Kuschel   作:小日向

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047 井上三葉

 眩暈がした。

 

 ぐらぐらと視覚は眩み、寒気がしたが身体の内側は不思議と燃えるように熱かった。閃光弾の光に当たったかのように視界は真白に染まり、晴れた。

 

 色を帯びていく視界に、ソーマの背中はない。

 

 その代わりに見覚えのある、けれど懐かしい景色がミツハの目に焼き付いた。

 

「え……」

 

 呆然とするミツハを軽自動車が追い越した。横浜ナンバーの車が排気ガスを出しながら遠ざかっていく。

 

 ――また、いつもの夢でも見ているのかと思った。

 

 辺りを見渡せば、ミツハが恋焦がれて仕方がなかった『日常』が広がっていた。

 

 アスファルトで舗装された片側二車線の広い道路。県道13号の岡野交差点から左折してきた車が忙しなく行き交っている。

 

 その両脇にはズラリと建ち並ぶ雑居ビル群。予備校が入ったビルの1階にはコンビニエンスストアが入店しており、学生が多く出入りしている。ビルには窓や壁面に多種多様な看板が主張し、賑やかに街を彩っていた。

 

 歩道には街路樹が植えられているが、葉は全て枯れて枝が剥き出しになっていた。タイル舗装された道を人が歩き、立ち止まるミツハを追い抜いていく。

 

 人々のざわめきや足音。車の騒音。横断歩道の信号機のメロディ。

 

 雑然とした、街の喧騒。

 

 そこは、荒廃してアラガミが蔓延る贖罪の街ではない。

 

 横浜駅へ続く、岡野交差点付近――神奈川県横浜市西区の南幸2丁目だった。

 

 何度も瞬きをして目を擦り、確かめるように世界を見る。何度見ても、視界いっぱいに広がるのは見慣れた横浜の街並みだ。

 

 邪魔にならぬよう道の脇に移動し、ウエストポーチからスマホを取り出す。プリティヴィ・マータの攻撃のせいでボロボロだったが、特製のスマホポーチは無事だった。

 

 いつの間にか落ちていた電源を入れ直し、真っ黒な画面に白いリンゴマークが浮かび上がる。しばらくすると、ロック画面が表示された。

 

 通信状況は3Gのアンテナ三本。充電は89パーセント。時刻は15時32分。日付は1月11日の火曜日。ロックを解除し、カレンダーのアプリを開く。

 

 覚えのある予定が記入された1月のカレンダー。今日の日付である1月11日が目立つように太枠で囲ってあり、『始業式』の予定が書かれている。

 

 表示されていたのは紛れもなく、2011年のカレンダーだった。

 

 2011年 1月11日

 

 それは、ミツハがタイムスリップをした日だった。

 

――私、戻ってきたんだ!

――帰ってこれたんだ……!

 

 変わらない日付と時刻に、今までの出来事は白昼夢だったのかと一瞬だけ思った。だが髪は短く、着ている服も制服ではない。ボロボロのウエストポーチはアラガミと交戦していた証だ。

 

 ミツハは確かに、60年後の世界にタイムスリップしていたのだ。

 

 そして、帰ってきた。

 

 じわじわと目頭が熱くなる。両手を広げて大声で喜びたい気分だったが、ここは人が居ない贖罪の街ではなく、人で賑わう横浜の街だ。踊り出しそうな感情をぐっと堪え、顔を上げる。

 

 早く家に帰って家族に会いたかった。もう2ヶ月近く親の顔を見ていない。友人とも話がしたい。地元の町を歩きたい。家に、帰りたい。

 

 そう思ってミツハは駅に続く道を歩こうとしたのだが――その足がピタリと止まる。

 

――どうやって帰ろう。

 

 定期が無い。お金が無い。財布はあるが、中身はfc(フェンリルクレジット)というフェンリルでのみ利用できる通貨であり、日本円ではない。

 

