Kuschel   作:小日向

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104 大切なもの

 閉じた扉を、観察者と特異点は見つめていた。

 

「ハカセ、ミツハおこらせた! いけないんだぞー」

 

 滅多に見せないミツハの怒りに、シオがサカキを咎める。サカキはレンズの奥で薄く笑いながら肩を竦めた。

 

「ソーマを怒らせた、と前に言ったことがあったね。ほら、初めてデートした時さ。その時、シオはどうして悲しかったのかい?」

 

 サカキの質問に、シオは琥珀色の瞳をぱちくりと瞬きさせる。うーんと少し頭を悩ませた後、シオははっきりとした口調で言った。

 

「だって、ソーマ、くるしいカオをしてた。さっきのミツハも、ソーマも! くるしいカオは、みたくないぞ。みんながカナシイと、シオもカナシイ」

 

 

「だってシオ、みんなのことが――すきだからな」

 

 

 

   ◇

 

 

 

 空に浮かぶのはほとんど丸い月と、満天の星。

 

 風は冷たい。頬を撫ぜる風が、昂ぶった激情を冷静にしてくれる。

 

 息を吐く。流石にもう、吐息は形になって見えはしない。

 

「ソーマさん」

 

 名前を呼ぶ。握ったままの手を解き、振り返って男と向き合った。

 

「……なんて顔、してるんですか」

 

 困ったようにミツハが言う。ソーマはばつが悪そうに目を伏せた。フードに隠れ、目元がよく見えなくなってしまった。

 

「あんなの、博士の意地悪ですよ。ほら、博士ってああいう嫌な質問、よくしてきますし」

 

 重苦しい空気を打ち飛ばそうとするように、明るい声色でミツハは話す。小さくミツハが笑いかけるたびに、ソーマは苦しむように強く拳を握った。

 

「だから、その、気にしなくていいんですよ」

「……揺らいだんだ」

「え?」

 

 ずっと押し黙っていたソーマが、重々しく口を開く。ぽつりと呟かれた声は、冷たい風に吹き飛ばされてしまいそうなほどに弱々しい。

 

 そして、懺悔でもするかのように言葉を続けた。

 

「お前の偏食因子を使えば、シオの特異点としての覚醒を止められるかもしれないと博士から聞かされた時――そういう手段もあったのかと、一瞬……揺らいだ」

 

 悪い――ソーマの口から謝罪の言葉が落ちる。

 

 怯んだようにミツハは言葉に詰まったが、すぐに穏やかに息を吐いた。

 

 別段、予想外ということでもない。そう思ってしまって仕方がないことだと、ミツハだってわかっていた。

 

「それは……ちょっとくらい揺らいで、当たり前だと思いますけど」

「…………」

 

 ミツハの言葉に、なおもソーマは目を伏せて沈黙を続ける。ミツハは再び困ったような表情を浮かべ、口を噤んだ。下手に空気を和まそうとはしなかった。夜の屋上に沈黙が落ち、風の音だけ響く。

 

 しばらくの間静寂が星空を支配していたが、先に耐えかねたのはソーマのほうだった。

 

「……どちらが大切か、か」

 

 サカキの言葉を繰り返すソーマ。まるで独り言ちるような静かな口調で、静寂を破る。

 

「俺は、……シオのことが大切だ」

「……はい。知ってますよ」

「あいつには笑っていてほしいし……失いたくない」

 

 『死神』と彼を呼ぶ者が聞いたら信じられないような穏やかで優しい声色で、ソーマは静かにそう宣言した。

 

 それが、サカキの問いに対するソーマの答え――では、ない。

 言葉には続きがあった。

 

 伏せていた目を、ミツハに向ける。月明かりに蒼い瞳が照らされていた。

 

「だが――それは、お前も同じだ」

 

 そう、真っ直ぐに告げる。穏やかな声色とは裏腹に、蒼い瞳は酷く苦しそうだ。

 

 ソーマのその答えは、サカキの二者択一の答えにはそぐわない。どちらが大切か――サカキの問いに、ソーマはついぞ答えられなかった。

 

 そんなソーマに、ミツハは――場違いな笑みを零した。

 

「私たちって、自分の言葉に言い負かされてますよね」

 

 ミツハの瞳には星空ではなく、いつかの黄昏の空を映していた。まるで慈しむように微笑みながら、ミツハは一歩、ソーマに歩み寄った。

 

「そんなの、選ぶ必要なんて無いんです。『どっちも大切』ってことで、いいじゃないですか。……ソーマさんが、言ったんですよ」

 

 どちらが大切か。何が一番大切なのか。

 

 決められないのは――ミツハも同じなのだ。

 

「……いいのか、それで」

 

 ソーマが問う。いいんです。ミツハは頷いた。

 

「いいんですよ。そんなの、決められなくって当然だと思います」

 

