例えば人間みたいにさ   作:泡沫

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整合性を合わせる為にかなり改変しました。


"2574103513112

それは布だった。

 

柔らかくて薄い生地が視界の端で揺れていた。人の気配はない。辺りは薄暗いが、そこだけはスポットライトが当たっているかの様に輝いていた。

 

風が吹く。

 

景色が透けて透明にも見える薄布がひらひらと暫く宙を彷徨い、地面へと落ちていく。

 

ふと誰かが私の手を引いて抱き締めた。甘い花の香りと石鹸の匂い。掠れた声が脳内で何度も反芻され、それらを材料に幼い私という人物が形成されていく。否が応でも理解せざる得ない、蒸し暑い夏の出来事だ。

 

 

「ちゃんと産んであげれなくてごめんなさい…ッ」

 

薄茶色の髪が感情的に揺れて、ああ、私はこの人の娘なのだと、呑気にもぼんやりと実感していた。瞳はお父さん似で、髪はお母さん似だとよくお付きの人たちは言う。

 

 

「ごめんなさい、…わたしを恨んで、あなたは悪くない、ごめんなさい…っ」

 

 

いいえ、お母さん。貴女は十分愛してくれました。人に合わせて歩くことも出来ず、気を遣わせてばかりで自分が恥ずかしい。

 

私の方こそ上手に生きられなくてごめんなさい。

 

 

次に会えたら、今度こそ言おう。

次に会えたら……。

 

 

次なんてあるの?

 

 

 

その問いの響きが、空気の中に溶けていく。

 

風が止まり、景色がゆっくりと溶けていった。

色も、音も、形も、ひとつずつ剥がれ落ちて、代わりに淡い光の粒が浮かび上がる。

 

それは雪のようでいて、雨のようでもあった。

足元がふわりと沈み、どこまでも白い空間が広がっていく。

 

──遠くで誰かが呼ぶ声がする。

柔らかく、しかし耳の奥に残るような、懐かしい声。

 

その声に導かれるように振り向いた。

 

 

 

 

「ヤナミ」

 

目の前には両手を広げる姉の姿。いつもの彼女ならする筈のない不恰好な姿勢のまま、熱の籠った視線でこちらを見つめている。

 

「どうしましたか?」

 

「……」

 

当の私は戸惑いの方が勝り、何も口に出せないまま硬直してしまう。その有り様は今まで見てきた姉の姿からはとにかくかけ離れていてどうにも不可解だったから。

 

「何を遠慮しているのですか。たまにはこの姉に甘えても良いのですよ」

 

甘える? それは……なんだ?

どう返答するのが正しいのだろう。わからない。どうして桐藤ナギサがこんな事を言い出したのかも皆目見当も付かないし、いつもの様な声音から滲むこちらへの嫌悪感も感じられない。

 

それはおかしい。途方もない仕事量でついに壊れてしまったのだろうか。

 

そんな事を思っていると、姉さんはもたついている私の方へ歩み寄り、あろうことか正面から抱き締め、優しく頭を撫で付ける。

 

 

「ヤナミ、私が嫌いになりましたか?」

 

「……ぁ、……えっ、と…」

 

 

よく……わからない。何か言いたい様な気もするが、唇は石の様に動かない。考えれば考えるほど頭が真っ白になって息が詰まり、呼吸が苦しくなっていく。姉さんから何を求められているのだろう。それとも振り解いた方が良いんだろうか。もう何が正しいのかさえわからない。

 

 

「想いは言葉にしないと伝わりませんよ」

 

 

不安を優しく包み込む様に背中に回された抱擁が強まる。暖かくて、何方とも分からない鼓動の音が早鐘を打ち、無視できないレベルで欠陥が脈打ち始め軽い眩暈を覚えた。けれどそんな私の緊張を解す様に優しく頭を撫でてくる姉さんの手は暖かくて心地良くて、とても恐ろしかった。

 

固まっていた口が遂に緩んで、やっとようやく話せる様になって

 

 

「今更、どうして」

 

 

こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。

 

 

