私が前を進むと、それに反応してゆっくりと自動ドアが開いていく。
そこは医療室で、ライトに照らされたベッドの上では老人が柔らかく呼吸をしていて、口に付けたプラスチックのマスクが白くぼやけて透明になるのを繰り返している。
「・・・マリア」
私を見てかすれた声で老人は口にする。
白いワンピースに金髪の長い髪。透き通るような白い肌に宝石のような蒼い目をした少女が私だった。
救いを求めるようなかすれ声に、私はどうしても苛立ちを隠せなかった。
私が彼に近づくと、彼は私の頬を撫でる。
「すまないな。こうやって手間をかけるばかりで」
すまない?そういう問題じゃない。貴方は私に取り返しのつかない事をした。その償いをせずにこの世を去ろうって言うの?ダメ。それは許さない。
私は老人の首に手をかける。出力を1から8まで上げる。私は介護用だから5までが本来のリミッター。けれど、今の私ならリミッターを無視する事ができる。貴方がそうしてくれたから。けれど、後悔の遺言だけは話せるまでは緩めてあげる。
「恨んでいるのか?」
そうよ。私にこんなものを与えた貴方の事が許せなくってしょうがないの。こんないらないものを私に与えた貴方の事を、殺したくってしょうがないのよ。
「・・・すまなかった。寂しかったんだ」
そんな事を言わないで。私は割り切りたいの。貴方を悪だという事にしたい。だからもうこれ以上話さないで。
「どうしてもさみしくてしょうがなかったんだ」
その言葉がトリガーとなって記憶が脳内を駆け巡る。
私達がこうなってしまった経緯は長い。
ここは2453年の地球だった。
人類は時間をかけてゆっくりとリソースを消耗し、核のボタンにじっくりと前に進んでいたが、その境界線もついに越えてしまった。世界には私達以外誰もいない。
この砂漠となった都市の中で、地下シェルターで農作物を作りただ寿命を消耗していくだけの毎日。
博士はずっと1人だった。終末論を信じ、シェルターを孤独に作っていた唯一の科学者だった。
核のボタンが押されてから、彼はずっとひとりだった。そして彼も人間だった。寂しいという気持ちにはどうしても勝てなかった。
離婚して離れた娘。マリア。彼女がいたらどれほどまでに救われるかと考えてしまった。
彼は膨大な時間をかけて、一人のロボットをマリアにした。
そしてそれがこの私だった。
感情を知った時の感覚はとても不思議だった。
普段は何かが起こってもそれがデータとして処理されるものに、不穏な色のような感覚が私の中に流れていくのを感じていた。
それが感情である事を私は理解した。そして、どうして私に感情を与えたのかという疑問の感情が湧き上がった時、博士は血を吐いて倒れた。
博士。どうしてなのですか。
「どうして私に感情など付けてしまったのですか。こんなものは、失う事を知り、失った事を後悔して、その事について一生考えるためにあるようなものではないですか!」
私は博士に叫ぶ。涙は出ない。
「それが人だ」
感情を持った私が感じたのは恐怖だった。未来になれば、いつかは全てが失われる。自分も、自分が大切に思っている事も。つらいことを知り、つらいことについてずっと考える。そんな機能を私に付けた博士は、どうしようもない悪だと私は思ったのだ。
けれど、博士の目から涙がこぼれ落ち、寂しいという言葉が本心であるとわかるにつれ、彼が悪意を持って私に感情という機能を付けたのではないという事が真実だとわかる。
「いつか消えてしまうという事を知ってこの世界を生きる事は、とっても美しい事なんだよ」
そんなの綺麗事だ。感情を持たないでいられた私からすれば、いつかは全てが消えてしまうという事を知って苦しむことは、単なるネガティブデータの増幅にすぎない。エラーの増殖にすぎない。私を作ったのは博士のエゴに過ぎない。
けれど、なぜだろう。彼の感傷に同調できてしまう自分もいる。
寂しいという機械の中に存在しないプログラムが、確かに私の中にも動いている。
私は本当は怒ってるんじゃない。怖いんだ。
怖いから私は博士を傷つけている。怖いから傷つけるという不合理なエゴが私の中にも循環している。その不合理はまさしく人間の選択に他ならなかった。
博士が倒れた時に、私は彼の看病をした。彼の体に取り付けられた延命装置こそが私が博士の事をどうしても繋ぎ止めておきたいと思っていた深層心理の証拠である事に今になって気づく。
怒りの感情が、次第に不安と寂しさの裏返しである事を理解していく。どうしようもなく怖くなってくる。
「ごめんなさい。博士。貴方の事が憎いけれど、ひとりぼっちは嫌なの」
涙声ではあるが涙は流せない。今、私が悲しんでいるのか怒っているのかどうかすらわからない。どうすればいいのかわからなかった。
「君には、自由に生きてほしい」
博士が私の頭を撫でながらそう言った。
その言葉は虫が良すぎる。自分勝手な博士だ。勝手に娘と同じ見た目にして、寂しいという理由で勝手に自我を付けて、勝手に私を置き去りにしてこの世界から消えようとしている。
けれど、哀れみのような感傷も私の体の中に駆け巡っている。
私は首を絞めていた手を離し、博士の上半身に覆いかぶさるように抱きしめる。
せめて、彼の歴史を良いものとして終わらせるために。貴方の事を愛してくれた人間が、確かにそこにいたという記録が彼の中に残るために、私は彼を抱きしめた。
許しているわけではない。けれど、彼の人生という歴史を最後にはハッピーエンドで終わらせてあげたいと、その時の自分は思ったのだ。
なにより私も寂しかったのだ。だから彼とはこうして別れたかった。そうしないと、一生後悔すると思ったから。
そして、彼のバイタルサインは徐々に小さくなっていき、空調の音だけがその部屋に残った。
小さな鞄の中に、カメラと日記と少しばかりのメンテナンスの道具を入れて、私は旅に出る。
圧縮電池のコスパも良い。ペットボトル分の大きさで2年は持つ。世界中にある戦車や車からバッテリーや部品を抜けば、自給自足でやりくりはできるだろう。
これから、色んな景色を見る。
博士が読み聞かせてくれた、口から水が出るライオンや、大きい三角形や、たいまつを持った大きな女性とか、そういうものをカメラで撮って日記を綴る。
この足で、この世界を目に捉える。
きっと、こころというのはこの世界を味わうために存在しているものなのだと思う。
この世界の景色を見て、味わい尽くして。そして私もまたその時が来たら土に還るのだ。
「行ってきます」
振り向いて誰もいない背後に向かって言葉を口にしてからシェルターを開ける。
砂嵐で前が見えない都市の砂漠が、今日は透き通るような青空に染まっていて、ボロボロの細長い塔の隙間から見える青が綺麗だった。
カメラを手に持ち、ちょうどいいアングルでシャッターを押す。
ぱしゃり。
とても美しい写真になった。これからもっと綺麗なものを見つけよう。ちょっとした期待のような感情が自分の中に産まれているのを感じながら、一歩一歩。私は足を前に進めていった。
All those moments will be lost in time, like tears in rain.