 ミツハもまた、真っ直ぐにソーマを見つめた。視線がかち合う。迷い子のような蒼い瞳に、夜空と、ミツハが映る。

 

「選べないって、なにも悪いことばかりじゃないと思うんです。そう思いたいです。だって、それだけ――失くしたくない大切なものが、たくさんあるって証じゃないですか。ソーマさんはそれだけ、大切なものが周りにあるんです。それって凄く、幸せなことだと思うんです」

 

 静かな屋上に、小さく息を呑む音が聞こえた。蒼い瞳が、わずかに揺れる。震える手に手を伸ばし、ミツハは優しくその手を取った。

 

 弾かれたりなどはしない。肌寒い満天の星空の下で、手の温もりを感じた。重なった手に一度視線を落とし、顔を上げる。

 

 蒼い瞳に映る少女は悲しげに微笑みながら、まるで自分にも言い聞かせるように、まるでそうであってほしいと願うように。

 

 声を微かに震わせながら、けれど力強く語る。

 

「どっちが大切かなんて、わからないなら無理に決めなくていいんです。数字で計れるようなものじゃないし、機械でもないんですから、割り切れなくて当然です。……私だって、いつまで経っても決められませんし、いつか決められるようになるとは思えません。だって、元の世界もことも、みんなもことも――大好きなんですから」

 

 そう言って、やわらかく笑った。あの日のように心の底からの本音ではあるが、あの日のような悲痛な叫びではない。

 

 相反する本音同士は、どちらかを切り捨てることはせずミツハの胸の内にずっとある。

 

 あの日、この屋上で。ソーマの言葉を聞いてから、ずっと――

 

「だから、いいんです」

 

 そして今、この星が瞬く屋上で。あの日のソーマのように、ミツハは言葉を紡ぐ。

 穏やかで、少し寂しげで、泣き出してしまいそうで。

 それでも、確かに優しく微笑みながら。

 

「いいんですよ、ソーマさん。わかんなくて。決められないから悩んで、迷っていくのが……きっと、――人間なんだと、思います」

 

 理屈で割り切れない思いがある。天秤では計り切れない感情がある。失いたくない大切なものが、増えていく。

 

 そのたびに悩みながら。迷いながら。後悔しながら。

 

 それでも前に進んでいくのが、人を人たらしめるのではないのだろうか。決して化け物では成し得ない、人間『らしさ』なのでは、ないのだろうか――

 

「――――」

 

 まるで衝動のように。重なっていた手を強く握られ、手を引かれる。

 

 そして、強く、少し痛いくらいに。噛みしめるように、確かめるように、抱き締められた。

 

「そ、ソーマさんっ!?」

 

 力強い抱擁に動揺するミツハだが、耳に響くソーマの心臓の音を聞き、驚きで固まっていた腕を優しく背中に回した。

 

 心臓の音は驚くほどに速い。けれど、心地良い。

 

「……俺は、」

 

 肩口に声が落とされる。

 

「お前の言うとおり……どちらも大切だ。どちらかを切り捨てることは――したくない」

 

 理屈の檻に閉じ込めていた感情を解き放つ。ぼろぼろと溢れ出した本音に、ミツハは静かに頷きながら耳を傾けた。

 

「だが、同じじゃないとは思っている。シオもお前も、共に居ると……心が安らぐ。ただ、お前はたまに心臓に悪い。……今だってそうだ。だが……それが、心地良い」

 

――それって、

 

 告げられた言葉に、今度はミツハの心臓がどきりと跳ねる。口を衝いて出そうになる言葉を、すんでのところで呑み込んだ。

 

 沈黙するミツハに、ソーマはたどたどしい言葉を続ける。

 

「はっきりとは、わからねえ。大切なもんの意味に悩むなんて、初めてだからな。……だが、わかりたいと、思う」

 

 言葉が落とされる度に、ミツハは涙が滲むのを必死で耐えた。

 

 ソーマのその言葉は、その感情は――確かな一歩だった。 

 

「……じゃあ、待ってます」

 

 ソーマの言葉を聞いて――ミツハはやはり、やわらかく微笑んだ。

 

「だから、焦らないで、知っていってください。私、いつまでも待てますからっ。だから、……そうやって、ゆっくり進みながら……答えを見つけていきましょうよ」

 

 知ってください――自分がどれだけ愛されているか。

 

 見つけてください――愛が、どんなものなのか。

 

 ソーマ・シックザールという『化け物』は愛を知らない。

 

 ――そんな化け物が、一歩踏み出す。

 

 無縁の話などではない。『俺なんか』などではない。ずっと、気づかなかっただけだ。知らなかっただけだ。ただ一歩、踏み出さなかっただけなのだ。

 

 ゆっくりと。悩みながら、迷いながら――

 

 ソーマ・シックザールという『人間』は、これから愛を知っていくのだ。

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