「……誰にも言わないほうがいい?」
「うん……お願い」
誰にも聞かれぬようにと小さく耳打ちをするその声を、化け物じみた出来の良い耳は拾ってしまった。
3月4日
数日ぶりに見たミツハの姿は大きな怪我をしている様子も無く、見慣れないダッフルコートに袖を通してへたり込んでいた。早く行けとソーマの背中を押すアリサを追い払い、ぼうっとするミツハに声をかける。一瞬目が合い、それは逸らされた。
「……おい、早くしろ」
「あっ、すみません! ……あの、重かったらごめんなさい」
おずおずといった様子でソーマの背に体重を預ける。ミツハは一度も顔を上げず、ソーマの肩に顔を埋めたままもう一度謝罪を口にした。「すみません」と声にしたそれは震えていた。
普段と様子の違うミツハに違和感を抱いた。あの日どうして消えたのか、この2日間はどうしていたのか。聞きたいことは山ほどあったが、結局それは聞けずじまいだった。ヘリで移動している間もミツハは顔を上げようとはせず、にただ窓から荒れた大地を見下ろすばかりだ。一度もこちらを見ようとはしない。どこか憔悴したようにも見えるミツハに問い質すことなどできなかったのだ。
ヘリはアナグラに着き、ミツハがツバキに連れられ研究室へ向かったその数時間後、ソーマはサカキから呼び出された。
ミツハとの話が終わるまで待つように言われ、エレベーター前のベンチで座っていると二人の人影がサカキの研究室から出てきた。その顔を見て、ソーマは思わず顔を顰める。
「…………」
「ああ、もう入っても構わん」
メディカルチェックを終えたミツハと、支部長であり父のヨハネスが並んで歩いていた。下手に口を開いてミツハの手前でヨハネスと口論にはなりたくなかったため、舌打ちを落として腰を上げる。190センチに近いヨハネスの隣ではミツハはより一層小さく見え、俯いて頑なにソーマの顔を見ようとはしなかった。
――ああ。
――何か聞いたのか。
じろりとヨハネスを睨めば、父はうっすらと口元を緩めた。目元は笑っていない、虫唾が走るいつもの笑い方だ。
一体己の過去をどこまで知ったのか気にはなったが、言葉を呑み込んで二人の前から去る。研究室の扉を開けば、サカキが黒いソファに座って書類を神妙な面持ちで眺めていた。
「ああ……呼び出したのに待たせて悪かったね」
「……ミツハに何か言ったのか」
「メディカルチェックの説明の際にP73偏食因子のことを少しね。事故のことについては何も言っちゃいないさ」
「説明だと……? あいつと俺の偏食因子になんの関係があるってんだ」
ソーマの問いにサカキはニコリと目を細めて笑った。「ちょっとね」とあからさまにはぐらかしたサカキに苛立つが、狐はソーマの睨みに気にした素振りも見せずに飄々とした笑みを張り付けたままだ。
「……チッ、用っていうのはなんだよ」
「採血をお願いしたくてね」
「はぁ? なんで血なんか……」
数年前ならば研究目的で散々採血させられていたのだが、最近はめっきりそういったことも無くなっていた。何故今更――とソーマは疑問に思ったが、少し考えればすぐに思い当たる節が見つかった。
ソーマの血液には当然ながらP73偏食因子が含有されている。ミツハが姿を消したあの日、彼女はソーマの血を浴びていた。ミツハが突然煙のように姿を晦ましたのは、その直後だった。そして今しがた、サカキはミツハのメディカルチェックの説明をする際にP73偏食因子のことを話したと言った。点と点が結びつくのは必然だった。
「俺の血が……P73偏食因子が、あいつが居なくなったことと関係あるのかよ」
「……やっぱりソーマは賢い子だね」
「答えろ。そしたら採血させてやる」
「ああ、説明するよ。ソーマには知る権利がある」
張り付けた笑みを浮かべたまま、サカキは手元の書類に目を落とす。その書類はミツハのメディカルチェックの結果が記されているものだった。53でも73でもない――見慣れないP15の数字が印字されていた。
「ミツハ君の体内にある偏食因子は一般の神機使いに投与されているP53偏食因子ではなく、P15偏食因子なんだ。……あの日、ソーマがミツハ君を庇った際に、彼女はソーマの血を飲んだんだ。P15偏食因子は血液中の微量のP73偏食因子に影響を受け、拒絶反応を起こして捕喰し合い、一時的に彼女の体内から偏食因子が消えてしまったんだ」
