3月9日
うっすらと辺りが明るくなり始める早朝の空気。お気に入りの抱き枕を手放し、大きく伸びをする。ひんやりとした廊下に出て階段を下り、ダイニングに足を運べば焼き魚の香ばしい匂いが漂う。「おはよう」と笑う料理中の母と新聞を広げる父の姿。
そんな、何の変哲もない日常の、夢を見た。
「…………」
貼り付いた重い瞼を開く。時間を確認するとまだ朝日は遠く、午前2時半過ぎを示していた。
――なんで途中で目が覚めちゃうかな。
朝まで目を覚ますことなく、ずっと夢を見ていたかった。
なんの音もしない暗闇。窓も無いため月明かりも何も無い。
ミツハは深い溜息を吐いて布団の中に潜り込む。毛布に丸まって目を閉じるが、すぐには寝付けずに思考に覆い尽くされてしまう。
もう元の世界には戻れないのだから、諦めて忘れたほうがいいとわかっている。手の届きようのない過去の世界に焦がれ続けるのは、不毛でしかないのだから。
アナグラの食事の味と元の世界のご飯の味を比べてしまう。
贖罪の街を見るたびに横浜の街を思い出してしまう。
他愛ない話をするにも、この時代では不自然な話題ではないかと気にしてしまう。
だから忘れたほうがいい。未練がましく元の世界を忘れられずに、この世界に馴染めずに居て周囲に迷惑や心配をかけてしまうのは嫌だった。
だが、そうは思っていても、どうしても追い縋ってしまう。ミツハは真っ暗な毛布の中で、スマホを操作して音楽を流した。つい数日前、カラオケで歌った曲だった。
曲を聴きながら先日撮ったばかりの写真を見返す。人で賑わう横浜市街地。観覧車から見た景色。ジャンクフードに映画のパンフレット。楽しそうに笑う大好きな友達。
――でももう、みんな居ないんだ。
――みんな、死んじゃったんだ。
◇
結局熟睡できないまま朝日は昇り、欠伸を噛み殺しながら出撃ゲートを通る。本日の任務は贖罪の街でヴァジュラとシユウの討伐で、アサインされているのは新型三人とソーマだった。
装甲車が停めてある区画へ向かえば、そこにはアリサとソーマの姿があった。
「あれ、ユウはまだ来てないんだ?」
「そうなんです、珍しいですよね」
普段集合時刻の5分前にはやってくるユウが遅れるというのは珍しいことだった。寝坊したのかな、と神機が収納されたケースを装甲車に詰め込みながら思うと、アリサがミツハの顔を覗き込む。近づいた距離にどきりとて思わず後退った。
「ミツハ、少し隈ができていますよ。ちゃんと眠れていないんですか?」
「嘘、隈できてる? 昨日夜更かししちゃったんだよね」
「何かしてたんですか?」
「えーと、バレットエディット? だっけ。それについて色々調べてたら、いつのまにか夜中になっちゃってて」
「ブラストはオラクルが貯められる分バレットの幅が広がりそうですもんね」
「モジュールとか色々あってビックリしたよ〜」
「今度、サクヤさんやジーナさんからバレットエディットについて色々教えてもらうのもいいかもしれませんね」
「勉強会? いいね、それ」
「だから夜はちゃんと寝てくださいね!」
「はーい」
お姉さんみたいだね、とアリサに笑いかければ、彼女は「当然です」と胸を張って得意気に笑う。そんな会話をしているとユウが慌ててやって来た。
「遅いですよ、ユウ」
「ごめん、ちょっと寝坊しちゃった」
「もう。ミツハといいユウといい、しっかりしてくださいよ?」
やはり姉のように振る舞うアリサだが、その姿はちょっと背伸びをして頼りないと思っている兄にお説教をする妹のようにしか見えない。微笑ましいやり取りだった。そう思うけれど、どうしてだろう。一歩引いて見てしまう。