 今居る西区の南幸からミツハが住む旭区の東希望が丘は、直線距離で約9キロ離れている。道に沿って歩けば11キロほどだろうか。ともかく、徒歩で帰るとなると2時間半以上かかってしまう。

 

 しばらく悩み、ミツハは岡野公園へ足を運んだ。野球場やプールもある広い公園だ。すぐ近くにはミツハが通う高校があり、学校帰りによく友達と立ち寄っていた。ベンチに座ってコンビニで買ったホットスナックを食べたり、ブランコに揺られながらダラダラ話をしたり。春と秋には花壇にバラが咲くので写真を撮ったりもしていた。

 

 冬の公園は彩りが無く物悲しいが、そんなものは関係無いと言わんばかりに鼻先を赤くした小学生たちが遊具で遊んではしゃいでいる。楽しそうな声を聞きながら、ミツハは公園のベンチに腰掛けた。

 

 2011年1月11日は、冬休み明けの始業式だった。学校が始まったといっても、高校3年生で大学への合格も既に決まっていたミツハは午前中で下校し、午後はスナップ写真を撮るためにカメラを持って横浜を散策していた。日が傾き始めた15時半頃に帰宅しようと横浜駅に向かって歩いていた――

 

 ――はずなのだが、今のミツハは制服を着ていなければ通学鞄もカメラも持っていない。髪も短くなっている。どう説明すればいいのだろうか。

 

 頭を悩ませているうちに16時を過ぎた。母親のパートが終わる時間だ。ミツハは苦し紛れの言い訳を用意して、スマホの画面に母親の電話番号を表示させる。

 

「…………」

 

 数十秒ほどその画面をじっと見つめ、ミツハは意を決して発信ボタンを押した。

 

 その指は、少しばかり震えていた。

 

 携帯の画面を耳に当て、コール音を聞く。プルルルル、と冷たい電子音が掻き立てるようにミツハの鼓動を早くさせる。

 

 そして、コール音が二周目の途中でプツリと途切れた。

 

『――もしもし、三葉? どうしたのよ』

 

 鼓膜に響いた母の声に、思わず――涙が零れ落ちた。

 

「……おかあ、さん……うっ、うぅ~……お母さん~……!!」

『は!? ちょっと三葉、なんで泣いてるの!? 何があったの!?』

 

 電話の向こうで慌てふためく母の声に、安堵と懐かしさでぐずぐずになってしまう。

 

 1月11日の朝食はなんだっただろう。食堂の不味いレーションなんかではない、母のどんな手料理を食べて、家を出たのだろうか。そんなことを何故か思った。

 

 安堵の涙は止まらずに、塩甘い涙がとめどなく頬を伝う。何があったのかと心配する母に、三葉は必死で言葉を紡いだ。

 

「……か、鞄なくして帰れない……」

 

 

 

   ◇

 

 

 

 自由登校期間になり、卒業まで残りわずか。浮き足立って、少し早いが新生活に向けて学校帰りの横浜の街で髪を切った。気分転換はそれだけで止まらず、ショッピングモールで新しい服を買って袖を通したはいいが、制服や財布が入った鞄をショッピングモールのどこかで置き忘れてしまい、それ以降見つからない。

 

『あんた馬鹿じゃないの……サービスカウンターには言ったの?』

「う、うん、一応……。見つかったら連絡するって……」

 

 そんな苦し紛れの言い訳を泣きながら説明する。母は小言をひとしきり言った後、「迎えに行くから待っていなさい」と電話を切った。

 

 遊んでいた子供たちも帰宅し、公園は静かとなった。寒空の下で20分ほど待っていると涙も止まったが、見覚えのある車から出てきた母の姿を見て、三葉はまた泣き出してしまった。

 

 子供のように泣いて母に抱きつく三葉に怒る気も失せたのか、母は溜息を吐いて呆れながら「帰るわよ」と三葉を車に乗せた。

 

 ダッシュボードに置かれた小さな熊のぬいぐるみは、三葉が子供の頃に持っていたものだ。もう要らないからと捨てようとしたが、母がもったいないと言ってダッシュボードに飾ったのは何年前のことだっただろうか。

