PERSONA-trinity heart-   作:善い思考

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色を取り戻す願い

 言っている意味が分からなかった。

 こいしの「呼んだのは貴方か」という問いに、赤毛の少女は「呼ばれたのは私」と答えた。

 

「どういう意味?」

 

 同じく理解できなかったようで、こいしは質問を重ねる。

 

『この地に蠢く思念と、貴方の願いが私を呼んだ』

 

 会話は成立している。しかし要領を得ない。そもこのような状況で冷静に話を聞くこと自体難しいが……いや、それよりも。

 

「こいし、あの娘が見えるのか?」

 

「? うん」

 

 墓地で遭遇した際、こころが赤い少女の存在に気づかなかったのは単なる偶然だったらしい。

 

「見えるけど、薄いね」

 

「薄い……か?」

 

「気配とかが」

 

「……たしかに」

 

 視覚的に薄くはないが、気配が希薄だ。その点においては幽霊らしくない。

 まとわりつく恐怖は簡単には拭えない。だがこいしがそばにいるおかげか、あの時よりも気力があった。

 カンザトは意を決して尋ねる。

 

「君は……誰だ」

 

 まずは彼女の正体を。

 記憶にある人物なのか、赤の他人なのか。彼女自身に問う。

 

『私は、アヤネ』

 

 覚えのない名だった。しかし彼女はこちらを知っている。記憶を失う前に面識があるか、一方的に認知されているかのどちらかだろう。

 

『狭間をたゆたう影法師』

 

 声量の無い単調な声が脳内に染み渡る。

 やはり、言葉の意味はよく分からない。

 

「狭間……ってどこだ」

 

『精神と、無意識の──心の海の間』

 

 心の海。人々の精神の根底に横たわるという、集合的な無意識領域。

 その場所と、精神(意識と個人的無意識)の間に存在しているという彼女の答えを聞いて、カンザトは「ペルソナと似てる」と思った。つまり──

 

「私と近いのかな」

 

 こいしも気がついたようだ。

 

『近いようで遠い……それは、貴方も』

 

「……っ」

 

 少女の伏せがちな双眸がカンザトの姿を真っ直ぐに捉える。カンザトはその無機質ゆえに圧を感じさせる視線に怯みながらも、かねてより抱いていた疑問をぶつける。

 

「俺のことを知ってるなら、教えてくれ。俺は誰なんだ。なんで幻想郷にいる?」

 

 自分は今、己が存在の核心に迫っているのではないかと、期待と不安が交錯する。

 だがアヤネの返答は、そんな感情をあえなく崩壊させるものだった。

 

『それは貴方自身が見つけること』

 

「俺が……?」

 

「じゃあ貴方は、何のために呼ばれたの?」

 

 こいしが間を置かずに尋ねる。

 

『──聞かせて』

 

 声色が変わった。極わずかな変化だが、そう思った。

 

『貴方の、望みを』

 

 そこで初めて、淡々と事実を述べるばかりだった彼女自身の、明確な意思を感じた。

 彼女が最初に告げた『貴方の願いが私を呼んだ』という言葉は、こいしに向けたものだったのだ。

 

「望み……」

 

 唐突に問いかけられたものの、こいしに動揺は無かった。少し考えてから、アヤネの目を見つめて言葉を紡ぐ。

 

「教えてほしいの」

 

 ぽつりと、零したのは──

 

「わたし、みんなと一緒にいられるかな」

 

 願望よりも、己が向き合う命題だった。

 

「こいし……」

 

 カンザトはかける言葉が見つからなかった。「当然だ」と断ずることは簡単だが、それは彼女の孤独感を埋めるに及ばないと分かりきっていたからだ。彼の胸には、ただただ切ない気持ちが募っていく。

 

『求めること』

 

 答えは最初から用意していたかのように早かった。

 

『貴方が貴方を、皆を求めること』

 

 しかし、カンザトにとってアヤネの答えは曖昧模糊であり、理解し難いものだった。

 

『彼はその橋渡し。彼へ受け継がれしペルソナの力が、貴方の心を融かす』

 

「──え」

 

 やはり理解し難い。

 だが、聞き逃せない内容でもあった。

 カンザトが驚いている間にも、アヤネは語り続ける。

 

『彼が貴方を見つけた時から、貴方の中で変わったもの。今度は貴方が、その姿を捉える時』

 

 カンザトとの出会いを契機に、こいしの中で何かが変わった。アヤネはその正体を突き止め、自覚すべきだと述べている。

 

『いずれ、瞳は開く』

 