「――――」
「このP15偏食因子はオラクル細胞の『変異・進化』という特徴が顕著な偏食因子でね。腕輪の制御無しに偏食因子が直接神機に適応しているんだ。だから腕輪が壊れていたことは問題じゃない。偏食因子が消失したことで、神機の制御が効かなくなって捕喰されかけたんだ。行方不明の原因もこれに関連している、とだけ言っておこう」
そういう類のものだと、以前サカキは言った。
ソーマを出産するアイーシャの身体にP73偏食因子を投与し、子宮を介して胎児であったソーマにP73偏食因子を受け継がせた。その結果、暴発捕喰事故を引き起こしヨハネスと赤子だったソーマを除いた全ての人間をアラガミ化したアイーシャが喰い殺した――そんな、口にするのも憚られる『秘密』。
それと同じ類のものだと、サカキは言った。
偏食因子の数字が違うということは、それほどまでに大きな意味を持っていた。実用的な偏食因子ができれば話は別だが、現状は扱いが容易で安全なP53偏食因子以外のものは人体への投与が禁止されている。ソーマという特例を除いて偏食因子が53でないというのは、あり得ないことなのだ。
「――なんで、それがミツハの身体にあるんだよ。P15は投与が禁止されてるはずだろうが」
そう、あり得ないのだ。特にP15偏食因子はオラクル細胞特有の突然変異という性質が顕著に表れており、危険性が高い代物だ。ラットでの投与実験でも成功した例が無いはずだ。その偏食因子が、何故。
ソーマの問いにサカキは目を細め、首を振った。
「悪いけど、それを話すことはできないよ。言っただろう、そういう類のものだと」
「ハッ……あいつも俺と同じで、腹ン中に居た頃に投与されたってのかよ」
「そう思っていてもいい。今の話で君がミツハ君をどう捉えるかはソーマの自由だ。そもそも気になるようであれば直接ミツハ君に聞けばいい」
「……とんだ狸野郎だな」
「酷い言いようだ。私はただの、観察者だよ」
『スターゲイザー』――星の観察者。森羅万象を冷然と観察するその姿勢を周囲が揶揄したものだ。――何が観察者だ、とソーマは顔を顰める。そんなソーマにサカキは苦笑し、ソファから腰を上げた。
「さて、約束だ。採血に協力してもらうよ」
「……チッ」
立ち上がって準備を始めたサカキから目を逸らし、ぞんざいにソファに座る。気になるなら聞けばいいと言ってのけたサカキの言葉が頭の中で反芻した。
――聞いてみりゃいいだけの話か。
明日の朝、食堂で顔を合わせるミツハに聞けばいい。ただそれだけの簡単な話だった。
しかしその翌朝――正面の空席は埋まることはなかった。
◇
3月8日
空席は埋まらぬまま数日が経ち、ミツハが旧型から新型に神機を更新したことを周囲の神機使いたちが話しているのを聞いて知った。それと一緒に耳に入ってくる話を耳が拾うと、腹の底に重たいものが落ちる。
「ミツハもやっと目が覚めたらしいな」
「死神と関わって死ななかっただけ豪運だろ」
「また接触禁忌種が出たんだろ? リンドウさんの件と言い、やっぱり死神がアラガミを引き寄せてんじゃないのか?」
「かもな――おい、死神だ。聞こえちまうぞ」
――そんな会話が、ヒソヒソと背中に投げかけられる。じろりと睨めば、話をしていた神機使いたちはそそくさと散っていった。
ミツハが戻ってきた日、研究室前の廊下ですれ違ってから顔を見ていない。顔を合わせようとしなかったときから気づくべきだった。ミツハに異変が起きた原因はソーマにあるのだ。己を脅かす化け物に近づこうとはしないだろう。
――そう、化け物だ。
何をさも当たり前のように、ミツハが自分の隣に来ると思ったのだろうか。「おはようございます」といつものように笑って空席を埋めることを期待していた。いつの間にか、ミツハが居ることが普通になっていた。
ミツハが隣に居るときは、ソーマは自分が化け物であることをすっかり忘れていた。常に人の輪の中に居てその多くに好かれていたミツハが、当たり前のようにソーマにも接する。他の『普通の人間』と変わらないように、ソーマも輪の中の一部でもあるかのように接するから、まるで自分も『普通の人間』であるように錯覚していたのだ。
そりゃあ居心地が良いはずだ。そう気づいたソーマは、自分自身の愚かさに笑いが出た。