 

 

 

 

pipipipipipipipi

 

 

 

「……ぁ」

 

朝起きると頭が割れる様に痛くて仕方なかった。目尻が引き付けを起こした様にヒク付き、同時に酷い酩酊感が襲い掛かってくる。寝違いでもしたのか首元に違和感があって堪らず咳が出た。目を閉じても稲妻の様な光が視界にチラ付いてうんざりする。胃が今にも逆流しそうだ。気持ちが悪い。吐いたら楽になれるだろうか。

 

動きたくない。目が回る。喉から呻き声が飛び出して、聞いている内におかしくなりそうだった。身体が気怠い。喉が熱い。何でこんな所に跨っているんだろう。風邪でも引いたかな。

 

 

pipipipipipipipipipipipipipipi

 

 

ああ……まずは目覚ましを止めないと。

ベッドから起き上がろうとすると、全く力が入らずそのまま足を踏み外し床へ転落してしまった。けれど不思議と痛みを感じなかったし、まるで現実感がなかった。

 

遂に立ち方すら忘れてしまったみたいだ。

 

 

「……あ、れ…」

 

 

pipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipipi……

 

 

 

 

■ ■ ■ ■

 

 

 

 

それからどれほどの時間が経っただろう。

世界の輪郭が白い靄の向こうにぼやけている。

 

目が覚めて見えた景色からするに病室で間違いないだろう。

 

白で塗り潰された空間の中に脈拍を告げる規則的な電子音だけが命の所在を確認するように響いている。いつ来ても慣れない。白は圧迫感があってどうしたって好きになれなかった。

 

手の甲に冷たい金属の感触。点滴の管が絡まり、動くたびに微かな音を立てた。目を動かすたびにぼんやりと視界が揺れて、思わずため息が漏れてしまう。するとすぐ側で気配がして、視界を動かすと誰かが座っているのが見えた。

 

 

「"……ヤナミちゃん"」

 

 

心配そうな声が室内で響き、現実に引き戻されるようにゆっくりと焦点が合っていく。

 

見慣れた教師服のライン、薄い灰色のカーディガン。

何処までも広がる湖の底みたいに深い瞳が心配そうに揺れていた。

 

「"気がついたんだね"」

 

先生は本を閉じ、膝の上に置いた。

机の上には、見舞いの花と一緒に紅茶の茶葉の缶が一つ。先生から見舞い品だろうか。紅茶はあまり得意ではないと言っていたのに意外だ。

 

先生の指先が小さく動き、私の額を撫で優しい声で続けた。

 

「"ほんの数分前まで、ずいぶん熱が高かったんだよ。それに軽い栄養失調とストレス。寝不足もかな? ……今はもう落ち着いているみたいだけど、しばらくは休んでね"」

 

心配かけてすみません、と言おうとして声が出ない事に気が付いた。起きた直後だからだろうか。寝起きのガラガラ声を聞かせるのも忍びないから少しだけまぶたを閉じて頷く。先生はそんな私に僅かに微笑んだ。

 

 

「"……怖い夢でも見た?"」

 

 

一瞬、息が詰まりそうになる。何かを言おうとしたが喉の奥に詰まったものがうまく言葉に変わらない。

 

先生はすぐに続きを求めなかった。沈黙をひとつの答えとして受け入れるように、ただ窓の外を見やる。閉じられたカーテンの僅かな隙間から覗く、何処までも雲ひとつない青々とした空がやけに穏やかに見えて……それがどうしようもなく虚しかった。

 

 

「"これは受け売りなんだけどね。人は夢の中で、現実よりもずっと正直になれるらしい。ヤナミちゃんは夢の中で何を見たのかな"」

 

静かな声が、やけに鋭利なナイフとして耳に響いた。

奥底にある願望が映し出されるのが夢ならば、私の欲望とやらは随分としつこくて浅ましい形をしている。

 

「……なにも見ませんでした」

 

「"そっか……。変な話してごめんね。あまり無理はしないでねって、そう伝えたかっただけなんだ"」

 