 アヤネは空虚な言葉を零し続けていたわけではなかった。彼女はずっと、無意識妖怪の本質を語っていた。

 しかし分からない。なぜ姉や本人でさえ知り得ないことを知っているのか。それは信頼に値する情報なのか。

 そう頭を悩ませていると、突如アヤネの体が透け始めた。

 

「待って! 最後に教えてくれ!」

 

 慌てて止める。彼女には訊きたいことが多すぎる。

 

「前言ってた、君の願いってなんなんだ!?」

 

 彼の破壊の力であの人を撃ち、彼女の安らげる力で私を解放して──墓地で一方的に告げられた願いの示すところを、彼女には訊かなければならない。

 

『近い未来、降り注ぐ歪み。退けるには、内に眠る二つの異なる力が必要』

 

「っ!?」

 

『やがてそれは、貴方の記憶と共に──』

 

 声が遠ざかり、姿と気配が薄れていく。またも一方的に意味深な事実を突きつけられたカンザトは、疑問から逃げられた気分で消えゆく少女の影を見つめるのだった。

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 こいしとカンザトは、近くの手頃な岩場に腰を下ろした。光源は見当たらないが、何故か先ほどの場所に比べてほのかに明るい。

 

「アヤネ……」

 

 脳内で反芻(はんすう)するも、やはり聞いたことのない名前だ。

 

「呼ばれたから来たって言ってたけど、こいしの知り合いじゃないよな」

 

「うん。全然知らない」

 

「だよな」

 

 要するに、アヤネは霊でありながら面識もない者の望みを聞くため現れたことになるが、その意図が分からない。おとぎ噺に登場するランプの魔人めいた役割でも担っているのだろうか。

 

「でもあれ、墓地にいた子だよね」

 

 驚いた。どうしてこいしがその事を知っているんだろう。

 

「俺、喋ったっけ?」

 

 今の言い方はこいしが別のタイミングで遭遇したのではなく、自分と同じ場面に出くわしたかのようなニュアンスに聞こえた。

 

「というかさっき全然知らないって……」

 

「見かけただけだから。あの子が誰かは知らない」

 

「あぁ、そういうことか」

 

「お墓でカンザトがあの子と話してるとこ見たよ」

 

「……もしかして、ついてきてたのか?」

 

「うん。貴方とこころちゃんがどこ行くのか気になって」

 

 アヤネに遭遇した翌朝、我が家にこいしがいたのはそういうことだったのか……と、今になって理解した。

 

「そしたらね、さっきみたいに消えちゃう直前に目が合ったの。びっくりしたよー」

 

 会話こそ無いが、全くの初対面ではなかったらしい。

 

「いきなり目が合ってびっくりしたのはあの子が初めてかも」

 

「もしかして、あの子も俺と同じ?」

 

「どうだろうね」

 

 アヤネの言った『近いようで遠い』の意味は分からないが、アヤネはこいしと精神が近いために、他者と違いこいしを一方的に認知できる可能性が高い。従って、必然的に彼女がペルソナ使いである線も浮上する。

 

「あの子の言ってる意味、分かったか?」

 

「んー、分かるような分かんないような。カンザトは?」

 

「ごめん、俺もよく分かんなかった」

 

「だよねぇ」

 

 くすくすと笑うこいし。先ほどまでの、取り憑かれたようにこの場所を目指す様子はもう見られない。

 

「私が私を、みんなを求めて……私が、私とみんなを……」

 

 こいしはアヤネの台詞を丁寧にすくい取るように、繰り返し呟く。

 

「とりあえず、さとりさん心配してるだろうから帰らない?」

 

「うん」

 

 こいしは返答こそするが、動こうとしない。足元に視線を投げ出してぼんやりしている。

 

「そういえば、なんでさっきあんな所にいたんだ?」

 

「んー……」

 

 ダメか、と苦笑してしまった。こいしは外界の音を遮断するほど思考に没頭しているようだ。

 

「思い出そうとしたんだ。あの時のこと」

 

「えっ?」

 

 明確な答えが返ってきた。頭を使うのに夢中で聞いていないと思っていたカンザトは少々面食らった。

 

「だから、同じ場所に来てみた」

 

「あの時って……」

 

「私が目を閉じた時のこと。お姉ちゃんから聞いたんでしょ?」

 

「……! さっきのとこが」

 

「違うよ」

 

 首だけを動かして、こいしがゆっくりとこちらを向く。顔には、若女の能面を思わせるどこか作り物めいた微笑を浮かべていた。

 

「ここ」

 

