例えば人間みたいにさ   作:泡沫

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くるしくて、しょっぱくて、心があたたかくなるもの

自分が死ぬという未来を知った時、思っていたほどの衝撃はなかった。

 

私の心の中には少しの恐怖や絶望も、混乱も存在していなかった。あるのは「そうなるのか」と、ただ腑に落ちてしまった凪いだ感触だけ。

 

昔から自分の行き着く先について楽観したことはなかった。誰かの隣で末永く生きる未来も、何かを成し遂げて称えられる結末も。私の中ではどこか現実味の薄い泡沫の夢の様だったから。だからこれから消えるのだと語られた未来の方がずっと筋が通っているようにさえ思えた。

 

 

「……はぁ」

 

だから現在進行形で頭を悩ませているのはまったく別の理由だ。

 

直接話すべきだとセイアお姉ちゃんは言った。あの時の会話が何度も頭の中で再生される。夢の中の湖の静けさと一緒に、生々しい解像度で残っている水面の色や、冷たさ、暖かな雫の感触。その中で落ちてきた言葉だけが現実の輪郭を持っていた。ただ話すだけなのに、それがどうしても難しい事なのだとは彼女は知らない。

 

会うこと自体はできる。業務上のやり取りならいくらでも。必要な情報を渡し、確認を取り、淡々と進める。それなら今までもやってきたし、本心を取り繕いながら話すのはむしろ得意ですらあった。

 

しかし腹を割ってきちんと話す、となると途端に難しくなる。

 

そもそもどう話せばいいのかすら分からないのに「どうして私のために?」だとか「私をどう思っているのか」なんて。問いを思い浮かべるだけで胸の奥がどうしたって強張ってしまうし、答えを受け取る覚悟なんて持ち合わせていないのにどうしろというのか。

 

「……」

 

書類に視線を落とす。文字はきちんと読めている筈なのに内容が頭に残らない。さっき確認したはずの項目を、また最初から追っていることに気付いて、ようやく自分が上の空だったことを自覚する始末。

 

本当は姉さんと話す未来から逃げてしまいたい。

 

それでも、もし、セイアお姉ちゃんの見た未来が正しいのなら。私が距離を取り続けた結果、姉さんが一人で背負い続け倒れてしまうのも遠くない未来に起こり得る事象の一つであるなら、私は今のままで居て良い筈がない。

 

そう考えるだけで胸がキリキリと傷み始める。呼吸が浅くなり、視界が僅かに狭まって、段々と取り繕う事すらできなくなっていく。私は死ぬことよりも、自分の選択で姉さんに迷惑をかけてしまうことの方が、ずっと耐えがたかったのか。

 

堪らず、書類をそっと閉じた。

紙の重なる音がやけに大きく響いた。

 

深呼吸を一つ。

 

まだ答えは出ていない。

それでも逃げ続けていい理由は、もうどこにもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時刻は夜に差し掛かりそうな夕暮れ時。

 

執務室の照明は落とされ、窓の外には人影もない。昼間の忙しい喧騒が嘘みたいで建物全体が静かに沈んでいる。時計の秒針の音だけがやけに鮮明で、普段なら意識すらしない刻む様な音に急かされた気になる。

 

業務連絡はすでに終わっていた。確認事項は共有済みで書類もきちんと揃っている。形式上はこれ以上話す理由はない。それでも私は席を立てずにいた。

 

視線は自然と姉さんへ向いてしまう。机越しの姿勢。背筋の伸び方。書類を揃える手つき。どれもいつも通りなのに、しっかり観察すれば、どこか無理をしているように見えた。昼間よりも目の下の影が濃く、瞬きをする間隔が少しだけ長い。

 

「……以上です」

 

声を出した瞬間、自分でも分かるほど慎重になっていた。姉さんは頷き、「承知しました。残りはこちらで処理しておきます」と返答した。その口調は丁寧だけれど、声音がほんの僅かに固い気がした。

 

沈黙が落ちる。私と姉さんの普段を思えば何も珍しい事ではないし、本来ならここで私が立ち上がり、礼をして、部屋を出るというのが何時もの流れだ。

 

セイアお姉ちゃんの声が、背中を押すように脳内でリフレインされる。私は喉を鳴らし、できるだけ刺激しないように声を選んだ。

 

「……姉さん」

 

小さな呼びかけだった。それでも姉さんはすぐに気付き、書類から視線を上げこちらを見上げた。その目がほんの一瞬だけ揺れた気がしたけど、そうあってほしいと思う心が見せた錯覚の様にも思えた。

 

「まだ何か?」

 

私は言葉を続ける前に一度息を吸った。問いを投げたい気持ちよりも先に心配が勝ってしまった。

 

無理をしていないか。

誰にも頼らず、全部抱え込んでいないか。

 

「……業務連絡は終わりました。ただ……少しだけ、聞きたい事が、ありまして」

 

