There's nothing without One Sin 作:鼠日十二
ゴウウウウウ―――――ンンン――――――……………………ゴウウウウ――ンンン――――…………
何かが薄く響く音で、私は目を覚ます。そこはおよそ10m四方の殺風景な部屋であった。ベッドや鏡の一つもなく、代わりに壁には配管や謎の計器が埋め込まれ、天井の四隅には監視カメラが備わり、入り口らしい入り口は鉄製のシャッターのみ。まるで何か恐ろしい
女性の声である。可憐な女性の声が、無骨にして無粋な男物であったはずの我が声帯を通り抜けている。それで私はようやく、自身の現状に目を向けたのだった。
まず、髪から見てみよう。見慣れぬ暗い赤色の髪は、なんとなく血を想起させるいやな光沢を放っている。あるいは……いや、いかな語彙を以てしても言い表せぬまるで昏い色の髪である。
次に、肌。アザもシミも無いどころか、血色の限りなく薄い薄い真っ白い肌だ。これはまあ、
そして、服。普通のスーツだが、ところどころが破けている。鉄火場を潜り抜けてきたかのようだ。それでも体に傷が見られないあたり、仕立て自体は悪くないのだろう。が、タグについていたメーカーは聞いたことがない。
手がかりはまるでなかった。この身体の正体も、私がどうしてここにいるのかも、何一つ不明なままだ。ただ一つだけはっきりしているのは――。
さっきからずっと。
扉の向こうから。
ひどく心を揺さぶるような。
甘いにおいがすることだけ。以前に食べたどんな果実よりも魅惑的な、濃厚な香りだ。
ふらりふらりと、おぼつかない足取りで鉄製のシャッターへ近寄る。その隙間に指をかけ、力をこめると、軋んだ嫌な音と共に容易くシャッターが開く。この体は随分と強靭なようだ。しかし私は、そんなことがどうでもいいくらい、目の前の景色に心を奪われていた。
血だ。
骨だ。
肉だ。
臓物だ。それらが辺り一面に散らばって、甘やかな香りを放つ花畑の如き様相を呈している。
「――!? うっ、おえっ」
吐き気に任せて身をよじる。のど元にせりあがってくる何かを必死に飲み下して、ぶるぶると首を横に振った。花畑だって? 冗談じゃない。こんな悍ましいものを好ましく思うなど、まるで狂人のようではないか。私は……まともな人間だ。絶対に。死肉のほうを極力見ないようにしながら、恐る恐る、私は部屋の外に出た。
そこは廊下であった。私が先ほど破壊したようなシャッターがもう一つ隣にあって、その奥にはエレベーターらしき扉がある。階の表示が光っていることから、電気は通っているらしい。
「……うう」
一歩踏み出すたびににぢり、にぢりと靴裏から音がする。うなじがぞくぞくするような感覚に耐えながら、室内に充満する甘い匂いに目を回し、トリップした薬物中毒者のようにエレベーターへと歩み寄る。ボタンは血で濡れていた。押すと粘着質な感触がして、たまらずスーツの裾で指先をぬぐう。
階数表示が順繰りに点灯し、やがてチーンと軽やかな音が響いた。こんな場所から早く去りたい一心でエレベーターを待っていた私は、扉が開くのと同時に一歩踏み出して。
「っ」
蠱惑的な香りの突風が鼻先に吹き付けて、またしても言葉を失う。エレベーター内には、スーツ姿の死体が山のように積み上げられていた。彼ら彼女らはみな一様に、胸元を割り開かれている。肋骨の内側がごっそりと空洞になっていて、食肉加工場にぶら下がっている枝肉のようだ。
肉。人肉。
肉肉肉肉肉肉肉肉……。
食べてはならない。ザクロの実を食べてはいけません。
だってそれは、ヒトが獣に堕ちないための最低条件ですから。
じゃあどうして、こんなにも美味しそうに見えるの?
