Kuschel   作:小日向

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100 ヨハネス・フォン・シックザール

 浮ついて騒がしいエントランスとは正反対に、役員区画の廊下は嫌になるほど静かだ。エレベーターの扉が開き、ミツハは重い足を一歩踏み出した――ソーマと共に。二人の足音が静かな廊下に響く。

 

 支部長室はエレベーターからまっすぐ歩いたその突き当たりにある。長い廊下を歩きながら、その心臓は支部長室に近づくにつれて逸る。

 

 この廊下を歩いたのは、あの日以来だ。

 

「あの日、」

 

 静寂を打ち破るようにミツハは口を開く。重苦しい役員区画の空気とは正反対に声は明るい。明るく努めていた。

 

「助けてって叫んだら、本当にソーマさんが助けに来てくれてびっくりしました。部屋に鍵かかってましたし、もう駄目だーって思ってましたもん」

 

 意識は薬で朦朧とし、声を上げても人通りの少ない役員区画、特に支部長室周辺では気づく者などそう居ない。居たとしても、部屋は鍵のかかった密室だった。

 

 しかし、絶望的な状況は扉と共に、文字どおりぶち破られた。あの日、タイミングよくソーマが支部長室に来ていたおかげでミツハは事なきを得た。

 

「……元々お前が居るとヒバリから聞いていたからな。親父が何か企んでいると睨んでいたから行ってみたら、そのとおりだったってわけだ」

 

 ソーマが忌々しく吐き捨てたその言葉に、ミツハは目を丸くした。あの日、ソーマが支部長室に来たのは偶然かと思っていたが、そうではなかったらしい。

 

「じゃあ、あの日ソーマさんが支部長室に来てたのって、偶然じゃなかったんですね」

「……まぁな」

「ならなおさら、助けに来てくれてありがとうございます。……それに、今日も」

 

 歩いていた足を止める。支部長室の扉の前だ。壊された扉はすぐに直されたらしく、重厚な扉が健在している。この一枚の厚い板を隔てた先に、ヨハネスが居る。

 

「……何かあったら叫べ」

 

 扉近くの壁に背を預け、ソーマは静かに、だが強く念を押すように言った。ミツハは頷く。

 

「はい。……や、でも、たぶん大丈夫です。前ああなったの、飲んだ紅茶に薬が入ってたせいですし!」

「だとしても、何かあるかはわかんねぇだろ。用心は忘れるなよ」

「……はい」

 

 もう一度頷き、一つ息を吐く。それでも心臓は嫌な脈打ち方をしていた。大丈夫だとは思っていても、一度染み込んだ恐怖心はそう簡単に拭えずにいる。

 

 ソーマに背を向けて扉の前に立つ。震える指先で扉の横にあるインターホンを押した。ロックの外れる音がする。

 

『――入りたまえ』

 

 目の前のインターホンから聞こえてきた声にわずかに肩が揺れた。扉に手を伸ばす前、ちらりと横目でソーマを見る。盗み見たつもりだったが、示し合わせたかのように視線はばちりと噛み合った。

 

――うん、大丈夫。

 

 扉を開け、支部長室に入る。執務椅子に座っていたヨハネスはその視線をノートパソコンからミツハへと向ける。氷の瞳がにこりと細められた。

 

「随分な番犬を連れているようだね」

「……そんな言い方はやめてください」

「これは失礼。いや、正直驚いているんだよ。来てくれるとは思わなかったからね」

 

 いけしゃあしゃあと言ってのけるヨハネスに思わずミツハは眉根を寄せる。弱気になっては駄目だと言い聞かせ、ミツハは気丈に言葉を放った。

 

「前は薬のせいでああなりましたけど、そうじゃなかったら支部長は私に敵いませんから! 神機使いの身体能力に一般人が敵わないのはご存知でしょう?」

「ああ、確かにそのとおりだ。だが、奥の部屋に私の子飼いの神機使いを待機させているとは考えなかったのかね?」

「えっ……」

「迂闊だね。いっそ愛おしいほど平和ボケした思考だ」

 

 ヨハネスは優しげな微笑みを浮かべながら、そんな皮肉を紡いだ。笑うヨハネスとは反対にミツハの顔は一瞬ににして青褪める。

 