 カンザトはハッとした。まさに今両足で踏むこの場所こそが、姉妹にとって大きな転機となった地なのだと。

 

「ここに来てみれば目を閉じた日のことを全部思い出せるかなって」

 

「覚えてないのか?」

 

「ぼんやりしてるんだー。閉じた理由は分かるけど、その日のことはあんまり覚えてない」

 

 あれはあまりに衝撃的で忘れそうもない出来事だが、誤魔化しているようにも見えない。間違いなく忘却してしまったようだ。

 

「あとは、カンザトが調べてることがなんか分かるかなーと思って歩いてた。そしたら誰かに呼ばれたの」

 

「みんながこいしを認識できてる理由のこと?」

 

「だって、知りたいんでしょ?」

 

「そりゃ知りたいけど……」

 

 危険を冒してまでやることではない。そのうえ、己の意思をおざなりにして他人に流され気味だ。本人からすれば、現況の調査はありがた迷惑なのだろうか。

 

「怨霊に近づいてまで探さなくていいんだ。今まで通りみんなで考えよう」

 

「大丈夫だよ。私、あの人たちにも認識されないから」

 

「そうなの?」

 

「うん。それにね、私、あの人たちと同じなんだ」

 

 あの人たちとは怨霊のことだろう。怨霊と同じとは、どういう意味なのか。

 

「あそこにいっぱい浮いてる、死んでるのに死ねない人たち。意志を持てなくて、どこにも行けずにあの場所に縛られてるの」

 

 こいしは笑う。口角を上げて、偽りの無い笑みを浮かべている。

 

「だから、同じ」

 

 彼女とは反対に、カンザトは真顔だった。

 なんと伝えればいいか分からない。

 重い境遇にそぐわない笑みを浮かべる彼女に恐怖するでも、悲惨な境遇を憐れむでもなく、ただ複雑な感情がくすぶっていた。

 

「こいしは生きてるよ」

 

「でも、“自分”がない」

 

 反論は早かった。

 

「自分の考えを持って、独りを寂しがってたゾンビの娘とは違うんだよ。私は寂しいなんて感じる心、もとより持ち合わせてないからね」

 

 少し考えて、芳香のことだと気がついた。

 たしかに芳香は死人でありながら、自意識が生きており孤独を憂う、世間一般的なゾンビのイメージから逸れた一面を持っている。

 

「あの娘は死んでるけど生きてるって言ってたよね。私は逆に、生きてるけど死んでるんだ」

 

「それは……違うと思う。こいしも感情を持ってるし、自分の考えだってあるはずだから」

 

「無いよ。いらないと思って捨てたんだもん」

 

 キッパリと悲しいことを言う。

 カンザトは身を引き裂かれる思いだった。しかしそれと同時に、こいしの語る内容に微かな矛盾を感じていた。

 

「心を読む私はみんなに嫌われるから、サトリじゃない私になろうとした。でもね、ムリだったの。私が楽しく生きようとする度に、サトリである私が心を追い詰めるから」

 

「……だから、目を閉じたんだ」

 

「うん。そしたら今の私が生まれた。意志も、欲望も、感情も、ぜーんぶ失ったワタシがね」

 

「でも、ちゃんと自分の意思でみんなと話せてるよ。今も、こいし自身の意思で俺と話してる。神社で話した時だって──」

 

「私は私が持つこの考えが、行動が、自分自身で考えたものなのか分からない。今だって、私は自分で判断して貴方と話してるわけじゃないんだと思う」

 

 そんなモノ持ち得ない、分からないと、食い気味に返された。まるで本能が必死に自己否定しているかのようだった。

 

「カンザトはさ、私が本当に誰からも認識されなくなったらどうなると思う?」

 

「え……」

 

「もちろん、貴方からも」

 

 言葉が出なかった。

 能力の暴走が深刻化し、完全に誰一人としてこいしを認識できなくなってしまえば、すなわちそれは──

 

「自分が無くて誰からも認識されないんじゃ、いないのと同じ。死んでるのと変わりないんじゃないかな」

 

 生きているのに死んでいるとは、そういった意味合いだったのだ。

 あまねく全ての者がこいしの存在を未来永劫認められなくなった時、古明地こいしは妖怪としての輪郭を真に失う。さらにこいし自身が自己の存在を認識できず定義づけられないのであれば、肉体があれど、『無』と同義であり、死にも等しいだろう、と。

 

「“私”が死んでるの」

 

 翠色の瞳を見つめていると、光が失われていく錯覚を覚えた。初めて出会った日に垣間見た、底知れぬ虚無を体現した色がそこにあった。

 

