Kuschel   作:小日向

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107 奇跡

 ――どうするのが、最善だったのだろう。

 

 大鎌の神機を握りながら、

 異形と化したヨハネスを見ながら、

 動かないシオを見ながら、

 実父に刃を突き立てるソーマを見ながら、

 穏やかな父親の顔をしたヨハネスを思い浮かべながら、

 そんなことを、ふと思う。

 

 思ってはみるが、何かが思いつくわけでもない。

 

 井上ミツハという少女は、本当に『ただタイムスリップしただけ』なのだ。

 

 この世界に多大な影響を与えるわけでもない。人類の未来を救えるわけでもない。シオを救えるわけでもない。ヨハネスを、ソーマを、和解させる道へ導けるわけでもなかった。この戦いの勝敗が揺らぐわけでも、特に無い。

 

 井上ミツハがタイムスリップしたことに大きな意味なんて、本当になかったのだ。

 

 

 

   ◇

 

 

 

「首なんか、どこにもねぇじゃねえか……クソ親父」

 

 地に落ちたアルダノーヴァを見下ろしながら、ソーマがぽつりと呟いた。肩で息をしながら、フードを目深に被り直す。ソーマは一度目元を擦り、ノヴァを見上げた。

 

 粛清の女神を倒してもなお、ノヴァが止まることはなかった。

 

「畜生、あのデカブツ……止まらないよ!」

 

 コウタが叫んだとおり、ノヴァの髪のような触手は際限なく伸び続け、エイジス中枢部の眼下に広がる装甲都市を飲み込んで進んでいく。このまま装甲壁を乗り越え、海を渡り、地球そのものを飲み込むのも時間の問題だろう。

 

 ノヴァを動かした張本人であるヨハネスを倒しても、解決策は何も浮かばない。女神はなおも場に似合わない穏やかな顔を浮かべながら輝いていた。

 

「……そうだ、博士なら……! 博士なら、何か止める方法を知ってるんじゃ……!」

「不可能です」

 

 振り返ったミツハに、物陰から姿を現したサカキが断言する。その顔つきはとても険しい。そんな、と絶句する一同にサカキは言葉を続ける。

 

「残念だが、溢れ出した泉は……ノヴァが止まることは……ない。アラガミの行き着く先、星の再生……。やはりこのシステムに抗うことはできないようだ」

 

 サカキは捕喰されゆく楽園を見下ろしながら静かに語る。無情な現実を突きつけるサカキに、ソーマは激昂した。

 

「ふざけるな! そんなこと……認めねぇぞ!」

『……そう。それでいいのだ。ソーマ……』

 

 己を打ち破った息子の声に反応したかのように、地に落ちたアルダノーヴァの男神像からヨハネスの声が響いた。その声は今にも途切れそうな、絞り出したような弱々しい声で、息子の名を呼ぶ。

 

 銀狼の姿では、ヨハネスが今どんな顔をしているのかわからない。それでも、ソーマと呼んだ棘のない声色にミツハは胸が苦しくなった。

 

 銀狼の目がミツハに向けられた――そんな気がした。ヨハネスは声を絞り上げる。

 

『お前たちは早く……方舟に……』

「支部長……あなた、もう……!」

 

 今にも息絶えそうな声に、ヨハネスを憎むサクヤでさえ声を震わせた。ヨハネスは一笑する。

 

『余計な心配は無用だ……。元よりあの舟に私の席は……無い』

「なんですって……!」

『世界にこれだけの犠牲を強いた私だ。次の世界を見る資格など無い……。後はお前たちの仕事だ……ふふ、適任だろう……?』

 

 ヨハネスが笑うと、第一部隊は苦い顔をした。

 

 この男は、確かに――人類のことを、この星のことを憂う者だった。自分が生き延びるために動いていたのではない。人類を生かすために、息子を生かすために、()()()利用したのだ。

 

 救おうとする人類を、息子を、そして、自分自身すらも利用して――。

 

 黒幕はヨハネスである。だが――決して、悪ではなかった。

 

「親父……」

 

 ソーマが小さく呟く。その声色に憎しみは伴っていなかった。

 

 ヨハネスは息子の言葉を聞き届け、ふっと笑みを漏らす。

 

 きっと、穏やかな顔をしている。

 きっと――父親の顔をしている。

 

『アイーシャ……今、そちらへ行くよ……』

 

 その言葉を最期に、アルダノーヴァは糸が切れた人形のように動かなくなった。

 

 それが、その男の最期であった。

 

「……アイーシャ、すまない」

 

 事切れたヨハネスを一瞥し、サカキは悲しい顔でノヴァを見上げる。

 

「私たちは結局、こんな争いの先にしか答えを探せなかった。私たちは、君に償えたと言えるのだろうか……」

 

 ノヴァに問いかける。当然、答えは無い。ノヴァは依然として侵喰を続け、揺れはますます強くなるばかりだ。

 

