昼食は食堂で食べる気が起きず、味がマシなシリアルバーで済ませた。新人区画のミツハに割り当てられた部屋で食べていると、携帯にサカキからメールが届く。偏食因子のことで話があるらしく、研究室に来てほしいとのことだった。
正直、気が重かった。文面を見て携帯をソファに放り投げる。不貞寝しようとベッドで横になったが、偏食因子のことが気になって目は冴えていた。
無為な時間を過ごし、重たい足取りで研究室へ向かう。ロックを解除して中に入ると、サカキだけでなく支部長のヨハネスの姿もあった。会釈をするとニコリと微笑まれる。
「新型神機はどうだったかい?」
「あ、えっと、特に問題も無く接続できました」
「そうか、それなら何よりだ」
「ミツハ君の偏食因子なら新型にもすぐ馴染むだろうね」
それは喜んでいいことなのだろうか――なんて捻くれたことを思いながらソファに腰掛ける。
「それじゃあ、早速本題に移ろうか」
ギッ、と軋んだ音を鳴らしてサカキは赤い椅子から立ち上がった。その手には一つのカプセル剤があり、コップに入った水と一緒にミツハの前に置く。
「再現性の検証をお願いできないかと思ってね。昨日、あの後ソーマを呼んで採血させてもらったんだ」
「……採血? じゃあ、このカプセルの中身って……」
「ソーマの血液……P73偏食因子が含有された、君が元の世界に帰れる手掛かりだ」
その言葉に思わず生唾を呑む。目に見えて動揺するミツハに対し、サカキは目を細めた。
「この検証はあくまでもお願いだ。強制はしない。カプセルを飲むかどうかは、ミツハ君に任せるよ」
「――飲みます」
返事に迷いは無かった。「そうかい」とサカキは頷き、オラクル活性などの数値をを計測するためかミツハの腕輪にコードを取り付ける。
――私、帰れるのかな。
逸る心臓を押さえつけながら、ミツハはカプセル剤を手に取った。
P15偏食因子がP73偏食因子を拒絶して捕喰し合えば、ミツハの体内から偏食因子は消える。そうすれば、矛盾が無くなりミツハは元の世界へ、60年前の世界に帰れるのだ。
サカキとヨハネスが真剣な面持ちで見つめる中、躊躇うことなくミツハはカプセル剤を飲み込んだ。
「…………?」
しかし、あの時のような眩暈は起こらなかった。喉が焼けるような感覚もしない。いつまで経っても訪れない変化にミツハは首を傾げた。
「博士、数値はどうなっている?」
「いやぁ……これは驚いた」
モニターを見ながらサカキが舌を巻く。ヨハネスが立ち上がってモニターを覗き込めば、その目をわずかに見開いて笑った。
「これは……いや、それもそうか。彼女の偏食因子は以前と性質が変化しているのだったな、こうなって当然といえば当然か」
「えっ、あの、どうなったんですか、私……?」
ヨハネスの言葉に嫌な予感がした。震える指先を抑えるように拳を握りながら問えば、サカキは眼鏡のブリッジを上げ、レンズの奥の目を光らせる。その目にどきりとした。
嫌な、予感がした。
「ミツハ君の持つP15偏食因子は、オラクル細胞の『変異・進化』という作用を強く持っていることはこれまでに何度も説明したよね。環境に適応できるよう変異することもできるんだ。確かに一度、P15偏食因子はP73偏食因子と拒絶反応を起こして捕喰し合った。けど、新たに生成された偏食因子は性質が変わっていたんだ」
サカキらしい回りくどい言い方をしていた。こちらに考えさせる余地を与えながら、徐々に核心に近づいていく。
「学習して、変異したんだ。P73偏食因子を拒絶した結果、一時的に消失してしまった。なら拒絶してしまうのは良くないと、勉強熱心なP15偏食因子はP73偏食因子に『適応』したんだ」
「……それって、つまり、拒絶反応が起きないって、ことですか」
「そのとおり。それどころか、P73の影響を受けて、オラクル活性値が通常より高い数値を示している。実に興味深い偏食因子だよ」
初めてヴァリアントサイズを手にした日を思い出した。あの時もそうだった。初めはヴァリアントサイズとの適合率が低く、違和感が身体を走り抜けてとてもじゃないが扱えなかった。
しかし、ミツハの偏食因子はヴァリアントサイズに適応しようと、変異した。結果として、ミツハは極東初のヴァリアントサイズ使いとなった。勉強熱心な偏食因子によって。
それと同じことが起きたのだ。ミツハのP15偏食因子は、拒絶反応を起こして捕喰し合ったP73偏食因子にすら馴染もうと変化し、受け入れた。
呆然と俯くミツハを他所に、ヨハネスが思案するように顎に手を置いた。
「ペイラー。別の偏食因子……例えばP53偏食因子では拒絶反応は起きるのか?」
ヨハネスのその言葉にミツハは弾かれるように顔を上げる。ヨハネスの言うとおりだ。P73偏食因子が駄目だとしても、他の偏食因子ならば可能性があるかもしれない。ミツハは縋るようにサカキを見た。
