「あ、ソーマさん。今ミツハさんが支部長とお話をされているので、支部長室に行かれるのは少し待ってからのほうがいいと思いますよ」
ソーマは朝から特務である特異点の捜索に出向いていたが空振りで終わった。早々に切り上げてアナグラへ帰投すると、受付嬢のヒバリからそう言われる。
ミツハの名前を聞き、先日の屋上でのことを思い出す。あの日の翌日、ソーマが予想していたとおり何事も無かったかのようにミツハは笑顔を取り繕っていた。
ソーマはエントランスを後にしてエレベーターを待つ。自室へ行く下層用のエレベーターを待っていたが、少し考えて上層用のエレベーターに乗り込んだ。
おそらくヨハネスはミツハのP15偏食因子を何かに利用しようとしている。その何かはわからないが、それは確かだろう。
6年前の旧ロシア地域での初陣がソーマの脳裏に過ぎる。任務に同行したヴィヨン中尉はヨハネスに示唆され、婚約者への指輪をソーマに託して死んだ。人類が生き残るための道を示し、選択肢を与えたと平然とした面でヨハネスは言ってのけた。その時湧き上がった怒りをソーマはよく覚えていた。それと近しいものを、今のヨハネスから感じるのだ。
――何か、嫌な予感がする。
人気の無い静かな役員区画の廊下を歩き、支部長室の扉の前に立つ。訪問を告げるインターホンを鳴らそうとしたその時、ソーマのその鋭い聴覚はわずかな声を拾った。
たすけて、と涙に濡れた声を。か細いミツハの叫び声を。
「――――」
ぞわりと身の毛がよだち、激情がソーマを襲った。
一歩、右足を後退る。そして大きく上半身を捻り、重心を左足に傾かせながら力任せに右足を頑丈な扉に、叩き込む。
ソーマの蹴りによって激しい衝撃音を立てて扉の建て付けは壊れ、ただの鉄の板となった扉をソーマを蹴り倒す。廊下と支部長室を隔てる物は無くなり、中の様子が明らかになる。
そうしてソーマは、その蒼い目をこれでもかと見開いた。
部屋の中に居たのは当然、ヨハネスとミツハだった。しかし一目見て異常だとわかる。
零れた紅茶の甘ったるい匂いが鼻につく。ソファに横たわるミツハはびくびくと身体を痙攣させていた。そんなミツハの傍にいるヨハネスの手には、中身の減った注射器が握られている。その注射器の中身は何か、理解するよりも早く怒りで燃え上がる身体は動いた。
ヨハネスの胸倉を掴んで立ち上がらせ、拳を強く握る。――ゴッ! と鈍い音が支部長室に響き、ヨハネスは執務机に打ち付けられた。
「――テメェ、何してやがるっ!」
ヨハネスを殴り飛ばし、ミツハの様子を確認する。次第に痙攣は治り、意識は失ったままだが呼吸は正常だ。それを確認すると、ヨハネスは切れた口から流れ出る血を気にもせず笑い出した。
「はは――やはり受け入れたか! 末恐ろしい化け物だな、彼女は……!」
「何を……言ってやがる? 化け物だと?」
「なんだ、知らんのか。ペイラーから聞かされていたと思ったのだがね」
ヨハネスは机に凭れ掛かったまま、ソファで眠るミツハを一瞥する。その目は、ソーマにも覚えのある眼差しだった。
「彼女の偏食因子が、P53偏食因子ではなくP15偏食因子であることは知っているな? 何故、ラットですら投与の成功例が無い、研究も進んでいない偏食因子が彼女の身体にあるのか、疑問には思わないか?」
「…………」
その問いにソーマは黙り込む。気にはなっていたが、ついぞ聞けなかったことだった。続きを促すように睨み続ければ、ヨハネスは十秒にも満たない静寂の後に口を開いた。
「彼女の偏食因子は投与されたのではない。――自然発生したものなのだ」
投与ではなく、自然発生――耳を疑う言葉だった。
「は……嘘言いやがれ。自然発生だと? ンなこと、あるわけ……」