なんとなく、この感覚には覚えがあった。タイムスリップしたことが夢だと思っていた時。この世界を現実だと思えなかった時も、似たような感覚だった。
流石にもう夢だとは思っていない。だが、この世界を生きていかなきゃいけない現実を認めたくないのかもしれない。
「さぁ行きますよ」とユウと共に装甲車に乗り込むアリサに続き、ミツハとソーマも装甲車に乗る。「おはようございます」とようやくソーマに挨拶をすれば、一瞥だけされてそっぽ向かれた。
◇
ヴァジュラという少々苦手意識のある大型アラガミの討伐任務だったが、「お前はシユウの相手をしてろ」とソーマに言いつけられヴァジュラと相対することなく本日の任務は終わってしまった。ほっとしたような拍子抜けしたような微妙な気持ちになりながら帰投準備に移る。
準備をしながら、ミツハは空を見上げた。贖罪の街と呼ばれているこのエリアは、かつての横浜駅中心の市街地だった。ミツハの本来生きる時代から40年ほど後にアラガミによって食い散らかされている。40年の間に新たに建てられたビルなどがあり、完全にミツハの知る横浜と同じ景観をしているわけではないが、確かに横浜市街地の面影がそこにある。かつての横浜を染め上げる夕焼けは見覚えのあるもので、悲しいくらいに綺麗だった。
「あ、ソーマ。ちょっと話があるんだけど、いい?」
「……わかった」
「ありがとう。それじゃ、二人ともお疲れさま」
「うん、お疲れさま~」
「お疲れさまです!」
アナグラへ帰投するなりユウがソーマを連れ出した。その姿を横目にミツハは神機が収納されたケースをヒバリに預け、エレベーターに向かう。途中、人気の少ないところでソーマとユウが話をしているのを見かけた。目を逸らして、上階用のエレベーター前で待つ。
少し待つと、隣の下層用エレベーターの前にケースを持ったままのアリサがやって来た。訓練か整備のどちらかだろうか。
「ミツハ、お疲れさまです」
「お疲れさま〜」
「どこか行くんですか?」
「屋上行こっかなって」
「今日天気良いですもんね。この時間なら夕日が綺麗でしょうね」
「ね〜、それ目当て」
「……そうだ! 出撃前に話してたバレットの勉強会、いつします?」
「サクヤさんたちの予定が合う日を聞いてみなきゃだね。私はジーナさんに聞いとくよ」
「あ、そうですよね。じゃあ私はサクヤさんに聞いてみますね」
「うん、よろしくね〜」
どこか上滑りした会話をしているとエレベーターが到着し、手を振ってアリサと別れた。何か言いたげなアリサから目を逸らし、鉄の箱に閉じこもる。
屋上に着きエレベーターのドアが開くと、ぶわっと強風が入り込んで髪を靡かせ、夕焼けがミツハを照らした。アナグラへ帰投しながら見た空はオレンジの夕焼けだったが、今は既に夜が混じって薄紫色の空とピンク色の雲が幻想的に外部居住区に影を落としている。
そんな空に一粒、淡く光る一番星を見つけた。ひとつだけぽつんと浮いた星は、どこか可哀想に見えた。
誰も居ない屋上を歩き、柵に肘をついてミツハは景色を眺める。鮮やかな夕焼けは大きな遮蔽物も無く、その空の広さが痛いほどにわかる。高層ビルやマンションの障害物が無いぶん、綺麗だが味気無く感じてしまう。ミツハはビルやマンションが空に染まって一体となる景色が好きだった。ビルの壁面に反射して移る空も好きだった。
諦めたほうがいいと、忘れたほうがいいと理解しているのに、無意識に壊れて無くなった過去に思い縋ってしまう。ポーチからスマホを取り出してカメラロールを遡ると、60年前の世界が映し出される。今日の夕焼けと同じような空もあったが、画面に映る夕焼け空には電線や高層ビル群が漆黒の影となって空の面積を少なくするぶん、空の色を一層映えさせていた。
