例えば人間みたいにさ   作:泡沫

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マルベリーと折れた白い薔薇

 

 

慌ただしい朝だった。

 

端末には未処理の通知が並び、紙の書類は一度仕分けた筈なのに、いつの間にか順序を失ったように散乱している。時間に追われている時ほど、人は些細な乱れを見落とすものだと言うけれど、そう理解しているのに今日はそれを修正する余裕すらなかった。

 

家に帰りたいという心の現れの様に何度も時計を見てしまう。

 

ノックの音がした時、思わず手が止まる。私の把握しているスケジュールにはない。昨夜も、今朝も、そういう連絡は入っていなかった筈だと思いながら、一拍遅れて返事をする。

 

「"どうぞ"」

 

扉が開き、向こうに立っていたのは意外にもヤナミちゃんだった。一瞬、頭の中で情報が噛み合わず小さな衝撃を受ける。彼女がここに来る理由を、私は今日という一日の中に想定していなかった。

 

視線は自然と彼女の全身をなぞっていた。姿勢はいつも通り真っ直ぐ。服装に乱れはない。手に抱えた紙袋は、角が潰れないように慎重に持たれている。歩いてきた距離を考えればかなり気を遣っていたことが分かる。

 

「おはようございます。突然すみません、先生」

 

声の調子は落ち着いている。もうあの時の様な不安定さはない。けれど、ほんの僅かに呼吸が浅い。緊張している時の癖なのだろうか。

 

「"おはようヤナミちゃん。今日はどうしたの?"」

 

驚きを悟られないよう声の高さと速度を整える。ヤナミちゃんは小さく頭を下げ室内に足を踏み入れた。

 

「この前、お見舞いに来てくださったので……そのお礼と、もしお手伝いできることがあればと思って」

 

相変わらず言葉の選び方が慎重で、余計な感情を含めないよう何度も推敲した文章のように丁寧だった。相手の顔色を窺う様なその仕草かどこか痛ましい。まだ私は信用してもらえていないみたいだ。

 

「"ありがとう。気持ちだけで十分だよ"」

 

そう返しながらも、胸の奥では別の思考が動いていた。惜しいことに彼女の善意を受け取る余裕が今日はない。

 

机の上に視線を落とす。書類の一番上にあるファイル。角度を変えなくても表紙の色だけで分かる。リンへ今すぐ届けなければならないものが数枚溜まっている。これを後回しにすれば今後の予定に差し支えてしまう。

 

 

「"ごめんね、今日は朝から少し立て込んでいて"」

 

彼女の肩がほんの少しだけ強張る。

 

「"急ぎで書類を持っていかないといけないんだ。少しの間、このオフィスで待っていてもらってもいいかな"」

 

「はい。大丈夫です」

 

即答だった。断るという選択肢を最初から考えていないような声音で、後ろ髪を引かれるような気持ちになる。

 

「"ありがとう。冷蔵庫に飲み物があるから、好きなものを飲んで楽にしていて。すぐに戻るよ"」

 

そう言い残して、私はオフィスを出た。背後でドアが閉まる音がする。何だか気になって、足取りは自然と早くなる。

 

リンとのやり取りは手短に済ませるつもりだった。けれど確認事項が多く、説明も必要で、時計を見ると想定より時間が経っていた。

 

少し急ぎ足で戻る。オフィスの扉を開けた瞬間、僅かな空気の違いに気付く。甘いようで、甘くない。鼻の奥に残る微かな熱。

 

「"ヤナミちゃん?"」

 

視線が真っ先に向かったのはソファだった。彼女はそこに座っていた。けれど姿勢がいつもの彼女を思えば少し不自然で、背もたれに身体を預けいつもより力が抜けている様子だった。加えて頬が赤く、こちらを見上げてくる目の焦点が僅かに合っていない。

 

「先生……おかえりなさい」

 

声が柔らかい。語尾が、溶けるように落ちていく。

 

私は自然と視線をテーブルへと移す。そこに置かれた瓶。ラベルを見る前からもしやとは思っていたが、差し入れで貰い、冷蔵庫の奥にしまったまま忘れていた果実酒だった。甘くてまるでジュースの様に飲みやすいとの事で頂いたものだったが間違えて飲んでしまったらしい。

 

「"……もしかして、これ。飲んじゃった?"」

 

