2011年 1月12日
まだ外が真っ暗な6時に目が覚めた。抱き締めていた柴犬の抱き枕をぼんやりと見つめ、ふわりとアプリコットの香りが髪から漂う。そうだ、こんな香りのシャンプーだったなと思いながらベッドから降りた。
「あんた休みなのになんでこんなに早く起きてんの?」
学校に行く時も今ぐらい早く起きればいいのに、と母に言われて苦笑した。
7時を過ぎると大きな欠伸をしながら父がリビングにやってきた。寝癖と癖毛が合わさって父の髪は鳥の巣のようになっており、母と共に朝食の準備をしながら三葉は笑った。
朝のニュース番組を見ながら朝食を食べ、父は仕事に行く。水曜日の今日は母のパートは休みで、趣味の菓子作りをするようだ。材料の準備をしている母を横目に、三葉は自室に戻って出かける準備をする。
――メイク久々にする〜。
60年後の世界にも化粧品はあるにはあるが、嗜好品すぎて新人にはおいそれと手が出せないのである。薄く化粧をしてクローゼットからお気に入りの服に袖を通し、古い財布にお金を入れる。姿見の前で身だしなみのチェックをして、ダッフルコートを着て家を出た。澄み切った冬の青空の下、歩き慣れた坂道を下る。
「千夏、おはよ〜」
「おはよ」
希望ヶ丘駅のホームで電車を待っていると千夏が来た。横浜行の上り電車に乗り込み、吊り革に掴まりながら他愛もない話をしているうちに横浜駅に着く。待ち合わせの定番である中央通路のコーヒーショップの前で待っていると、三葉は友人二人を見つけた。
「あ、なるちゃん! あーちゃん! こっちこっち〜」
「わ、本当にバッサリ切ってんね、三葉」
「でも三葉ちゃん、短いのも似合うよ〜」
なるちゃんとあーちゃん――成美と彩乃は高校からの友人だ。成美は専門への進学が既に決まって暇をしており、彩乃はセンター試験を目前に控えているのだが――
『息抜きさせて! 一日やんなかったくらいで今更変わんないって! むしろ根詰めすぎて死にそうだったから!』
――というLINEを受け取った。冬休み中に缶詰状態で勉強して発狂しそうだったらしい。
「彩の合格祈願も兼ねて思いっきり遊ぶか〜」
「千夏ちゃんも私と同じセンター組でしょ……」
「ごめん彩、あたし余裕だから……」
「千夏のコレ腹立つわー」
「テスト前にあたしに泣きついてきたくせにー。成美が卒業できんの誰のおかげよ」
「なるちゃん卒業危なかったの本当焦ったよね」
「成美ちゃん卒業危機事件は焦ったっていうか呆れたっていうか」
「終わり良ければ全て良しってことで」
笑い話をしながら再び改札を通る。一駅だけ乗り、隣のみなとみらい駅で降りた。6番出口へ向かい、大きな赤いエスカレーターで地上に上がる。クイーンズスクエアから外に出ると、よこはまコスモワールドの観覧車が見えた。
横浜市のみなとなみらい区にあるよこはまコスモワールドは都市型遊園地だ。入園は無料でアトラクション毎に料金を支払うチケット購入制になっており、横浜のシンボル的存在の大観覧車は週末だと営業時間中に前倒しで受付を終了するほど混雑する。平日である本日は人が少なく、あまり並ばずに遊べそうだった。
ジェットコースターなどの絶叫系アトラクションやお化け屋敷で遊び、スマホのカメラで写真を撮る。どの写真も女子高生たちは楽しそうに笑っていた。
喋りながら観覧車を待ち、透明なシースルーゴンドラに乗り込んだ。座席と床面、壁面が透明になっており、景色を眺めるのにうってつけだ。
「入園無料なのはいいけど、流石にここで一日潰すと破産するわ」
景色を眺めながら成美が苦笑した。フリーパスが無いため、一日遊ぶには不向きな場所だ。
「どうせ散財するなら今度舞浜行く? 彩、行きたがってたじゃん」
「舞浜もいいけど、せっかくなら遠出したいな。私の合否出たら卒業旅行しようよ」