「言っただろう、彼女も化け物だと。井上ミツハはこの世界の人間ではない。60年前の世界から人類の未来を救うべくこの世界へやってきた、化け物だ」
目の前の父が世迷言でも言い始めたのかと思った。もう一度殴って目を覚ましてやろうかと思うほどに、あまりに突飛な話だった。
だが、この男がこんな作り話のような冗談を言うとは思えなかった。
「60年前の2011年1月11日、彼女の身体に突然変異でオラクル細胞とP15偏食因子が発生したのだ。そして因果律の矛盾により彼女はタイムスリップを起こした。本来2046年に発見されるはずのオラクル細胞が2011年に発生したという、矛盾の修正のためにな」
1月11日――ソーマが贖罪の街で『ヴァジュラに襲われた民間人』を救出した日だ。あの時のミツハはアラガミの姿すら見たこともなく、荒廃とした世界を初めて見たかのように訝し気に眺めていた。
思い当たる節は他にもある。やけに持っている2000年初頭の音楽。骨董品のはずなのに動いているカメラ。神機使いになったばかりの頃の、地に足がついていない様子。
ヨハネスの世迷言が本当ならば、当然のことだった。60年前にアラガミなど居るはずがない。アラガミによって食い荒らされた荒廃とした世界など、知るはずもないのだ。
――そりゃ、言えるわけもねぇ。
オラクル細胞が自然発生し、60年前の世界からタイムスリップをしたなど、知られたくなくて当然だ。隠そうとして当然だった。そういう類のもの、と言ってのけたサカキの言葉を思い出す。まさにそのとおりだったのだ。
「3月2日、彼女は贖罪の街で行方不明になっていただろう。ソーマ、お前の偏食因子によって一時的にP15偏食因子が消失し、60年前の世界に戻っていたのだ。だがその2日後にP15偏食因子が再び生成され、彼女はこの世界に帰ってきた。その性質を変異させて」
「……新型に適合するようになったのはそのせいか」
「ああ、そうだ。しかしそれは副産物に過ぎない。外的因子を拒絶するのではなく、適応するように変異したのだ。P73も、P53も彼女は受け入れた。そして今、新たに投与した偏食因子もだ。彼女は多種多様な偏食因子に適応するだろう。これが何を意味するか、わかるか?」
偏食因子とは、オラクル細胞に含まれる『偏食』を誘導する物質だ。誘導するための情報が偏食因子には含まれている。その偏食因子を多種多様に投与し、P15偏食因子に『適応』させるということは――
「……まさか」
思い至ったソーマに、ヨハネスは目を細めた。
「そうだ。――特異点だ」
「ふざけるな! 特異点なら俺が探してやっているだろうが!」
「いまだ見つけられていないのが現状だろう。もしも見つけ出す前に終末捕喰が起こってしまったらどうする? ならば人工的に特異点を作り上げ……そう、管理下に置いてしまったほうが早い。そうでなくとも、彼女自身を研究すれば多大な成果を得られるだろう。……お前のようにな」
ヨハネスは冷ややかな氷の瞳をミツハに向ける。その眼差しにソーマは戦慄した。ソーマがまだ子供だった頃、檻越しに何度も見た目だ。ソーマに過酷な実験を課す度に何度も見せた科学者のそれだった。
「う…………」
ミツハが身じろぎをする。目が覚める前にヨハネスから遠ざけようと、ソーマはミツハを抱き抱えて立ち上がった。
「……二度とミツハに手を出すな」
「フ、化け物同士、仲が良いのだな。……ならば特異点の発見に全力をあげろ。前にも言ったはずだ、お前が特異点を見つけさえすれば、これ以上犠牲は出ないのだ」
依然としてヨハネスの目はラットでも見るかのような、嫌な目をしていた。そんな眼差しから逃げるように、ソーマはミツハを抱えてヨハネスに背を向けた。