「冷蔵庫にあったので……飲み物だと思って」

 

 

言いながら瓶を見つめるヤナミちゃんは少し遅れて、ようやく違和感に気づいた顔になる。

 

「……これ、お酒だったんですね」

 

「"そうだね。完全に私の管理不足だ。ごめんね"」

 

生徒を一人残し、冷蔵庫の中身も確認していなかった。すぐに水を用意し、ヤナミちゃんへグラスを差し出す。

 

「"ゆっくりでいいよ。溢さない様にね"」

 

ヤナミちゃんはそれを受け取り慎重に口をつける。動作は一つ一つ丁寧だが、いつもより半拍ずつ遅れている様な気がした。

 

「なんだか……身体が暑くて、頭がふわふわします」

 

「"無理はしないで。ここで少し休もうか"」

 

彼女は素直にソファへ身を預け、天井を見上げた。

 

「シャーレって、静かですね」

 

「"そうだね。今日はたまたま少し慌ただしかったけれど、普段はだいたいこんな感じかな"」

 

朝から時間に追われこの静けさを味わう余裕すらなかったが私だが、ようやくゆったり出来ている気がする。……生徒にお酒飲ませちゃったけど。

 

今更だが、ナギサから抗議文でも送られてもおかしくない。

 

「"さて……今日はこれ以上無理をするのは良くないね。せっかく来てくれたけど、また今度話そう"」

 

ヤナミちゃんは小さく頷いた。酔いの所為か、その仕草はいつもより少し幼い。小柄な体格というのも合間って何処か小動物めいていた。

 

 

 

□ □ □ □

 

 

 

正直に言えば、執務室に足を踏み入れた時点で既に胸の奥がざわついていた。ナギちゃんがああいう笑みを張り付けて冷静さを装っている時はだいたい碌なことがないからだ。

 

白大理石の床に無駄のない配置の机と椅子。書類の束、紅茶のカップも、すべてがあるべき位置に整えられている。

 

この整然とした空気の中で彼女がほんの少しだけ指先を止める時、それは心のどこかに何らかの引っかかりがあったという事。そういう時は決まって私の所にお鉢が回ってくる。

 

「ミカさん、少しよろしいでしょうか」

 

丁寧で落ち着いた声。いつもと変わらない。けれど呼ばれた瞬間に分かる。これは少し面倒なお使いを頼まれる前兆だと。

 

「んー? なに?」

 

わざと軽い調子で返しながら、私は椅子の背に体重を預ける。こういうときに深刻な顔をすると、ナギちゃんは余計に言葉を選び始めるから。

 

ナギちゃんは一枚の書類を手に取り、私の方へ差し出した。薄い紙束。表紙を見ただけでその内容は大したものじゃないと分かる。

 

「こちらの書類を、シャーレまで届けていただけますか」

 

「え、これ?」

 

受け取ってざっと目を通す。……うん、やっぱり重要度は低い。期限もまだ半月も先のものだし、そもそも電子送付で十分な様に思う。少なくともわざわざ人を動かすほどじゃない。

 

「これ、今じゃなくても良くない?」

 

私は素直にそう言った。意地悪のつもりはない。更なる説明を求めたただの確認として。

 

ナギちゃんは小さく首を振る。

 

「ええ、緊急ではありません。ですが、本日中に届いていれば……先方も安心なさるかと」

 

先方。

 

……ああ、なるほど。

 

私は書類を軽く振りながらナギちゃんの顔を見る。相変わらず感情を覆い隠したように表に出さない。けれど、長年一緒にいれば分かるものもある。ナギちゃんは今、心配しているんだろう。

 

「ねえ、ナギちゃん」

 

「はい、なんでしょうか」

 

「これ、本当に書類の用事?」

 

冗談めかした調子で言いながら、私は視線を外さない。ナギちゃんは一瞬だけ手を止めた。ほんの一瞬。私にはそれで十分だった。はいはい、わかったよ。

 

「私は、書類を届けてほしいだけです」

 

私は内心で小さく息を吐いた。

 

「……はいはい、了解」

 

私は立ち上がり、書類をファイルに挟み小脇に抱える。

 

「ありがとうございます。お手数をおかけします、ミカさん」

 

その声色にはほんの少しだけ張りつめたものが混じっていた。

 

「分かった。行ってくるよ」

 