 ミツハが警戒して来ることはヨハネスもわかっていたはずだ。ならば力づくでミツハを抑え込める、自分に忠実な神機使いを用意しているかもしれないと、少し考えれば予想できることだった。――思いっ切り失念していたが。

 

 慌てて踵を返し扉に手を伸ばそうとしたミツハだが、それをヨハネスが制止する。

 

「冗談だよ。先日、神薙ユウ隊長から特異点と思われるアラガミの発見報告があってね。そちらの当てが外れるまで、君に手出しはしないよ」

「…………」

「さて、では話をしようか」

 

 信じられないとでも言うようにヨハネスを睨みつけるが、男はまるで気にもせず机の上で手を組んで笑った。

 

 ミツハは沈黙を放ちながら扉から離れ、執務机の前に立つ。硬い顔を崩さないミツハに、ヨハネスは一枚のカードを差し出す。

 

「サクヤ君たちから話は聞いているのだろう。これが方舟の乗船チケットだ」

「要りません」

「そう言うだろうとは思っていたよ。まったく、残念だ」

 

 肩を竦め、カードを机に落とす。軽い音が支部長室に響いた。意味の無い問答だった。

 机に落とされた薄いカードを一瞥し、ミツハは問答を続けた。

 

「……どうして私も、方舟に乗る候補にあがっていたんですか?」

 

 問いを、続ける。

 

「あなたが言うには、私は……ただの、化け物なんでしょう。そんな化け物を、次世代に残したいんですか?」

「おや、自分自身を化け物だと認めるのかね」

「話を逸らさないでください」

「……私はね、君がタイムスリップしたことには、それは人類にとって大きな意味があると思っているんだよ」

「……利用価値があるから生かすってことですか」

「本来2011年に居るはずの君が、2071年に居る。オラクル細胞が発生したのは2046年だ。歴史の矛盾を修正するだけならば、何もこの時代でなくとも良かったはずだ。にもかかわらず、君は2071年に居る。人類が新たな一歩を踏み出そうとする、この歴史の転換期にだ。君はきっと、世界に選ばれたのだよ」

 

 まるで演説でもするかのように、ヨハネスは雄弁に語る。それが真実だと信じて疑わないように、朗々と語り述べる。

 

 男の声は部屋によく響いた。いやに自信に満ちた声でこうも悠々と語られては、ヨハネスの言葉が正論だと思い込んでしまいそうになる。

 

 だが――

 

「私がタイムスリップしたことに、そんな大それた意味なんて、無いですよ」

 

 ミツハはそう断言した。ミツハもまたそれが真実だと信じて疑わないような、自信に満ちた否定だった。

 

 ほう、とヨハネスが一声唸る。

 

「ならば君は、何の意味も無くこの世界にやって来てしまったのかい? 平和な時代で人生を歩むはずだったというのに、たった独りでこの凄惨な時代にやって来て死と隣り合わせの戦いを強いられているのは、まったくの無意味だと?」

「……そうです。たまたま私の身体にオラクル細胞が発生して、たまたま60年後に飛ばされた。ただ、それだけです。人類のためだとか、世界に選ばれたとか、そんな大きな意味なんて、きっとないんだと思います」

「では君は意味も無く、本来居るべきではない世界で生きていると言うのかね?」

「意味が無いなら、自分で意味を持たせればいいだけの話じゃないですか」

 

 淡々と語るヨハネスと同じように、ミツハも淡々と答える。言葉に下手な感情が乗らぬよう努め、平然とした面を張り付けて言葉を紡ぎ続ける。

 

「私は……ソーマさんと出会うためにタイムスリップしたんだって、そう思うようにしましたから」

 

 まるで惚気のような言葉を最後に、支部長室に沈黙が落ちる。ヨハネスはわずかにだが目を見張り、閉じた。

 

 沈黙を破ったのは可笑しくて堪らないと言ったような、ヨハネスの笑い声だった。

 

「ふっ……はは、そうか、そうかい。化け物同士の傷の舐め合いをするためだけに、君は元の平和な時代を捨ててタイムスリップしたのかい? それは少々、60年前のラブストーリー映画を夢見すぎでは?」

 

 予想外の言葉だったらしい。お手上げだと言わんばかりにヨハネスは肩を竦めた。愉快そうに笑ってはいるが、その笑みには不思議と嘲笑の色は滲んでいない。

 