「え〜、したいしたい。でもカメラ間に合うかな〜。早くバイト決めよ……」
「一眼レフ紛失はマジでヤバいって。何やってんの三葉」
話をしているうちにゴンドラは頂上に近づく。川崎や東京のビル群も遠望に見え、栄えた都市部がどこまでも広がっていた。視点を変えると横浜の観光スポットの赤レンガ倉庫やハンマーヘッドが眼下にあり、横浜ベイブリッジが横断する海が一望できる。
――60年後と全然違うな。
エイジス島の防衛任務へ行く際、ヘリでこの辺りを通る。キャビンから見下ろす大地は、崩れた廃墟とどこまでも広がる荒野にアラガミが闊歩していた。橋は途中で途切れ、湾岸には空母が座礁している。面影を残して、程遠い様相に変貌していた。
だが、この観覧車から望むこの景色こそが、本来の景色なのだ。
この観覧車には何度も乗った。写真だって何枚も撮った。同じような写真がスマホのカメラロールに既にあるが、三葉は写真を撮った。すると成美と彩乃が写り込もうと割って入り、千夏がそれに便乗する。三葉は笑いながら文句を言ってインカメラに切り替え、腕を伸ばして四人が写る写真を撮った。
◇
コスモワールドを出て、ワールドポーターズのファーストフード店に入った。チーズバーガーとフライドポテト、バニラシェイクを注文してジャンクフードを存分に食べる。映画の上映時間まで店を見て回り、どれが欲しい何が可愛いなどとあれこれ言い合った後シネコンで映画を観る。ポップコーンは分け合って食べた。
映画を観た後は感想を言いながら近くのカラオケへ入った。ドリンクバーのジュースを飲みながら、デンモクで月間ランキングを眺める。流行りの曲や定番曲が並ぶ中、三葉が登下校の電車の中でよく聴いていたバンドの曲を見つけた。
――ソーマさん、CD聴いたかな。
勝手にしろと言われたので、鎮魂の廃寺での任務に付き合ってくれた礼に、お気に入りのバンドのアルバムをCDに焼いてソーマにプレゼントしたのだ。この曲ももちろん入れてある。気に入った曲はあっただろうか。そう思うが、聞く術はない。
2時間ほど歌った後、帰る前にゲームセンターに寄った。太鼓を叩くリズムゲームを見かけたらついついやりたくなって一回だけプレイし、プリクラを撮って本日はお開きとなった。
「明日はあたし学校行くけど、彩は行く?」
「行くよ〜、明日からまた頑張れる……」
「んじゃセンター組は頑張ってねー」
「センター終わったらまた遊ぼうね〜」
成美と彩乃とは横浜駅で別れ、三葉と千夏は相鉄本線の下り電車に乗る。帰宅ラッシュの時間と被って人が多い。希望ヶ丘駅に着く頃には辺りは薄暗くなり、寒さでポケットに手を入れるとコツンと硬いものに触れた。
――あ。癖で持ってきてた。
フェンリルが支給する無骨な携帯端末が入っていた。この2ヶ月ずっと持ち歩いていたため、支度をする時につい入れてきてしまったようだった。
住宅地に続く道を歩きながら、隣を歩く千夏は空を見上げた。冬の夕方は夜を急かすように一気に暗くなり始める。遠くから聞こえる踏切の音と昼と夜の狭間の空が、三葉を随分とノスタルジックな気持ちにさせた。
「卒業旅行、どこ行こっか」
昼間に彩乃がしていた話を千夏が再度口にする。心踊る予定に三葉は今から楽しくなった。
「早めに決めときたいよね。早割で安くしたいし」
「あたし関西行きたいなー。修学旅行だけじゃ足りなくない?」
「わかるー。もっと写真撮りたかったもん」
「彩はあの感じだと多分USJ行きたいんだろうし、いいんじゃない? 成美はどうせどこでもいいって言う」
「あはは、なるちゃん言いそー」
「じゃあ決まりかな。関西行こ」