 

 国道16号に入り、八王子街道を西に車が進む。助手席の窓から流れる景色はビル群が途切れることはない。どこまでも続く舗装された道路にはたくさんの車が行き交い、人が歩いている。当たり前の景色だ。三葉がなんの変哲もない景色に目を奪われていると、運転する母が呆れた声を出した。

 

「何やってんのよ、もー。まぁ事件とか事故に遭ったとかじゃなくて安心したわ。いきなり泣くから何事かと思ったじゃない」

「うん……ごめんなさい……」

 

 鼻を啜りながら謝る。親の前で大泣きしたのはいつ以来だっただろうか。恥ずかしがる三葉に対して母は苦笑した。

 

「まぁ、もう自由登校だし制服は予備の一着だけで十分でしょ。それより、カメラも無くしたわけ?」

「うっ……それは本当に申し開きもありません……」

「見つからなかったらバイトして新しいの自分で買いなさいよー。半分は大学祝いとして出してあげるから」

「はーい」

 

 ミツハが持っていた一眼レフカメラは高校の入学祝いで買ってもらったものだ。中3の誕生日やクリスマスなどは我慢して買ってもらった高価なプレゼントを60年後の世界に置いてきてしまったのは心苦しかったが、帰ってこれた嬉しさのほうが勝る。

 

「にしても本当にバッサリ切ったのね。いいんじゃない、スッキリして。シャンプーの消費量減りそうでお母さん嬉しいわ〜」

 

 母が使う少し高めのシャンプーを高校生になってから三葉も使うようになったため、減りが早いと小言を言われていた。あのシャンプーはどんな香りをしていただろうか。すっかりフェンリルが支給する共用のシャンプーの匂いに慣れてしまったため、思い出せなかった。

 

 保土ヶ谷(ほどがや)バイパスから県道40号方面の出口辺りで、スマホの通知音が鳴る。

 

 『やっと解放されたー。長すぎ明日サボろうかな』

 

 画面を見ると、友人からLINEが届いていた。受験が既に終わっている三葉は午前で学校が終わったが、センター試験を受ける生徒は学校で最後の追い込みをしている。友人は今から帰るそうだ。

 

 返信をし、三葉は母親に頼んで希望ヶ丘駅で降ろしてもらった。帰りは少し遅くなると告げ、駅の構内に入る。

 

 希望ヶ丘駅は相対式ホームの二面二線でそう大きくはないが、付近には高校や訓練校もあるため利用客は多い。生まれ育った地元の駅だ。高校3年間通った駅でもある。懐かしい空気と改札のチャイムの音に、三葉は帰ってきたことを強く実感する。

 

――夢じゃないんだ。

 

 沁み入るように思いながら、改札の出口で20分ほど待つ。暖房の効いた待合室で待っても良かったが、1秒でも早く顔が見たかった。

 

 スマホの通知音が再び鳴る。通知を確認し、三葉は改札に目を向けた。たくさんの人が改札から流れ出る中、友人の姿を見つけた。

 

 明るい栗色をしたアシンメトリーショートボブの女子高生。三葉とは色違いの青いマフラーを巻いている。背はスラリと高く、はっきりとした顔立ちもあって目立ちやすい。

 

 彼女は三葉に気づくと、短くなった髪に驚きながら手を振ってくれた。

 

「――千夏……!!」

 

 12年来の大好きな友人を前にして、三葉は思わず彼女に――上原(うえはら)千夏(ちなつ)に抱きついた。

 

「ちょ……っと、三葉? どうしたの、何かあった?」

 

 三葉を抱き止める千夏が困惑している。三葉からすれば感極まった再会なのだが、千夏からすれば半日前に学校で別れたばかりだ。零れてしまいそうな涙を我慢し、三葉は努めて明るい表情で顔を上げた。

 

「聞いてよ〜! 鞄なくして制服もカメラもなくなっちゃった! 一眼レフ紛失ヤバくない!?」

「いや何があってそうなったん!?」

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