 ミツハとアリサはついぞ立っていられなくなり、その場に座り込んだ。震える肩を寄せ合い、ノヴァを見上げる。誰もが曇った表情を浮かべ、見つからない解決策に拳を強く握る。ノヴァの胎動は強さを増し、誰もが覚悟を決めていた。

 

――ここまで、なのかな。

 

 死んでしまうことはどうでもよかった。本来ならミツハはとっくに死んでしまっているか、奇跡的に生きていたとしても方舟のチケットを手にできずに終末捕喰と共に死ぬ老婆だ。ここで仲間と共に果てるのならば、それでも構わなかった。

 

――でも。

 

 抗うように、唇を噛む。

 

 あのノヴァは、シオの命を取り込んでいる。

 

 シオの存在がこの星を喰い滅ぼし、みんなを殺してしまうのは見たくはなかった。

 

――だって、シオは……。

 

 

『――ありがとね』

 

 

 その時、声が響いた。

 

 その声は――紛れもない、シオの声だ。

 

 

 

   ◇

 

 

 

「え……?」

 

 先ほどまで続いていた揺れが嘘のように、ぴたりと止まった。ノヴァが放っていたオラクルのオレンジ色の光は消え、青白い光が宿る。

 

『みんな、ありがと』

 

 横たわったシオへ目を向ける。シオの身体は鉄の床と一体化するように黒ずみ、青い紋様が光っていた。そしてその小さな身体は、ノヴァの額から伸びる一本の触手と繋がっている。それはまるで、船と港を繋ぐロープのようだった。

 

 声はシオの身体からではなく、ノヴァから響いていた。ノヴァを見上げる。穏やかな顔をした女神から、シオの声がする。

 

 いつもの、少したどたどしくて、ソプラノの明るい声が。

 

「まさか……ノヴァの特異点となっても、人の意識が……残っているなんて……」

 

 サカキが震える声で呟く。「奇跡だ」そうもサカキは呟いた。奇跡を前に、ミツハたちは呆然とノヴァを見上げる。

 

 星を喰らう女神は、その触手の進路を変えた。

 

 そしてノヴァ自身が――ゆっくりと、空へ上昇していく。

 

「シオ……お前……?」

 

 ソーマがシオへ問いかける。えへへ、とシオは小さく笑った。

 

 エイジスを覆う鉄骨の隙間から、夜空が見える。星の輝きが綺麗だ。その星にも負けないくらい、一際輝いているものがあった。

 

 夜空にぽっかりと浮かぶ、白い円。

 

『おそらの、むこう。あの、まあるいの』

 

 ――今宵は、満月であった。

 

『あっちのほうが、おもちみたいで、おいしそうだから』

「……まさか……ノヴァごと、月へ……持っていくつもりか!」

 

 いつものシオらしい、食い意地に張った言葉であった。だが、その言葉の真意を察したサカキが驚愕の声をあげ、第一部隊全員に衝撃が走る。

 

――月に?

 

 サカキが何を言っているのか、一瞬理解ができなかった。ゆっくりと理解する時間さえもくれなかった。

 

 ノヴァの上昇は進む。シオの身体とノヴァを繋ぐロープは、緩みをどんどん無くしていく。

 

「シオ! あいつまだ生きてるんだろ!? ……サカキ!」

「私にもわからん! ただ……そんなことが……!」

 

 泣きそうになりながらコウタが叫ぶ。この場に居る全員が、奇跡を理解できずにいた。そして同時に、強く理解していた。

 

 シオは救う気なのだ。人類を。この世界を。

 

 ――その身を捧げて。

 

『シオね、わかるよ。……いまなら、わかるよ。ほんとのにんげんのかたち』

 

 この場の誰よりも落ち着いた声で、シオは言葉を紡ぐ。

 

『たべることも。だれかのために、いきることも。だれかのために、しぬことも。だれかを、ゆるすことも』

 

 たどたどしく。けれど、しっかりと言葉を紡ぐ。最初の頃は簡単な言葉しか喋れなかったというのに、今のシオはこんなにも上手に自分の思いを言葉で伝えている。

 

 嬉しいのに、悲しい。視界がどんどんぼやけていく。

 

『それが、どんなかたちをしてても……みんな、だれかとつながってる』

 

 そう告げるシオの声は、愛に満ちていた。嬉しさと、寂しさと、愛しさに満ちた、優しい声。胸が痛いほどに締め付けられる。

 

 みんな、違う生き物だ。同じ存在なんてひとりとしていない。

 だからこそ、みんな同じだ。繋がっているのだ。独りでは、ないのだから。

 

 きっと誰よりも――シオがそれを理解していた。シオが、それを教えてくれたのだ。

 

『シオも、みんなといたいから……だから、きょうはさよならするね。だって、シオ……みんなのかたち、すきだから。……えらい?』

「全然っ、偉くなんか……ないわよ……!」

 

 泣き崩れるアリサが、涙声を震わせた。その声色にシオは困ったように小さく笑う。

 