ソーマの腕の中で眠るミツハの目元は、涙の痕と隈で随分とやつれて見えた。その理由は、ヨハネスに襲われて泣いた際にできたものだけではないはずだ。黄昏に呑まれた屋上でミツハは泣いていた。きっとあの日だけではない、人知れずミツハは泣き続けていたのだろう。誰にも言えない秘密を抱えて。
ヨハネスはP53でもP73でもない偏食因子を投与したと言っていた。P15偏食因子のことも含め、一番詳しいであろうサカキのところへ行くのが賢明だろうか。ソーマが足早に廊下を進むと、その振動でかミツハが目を覚ました。
「ミツハ、無事か――」
「――っ、やだ、こないでっ!」
目覚めたばかりで混乱して腕の中で暴れるミツハを落としそうになり、床に降ろした。意識がはっきりしてきたらしいミツハと目が合う。かなり狼狽している様子だった。
「……そ、ソーマさん……?」
「身体は無事か。どこか異常は無いか」
「…………だい、じょうぶ……です、けど……」
目を逸らされ、ミツハの視線が彷徨う。未だ混乱がおさまらないのか、記憶を逡巡しているようだった。
「……とにかく、歩けるか。サカキのオッサンのところに――」
「――あ、あの、ありがとうございます!」
状況を把握したらしいミツハが立ち上がり、ソーマから一歩距離を取る。不自然なほど明るい声と無理に笑う顔が、ひどく痛々しかった。
「えっと、ソーマさんが助けてくれたんですよね、ありがとうございます! その、もう、大丈夫なので、気にしないで――」
「……その作り笑い、もうやめろよ」
ソーマが言葉を遮ると、ミツハの作り笑いが固まった。
「クソ親父から全部聞いた」
「…………ぜんぶって」
「全部だ。……お前は本来、60年前の世界の人間なんだろう」
「――――」
――ボロリ、と。無理に作っていたミツハの笑顔が削げ落ちた。露わになった表情にソーマの胸が痛む。ユウはこの世の終わりのようだと言っていた。まさにそのとおりの顔だった。
全部知っている。だから無理に隠そうとしなくていい。そう伝えようとする前に、ミツハはソーマに背を向けて走り去ろうとする。
「おい、話を――」
引き止めようとソーマは手を伸ばした。
しかしその手は、大きく振り払われた。
それほど強い力ではなかった。痛みも無い。パシン、と乾いた小さな音がしただけだ。
しかし、拒絶され宙に投げ出された指先が震える。ソーマは立ち尽くすように呆然としてミツハの顔を見る。彼女の黒い瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
「――じゃあもう、放っておいてくださいよ! 違う世界の人間のことなんて、関係無いじゃないですかっ!」
泣きながらミツハが叫ぶ。明確な拒絶だった。
逃げ出すミツハの背中を、ソーマはすぐに追えなかった。夕暮れの屋上で感じたものの正体を見たのだ。それは常に感じていたものでもあった。
――『場違い』なのだと。
地下の安全な箱庭で、蝶よ花よと大切に育てられた世間知らずに戦場は場違いだと思っていたが、違ったのだ。
そもそもこの世界自体が、ミツハにとっては場違いだったのだ。
あの時、見てはいけないものを見てしまった。
気づいてはいけないことに気づいてしまいそうで、向き合うことから逃げ出していた。
――なに、逃げてんだ。
――なんで、逃げたんだ。
あの屋上でソーマが逃げ出さずに、ミツハがソーマにしてやったように彼女にミルクティーを差し出してやれば、何かが変わっていたかもしれない。結局、自分はいつも手遅れになってから後悔するのだ。伸ばした手はいつだって間に合わない。
――いや、
――そもそも俺は、手を伸ばしてすらいねぇじゃねぇか。
振り払われた手を握りしめ、ソーマはミツハを追った。今度は一歩踏み出すことに、迷いなんてものは無かった。