そう言って、先生は小さく伸びをして、窓際のカーテンを開けた。

 

 

「"でも良かった。さっきよりは顔色も戻ってきてるみたいで"」

 

「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 

午後の日差しが差し込み、色白の頬をなぞる。振り返った先生は相変わらず冷静で、穏やかな顔で私を見つめていた。

 

 

「"いいよ。心配するのも教師の仕事だしね"」

 

暖かい。

それだけで、少し泣きそうになった。

 

 

「……先生」

 

 

掠れた声が、ようやく出た。

先生は少し首を傾げ、優しく微笑み続きを促した。

 

 

「他には誰か……いえ。……姉さん、は…来ましたか」

 

「………」

 

 

短い沈黙。

その間に、秒針の音が五つ視界の外で跳ねた。

私の唐突な質問に、先生は行間を呼んだ様に困った様な表情で短いため息を吐いた。

 

 

 

「"――いいえ"」

 

先生は視線を落とし、少しだけ目を伏せた。

やわらかく、少し端切れの悪い声音だった。

 

 

「"私が思うに、彼女もまた、ヤナミちゃんと同じように何かに怯えているんじゃないかな。君たちは普段は全くそんな素振りは見せないのに、時々酷く重なる時があるから"」

 

 

怯えている――

その言葉が胸の奥で何度も反響する。

私が? 姉が? どちらが、誰を?

 

「……初めて言われました。先生には私と姉がそう見えているんですね」

 

「"姉妹だからね。無意識の行動や言動が似る事もあるだろうさ"」

 

先生は歩み寄り、私の手を取った。

先程触れられた際も思っていたが、先生の手は冷え性なのか、少しひんやりしていた。

 

 

「……先生が何を仰りたいのか、私にはわかりません」

 

真っ直ぐ見下ろしてくる先生の目はいつも真剣で、苦手だった。

 

「"……ヤナミちゃん。もしかして貴女は、誰かに見てほしいと思うことを、悪いことだと思ってる?"」

 

 

 

返事はできなかった。

思いもよらない言葉に上手い返しが見つからない。

 

 

「"無理に返事を返そうとしなくても良いよ。……でもね、教師としてこれだけは口出しさせてほしいな。誰かに好かれたいっていうのは……嫌われたくないっていうのは当然の事だと思う。私だってそう。今だってお節介を焼いてヤナミちゃんに嫌われないか怖がってるし、貴女と良好な関係を持ちたいと思ってる"」

 

 

「…え」

 

先生の声音は穏やかで優しかった。間抜けた声をあげる私の頭を優しくポンポンと撫でると、ゆっくりと離れていった。

 

 

「"さて、これ以上病人の時間を拘束するのは良くないね。私はそろそろ行くよ"」

 

「……はい」

 

 

先生は不思議な人だ。少し話しただけで靄が晴れた様に軽くなった様な気がする。

 

「あの、…先生」

 

───、─。

 

「"ん?"」

 

「……ぁ、……いえ。明日は補習授業部のテストがあるんでしたよね。私の所為で、時間を取らせてしまってすみませんでした」

 

「"気にしないで。私がしたくてしただけだから"」

 

先生はお大事に、と言い残し部屋を出ていった。

 

 

 

 

 

 

「──浅ましい」

 

お礼を言ったらそれっきり。

結局私は、接点が途絶えてしまうんじゃないかと脳裏に過ぎり、言葉に詰まる様な最低で浅ましい人間だった。

 

 

「遠くに行きたい……」

 

紅茶の茶葉の香りと消毒液の匂いが混ざり合う。

 

思考を打ち切る様に遠くで鐘が鳴った。

 

 

 

 

■ ■ ■ ■ ◾️

 

 

 

 

廊下を出ると、空気が急に冷えたように感じた。

窓から差し込む光は夕暮れに傾き、白い床を淡く染めている。

足音が静かに続き、やがて消えた。

 

 

「"……姉妹、か"」

 

 

呟く声は小さく、誰にも聞かれないように空気へ溶けていった。職員用の端末に映る記録には、彼女の名前が何度も出てくる。

 