「“ワタシ”が、生きようとする私を殺したから」

 

 そう言い切ると、こいしは再び足元に視線を落とした。

 

「……」

 

 こいしはそれを打ち明けて、どうしたいんだろう。

 だから諦めろと意欲を削ぎたいのか、そんな私を救ってほしいと手を伸ばしているのか。

 それも明確な意思に基づく発言ではなく、機械的に自己紹介するかの如く、ただ聞かれたから己の現状を説明したに過ぎないのかもしれない。

 

「……ごめん」

 

 カンザトはそっと一言、謝った。

 それは心の奥底にしまい込んでいた過去に土足で踏み込み、負の記憶という傷を抉ってしまったことへの謝罪──

 

 ──などではない。

 

「俺はこいしの置かれてる“今”がよく分かんないし、こいしが傷ついた昔の事も、その場にいないからどうしても心から共感できない。だから、こいしが言ったことの半分も理解できてないんだと思う」

 

「……そうだよね。当たり前だよ」

 

「それでもいいなら、聞いてほしい」

 

 立ち上がり、こいしの前で片膝をつく。落ちた目線を拾い上げ、目を合わせる。

 

「こいしは自分のことが分かんないのかもしれないけど、俺は今のこいしの事ならよく知ってるつもりだ」

 

「どんな私なの?」

 

「いつも元気でペットに優しくて、お姉ちゃんのことが好きな、いっぱい笑う女の子」

 

「そっかぁ。その娘、すごくいい子だね」

 

「こいしだからな」

 

 こいしはわずかに口を開き、目を丸くした。

 

「俺が知ってる、今ここで生きてる、こいしのことだ」

 

「……でも私すぐ消えちゃうし、何考えてるか分かんないよ」

 

「大丈夫だ。俺、なんでか分かんないけど考えてること読むの上手いみたいでさ、こいしの考えてることも分かるよ」

 

 さとりさんには敵わないけどな、とカンザトは笑う。

 

「私は分かんない。自分でも何したいか分かんないから、いきなり貴方を食べちゃうかも」

 

「そ、それは困るな……でも、そんなことしないだろ?」

 

「……分かんない」

 

「しないよ。こいしは優しいから」

 

 こいしがほんのわずかに眉を寄せ、唇を引き結ぶ。

 

「違う。サトリの私は優しくないから嫌われたんだ」

 

 初めて見る悲しげな表情だった。果たして、一切の自我を持たない者が、このような情感に訴える顔つきをできるのだろうか。

 

「その人達はこいしのことを知らなかっただけだ。でも、俺はこいしの優しいところを知ってる」

 

「そんなの、私は分かんない」

 

「分かんなくてもいい。そういうもんだと思う。自分のこと分かんないのは俺も同じだし」

 

「カンザトも?」

 

「記憶無いからさ、自分が誰かなんて最初から分かんないんだ。それでも諦めたくなくて記憶を取り戻すために頑張ってたんだけど……ちょっと前に、自分が何のために頑張ってるのかも分からなくなった」

 

「そのあと、どうしたの」

 

「こころと布都さんが励ましてくれたんだ。独りで悩んでないで、私たちを頼れって。仲間のことを忘れるなとも言われた。嬉しかったよ」

 

「優しいね、ふたりとも」

 

「こいしも同じだ」

 

「え?」

 

「こいしは独りじゃない」

 

 見えないから、感じとれないから、こいしは永遠にひとりぼっちなのか。寂しさを感じる心がないなら、周囲はこいしを忘れて無関心を決め込むのか。

 少なくとも、カンザトにはそう思えなかった。

 

「姿が見えなくても、こいしのことをずっと心配してる人がいる。それだけはどこに行っても忘れないでほしいんだ」

 

 こいしの視線が逸れる。やはり姉妹なのだろう。苦悩する表情が、さとりと瓜二つだった。

 

「意味ないよ。結局みんな忘れちゃうから。自分が無いワタシは誰の記憶にも残らないもの」

 

「そんなことない。地霊殿の人たちも、こころも聖さんも……あと、霊夢と魔理沙もこいしのことを覚えてた」

 

「それはたまたまで、どうせいつかは……」

 

「じゃあ、俺はこいしを見続けるよ。絶対に忘れない。どこに行っても、消えちゃっても、こいしのことを想ってる」

 

 妖からも疎まれ世界に排斥された彼女が、どれだけ自己否定し、世界を嫌おうと関係ない。今はただ──

 