「お……お……縺翫↑縺九☆縺?◆」
あーあ。
▲
「――本当にくそったれよね、この世界ってば」
うんともすんとも言わなくなった『逆行時計』に寄りかかって、私は最後の煙草に火をつけた。吐いた煙の向こうに同僚たちの姿を幻視して、目頭を揉む。私がやったのはスイッチを入れたことだけだが、すでに心は折れる寸前だった。
きっかけは……何だったか? 自分の死因にいくつかか心当たりがあるというのは異な話だが、ここL社においては正常なもののほうが少ない。とにかく、私たちは
――「管理人! WAWクラスの脱走数が7を超えました! 懲罰部門だけでは抑えられません! 管理人! 管理人!?」
――「待て! 待ってくれ、俺もエレベーターに乗せてくれ! 頼む、行くな、行かないで! ああ……あ……やめ」
もはや鎮圧どころではない。悲鳴と怒号が上がる中を、同僚たちと駆け抜ける。皆必死の形相で、ひたすらに化け物を殺し続けた。そんな私たちの耳に、ノイズ交じりの館内放送が届く。声の主は管理人だった。
『ランクⅢ以上の全生存職員はD-09-104へ集合せよ』
私たちは顔を見合わせる。D-09-104「逆行時計」は、施設を最も安全だった頃の時間に巻き戻すツール型のアブノーマリティーだ。それだけ聞くと夢の技術、現実をゲームに変えてしまうチートアイテムにも思えるが、そんなに世界が優しければ私たちはこんなことになってない。あの採用通知の手紙のように、良い話には裏がある。
逆行時計の使用に関わる特記事項は3つ。
一つ。起動のためにはランクⅢ以上の職員が4回ねじを回してエネルギーを貯める必要がある。
二つ。ランクⅣ以下の職員が逆行時計を起動すると、エネルギーが暴走して全員が死ぬ。
三つ。起動に成功した場合、起動した職員を
起動した職員の行方は、誰も知らない。
「……誰がやる?」
「俺は嫌だね。使った職員がどうなるかわからねえ。あの胡散臭い謳い文句が本当なら万々歳だが、一人だけもとの時間に取り残される可能性だってあるわけだろ」
「自分だけ『もっと良かった頃』に戻れるかもしれないじゃん。っていうか、そういう製品なんでしょ、あれ」
「……俺の人生に良かった頃なんて無えよ。今も昔も、これからもな」
言い争う同僚たちを見て、埒が明かないと思った。私たちは特に経験を積んだランクⅤの集団で、だからこそ、危険に踏み込まないための勘が鋭くなっている。
こんなクソみたいな施設で、アブノーマリティーの情報を鵜吞みにするほど馬鹿なことはない。起動した職員はまず酷い目に遭うのだと、内心では誰もが思っていた。
だから、私は手を上げた。
「……いいわ、私がやる」
「え、マジ……?」
「もう疲れちゃったの。無限に続くような日常も、後輩の死体を片付けるのも。私は一抜けするから、あとはまあ、頑張ってちょうだい」
同僚たちはきっと、私の声が震えていたのに気付いている。でも誰も指摘しないのが、私たちらしいって感じだ。
いいんだ。みんな、誰かを犠牲にしてしぶとく生き残ってきた。いつか自分の番が来ることぐらい、覚悟してる。今回は私の番だと、そう思っただけだ。
逆行時計の収容室についた私たちは、ねじを一人ずつ回した。ゼンマイ仕掛けの巨大な機械に内蔵されたランプが4つ灯り、ゴウウウウウ―――――ンンン――――――とうなり声をあげる。 ……いや、こんな音だったかな? 調子が悪くて起動しませんでした、なんてのはやめてよね。
不安と共に、私は起動ボタンに手をかけた。
「……お別れね」
「ああ……ほんと、クソだな。お前の行先が良いところであるように願ってるよ」
「ごめん。それと、ありがとう。部屋にあなたの写真を飾って、毎日ウェルチアースを供える」
「いらないわよ、せめて煙草にして。じゃあ……えっと、こういう時の別れの言葉って何が正解なの?」
「締まらねえなあ」
「あはは、ほんとね……、うん……。
ねえ、また会いましょうね」
笑いながら、私はボタンを押した。視界が早回しのビデオのようにキュルキュルと流れ、溶けて混ざり、原色の虹色になる。私はずっと手を振っていた。彼らの視界から私が消えるその最後の瞬間まで、とびきりの感謝と別れを伝えるために。
やがて原色の虹色が、今度は絵の具のように混ざりあい、徐々に世界を構成していった。かすかな期待と大きな恐怖を胸に、私はゆっくりと目を閉じる。
そして、開いた。
「……ほんと、クソよね」
そこには、先ほどと全く変わらない景色が広がっていた。
外では警報音が鳴り響いている。人は誰もいない。
私だけ。私だけ、この時間に取り残されてしまった。
逆行時計は壊れてしまったのか、ねじを回してももう光らなかった。
最後の煙草を吸い切った私は、施設を出られる可能性を考えた。私の装備はWAWクラスだから、それなりの化け物なら鎮圧、あるいは逃げおおせることもできるだろう。ただ……この施設には、一人では絶対にかなわない化け物が何匹か存在する。そいつらに出会えば一巻の終わり。ジ・エンドだ。かといって籠城しようにも、食料がない以上はどうにもならない。
「まあ、待ってても好転することはないわね。死に場所を探しに行くくらいの気持ちでやってやるわ」