報告書、申請書、会議記録──どれも整然としていて隙がない。

けれど完璧であろうとする人間ほど、最も脆い場所を隠すものだ。

 

 

「"彼女もきっと同じ想いだと思うんだけどな……"」

 

そう呟きながら、少しだけ目を閉じた。

ヤナミちゃんのあの目──恐れと渇望の狭間で揺れる光を思い出す。人を嫌いながら、誰よりも見てほしいと切望している。本当に今の今まで誰も手を伸ばしてあげなかったのだろうか。周りには不器用ながら、優しく良い子たちばかりだと言うのに。……いや、違うか。

 

 

「"救いは理解に非ず、受容の側にあるべき……か"」

 

 

これもどこかの受け売り。人は常に誰か、または何かによって構成されていくものだ。少しも関わらないなんてこと、出来る筈がない。もしかしたら何かすれ違いがあったとか、まだ明るみに出ていないだけなのか。あるいはヤナミちゃんの方から拒絶した可能性だってあるだろう。

 

理解するということは、自分の価値観と切り分けて把握するという事。けれど受容とは、相手の中にある矛盾ごと受け入れる行為だ。ヤナミちゃんが抱える歪さは、私が考えているよりももっと根深いものかもしれない。

 

ふと、ポケットから端末を取り出す。

画面のロックを外し、朝のメッセージのやり取りを見返す。

 

“私の方で処理しますので妹の件は報告不要です。”

 

文面を指でなぞりながら、先生は息を吐いた。

 

 

「"素直じゃないね、お互いに"」

 

あの子はまだ諦めないでいてくれるだろうか。何かを好きになる事は容易でも、好きで居続けることは少し難しいから。信じることが今の自分にできる唯一の仕事なのだが、出来れば相談くらいは言ってほしいというのは傲慢だろうか。

 

夕陽が完全に沈む。廊下の影が長く伸び、窓の外から鐘の音が再び鳴り響く。このままでは到底納得出来そうにない。彼女と、桐藤ナギサと話さなくてはならない。

 

 

 

 

■ □ □ □ □

 

 

 

トリニティの中心に位置する、ティーパーティーの執務室。白大理石の床には聖花の紋章が刻まれ、窓から差す光が金糸のカーテンを淡く照らしていた。整然とした静寂。空気は酷く乾いている。

 

机に並ぶ書類の束の向こうで、今回の依頼元でもある桐藤ナギサはペンを走らせていた。髪は艶やかに整えられ、制服の襟元まで乱れひとつない。その姿は彼女の性格を体現しているようだった。

 

 

「この様な姿でおもてなし一つ出来ず申し訳ありません。お恥ずかしながら急ぎ処理しなければならない仕事が溜まっているのです。ご了承下さい」

 

「"えっと、……私の方こそ急に押し掛けてごめんね。忙しいみたいだしまた改めるよ"」

 

「いいえ。このまま耳を傾けるくらいなら問題もありません。先生さえ宜しければ、続けてください」

 

「"う、うん……。外部の私が言うのもなんだけど、あまり無理はしないようにね"」

 

扉を静かに閉じて、酷く草臥れた雰囲気の彼女へと一歩歩み寄る。

ジロリと一瞬迷惑そうな雰囲気で社交辞令の様に微笑まれる。……どうしてか警戒されてしまったみたいだ。

 

 

「"緊急という程でもないんだけど、頼まれた件の近況報告に来たんだ"」

 

ナギサは顔を上げ、何処か緊張した面持ちで見つめてくる。

 

 

「ええ、お願いします」

 

「"生徒たちは概ね安定してるよ。多少小さな衝突はあったけど、ヒフミちゃんがうまく取りなしてる。全体的には順調かな"」

 

 

ナギサは再び書類の端に視線を落とし、淡々と応じた。

 

 

「……そうですか。彼女らしいですね」

 

「"うん。あの子の明るさには何度も救われたよ"」

 

「……」

 

 

短い沈黙が落ちる。

時計の針の音がやけに遠くに感じられた。

 