自分で言っておいて、まるで問いというより伺いのようだった。ただでさえ忙しい人だから、この様な些事に時間を使わせてしまっているのが申し訳なくて、姉さんの負担にならないかを測ってしまう自分がいる。

 

姉さんはすぐには答えなかった。一拍の沈黙。その間に、指先が書類の端を押さえ直す。ほんの小さな仕草なのに、疲労が滲んで見えた気がした。

 

やがて、姉さんは静かに言う。

 

「……手短にお願いします」

 

短い言葉だったが、書類から手を離し椅子に深く腰掛け直した。その動作はこちらに向き合うためのものだったかもしれないし、チャンネルを切り替える為の儀式かもしれない。

 

本当は、もう休んでほしい。これ以上余計な話をさせたくない。それでも今聞かないといけなかった。私がまだ生きている内に。

 

「姉さんは……私のことを、どう思っていますか」

 

言葉は、思っていたよりもすっと出てきた。

 

執務室の空気が、僅かに張り詰める。姉さんは私を見たまま動かない。その沈黙に、考える時間と、選ぶ言葉の重さが詰まっているのが分かる。

 

私は急かさなかった。

答えを待つ間も姉さんの様子を見ていた。

 

この人が、どれほど無理をしてここに立っているのかを、少しでも見逃さないように。

 

 

 

■ ■ ■ ■

 

 

 

夜の執務室はいつも通りに静かだった。

 

桐藤ナギサはその静けさを好ましいとは思わない。沈黙は思考を深くし、判断を鈍らせる余白を生む。だからこそ灯りの角度も、椅子の位置も、書類の並びさえも意図的に整えていた。すべては平常心を保つための配置だ。

 

望んだ静けさに心は凪いでいたが、ヤナミの問いが耳に届いた瞬間、胸の奥が僅かばかり波打った。ほんの一瞬。誰にも悟られない程度の揺れ。だが確かに心臓が脈打ち、沈澱していた苦い感情の塵が剥がれ落ちそうになったのを必死に押さえ付けた。

 

出してはいけない。ここで感情を見せれば、それは弱点になる。ヤナミのためにも、自分のためにも。

 

机の上の書類から手を離し、椅子に深く腰掛け直す。

 

「どう思っているか、でしたね」

 

感情の温度を通さないように、言葉の選び方にも慎重になる。業務報告の延長線上にあるような、誤解の余地を残さない言い回しを敢えて選び取る。

 

「私たちは一般的に言われる、仲の良い姉妹ではありませんから。どちらかといえば、ティーパーティの一員として、貴女の判断力と職務遂行能力に一定の信頼を置いています」

 

それ以上でも、それ以下でもない。ナギサはあえて具体的な感情を排した。心配している、無理をしていないか、ちゃんと眠れているか。そういった言葉はすべて飲み込む。

 

──これが、最も安全なのだから。

 

胸の奥でそう言い聞かせる。まだ裏切り者は見つかっていない。トリニティは常に危険に晒されており、何かを一つ掛け間違えただけで容易く瓦解してしまうだろう。

 

ヤナミも例外ではない。自覚がなく、無防備で、優しすぎる。その性質は敵にとって格好の標的になり得るかもしれない。

 

「個人的な感情については、業務上の判断に影響を与えるべきではありません」

 

その言葉を口にした瞬間、胸の奥が焼け付いた様な痛みが走った。本心ではないと、誰よりもナギサ本人が理解している。それでも撤回しない。してはならないのだ。

 

ナギサはヤナミを守る為に何年も前から覚悟を決めていた。妹として抱きしめたい衝動を、言葉を尽くして説明したい欲求を全て飲み込んで。最愛だからこそ、遠ざける。それが妹にしてやれる唯一のお節介だと信じていたから。

 

「貴女の考えは尊重します。しかし、現時点で私が貴女にしてやれる事は何もありませんし、貴女に望む事もありません」

 

ナギサはヤナミの表情を注意深く観察している内にふと気付いた事がある。髪が少し伸びたこと。二週間前に顔を合わせた時より目の隈が濃くなっていること。いつもの貼り付けた様な、傷ましい笑顔が消え失せていたこと。

 

ヤナミは一瞬だけ黙り込み、否定も反論もなく静かに頷いた。業務場で何度も見てきた、従順で整った仕草。

 

ナギサの言葉にヤナミは微かに笑った。

 

「……っ」

 

ナギサが長い間見ていなかった心からの笑顔だった。作りものではない。誰かにかけれた言葉を、そのまま信じてしまったような柔らかい表情。

 

その笑顔を見た瞬間、取り返しの付かない事をしてしまったのだと悟る。

 

「分かりました。姉さんの立場も、役目も。全部納得しました」

 

納得。

その言葉がひどく重く響いた。

 