EGOを片手にさっさと部屋を出る。運よく廊下にアブノーマリティーの姿はない。素早く廊下の端まで走って、ボタンを押す。目指すは地上階だ、そこまでいけば外に出られる。はやる気持ちで階数表示を眺め、軽妙な音が響くと同時に、開いた扉の中に足を踏み込んで――
「……え、誰?」
血腥い匂いの中、呆然と佇むスーツ姿の女を見て思わず固まった。EGOも装備してないし、おそらくは新人だろうか……? 少し気が緩んだのもつかの間、ぞっとしてEGOを構える。
管理人は戦闘を見越して高ランクの職員で部門を固めていたはずだ。こんなすぐ死ぬような職員がうろついているはずがない。それに、逆行時計を使ったのに、
「所属と名前を名乗りなさい。無反応は敵対とみなすわよ」
「……く」
「は?」
「……にく、だ」
いうが早いか、スーツ姿の女がとびかかってくる。身をかがめて避けると、女は空中で身を捩り、爪がはがれるのも構わずに床をひっかいて減速し着地した。その明らかに人間離れした挙動に、警戒がぐっと引きあがる。間違いなく、まともではない。
「あんた、一体何なのよ!」
「にく、にくにくにくにくにく」
ぎちぎちっと筋肉が縮むような音がして、眼前の女が歯をむき出す。頬には新たな目がぱちりと瞬き、右手が赤黒くはれ上がって砕けた骨が棘のように生えそろった。その悍ましい異形を目の当たりにしてとっさに装備していた大口径の拳銃型EGO「紅の傷跡」をぶっ放すと、銃弾が女の肩口を吹き飛ばした。それで、それを見て、私はやっぱりため息を吐く。
「ああ――なんだ。結局、最後までツイてなかったわけね」
傷口から覗くは肉にあらず。歯や、髪や、爪や臓物ばかりが蠢いて、見る見るうちに欠損を補っていく。
「バカみたい。一体何っていうか、『何もない』じゃない。なんでこんなとこいるのよ」
施設でも最強と目される怪物にして、私のEGOの攻撃属性である「物理的外傷」に完全耐性を持つ相性最悪の天敵。
人間を捕食し、その姿を模倣することに執着する、ALEPHクラスのアブノーマリティー。
分類番号O-06-20、通称「何もない」が、私の前で咆哮を上げた。
▲
抵抗はした。したがまあ、焼け石に水といったところで。右手の肉モーニングスターが軽くかすっただけで、トラックに撥ねられたみたいな衝撃が伝わり、廊下の壁と天井に3回ほど叩きつけられながら吹っ飛んだ。明らかに人肉の密度と重量を越している。おそらく、内部で捕食した肉を圧縮しているのだ。だから外見が人間サイズに納まっているし、取り込んだ死体が尽きない限り外傷が回復していくのだろう。
まあ、それが分かったところでどうしようもないけど。
脳が揺れたらしい。もはや指一本も動かせない。回る視界のなか、近づいてきた『何もない』はなぜか最初の女の姿に戻っていた。
「ああ……っ」
呂律が回らない。いやいや、そんなことはもうどうでもいい。これからモノも言わない死体になるのだし。
『何もない』はニターっと笑って、私のEGOを剥ぎ取り、顕になった腹部に顔を埋めた。わかっていても背筋を走る本能的な恐怖で、腹筋が引き攣った。次の瞬間には、顔中に乱杭歯を生やして顔面が肉の渦巻きと化した『何もない』が私の腹にかぶり付いていた。
「……! ……!」
声にならない悲鳴が喉から抜けていく。腹筋が無くなり、触られたことのない身体の内側が齧り取られていく。筆舌に尽くしがたく、味わったことのない痛み。
それでも。震える手で、私は引き金を引いた。
「ぎゃっ」
小さな悲鳴と共に、『何もない』の頭が弾け飛ぶ。ざまあみろと思ったけれど、すぐに肉が隆起して、今度は別人の顔になった。
知っている風貌だ。福祉チームのチーフだった気がする。良いことだ、ああ、本当に良かった。あいつらの顔じゃなくて。あいつらの身体が、こんなふうに使われなくて良かった。それだけで、逆行時計を使った価値があるってものだ。
福祉チーフの皮を被った『何もない』が、大口を開ける。動かないように、二度と反撃されないように、頭から食うつもりなのだろう。広がる口腔の、ぬらついた深い闇をぼうっと眺める。頭蓋骨に歯が当たって、みしり、みしりと音を立てた。
いい人生だったかと問われれば、そんな事はない。もっと裕福な暮らし、もっと安全な生活がしたかった。
でも、悪い人生だったかと問われれば……そんなこともない、と思える。ほら、終わりよければ全てよしって言うじゃない。ねえ、みんな。
「わたし、ひとりの、いのちで、みんな、たすかったのなら、わらってしねるわ……」
そう言って、こんなふざけた世界に唾を吐いて、破砕音と共に私の意識は深い深い水の流れに攫われていった。
▲
「……縺?」
私は肉に埋めていた顔をあげた。口の中から聞こえてきた言葉に、意識が惹かれたから。
「縺ク?」
続いて、私の手を見た。ぬらぬらと怪しく光るそれは、零れ落ちる命の証だった。
「縺医▲?」
そして再び、目線を下にやった。その■は、だれかを守るために命を擲ったらしい。すごい。なんて人間的なんだろう。顔面はごっそりと抉れているし、内臓だってまろび出ている。じゃあ肉だ。
でも、誰かを守ったらしい。
人間の矜持を護って、気高く、死を選んだのだ。
「縺薙m縺励◆縺ョ縺ッ隱ー?」
じゃあ、わたしは何をしているの?
