人は窮地に立たされると発想力が跳ね上がるようで、普段なら思いつかないような突破法を閃いた。
若干大がかりになってしまったが、成功は成功。最終的に勝てばよかろうなのだ。
カンザトは作戦成功の達成感を胸に、勝利へのロードをひた走る。
俺は、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ……!
右手が出入口の引き手に迫る。
逃走完了。完全勝利──
かに、思われた。
「もう出るの?」
左手首を、背後から掴まれた。
「……えっ」
「入ったばっかでしょ。まだ早いんじゃない?」
聞き覚えのありすぎる無邪気な声が語りかけてくる。その声は、隠しようがないほど浴室にありありと響いている。
「どうしたの?」
本能的に、「振り向いてはいけない」と思った。
その一線を越えてしまえば、人として、この場所の主と取引をする者として、全てが崩壊してしまう。
「こいし、離して」
「なんで?」
「もう上がるから」
「えー、一緒に入ろうよ。みんなでお風呂入ったら楽しいよー」
頼むから離してくれ。このままでは君のお姉さんに顔向けできなくなる。
そう心中で叫び左腕を振り解こうとするも、見た目幼女でもさすが妖怪といったところか、少し引っ張った程度では逃れられない。
「い、いや俺はもう入ったから。これ以上入ったらのぼせちゃうし」
不味い。今、長々と話している余裕はない。
あまり長居すると──
「よもや、お主がノゾキとはのう」
終わった──と、心の中で天を仰いだ。
「我はちと、お主を勘違いしていたようだ」
冷たい視線が背中に突き刺さる。
風呂上がりなのに、冷たい汗が首筋を伝った。
「……誤解です。話を聞いてください」
いつの間にか、左腕は自由になっている。しかし、今さら逃げる気にはなれなかった。
「俺が先に入ってたところに、布都さんとこころが入ってきたんです」
思わず、背を向けたまま両手を上げて降伏のポーズをとった。
「ならば、何ゆえ逃げる。後ろめたいことがないのなら、漢らしく堂々と姿を現せばよかろう」
「それは……」
この状況で「どうせそれやっても殺しにくるでしょ!」とは、火に油を注ぐ気がして言えなかった。
その迷いが、沈黙が、己の命運を決することになった。
「こんの不埒者が……」
ごぽりと、すぐそばで正体不明の異音がした。
「処刑じゃああああああああ!!!!!」
布都の怒声に応えるように、質量を持った何かが覆い被さってくる。
温かい……いや、熱い!
これは──お湯だ。お湯の塊に襲われている。
そう気づいた次の瞬間、急激に空気が冷え込むのを感じた。
(さ、寒い……あ──)
意識が途切れる寸前、焦って逃げずに露天風呂で息を潜めていれば良かったかもしれない……と、早すぎた撤退を後悔した。
・
・
・
一方その頃、さとりは廊下を急ぎ足で歩いていた。
やはり心配だ。念のため3人を探して、入浴時間を分けるように伝えておこう。
目指すは大浴場。おそらく今頃は、お燐とお空も大浴場にいるはず。
「嫌な予感……」
階段を下り、大浴場へ続く廊下に到着すると、奥にペットたちの後ろ姿が見えた。
「私、さとり様に体洗ってほしかったなぁ」
「仕方ないよ。また今度頼みな」
こちらに気づく様子のない2匹に、走りながら声をかける。
「お燐! お空!」
「わっ、え、どうしたんですか?」
「彼らを見なかった? ちょっと伝え忘れたことが──」
処刑じゃああああああああ!!!!!
扉を隔てて、中から叫び声が聞こえてきた。
「いっ、今のは!?」
「遅かったか……」
確実に面倒なことになる。心の中でため息を吐きつつ、勢いよく扉を開ける。無人の脱衣所を通り抜け、止まることなく浴場へ続く引き戸を引いた。
「……へ?」
自分のものとは思えない、間の抜けた声が出た。
何故なら、氷漬けにされた半裸の男性が目の前にいたからだ。
「あ……わ」
このような現場を目撃するだろうことは想定の範囲内だった。とはいえ、これほど間近で直視してしまう羽目になるとは思っておらず、頭が真っ白になった。
「ぎにゃあ! 何やってんだニーサン!」
「わー……」
ワンテンポ遅れて後ろの2匹が気づく。
「カンザト〜」
どこか悲しげな声を出しているのは客人の一人だろう。
「こ、凍った! 我にかような力があったとは……」
何故か、彼を処したであろう張本人は自らの力に驚いている。
「すごーい、全身カチンコチンだよ! 貴方こんなこともできるんだねぇ!」
たまたま居合わせたらしいこいしはパチパチと手を叩いている。
「わァ……ぁ」
「さとり様しっかり!」
「氷だ! ひゃっ、冷たい!」
ペットたちは……片や主を案じ、片や珍事を楽しんでいる。
現状は、目を背けたくなるようなカオスだった。
・
・
・
「すみませんでした」
カンザトは誠心誠意謝罪する。全身を丸めて、両手を地につけ、額を床に擦り付けている。
そう、由緒正しきジャパニーズDOGEZAである。
「そんな謝られても……」
その姿を、さとりは椅子に座りながら困惑気味に見下ろす。
「事故でしょうあれは。顔を上げてください」
「そうなんです……許してください」
「いや、許すも何もねぇ」
そこでふと、ささやかなイタズラ心が芽生えた。
「そんなに罪悪感を感じているってことは……見たんですか?」
「え」
問われ、ビクリと固まるカンザト。
その隙を逃さず、サードアイが地面に座ったままの彼の下心を暴く。
「ふーん、見なかったんですね。理性がお強いようで」
「勘弁してください」
「でも本当は?」
「は?」
「正直に自白すれば、情状酌量の余地はありますよ」
「本当に見てないです……というかさとりさんなら訊かなくても分かるでしょ……」
さとりは悪いと思いつつも、しょげる彼がおかしくて笑ってしまった。
気分はさながら、許しを乞う罪人を裁く閻魔様だ。もしここの仕事がお役御免になったら、心を読む能力を売り込んで是非曲直庁にでも再就職しようか──などと非現実的な事を考えながら、さとりはクスクスと笑う。
一挙放送のおかげで10年に1度あるかないかレベルでトリニティソウルが話題になってますね…乗るしかない、このビッグウェーブに。
ペルソナ〜トリニティ・ソウル〜は
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存在を知らない