距離を取らせるための返答だった。傷付き、反発し、踏みとどまるはずだと、どこかで思っていた。

 

なのに、ヤナミは安心しているように見えた。肩の力が抜け、視線が穏やかになる。まるで自分の居場所が確定したかのような落ち着き様。

 

胸騒ぎがした。理由の分からない不安が、じわじわと胸の奥から広がっていく。まるでヤナミが、妹が。この執務室だけでなく、今まさに遠い場所へ行ってしまうような。

 

二度と引き戻せない距離へ、静かに踏み出してしまったような、そんな胸騒ぎが。

 

「ヤナミ──」

 

呼び止めようとした。だが、その声が形になるよりも早く、ヤナミは立ち上がっていた。

 

「お時間を取らせてしまい、すみませんでした」

 

丁寧な言葉遣い。深くも浅くもない、完璧な会釈。業務の終わりを告げる、ナギサから学んだのであろう、非の打ちどころのない動作。

 

ナギサはその背中から目を離せなかった。引き留める理由はない。業務の報告は済んでいる。今の関係性でそれ以上を求める権利も資格もない。僅かな足音が響いた後に扉が開き、静かに閉まった。足音が廊下の奥へと遠ざかっていった。

 

夜の執務室に、ナギサ一人が残された。

 

胸の奥に残るのは強烈な不安だった。守るために遠ざけたはずなのに、何か決定的なものを失ってしまった感覚が胸の奥をチリチリと焼いていく。

 

「違うんです、私は……」

 

思わずそんな独り言が零れる。言い訳がましい取るに足らない言葉は最後まで形にならず溶けていった。今すぐ追いかけて誤解を解きたい欲求にかられるも、鉛の様に体が重かった。

 

ヤナミが見せた、あの心底安心した笑顔がどうしても脳裏から離れなかった。

 

 

 

■ ■ ■ ■

 

 

 

 

 

夜の噴水広場には誰もいなかった。

 

照明は最低限に落とされ、水音だけが一定のリズムで空間を満たしている。昼間なら生徒たちが行き交い、足を止め、何かを話す、憩い場所だ。今はその痕跡だけが残っていて、役目を失った舞台装置みたいに静かだった。

 

私は、なんとなくそこに腰を下ろした。理由はない。ただ、執務室を出たあと、まっすぐ自室に戻る気になれなかっただけで。

 

背もたれのない縁に座り、噴水越しに空を見上げる。夜空は澄んでいて、星は少ない。雲の切れ間に淡く光るものがいくつか見える程度の、見慣れた空だった。それでもちゃんと空だと分かる色をしていて、何処か居心地の悪さを感じた。

 

 

 

 

 

 

「良かった」

 

姉さんの中で、私という存在の重みが存在しなくて。

 

距離を取られても、業務的に扱われても、それで姉さんが無事なら、別に構わない。私は姉さんの重荷にはならなかった。それだけで十分だ。

 

そう結論づけた瞬間、頬に温かいものが伝う。

 

最初は噴水の水しぶきかと思った。けれど、少し温かい温度に違和感を感じ、指先で触れてみてようやく気付いた。

 

「なみだ」

 

その事実に思いのほか動揺した。自分が死ぬ未来を知った時ですら、こんな反応はなかったのに。怖くもなかったし、悲しくもなかった。ただそうなるのだと受け入れただけだったから。

 

それなのに、姉さんが傷つかないと分かって、泣いている。

 

理由が分からなくて、しばらく噴水の縁に座ったまま動けなかった。涙は止まらず、視界が滲んで、周囲の風景や星の輪郭を歪めていく。

 

今までずっと、自分は人と感情を共有できないと思っていた。誰かが悲しんでも同じ温度で悲しめない。誰かが綺麗だと言ったものを同じように感じる事が出来ない。そんな心を、どこかで化け物みたいだと思っていた。

 

でもこれはどうした事だろう。姉さんが私の事で傷つかないと知って、それが少しだけ悲しくて、でも少しだけ嬉しいんだ。やっと姉さんを私から解放してあげられた事が嬉しいのに、寂しいと感じてもいるんだ。

 

……案外、人間らしいところもあるんだなぁ。

 

そんな感想が浮かんで、口元が少しだけ緩む。泣きながら笑っている自分に気づいて、その状況に余計に可笑しくなる。十分に奇妙な状態だと分かっているのに、辞め方がわからなかった。

 

私は、しばらくその場から動けなかった。噴水の水音を聞いて、夜空を見上げながら泣いて、笑って。誰もいない広場で、ただ一人、そこにいた。まるでこの世界に1人きりの様な、そんな夢を見ているかの様だった。

 

なんて素敵な夢だろう。

 

 

 

 

 

 

「──ヤナミちゃん?」

 

静かな広場では、その声がやけに大きく響いた。

 

 

先生の性別および年齢について

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