そんな高潔なひとを殺して、辱めて、食い荒らした化け物は誰?
「――――」
私は自分の喉笛を掻っ捌いた。冗談みたいに少ない血が漏れて、傷口がうぞうぞと捩れ、すぐに塞がる。逃げられない。この身体から。この罪から。肉食を許した、私の心の弱さから。
「縺、あああ、食べちゃいけなかったのに! 殺しちゃいけなかったのに!」
指が側頭部にめり込むほど頭をかきむしって、震える腕に噛みついた。千切れた肉はすぐに塞がる。私が食べた人たちが、私が重ねた罪が、死までの道程を阻んでいた。
「……ころして」
殺してくれ。もはや生きるに値しない。精神まで化け物になってしまったのだ。こうなっては最後、私はけだものと化して新たな罪を重ねることしかできない。それだけは耐えられない。私の、最後に残った搾りかすのような人間性がまだ輪郭を保っているうちに、誰か私を終わらせてくれ!
「だれか、ころして……!」
叫ぶ。走る。この生を終わらせてくれる何者かに出会うために。目についた扉を片っ端からこじ開けていく。不在。不在。死体。不在。不在。暗黒。
そして何度目の扉か、ようやく私は出会った。
清冽なる救世主に。
形容するならば、それは茨の冠を着け、十字架に貫かれた頭蓋骨であった。それが部屋の中央に浮かんで、空虚な二つの眼窩でこちらを見ていた。
――『たった一つの罪と何百もの善』。
それは私が話し出すのを待っていた。私が心中を吐露するのを待っていた。虚ろな視線に促されるように、私は本能的肉食欲に屈したことを告白した。
私は誘惑に負けて人間を殺し、食べました。
私は人としての矜持を捨ててしまいました。
いまだって、あの甘美な血ののど越しが、リブの柔らかな肉感が、忘れられないのです。
お腹がすきました。どうか、もう、終わらせてください。
そして慈悲を乞うた。この無様な生に、死をもって終止符が打たれることを望んだ。私を奈落へと落とす執行人こそ『たった一つの罪と何百もの善』と信じたのだ。
しかし『たった一つの罪と何百もの善』は微動だにせず――落胆し、絶望する私の頭上に、あたたかな光が揺らめいた。
「――?」
それは、半透明の茨の冠だった。初め直径1メートルほどだった冠が、私の頭上にゆっくりと降りてくるとともに狭まって、最後には天使の輪のようなサイズに落ち着いた。
「……あ、ああ……!?」
思考が晴れる。
視界が開く。
あれほどまでに人格を侵食していた食人欲が、収まっていく。まるで緊箍児が悪徳を締め付けているかのように。
「感謝いたします……ありがとう、ありがとうございます……!」
『たった一つの罪と何百もの善』に縋り付き、私は泣いた。涙こそ出なかったが、泣いた。
そして同時に気づく。
これは断罪でも救済でもない。贖罪のスタートラインに立たせてもらっただけだ。
「そうだ、重ねなければ……善を……何百、何千もの『善』を……!!」
何百もの善のために、たった一つの罪は許されるべきだろうか。
――あるいは、たった一つの罪を贖うために、何百の善が必要なのだろうか。
その答えは、誰も知らない。
けれどこの瞬間から、導きを与えられた「何もない」は変質した。
戴冠する頭蓋骨を主と定めし、屍肉の修道女へと。
罪善さんのギフトをヘイローに見立てる荒業。
肉体ではなく精神に対するギフト、という扱いなので、肉体よりも若干上の部分に装備される。
逆行時計:初めからぶっ壊れてた。
いろんな時空間をワープしまくり、アブノーマリティを落っことしたり、魂の衝突事故を起こしたりしながら、同じ時間帯の全く異なる平行世界に着地して息を引き取った。
次からブルアカの話になる……はず。