「どうだろうね。試してみないとわからないが、複数の偏食因子の投与は危険性が極めて高い。私は賛成できないかな」
「あのっ、私は大丈夫です。試させてください!」
「……本人が言うなら、仕方ないか。なら右の部屋で待機しておいてくれ」
右奥の扉を開けると、真っ白な集中治療室のような部屋だった。ベッドに腰掛けて待っていると、サカキの手によって昨日着けたばかりの腕輪が外される。代わりに別の腕輪が装着させられるが、まったく同じ見た目をしている。
「この腕輪、何か違いがあるんですか?」
「これが本来の腕輪だ。神機使いは定期的にこの腕輪を通してP53偏食因子が静脈注射される。……今から君にP53偏食因子を投与するよ。おそらく大丈夫だろうけど、万が一もある。私たちは隣の部屋で数値を観測しておくから、この砂時計が落ち切っても何も無かったら戻っておいで」
そう説明したサカキは砂時計を置いて小部屋から出ていく。小部屋に一人残され、しばらくしてミツハの右手首にチクリと小さな痛みが走った。
右腕から広がる違和感が身体を突き抜け、身体が熱くなる。血が逆流しているような、身体の内側が逆立っている感覚に眩暈が起きるが――視界がぐらついたのは一瞬だった。
だんだんと熱は引いていき、痛みも違和感も無くなった。
サラサラと流れる砂が落ち切り、嫌な汗が滲んだ。
「…………いやいやいやいやいや」
――何も無い?
――嘘でしょ。
『何も無かったら戻っておいで』とサカキから言われていたが、何も無いことをミツハは認めたくなかった。往生際が悪くしばらく待っていると、扉が開いた。
「あ……」
「やぁ。気分が悪いとかは無いかい?」
「だい、じょうぶです、けど……あの、投与、したんですよね?」
「ああ、したよ。数値を観測していたけれど、一度大きく数値が下がった後、正常値に戻った。拒絶反応は起きなかったよ。どうやらP15偏食因子が受け入れるように変異した対象は、P73偏食因子だけじゃないみたいだね。この感じだと外的因子全てと見ていいかもしれない」
ミツハの腕輪を元の物に付け替えながらサカキが話しているが、話している内容が上手く頭に入ってこない。いや、理解はしている。だけど、受け入れたくない。
「……厳しいことを言うけれど、聞いてほしい」
サカキの言葉に、耳を塞ぎたくなった。
「偏食因子を失くす術が――矛盾を取り除く術が、無くなってしまった。オラクル細胞を消滅させる方法は発見されていないんだ。相互捕喰という唯一の手掛かりが消えてしまった以上、もう打つ手が無い」
「…………」
「元の世界に帰ることは諦めたほうがいい。奇跡でも起こらない限り、不可能だ」
世界が途端に色褪せていく感覚がした。
唇を噛み締めてベッドから立ち上がり、サカキの顔を見ずに小部屋から飛び出し、支部長のヨハネスにも目もくれず研究室を後にした。
ミツハはずるずると廊下の壁に凭れ掛かりながら崩れ落ちた。指先が震え、目頭が熱くなる。上手く息ができない。最悪だ、と呪った。この偏食因子も、この世界も、なにもかもが。
「――大丈夫かね?」
低い声にびくりとして振り返る。ヨハネスがミツハを見下ろしていた。相変わらず端正な顔立ちをしているが感情はよく見えず、少し怖く思えた。
「あ……えっと、すみません、大丈夫です」
「そうか……君の心情は察するよ。気の毒だが、どうか受け入れてほしい。平和な世界で育った君からすればこの世界は苦痛でしかないと思うが、我々も全力でサポートをしよう」
「えっ、いや、そんなことはないです……! ただ、ちょっと混乱してるだけで……苦痛だなんて、そんな」
慌てて否定するミツハをヨハネスは小さく笑った。「そうか」とヨハネスは目を細め、へたり込んだミツハに向けて手を差し出す。
「君の偏食因子は可能性に満ちている。君がタイムスリップをした理由には、もしかすると大きな意味があるのかもしれない」
「意味、ですか?」
「そう。例えば人類の未来のため、とかね」
ヨハネスの手を借りて立ち上がる。彼はうっすらと微笑んで、底の知れない瞳でミツハを見据えた。
「P73偏食因子すら受け入れようとする君の偏食因子には、目を見張るものがある。極東三人目の新型神機使いとしても、君には期待しているよ」
「……ご期待に添えるよう、頑張ります」
ヨハネスの美辞麗句に笑い顔を作って頷いた。人類の未来だなんて大それたこと、ただの女子高生には荷が重すぎる。
――私はただ、帰りたいだけなのに。
けれど帰る方法なんて無い。この世界で生きていくしかない。
――大丈夫。
――だいじょうぶ。
断髪の夜に、この世界で生きる覚悟は持ったはずだ。だが、今となってはその覚悟はどこにも見当たらず、ミツハは誤魔化すように大丈夫だと自分に言い聞かせた。