 ヨハネスの言葉を受け止め、ゆっくりと咀嚼する。感情に任せて勢いのまま言葉を放ちそうになるのを抑え、ミツハは努めて冷静な口調で問答を続けた。

 

「……化け物化け物ってよく言いますけど、私は私ですよ。……確かに私は普通じゃないです。それに、ソーマさんも。『普通じゃない』ことが『化け物』の定義になるんなら、私もソーマさんも化け物なんだと思います。だけど、私は私ですし、ソーマさんはソーマさんです。化け物が化け物を好きになったとか、傷の舐め合いだとか、そういうんじゃなくて――私が、ソーマさんという人を……好きに、なったんです」

 

 淡々と、独白のように静かに語る。だが言葉には確かな力強さがあった。穏やかな口調とは反対に拳を強く握り、ミツハは真っ直ぐヨハネスを見据えて語る。噛み合う視線を逸らすことなく、笑い飛ばすこともせず、ヨハネスはただ黙ってミツハの言葉を聞いていた。

 

「化け物だって、ひとりの生き物ですよ。笑ったり、悲しんだりします。誰かを好きになったりします。あなたの都合の良いように、物みたいに扱われて良いような存在じゃありません。私も、ソーマさんも」

 

――そして、シオも。

 

 ヨハネスが探し続ける特異点の少女を思い浮かべながら、ミツハはそう宣言した。

 

 タイムスリップした意味を。特異点として生まれた意味を。身勝手に決める男へ向けて断言する。

 

 男は、やはり黙って聞いていた。

 

 しばしの沈黙の後、ヨハネスは組んでいた手を解く。そして机の上に落とされたカードを手に取った。薄っぺらいカードを再びミツハに向け、諭すような口調で言葉を紡ぐ。

 

「……私はやはり、君に方舟に乗ってほしいと思っているよ。――純粋にね」

「……それは、どうしてですか?」

「簡単さ。君に生きていてほしいからだよ」

「それは……私のためだけを思って言ってませんよね?」

 

 ミツハの鋭い切り込みに、ヨハネスは押し黙る。だが、そのとおりだと言わんばかりに口元を緩めた。

 

 脳裏に、あの日のヨハネスの顔が浮かんだ。

 

 『その化け物が例え、血を分けた己の息子だろうとね』

 

 そう告げたヨハネスは確かに嗤っていた。――自分自身を。

 

「……あなたはソーマさんのことを、どう思っているんですか」

 

 疑問は零れ落ちるように声になった。

 ミツハに問いに、ヨハネスは一笑した。

 

「あれは私の愚息だ。……この答えでは不満かね?」

「…………いえ、十分です」

 

 子に死んでほしい親など、居るはずがない。少なくともミツハはそう思う。

 そしてそれは――この親子にも当て嵌まるのだ。

 

「――時に、ミツハ君」

 

 ヨハネスが椅子から立ち上がる。思わず後退ったミツハだが、ヨハネスはミツハではなく壁に掛けてある額縁へ向かっていた。

 

「君はアルコールは飲めるクチかね?」

 

 唐突に。あまりに唐突にそんなことを聞かれ、それまで表情を崩さぬよう努めていたミツハは豆鉄砲でも喰ったような顔をした。

 

「……えっ、あの、私まだ未成年ですので飲んだことないです……」

「律儀だね。だがもう19になるんだろう。極東でなければ成人した年齢ではないか」

「酔わせる気ですか!?」

「そんなつもりはないよ」

 

 くつくつと笑いながら、ヨハネスは額縁に手を掛けた。

 

 嵐の海に浮かぶ一枚の舟板の絵だ。それを取り外すと、裏側の壁に埋め込まれるようにして50センチ四方の四角い扉があった。

 

「なんですか、それは……」

「ワインセラーだよ」

「わ、ワインなんて飲めないですよっ」

「なに、ただのジュースも置いてある」

 

 ヨハネスは扉を開け、緑色のボトルを一本手に取った。

 

「ワインを発酵させる前の、ただの葡萄の絞り汁だよ。6年前から寝かせていたものだ」

 

 そう語るヨハネスの声色は、初めて耳にするものだった。穏やかで、なにかを懐かしんでいるようにも思える。

 

 ちらりとセラーの中を覗いてみると、今しがたヨハネスが手に取ったものと合わせて12本のワインボトルが並んでいた。銘柄などミツハにはわかるはずもないが、物資に乏しいこの時代でワインなどという嗜好品は極めて貴重な代物には違いないだろう。