 

「……他に報告はありますか」

 

 

ナギサの走らせるペンの動きを追いながら、たった今思い至ったかの様に呟く。

 

やっぱりそういう所は少し似ている。

 

 

「"ヤナミちゃんのことだけどね"」

 

予想しなかった訳じゃないだろうに、ナギサの忙しなく動いていたペンがピタリと止まる。

 

 

「……欠席の件ですね。もちろん把握しています」

 

 

「"そう。今はゆっくりと休んでる。さっき会って来たんだけど、落ち着いていたよ"」

 

 

「そうですか」

 

いっそ冷たく感じる程に温度を感じさせない短い返答。

そう見せているだけなのだと、数えるほどしか接してない私ですら今なら察せられるほど、ナギサには何処か違和感がある。

 

 

「"落ち着いた後にでも顔を出すと良いよ"」

 

思い切って口に出した言葉で空気がぴたりと止まった。ナギサの目線がゆっくりとこちらに向けられる。その瞳は、感情を映さない湖面のように静かで、底が見えない。

 

 

「折角ですが、今はそんな余裕はありません」

 

 

「"……そっか。でもヤナミちゃんは貴女のこと、気にしているようだったよ"」

 

 

 

「──先生」

 

ナギサの声がわずかに低くなる。

 

「"ごめん、少し言い過ぎたね。……でもね、私が言う事でもないのかもしれないけれど、ヤナミちゃんとはきちんと話した方が良いと思うよ"」

 

ナギサのまつ毛が一瞬だけ揺れた。

 

 

 

「ご忠告、ありがとうございます。以後、余計な心配は不要です。……もう報告は充分ですのでお引き取りを。まだ処理しなくてはならない業務が溜まっているので」

 

これは明確な拒絶だ。

少し踏み込み過ぎたらしい。

 

「"……邪魔したね。私はもう行くよ。貴女も、休める時に休むんだよ? ……酷いクマだ"」

 

 

沈黙。

 

ナギサの瞳は細くなった後、すぐに笑みを浮かべた。疑う余地のない完璧な笑み。氷細工のように美しくまるで温度を持たない。

 

 

「報告、感謝します。先生。引き続き補習授業部をよろしくお願いします」

 

 

その言葉に軽く頷き、静かに退室した。

 

 

 

 

◾️ □ □ □ □

 

 

 

 

残された静寂の中、何をするでもなくただ茫然としていた。大して時間は経っていない筈なのに、紅茶の香りがいつの間にか薄れている。

 

机の上には誰にも任せられないような資料の数々。その馬鹿みたいな量を積み上げられた、終わりそうにない業務を見つめながらナギサは深く息を吸い込む。

 

 

「……余計な事を」

 

 

小さく吐き捨てる。

 

引き出しの奥から、紙片が滑り出しぼんやりと眺める。そこには拙い字で《お姉ちゃんへ》と綴られていた。

 

ナギサの指先が、紙の角をなぞる。

 

 

「今更話してどうなると言うのでしょう……」

 

 

呟きが、空気に溶ける。光が少しだけ傾いて、ナギサの顔に影が差した。

 

姉という責務を放棄した癖に、目の届かない場所へ行ってしまうのだけは耐えられなかった。傷付いた妹に縋り付く、あの母のようなどうしようもない存在だけにはなるまいと誓ったあの日から、けれど少しも成長していなかった。

 

 

「先生……あなたは優しい人ですね。羨ましくなるくらいに」

 

小さく笑うナギサの、その笑みは美しく整っていて、どこか歪だった。

 

最後の鐘の音が鳴った。

ナギサはそれを聞きながら、再び机に向かう。

 

すべてを整え、何事もなかったかのように。

──そうやって、本心を押し隠し平常を装う。

 

 

「なんとしてでも、この条約だけは締結させなくては」

 

それだけが妹にしてやれる唯一だとでも言う様に、再びペンを走らせた。




しばらく多忙を極めていました。
次の更新も遅れそうです。

先生の性別および年齢について

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