「はい。お気をつけて」

 

廊下に出た瞬間、私は小さく肩をすくめた。

 

……素直じゃないなぁ。書類なんて口実で、本当は心配してる癖に。

 

 

シャーレへ向かう道すがら、私は書類を小脇に抱えたまま、何度か端末に視線を落としていた。歩き慣れたはずの通路なのに、今日はやけに長く感じる。ナギちゃんの言葉が、頭の奥で何度も反芻されていた。

 

歩きながら、端末を操作してモモトークを開く。連絡先の中から迷いなく一人を選んだ。

 

桐藤ヤナミ。

 

文章を考えるほどのことでもない。私は思ったことをそのまま打ち込んだ。

 

『ヤナミちゃん、今どこ?』

 

送信。既読は付かない。

 

……まあ、忙しいのかな。

 

そう思って、もう少し歩く。それでもどうにも落ち着かない。

 

私はもう一度端末を見る。通知は来ていない。既読も付いていない。

 

ヤナミちゃんは、返信が早いタイプじゃない。

でも、既読すら付かないのは珍しい。特に、今みたいな時間帯なら。

 

「……んー?」

 

立ち止まって、画面を見つめる。通信環境の問題? それとも端末を見ていない?

 

ふと、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。

さっきまでただの勘だったものが少しずつ形を持ち始めていた。

 

私は歩き出す速度をほんの少しだけ上げた。廊下の白い景色が視界の端を流れていく。

 

シャーレの建物が見えてきた頃には、嫌な予感はもう「予感」じゃなくなっていた。胸の奥がざわざわと落ち着かない。オフィスの前に立ち、ノックもそこそこに中へ入る。

 

その瞬間、空気が違うことがすぐに分かった。

 

甘いような、あまり嗅いだことのない匂い。鼻の奥に残る、熱を帯びた気配。

 

視線が、自然とソファの方へ向く。ソファに座る――いや、半ば預けられるようにしているヤナミちゃん。頬は赤く、目はとろんとして、いつもの張りつめた雰囲気がどこにもない。

 

「……え?」

 

思考が、一瞬遅れる。次の瞬間、全部が出鱈目に繋がった。

 

「みそのせんぱい……?」

 

呼ばれた声は柔らかくて、少し間延びしていた。私は反射的に駆け寄り、ヤナミちゃんの肩を抱く。体温が異様に高い。ぐったりと力が抜けていて、完全に身を預けてくる。

 

「……ヤナミちゃん?」

 

顔を覗き込むと、焦点の合わない目がこちらを見上げてくる。その時点でほぼ確信した。ふと視線を先生の方へ向ける。テーブルの上に置かれた缶が嫌でも目に入った。

 

へぇ?

 

ヤナミちゃんを抱き寄せる腕に、自然と力が入る。言葉を選びながら、私は先生を見る。

 

「えーと、先生。流石に生徒にお酒飲ませるのはどうかと思うよ?」

 

「”み、ミカ……えっと、違うっていうかね? いや違わないんだけど、これには事情があって”」

 

「女の子にお酒を飲ませる理由? 是非聞かせて欲しいな〜」

 

「”うぐ……それは”」

 

声はできるだけ穏やかに。でも、視線までは誤魔化せなかった。抱き寄せられたヤナミちゃんの様子を見るとぼんやりと私の腕に身を預けては子供みたいに顔を寄せていた。

 

「……あったかい……」

 

「はいはい。今は静かにしててよ、ヤナミちゃん」

 

背中を軽く叩きながら、私は一度だけ深く息を吐いた。書類なんてどうでもいい。なんならテーブルにでも置いておけばいいし。とにかく、今は連れて帰らないと。

 

「じゃ、ヤナミちゃんは連れて帰るね。事情は後でナギちゃんにでもよろしくね☆」

 

先生は分かりやすいくらい顔を真っ青になって少しおかしかった。

 

 

 

 

 

 

 

シャーレを出て少し歩いたところで、私は端末を取り出した。片腕にはヤナミちゃん。完全に体重を預けてきていて、歩幅を合わせないとすぐに躓きそうになる。

 

……うん、これはもうダメだな。モモトークを開き、迷いなくナギちゃんの名前を選ぶ。短く要点だけ。

 

『今から帰るね。ヤナミちゃん、酔っぱらってるみたいだからこっちで預かるね』

 