『へへへ。そっか、……ごめんなさい。さよならするけど、おもいで、いっぱいあるから』

 

 思い出。

 その単語に、ミツハは唇を震わせた。たくさん撮った写真たちが、頭の中を駆け巡る。 

 

『おそらのむこうで、きらきら、かがやくから。……だから、しゃしん、いっぱいとってほしいな。……えへへ。おもいで、だな』

 

 シオは擽ったいように笑った。

 シオに撮られた、くだらない押し問答をしていたソーマとの写真。

 チーズと言って口を尖らせたまま写った、シオの写真。

 廃寺で撮った、三人の写真。

 

 もっとたくさん撮れると思っていた。色んな写真が増えていくのだと思っていた。思い出が増え、写真を見返しながら笑う日がいつか来ると、思っていたのに。

 

「うん……撮るよ、いっぱい撮る。シオのこと、綺麗に撮るよ! でも、それを……シオにも見てほしいよ……!」

 

 涙で視界がぼやけ、ノヴァの女神像が真っ白な少女に見えた。ぼろぼろと溢れ出す涙を拭うこともせず、シオをひたすらに見つめて、願う。

 

『……みてるよ。おそらの、うえから。……えへへ』

 

 シオは笑う。悲しさを滲ませて、儚く笑う。

 

 ――また、涙が溢れ出た。

 

『もう……いかなきゃ』

 

 そして、とうとうタイムリミットが来てしまった。

 

『だから、おきにいりだったけど……そこの『おわかれしたがらない』じぶんの『かたち』を……たべて』

 

 浮かび上がるノヴァを地上に留めているのは、シオの身体に繋がる一本の触手だ。まるでシオの身体が碇のように、ノヴァを繋ぎ留めている。もはやただのオラクル細胞の塊でしかない小さな身体で、目一杯足掻いているようだった。

 

 ――みんなとまだ一緒に居たい。

 

 そう願う、シオの想い。

 

『……ソーマ』

 

 ずっと俯いている男の名をシオが呼ぶ。

 

『おいしくなかったら、ごめん』

「……ひとりで、勝手に決めやがって」

 

 絞り出したような声は、ひどく震えていた。今にも泣き出しそうな声で、けれどいつものようにぶっきらぼうな口調でソーマは呟き、ノヴァを見上げた。

 

『だけど、おねがい。はなれてても、いっしょだから』

 

 シオの言葉を聞き、ソーマは神機を強く握った。柄を握るその右手は、震えている。

 

「ソーマ」

 

 ユウがソーマの名を呼ぶ。目に涙を溜めながら、ソーマを見て力強く頷いた。それを見届け、ソーマは歩き出す。シオの亡骸のもとへ。

 

 全てが、スローモーションに見えた。

 

 ソーマの歩みも。捕喰形態へ変形する神機も。シオの身体に喰らいつく、その瞬間も。

 

 

 ――ありがと、みんな。

 

 

 そんな、声が響いた。――お礼を言うのはこっちのほうだと、誰もが思った。

 

 空を見上げる。ノヴァは額の光が伝播するように、その全身の色を白く変えていった。

 

 想いの鎖が断ち切られたノヴァが、月へ向かって飛び立っていく。地上に張り付いた触手を引き剥がすように道連れにして、月へと昇っていく。ノヴァは上昇しながら姿形を変え、まるで百合の花のように咲き誇った。

 

 小さくなっていくノヴァを見届け、ミツハは大鎌の柄を支えにして立ち上がる。目に溜まった涙を手の甲で拭う。辺りには雪のように、オラクル細胞の光の粒が降り注いだ。

 

 その光に包まれるように――ソーマの持つ神機は、まるで天使の羽のように、真っ白な色に変わっていた。汚れのない、純白の色。シオの色だった。

 

 ソーマはフードを脱ぎ、月を見上げる。そして降り注ぐ光の粒のひと欠片を右手で掴んだ。

 

 同じようにミツハも月を見上げる。満月は、まるで地球のように青い色をしていた。

 

「ソーマさん」

 

 左手に漆黒の大鎌の神機を持ちながら、ソーマのもとへ歩み寄る。呼びかけた声は涙で掠れていて、酷い声をしていた。

 

 滲み出そうになる涙を必死に押し留め、ミツハは小さく笑う。少しでも、彼の心が癒えるように願いながら。

 

「……帰りましょ?」

 

 一歩。また一歩とソーマに歩み寄り、右手を差し伸べる。未だ、指先は震えていた。

 

「帰って……シオの写真、いっぱい撮りたいです。シオの写真だけじゃなくって、色んな写真を撮りたいです。いつか、シオに見せる時のために、たくさん」

 

 そう言って笑いかける。震える手に、ソーマの右手が重なった。

 

「ああ。……俺も、付き合う」

 

 ソーマはミツハの手を引き、歩き出す。最後にもう一度青い月を見上げ、別れを告げて歩き出した。

 

 奇跡が繋いだ明日を、迎えるために。

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