数日ぶりにミツハと顔を合わせたのはヘリの中だった。新型神機に適合したことにより突然第一部隊へ異動となったミツハを見やれば、彼女はニコリと笑ってみせた。
「改めて、よろしくお願いします! 足手纏いにならないように頑張りますね」
その声色はいつもどおりのものだった。その笑い顔はいつもどおりのものだった。
――なんだ、コイツ。
だからこそ違和感が拭えなかった。まるで何事も無かったかのように笑うその顔に、ソーマは何か得体の知れないものを見ている錯覚に陥る。ミツハが髪を切る前の、地に足がついていなかった頃の彼女に抱いていた感覚に似ている。前々から戦場が場違いだとは感じていたが、その感覚が増していた。
「……身体はもういいのか」
偏食因子のことを聞くのではなかったのかと、核心に触れなかった自分に呆れた。
「大丈夫です! ご心配おかけしてすみません〜」
「…………」
ソーマの言葉に、ミツハはなんでもないように笑った。その顔はいつかの食堂でのことを思い出させた。
やはり感じるのは,違和感だった。窓の外を見つめるミツハは,それ以上何も喋ろうとはしなかった。
ボルグ・カムランの討伐任務は問題無く終え、アナグラへ帰投する。自販機の前で配給品のについて会話するミツハたちの横を通り過ぎ、エレベーターを待っていると会話から抜け出したミツハが隣にやって来た。
「お疲れさまです!」
「……ああ」
会話はそれきりだった。下層用エレベーターのランプが地上に近づいてくるまでの数分間、沈黙が落ちた。ソーマは沈黙は苦ではなかった。特にミツハとの間に落ちる沈黙は心地が良いものだったが、今は違った。妙な違和感が居心地を悪くしている。
エレベーターに乗り込むと、ミツハは新人区画のフロアボタンを押した。
「……リッカのところに行くんじゃなかったのかよ」
「え」
先ほどのアリサとの会話から神機整備場へ行くのかと思ったが、ミツハは違う階層を押した。指摘すると、べこっ、とペットボトルが凹む音が静かな箱の中に響いた。動揺しているのが目に見えてわかる。
「…………あ、はは。聞こえてたんですね」
誤魔化すように苦笑したミツハは、その声色に疚しさを滲ませていた。わざわざ嘘を吐いてアリサの誘いを断ったというのは、あまりにミツハらしくなかった。
「……何かあったのか。それとも、あの野郎に何か言われたか」
「あの野郎とはどの野郎です?」
「支部長だ」
「支部長を野郎呼びって、ソーマさん大胆不敵すぎません?」
「話を逸らすな」
この問いはある種、賭けだった。
ヨハネスはおそらくミツハの偏食因子のことを知っている、それどころか、ソーマが聞かされていない『秘密』すら知っているだろう。ミツハを第二部隊から第一部隊へ突然異動させたことも単純に『新型だから』というわけでもないはずだ。きっとなにか、裏がある。ソーマはそう睨んでいた。
ヨハネスに何を言われたのか、何を聞かされたのか、その小さな身にひた隠しにしているものがなんなのか。吐露して、その取って付けた笑みを崩せばいいと思った。ひとりで背追い込まずに、頼ればいいと願った。ミツハがソーマにそうしたように。
しかし――
「何かって言われても……別に、なんでもないですよ?」
それは柔らかな拒絶だった。
――コイツは、
――散々踏み込んで来たくせに、自分は拒むのか!
先ほどから感じていた違和感はそれだった。沈黙も普段の心地良いものではなかった。
何故なら、それは拒絶から来るものだったからだ。
ミツハとは話しやすかったが、話しやすいよう話題を広げていたのはミツハだった。それをミツハはやめたのだ。なんでもない、大丈夫だと笑っては他人を踏み込ませぬように、緩やかに線を引いていた。
「……そうかよ」
そんなミツハにソーマが言えることなど、何も無かった。その線を踏み越え、重く頑丈な扉を開かせる言葉なんて、ソーマに見つかるはずもないのだ。
ミツハは笑顔を張り付けたまま、ソーマには目を向けず下へ移動していくランプを無意味に目で追っている。重苦しい空気が狭い箱の中に充満していた。
「それじゃ、お疲れさまでした〜! 明日もよろしくお願いしますっ!」
新人区画でエレベーターの扉は開き、不自然なほど浮いた声は一方的で、やはりソーマを見ようともしなかった。ミツハは逃げるように早足でエレベーターから降り、ソーマはその小さな背中を見送ることしかできなかった。