約束ね、と白い息を吐きながら千夏は笑った。中学を卒業する前も同じような会話をした。高校の入学祝いで一眼レフカメラを買ってもらえると話した三葉に、千夏は笑って東京旅行をしていっぱい写真撮ろう、と言った。その時に撮った浅草やテーマパークの写真は2071年に置いてきたカメラの中に今もある。
「……うん、約束!」
三葉も笑い返し、頷いた。
「ただいまー」
玄関のドアを開けると、ふわりとアップルパイの匂いが漂った。本日パートが休みの母は、趣味の菓子作りをしていたはずだ。リビングへ顔を覗かせると母親は夕飯の支度をしていたが、甘い香りが残っている。三葉に気づいた母が顔を上げた。
「おかえり、三葉」
「ただいま。ね、アップルパイ作ったの?」
「そうよー。食べる?」
「食べる! あ、でもご飯前だし小さく切って〜」
手を洗ってダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。切り分けられたアップルパイと温かいミルクティーが出され、サクッと音を立ててパイにフォークを刺した。
――そうだ、この味だ。
甘いリンゴに香るバニラとシナモンの匂いが鼻孔を擽る。同じアップルパイでも、カズヤの母が作ってくれたものとはやはり全然違う。あのアップルパイも美味しかったが、やはり母の作るアップルパイは子供の頃から食べ慣れた味なので特別なのだ。
――あのアップルパイはもう食べれないのかな。
『ヒーロー』のために作られたアップルパイ。あの味もまた、特別なものだった。
食器を片付けて2階の自室のドアを開ける。コートをハンガーに掛けた三葉は窓を開けてベランダに出た。
冷えた金属の手すりに手を置き、夜空を眺める。アナグラの屋上で見た空よりも星は少なく物足りなさを覚えるが、そのぶん住宅地の明かりが広がっている。
――今日は、楽しかったな。
横浜の街は人で賑わっていた。物と娯楽が溢れて豊かな街だった。とてもじゃないが、60年後には荒れ果てて化け物が蔓延る街になるとは思えないぐらい、平和な街だった。
楽しく遊ぶことだけが目的の大きな施設。ジャンクフードの濃い味付け。店や商品が飽和しているためウインドウショッピングの時間は足りない。有名な海外小説が原作のファンタジー映画。飲み放題のカラオケに、プリクラで撮った自分の顔は目が大きくてデコられている。
60年後の世界では考えられないほどに、平和で豊かでくだらない世界。
そんな世界が、三葉の世界だ。
――忘れよう。
星の少ない夜空を目に焼き付け、三葉は60年後の満天の星を塗り潰す。
忘れよう。忘れなければ。あのアラガミの蔓延る殺伐とした世界を。
ソーマたちのことが嫌いになったわけではない。防壁は破られていないだろうか、カノンたちは元気にしているだろうか、ソーマは自分を責めてはいないだろうか。心配に思うことはいくつもある。会いたいとも思う。
だが、その気持ちと同じくらい、どうしても思ってしまうのだ。
――戻りたくない。
両親や友人の顔を見るたびに。賑わう横浜の街を見るたびに。地元の道を歩くたびに。三葉が18年生まれ育った町を見るたびに、そう思ってしまう。本来のこの世界で生きたいと思ってしまうのは、いけないことだろうか。
冷えるベランダから町並みをじっと見つめる。ずっと帰りたいと焦がれたこの町に、この世界に三葉は念願叶って帰って来れた。ならば、あの世界のことは忘れるべきだ。何故ならこの世界にいる井上三葉は、
だから、忘れようと思った。60年後のあの世界を。
ただの女子高生には関係の無い、未来の出来事なのだから。
だがそう思えば思うほどに、ソーマの顔が目に浮かぶ。
自身を出来損ないの化け物だと言って自嘲した彼。三葉をとんだ物好きだと言って物柔らかな表情をした彼。年相応の顔をして笑った彼を、もっと見たいと思った。
三葉は瞼を閉じ、星空に背を向ける。そんな三葉をなじるかのように、じくりと右足の傷痕が痛んだ。