本当なら今頃、私は何をしているんだろう。
自由登校の期間にバイトをしたり友人と遊び倒して3月の卒業式を迎え、大学生活の準備をしながら過ごしている時期だろうか。一人暮らしを始める予定だったから、荷物の整理に忙しくしているかもしれない。新生活でみんなが散らばってしまう前に、千夏たちと卒業旅行をしているだろう。関西に行こうと話していた。春休み中のテーマパークは混んでそうだ。関西に行くのなら、京都にも足を伸ばして名所を観光しているはずだ。3月の京都は桜が咲いているだろうか。京都の町並みと桜は随分写真映えしそうで、一眼レフのメモリーカードがすぐに無くなってしまいそうだ。撮りすぎだと千夏が呆れながら笑い、そんな友人の笑い顔を三葉は撮るのだろう。
本当なら今頃、そんな日々を過ごすはずだった。
階段を駆け上がる。支部長室のある役員区画は最上階にある。屋上の扉を開けると、赤々とした空が広がっていた。
ミツハはその空に近づく。柵を乗り換え、屋上の端に立った。300メートルもの高さがある極東支部の屋上から下を見下ろすと、遥か遠く先に地面が見える。いくら身体能力が向上している神機使いと言えども――ここから飛び降りれば、一溜りもないだろう。
死んだところで、元の世界に帰れなどしない。それはわかっている。グボロ・グボロに殺されかけて死に直面したあの日、この世界が夢でもなんでもない、どうしようもない現実であるとミツハは悟ったのだ。
だが――このまま生き続けたところで、元の世界には帰れないのだ。
――ならいっそ、死んだほうがずっと良い。
もう限界だった。もう駄目だった。もう耐えられそうになかった。
どうしてこんな世界で生きなくちゃいけないんだろう。どうしてこんな世界に来てしまったんだろう。
――この世界に身を捧げるためにやってきた化け物?
そんな存在意義ならば、死んだほうがマシだった。
ずっと頭の片隅にはあった。ふとしたときに思うことがあった。旧市街地で横浜の成れの果てを見るたびに、家族や友人は既に死んでしまっているのだと実感する。会えなくとも違う空の下で生きていると思うことすら叶わない。だから、当たり前のように思うのだ。
――帰りたい。
――私も、みんなと同じところに行きたい。
死んでしまえば、ミツハが本来居るべき世界へ行けるのだ。
一歩踏み出してしまえば全てが終わる。元の世界とこの世界のことで思い悩むことも、この身に恐怖することも、罪悪感で押し潰されることも、こんな目に遭うこともなくなる。
そう、一歩。ただ一歩踏み出すだけだ。
その一歩が――どうしても踏み出せなかった。
「………………」
死への恐怖はない。あるのはただ、心残りだけだ。
ソーマを苦しませてしまわないだろうか――と。
ここで飛び降りて死んでしまえば、あの優しい人は自分自身を責めてしまわないだろうか。周囲は彼を死神だと評するのだろうか。また自分は何も救えないのだと、自分を呪ってしまわないだろうか。
この命は何度ソーマに助けられただろうか。そんな命を、ここで捨てられるのか。
――そんなの、できない。
死ねない理由は他にもあった。強くなりたいとあの病室で誓ったのは、何も元の世界に帰るためだけではなかった。
――ソーマさんを悲しませたくない。
あの覚悟は嘘じゃない。嘘じゃないからこそ、ただの一歩が踏み出せなかった。
「――ミツハ!」
静かな屋上に大きな声が響く。呼ばれた名前に振り返った。
その拍子に、狭い屋上の端でミツハは足を踏み外した。
「あ――」
浮遊感に包まれる。夕焼け空がミツハの視界いっぱいに広がった。ひとつだけぽつんと浮かんだ一番星に手を伸ばすと、その手を強く掴まれる。
腕を引かれ、身体は引っ張られるままに重力に逆らう。宙を泳いでいた足は硬いコンクリートに触れ、肩を掴まれて支えられる。
「――お前っ、なに馬鹿なことを考えてやがるっ!」
「…………ソーマ……さん……」
肩で息をするソーマが声を荒げる。フードが脱げたその顔は表情がよく見え、珍しく感情を剥き出しにした必死の形相をしていた。
「お前が、言ったんだろうが! 全部ひとりで背負い込むなと。そのお前がひとりで背負い込んで、どうすんだよ……!」
「……そう、だけど、……でも!」
ソーマの言葉をミツハはかぶりを振って否定し、彼の手を振り払う。
ひとりで背負い込む必要なんて無い。心から想ってソーマに言った。
だけど、
「――ひとりで背負い込むしか、ないじゃないですかっ!」
その言葉をミツハ自身が受け入れることはできなかった。
「だって! みんな違う世界の人間じゃないですか! 私と同じ世界の人なんて、この世界のどこにも居ないじゃないですか!」
堰を切ったように、今の今まで押し殺してきた醜い感情が溢れ出していく。一度回った舌は止まらず、沈みかけの夕日に染まる静かな屋上にミツハの悲痛な叫びだけが響き渡った。