「……帰りたい」
ぽつりと呟いてしまえば、滑り落ちるようにして涙が零れた。頬をゆっくりと伝ってコンクリートの地面に落ち、小さな丸い染みを作った。それは数を増やしていき、まるでその場だけ雨が降り出したかのように濡らしていく。
この世界で生きる覚悟は持ったはずだった。
だがその覚悟はあの日、無機質なコール音の末に聞いた母の温かな声を聞いて、ぐずぐずになって消えてしまった。母親と電話が繋がったあの瞬間、ミツハは2071年に生きる神機使いから、2011年に生きるただの女子高生に戻ったのだ。
ただの女子高生が、こんな世界でどうやって生きていけばいいのだろうか。どうしてこんな世界で生きなくちゃいけないのだろうか。家族も友人も、クラスメイトも、すれ違った名前も知らない通行人すら生きていない。『井上三葉』と同じ世界で生きた人はみんな死んでしまったこんな世界で、自分だけが生きている。
きっと一度も元の世界に帰ることが無かったら、こんな葛藤も生まれなかっただろう。記憶が薄れていくのを待つだけだった。
だがミツハは知ってしまった。触れてしまった。実感してしまったのだ。ありふれた平凡な日常が、どれほどまでに幸せなことかを。大切な家族や友人が居る。生まれ育った町があり、帰る家がある。これまで歩んできた過去も、これから歩むはずの未来も、なんだってあの世界にはあった。ミツハの本来の人生がそこにあったのだ。それら全てが無くなったこんな世界で、帰る希望も無く生きることは苦痛でしかなかった。
だが、こんな世界で生きる人たちは大切だった。
同期のユウとコウタも、打ち解けてくれたアリサも、防衛班のみんなも、外部居住区に住むカズヤたちも、そして何より、ソーマも。
この世界にも、おかえりと迎えてくれる人が居る。ミツハの無事に泣いて喜ぶ人が居るのだ。そんな人たちのことがどうでもいいわけじゃない。ミツハにとって、大切なものだった。
でも、どうしても思ってしまう。
帰りたい。
こんな世界で、生きたくない。
――どっちを選べばいいんだろう。
――どっちのほうが、大切なんだろう。
矛盾する想いに雁字搦めになり、息ができなくなる。世界から消え入るように、隠れるようにして嗚咽を噛み殺し、ひとりで泣いた。
夕焼けは一瞬にして夜に隠れてしまう。ピンク掛かった薄紫が濃い紫に呑み込まれると、ガコンと物音が静かな屋上に響き渡った。
「――――ッ!?」
ミツハは我に返って辺りを見渡してみる。しかし誰かが居るわけでも無く、冷たい風が吹き抜けるだけだった。3月になり春が近づいてきたとはいえ、夕方になると気温が下がり寒さが増してぶるりと震える。袖口で乱雑に涙を拭い、黄昏時の空に背を向けた。
エレベーターに向かう途中で、ミルクティーのペットボトルが落ちていた。先ほどの物音はペットボトルの音だったのだろう。まだ未開封のミルクティーを拾い上げるが名前など書かれてあるはずもなく、扱いに困って邪魔にならないところに立てておいた。
――そういえば、お茶会とか勉強会とかどうしよう。
ミルクティーを見て、アリサがロシアから持ってきた茶葉のことを思い出した。アリサとはバレットの勉強会もしようという話だったが、新型のアリサと近づけば感応現象が起きるかもしれないと危惧してしまう。
――結局、私は自分のことしか考えてないや。
隠し続けているのが苦しい。でも知られるのも怖い。その場しのぎで誤魔化して、向き合うことから逃げ続けている。
狭いエレベーターの箱の中で、ランプが下の階層に移動していくのをぼうっと眺めた。