「俺がこいしに『いてほしい』って思ってるから」

 

 それはこいしを説得するため用意した間に合わせの言葉ではない。この地に降り立ってから、こいしを含めた多くの人に助けられたからこその、嘘偽りない本音だった。

 

「いて、ほしい……」

 

「もちろん俺だけじゃない。さとりさん、燐さん、空さん……みんな想ってる」

 

 想いを告げて、カンザトは立ち上がる。

 こいしは彼の表情を追い、顔を上げた。

 

 ──ぱさり。

 

 リボンをふわりと揺らし、黒い帽子が密やかに落ちた。

 つられて音のした方を見ると──

 

 こいしは、透き通る瞳に大粒の涙を浮かべていた。

 

「……あれ」

 

【挿絵表示】

 

 呆け顔で目元に触れるこいし。不思議そうな表情で、涙の粒を指で拭った。

 

「なんだろ。分かんない」

 

 溢れる涙が頬を伝う。彼女はなぜ自分が泣いているのか分からなかった。

 

「でもなんか……すごく、嬉しいな」

 

 目を潤ませながらも、悲哀を感じさせない微笑みを浮かべた。

 

「こいし……」

 

 無意識で自意識を塗りつぶした彼女には、自我に相当するものが無いという。自我の残滓めいた感情はあれど、それは本能による条件反射のような何かだと。

 しかし仮に、脳を備えながら自我を完全に殺した存在が他者から感動的な言葉をかけられたとしたら、純粋な本能だけで涙を流すだろうか。

 答えは、否だ。それは非常に不可思議な事態と言える。

 なぜなら、涙が出る仕組みそのものは意識の外側にあり本能的だが、そのトリガーとなるのは「悲しい・嬉しい」と脳が自覚することであり、前提に自我が無ければ成り立たないためだ。

 すなわち彼女が涙を流すのは、自我を持った古明地こいしという“個”が温かな想いを感受し、「私は受け止めきれないほど嬉しいんだ」と自覚することで涙したに他ならない。

 

 彼女は自我無き亡者などではない。

 古明地こいしは生きている。

『私』がある。

 

「そっか。私の望みってこれだったんだ」

 

 こいしはとめどなく流れる涙を止めようとしない。ほとばしる感情を大切に受け止め、噛み締めているかのようだ。

 

「私、誰かに求められたかったんだ」

 

 そう呟くと、こいしは眉を上げて何かに気づいた顔をした。

 

「さっきあの子が言ってたのって、こういうことかも」

 

「こういうこと?」

 

「私がみんなと一緒にいるには、本心から自分とみんなを求めなきゃいけないのかも」

 

「求めるか……こいしが『一緒にいたい』って思ったらいいってことかな」

 

 こいしは目尻に涙を溜めたまま、満足気な表情で深く頷いた。

 

「うーん、それって意識して出来るものか?」

 

「アハハ。分かんない」

 

 一点の曇りもない本心は、意識して操作できるものではない。行動原理を本能に委ねているこいしは殊更だ。

 

「でもね」

 

 それでも、ただ今は──

 

「あなたが私を求めるなら、私もたくさんあなたを求めるよ」

 

 私を求める人がいるなら、心を開き応えよう。本能すら無意識に操って、音もなく忍び寄りみんなの前に現れてやろう。心は読めないけれど、世間話とか恋バナとか、話し相手にならなれる。

 それが私、『古明地こいし』という妖怪の正体だ。

 

 晴れやかな色を取り戻したこいしの顔つきを見て、カンザトは微笑んだ。

 

「そっか、ありがとう」

 

 

 こいしは自ら進んで他者との繋がりを求めている……

 

 

「帰ろっか」

 

「そうだな」

 

 こいしはひょいと立ち上がると、右手を差し出してきた。

 

「んー」

 

「どうした?」

 

「手、握ってほしいな」

 

 こいしの小さな手がそこにある。

 

「誰かと繋がってるんだって、感じさせて」

 

 他でもない自分自身の意志で、繋がりを望む手がそこにあった。

 

「ああ、いいよ」

 

 二人は地霊殿への家路を穏やかな足取りで辿る。片方の手に温もりを感じながら。

 その間、不思議と怨霊に遭遇することはなかった。怨霊は弱る心に目をつけ、精神を蝕む。二人の前に怨霊が現れなかったのは、きっと彼らの心が希望に満ちていたからだろう。

 





もうランクMAXでよくない?


●コミュランクup
『刑死者』古明地こいし:ランク6→7

ペルソナ〜トリニティ・ソウル〜は

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