送信。

 

──ほとんど間を置かず、画面が震えた。

 

既読。

続けて、入力中の表示。

 

……はや。

 

端末を見下ろしたまま私は一瞬だけ考えて、それから画面を伏せた。返事は打たない。確認もしない。

 

シャーレへ寄越した腹いせ、というやつだ。心配してるのは分かる。でも、だからって全部こちらに投げるのはどうなんだ、とも思う。自分で行けばいいのにね。

 

 

「みその先輩……」

 

「なに?」

 

呼ばれて視線を落とすと、ヤナミちゃんは理解しているのかいないのか分からない目でこちらを見上げていた。

 

「……あれ、みその先輩が、近い」

 

「近いねぇ」

 

自発的に人の近くへ寄り付きもしない様な子が、今や私の腕に絡むようにして離れようともしない。その華奢な体格もあって何処か小動物めいている。

 

歩きながら、何度か足がもつれそうになる。私は無意識にヤナミちゃんの背中に回した手に力を込めた。

 

「大丈夫? ちゃんと歩ける?」

 

「……らい、じょうぶです」

 

全然、大丈夫じゃなさそうだ。呂律すら回ってない。

 

「みその、先輩」

 

「ん?」

 

「……わたし、重くないですか」

 

「ぜーんぜん! むしろ軽過ぎるくらいだよ」

 

考える前に口が動いた。ヤナミちゃんは少しだけ目を細めて、安心したみたいに体重を預け直す。その仕草が胸の奥を妙にくすぐった。

 

なんだろう。人見知りする猫に懐かれたみたいな、そんな心境というか。妙にきゅんとくる。

 

しばらく無言で歩いてからふと、つい魔が差してしまった。どうしてそんな言葉を思いついたのか自分でも分からない。破滅願望とでも言えばいいのか、けれど我慢するなんて選択肢もどうしてか存在しなかった。

 

「ねえ、ヤナミちゃん」

 

「はい……」

 

「もしさ」

 

歩調を緩めて、なるべく軽い調子で続ける。

 

「私が、トリニティの裏切り者だったらどうする?」

 

一瞬、ヤナミちゃんの足が止まった。動きが緩慢になって、真意を探る様にこちらを見上げる。けれど、すぐにまたゆったりとしたスピードで歩き出した。

 

「……急ですね」

 

「あはは……今のは忘れてもいいよ」

 

冗談のつもりだった。もし、私がセイアちゃんの命を奪って、今も尚ナギちゃんを苦しめている元凶だと知ったら。ヤナミちゃんはどういう反応をするんだろうって、少しだけ気になってしまっただけ。

 

でもヤナミちゃんは少し考えるように黙り込んでから、ぽつりと言った。

 

「……昔、みその先輩がくれた、誕生日会の招待状をおぼえてますか……」

 

予想だにしていなかった単語に胸の奥が、きゅっと鳴る。

 

「うん、懐かしいね」

 

足を止めて、私は思わずヤナミちゃんを見る。彼女はぼんやりした表情のまま、でも言葉だけははっきりしていて、それが殊更に質が悪かった。

 

「あれは唯一の、宝物なんです。……わたしに届いた、はじめて人からもらった、ものだったから…」

 

……え?

 

「わたし、人の気持ちに……うまく同調できないんです。……それで両親に、たくさん迷惑をかけて……だからたくさん、勉強して、……みんな、みたいにして……でも姉さんが、ずっと、怒ってて……わたしは失敗、してばかりで」

 

続く言葉は、酔いのせいか妙に率直だった。

 

「嬉しいとか、悲しいとか……怒ってるとか……分かってるつもりでは、あるんですけど……みんなみたいに、うまく扱えなくて」

 

ヤナミちゃんはそこで一度区切り、小さく息を吸った。

 

「だから、あの招待状も……どうして嬉しいのか、きちんとした説明は……できないんです。でも……捨てられなくて、……きっと、嬉しかった、から」

 

私はしばらく何も言えなかった。自分の感情さえ正しいとは思ってない様な響きに胸が締め付けられる。

 

ヤナミちゃんが病的なまでに自罰的なのはこれが原因だったんだ。

 

「だから、いちどでもいいから、みその先輩を信じたい…です。何か、そうしたい理由が、…あったと、思います。だからおたがいに、きっと地獄行きですね」

 

