だが、連絡先の欄に書いた唯子の携帯電話に、見慣れない番号からかかってきたのは、一件だけで、しかもその電話は、おおよそファッション雑誌とは無縁な会社からの間違い電話だった。
そして、この日は肌身離さず携帯電話を持っていたのだが、メールの一通も届く事なく、時間だけが過ぎていった。
翌日になり、彼女は「現実」というものに取り憑かれたような、重苦しい気分になっていた。
あの日、「モデルになって欲しい」と言われたのは、未来への扉を開く為のきっかけではなく、単に彼の作品になるために体良く協力しただけの事だったのだ。
結局、自分と土屋は住む世界が違うのだ。
それを思うと、目が覚めたばかりなのに、再び夢の中へ戻りたくなり、ベッドの上で横になってしまった。
ミンミンミンミン、ミーン。
自宅の外では、蝉が忙しく鳴いている。
いつもなら、うっとうしいだの、うるさいだのと口に出さずとも思っていたのたが、ふと、蝉は何年も土の中で過ごし、地上で生きていられるのは、1ヶ月にも満たないと昨日のテレビ番組で見たのを思い出し、儚い生き物なんだと想像して、彼女はその存在に同情したくなった。
もし、あの日、あの時、土屋と出会わなければ、自分は読書しか知らない、本と関わる事しか知らない、誰からも傷付けらることの無い世界で生きる事が出来たのだ。
それが、今――。
唯子は堪まらなくなって、ベッドの中で静かに泣き始めた。
拭っても拭っても、止まらない涙が、さらに唯子の胸を痛めた。
ミンミンミンミン、ミーン。
真夏の訪れを訪れを告げる蝉の鳴き声が、その日はいつまでも唯子の憂いと冷たい涙を促していた。
――――――
それから数日後。
彼女は8月に行われる写真展へ行くのかどうか、悩んでいた。
唯子が好む世界は、脆い人間の限界の中で美徳を見い出し、それを慈しむ姿を見事に演出するという淡いものだったが、土屋と出会ってからは、現実を物語った、その上で本物以上の価値を「一瞬」という形で引き出す写真の世界の力強さに引き込まれていったのである。
時が経つにつれ、読者モデルの選考に落ちた事は、肩に鉛が乗りかかったような、嫌な感覚は落ち始めていた。
そして、、美術館で「モデルになってくれないか」と撮られた写真が、もしかすると展示されているのかもしれない、と思うと、気になって仕方が無かった。――その姿が、今、ベッドの上で膝を抱えている自分の思いとは違うように、と密かに願いつつ。
それに、喫茶店で話された父親の経歴の食い違いも確かめたかった。
(つづく)