 

「……ソーマさんが葡萄ジュース好きなのって、支部長譲りなんですね」

 

 思わずそう呟いた。ソーマとヨハネスの共通点に、やはりこの二人は親子なのだと思わざるを得なかった。

 

 そう、何気なく呟いた言葉だった。

 その何気ない言葉に、ヨハネスはぴくりと反応した。

 

「……ソーマは今も葡萄ジュースが好きなのかね」

「えっ、はい。そうですけど……」

 

 何気なく呟いた言葉が質問として返ってきた。裏の無い、純粋な問いとして。

 

「ふっ……余程気に入っていたらしいな」

 

 ミツハが頷けば、ヨハネスは噛み殺したように小さく笑ってボトルを眺めた。

 

 その横顔は、驚くほどに穏やかだ。――ソーマの姿と重なった。

 

「すまない、やはりコルクを抜くにはまだ早いようだ」

 

 ボトルをセラーに戻し、額縁を掛け直す。普段のような冷たい笑みではない。くつろいだ笑みを浮かべながら、ヨハネスはミツハと、扉の向こうに居るソーマを見た。

 

「……いつかあれと分けて飲むと良い。ああ、そうだ。君の方が1年早く酒が飲めるだろう。あれはおそらく私に似て酒に強いだろうからな。飲めるように酒を嗜んでおきたまえ」

 

 呆気に取られ、ミツハは言葉が出なかった。

 

 あまりにも――父親の顔をしていたから。

 

――見たことある。

 

 娘の未来を楽しそうに語る親の顔をミツハはよく知っていた。よく見ていた。

 

 ヨハネスは、そんな表情を浮かべていた。

 

「……そんな先のこと、アーク計画が起きたら叶わないじゃないですか」

「だから方舟があるのだろう。君も、ソーマも。席は用意してあるのだ。……考え直してくれる気にはなったかね」

 

 ヨハネスはもう一度、カードを差し出す。

 ミツハはやはり、首を横に振った。

 

「……残念だよ」

 

 途端、ヨハネスは顔を引き締め普段の底の知れない表情に戻った。空気が変わる。ミツハも顔が強張り、いつの間にか緩めていた拳を握った。

 

「これ以上は平行線のようだね。話は以上だ」

 

 険しい声色で、退室を促される。それに従っても良かったのだが――ミツハはまだその場に留まった。

 

「あの……最後に質問、いいですか」

「……何かね」

「あなたは私のことを、どう思ってるんですか。……あんなことをして殺そうとしたくせに、こんなことを話してくれたりして……」

「前にも言っただろう。私は君に……期待しているんだよ」

「…………」

 

 いつか聞いたような言葉。

 

 だが、その期待は特異点としての意味だけではなかった。

 

 男の話を聞いた今、違う意味も含まれていた。

 

「化け物同士、仲が良いのだろう?」

 

 

 

   ◇

 

 

 

 重厚な扉を開け、廊下に出る。扉を出てすぐの所にはソーマが立っていた。

 

 その姿を見て、ミツハは糸が切れたかのようにその場にへたり込んだ。

 

「なっ、おい、何かあったのか!」

 

 ソーマは慌ててミツハに駆け寄り顔を覗き込む。焦った表情のソーマに、ミツハは気の抜けた緩い表情を浮かべた。

 

「終わったーって気が抜けたら……力も抜けて……あはは」

「……とにかく、何も無かったか」

「危ない目にあったりとかは、全然。大丈夫です」

「そうか」

 

 ソーマはそう一言告げ、ミツハに手を差し出す。ミツハは擽ったそうに笑みを浮かべ、その手を取って立ち上がった。

 

「なんの話をしたんだ」

 

 エレベーターに向かいながら、ソーマが切り出す。ミツハはぎくりと一瞬表情が固まった。

 

「……方舟に乗るか乗らないかっていう話と、その……色々と」

 

 ソーマ本人にミツハの口からしていいような話ではないような気がして、有耶無耶に答える。釈然としてなさそうな顔をしていたソーマだが、「そうか」と深く追及せずに食い下がった。

 

 廊下を並んで歩きながら、ミツハはソーマの顔を盗み見る。ヨハネスとあんな話をしたばかりだからか、やはりソーマの横顔はあの男と重なって見えた。

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