予想外すぎて、冗談を返すことも出来なかった。唖然とする私に対し、ヤナミちゃんはふっと笑った。どこか自嘲的で、それでいて穏やかな微笑み。案外これが彼女の素なのかもしれない。

 

「みその先輩」

 

ヤナミちゃんはふらふらの足を止めて、じっと私の方を見た。いつもの様な、何処か視線の合わない様なぼんやりした雰囲気なんて何処にもなくて、少しだけ悪戯っぽい様な、そんな微笑みで言い放った。

 

「一緒に、地獄におちますか?」

 

何か、……何か言わなくては。

 

真正面から、そんな風に誘われるなんて思っていなかった。胸の奥がいっそ煩いくらいにどくんと大きく跳ねて、上手く息が出来なくなる。

 

 

「……もう〜。やめてよ、そんな冗談」

 

私は慌てて笑い飛ばす。上手く笑えているとは思えなかった。

 

「そういうのはさ、もっとシリアスな場面で言うやつだよ?」

 

「? ……そう、なんですか」

 

自分で言っておいて、何を言ってるんだ私は、と思う。しかしそうやって茶化すしかなかった。……今も胸の奥が変に高揚している。ぞわぞわする。抗い難い不思議な感覚が背中を這う様に迫り上がってくる。

 

すると、密着していたヤナミちゃんの体から、すっと力が抜けていく。

 

「おっと……大丈夫? ヤナミちゃん」

 

慌てて抱き止め、かくんと角度を変えた頭を支えてやる。

 

「……みその先輩は、あたたかい…、ですね」

 

気持ち良さそうに体を預けてくるとそれきり、反応がなくなる。顔へ視線を向けると瞼は閉じきり静かな呼吸音が聞こえてくる。

 

「……寝ちゃった?」

 

返事はない、きっともう夢の中だろう。私は小さくため息を吐き、体勢を整えて抱え直してやる。所謂、お姫様抱っこの様な姿勢。

 

起こさない様に歩調をさらに落とす。夜の空気は冷えてきているけれど、ヤナミちゃんの体温はまだ高い。額にかかる前髪が僅かに湿っていた。

 

端末がポケットの中で、もう一度だけ震えた気がした。取り出さない。

 

きっとナギちゃんだろう。内容はなんとなく想像できる。

 

「今どこですか」

「本当に大丈夫なのですか」

「状況を説明してください」

 

気にせず無視する。生憎手は両腕とも塞がっているから。

 

 

「ねぇ、ヤナミちゃん。言った言葉には責任が伴うんだよ?」

 

さっきから胸の奥に残っているざらつきが消えないままだ。ヤナミちゃんの言葉が何度も頭の中で反芻される。

 

一緒に、地獄におちますか、なんてさ。

 

「……ほんと、ずるいよ」

 

眠っている相手に向かってそんなことを呟く自分がおかしくて、少しだけ笑った。返事がないのをいい事に、私は歩きながら腕の位置を調整する。ヤナミちゃんは寝惚けた様に肩へ頭を預けてくる。

 

暫くして、トリニティの校舎が見えてきた。灯りの配置も、夜の静けさも全部見慣れた筈なのに、今日ばかりは少しだけ違って見えてしまう。

 

「ねえ、ヤナミちゃん」

 

呼びかけても、当然返事はない。その代わり寝息が微かに返ってくる。私は小さく息を吐いて、歩みを止めた。

 

……誕生日会の招待状。

 

正直に言えば、あれは思い付きだった。特別な意味なんて全くなかった。その後も何度か送った。返事がなくても気にしなかった。

 

でも実際は、少しずつ腹が立っていた。

なんで無視するんだろう、とか。

そんなに嫌だったのかな、とか。

 

「覚えてたならさ」

 

小さく、独り言みたいに呟く。

 

「一言くらい、言ってくれてもよかったじゃん」

 

眠ったままの顔は何も答えない。その無防備さに、さっきのぞわりとした高揚がまた胸の奥でくすぶる。

 

私は少しだけ口角を上げた。

 

「じゃあさ──責任、取ってもらっちゃおうかな」

 

誰に聞かせるでもなく、腕の中の重みを確かめながら歩き出す。

 

 

だって、一緒に地獄に堕ちてくれるんだもんね?

 

先生の性別および年齢について

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