「私はこんな世界で生きるはずじゃなかった! もうすぐ卒業だったのに! 千夏たちと約束もしてた! 一人暮らしも、大学の勉強も楽しみだったし、やりたいことがいっぱいあった! できるはずだったのに! 夢だったカメラマンにだって、なりたかった! ――私は、こんな世界で生きたくないの!!」
心の底からの叫びだった。誰にも話せなかった本音だった。
その本音は、この世界の全てを否定していた。
「でもっ、そんなこと言えるわけないじゃないですか! みんなはこの世界の人で……みんな、おかえりって……良かったって、言ってくれるのに! そんなこと言えないじゃないですか! だって、わたしっ」
こんな世界で生きたくない。
だけど。
「この世界のみんなのことは、大切だし、大好きだから……っ!」
訓練で汗だくになって、訓練場の冷たい床にユウとコウタと並んで転がって笑ったり。
カノンの作った菓子を食べながら、タツミとブレンダンが話す任務の振り返りを聞いたり。
報酬の割り振りについて揉めるカレルとシュンを見て、『またやってる』とジーナと一緒に呆れたり。
限られた配給品の中でどうやってオシャレをしようかとアリサと話したり。
防衛任務を終えて外部居住区を歩いて帰っている途中で、カズヤたちに迎えられて今日の任務内容を語ったり。
おはようの挨拶をして、少しずつ距離が縮まって朝のひとときをソーマと過ごしたり。
楽しかった。嬉しかった。心地良かった。大好きだった。
激情が萎んでいく。感情は号哭ではなく涙に代わり、止め処なく溢れ出る。
「ミツハ……」
「……こんな世界より、元の世界のほうが大切だし大好きなんです。だから帰りたい。帰れないなら、……死んじゃいたい。みんな、もう死んじゃったんだから。みんなと同じところに行きたいんです」
「…………」
「でも、この世界のみんなのことだって大切なんです。……ソーマさんの傍に居たいって、思うんです。ひとりで背負い込んで、苦しんでほしくない。それは、嘘じゃない。本当なんです。本当……だから、元の世界のことは諦めて、忘れたほうがいいって……わかってるんです。そうしないと私、この世界で生きてけない、のに、……だけど……!」
だけど、諦められない。
死んでしまいたいけれど、後ろ髪を引かれる思い出がある。
だけど、この世界で生きていくには元の世界への未練が大きすぎる。
ならば元の世界のことは諦めて、早く忘れてしまったほうがいい。
でも。だけど――
「ごめんなさい……選べないんです……」
元の世界と、この世界。
その小さな身体に背負い込んだ重圧に耐え切れず、弱々しくその場に泣き崩れた。
みっともない本音を曝け出したミツハを、ソーマはただ静かに見下ろした。その蒼い瞳に自分がどう映っているのか、どう見られているのか。考えるだけで恐ろしかった。
「……ミツハ」
力無く項垂れるミツハにソーマが声をかける。
その声色は、あまりにも穏やかで、そして寂しげなものだった。いつかの屋上で聞いた声色と重なった。
「どちらか選ぶ必要なんて、無いだろうが」
その言葉に、ミツハは唇を震わせて小さく顔を上げた。
見上げたソーマの顔は、悲しいくらいに穏やかで、寂しげで、――まるで泣き出してしまいそうな。そんな顔をしていた。
「なんで片方を切り捨てようとするんだよ。お前にとってそのどちらも、大切なんだろう。だったら、それだけでいいだろうが。……どちらが大切なのか優劣を決めて切り捨てて、そうやって理屈の檻で押し殺した先にあるものなんて……後悔だけだ」
「……でも、だけどっ! そうしなきゃ私っ、」
「全部ひとりで背負い込む必要は無いと、お前が言ったんだろうが」
「…………だ、けど……」
「頼れと言ったんだ、お前が。だったら、お前も俺を頼ればいいだろ。――だから、死ぬなよ。……傍に居るんじゃ、なかったのか」
「――――」
願うような言葉が、ミツハの心に溶ける。溶け出した感情が涙となって視界を滲ませる。滲んだ視界には、あの満月の日の星空が映った。
あの日の言葉に、嘘はひとつも無い。ひとつも無いのだ。
逃げ出す言葉が見つからない。大丈夫。なんでもない。気にしないで。関係無いから放っておいてと、断ち切る言葉が出てこない。
帰りたい。こんな世界で生きたくない。
そんな本音の奥にある、弱々しい本音が溶け出していく。
「…………わ、たし……私っ……」
「……ああ」
「ずっと……ずっと、こわかった……独りなのが、怖かった……!」
タイムスリップしたのは自分だけ。誰も居ない。同じ世界を、過去を知っている人が誰も居ない。
偏食因子が自然発生したのも自分だけ。誰も居ない。勝手に変異していく恐怖を知っている人が誰も居ない。
ずっと怖かった。独りなのは怖かった。寂しかった。
だから帰りたかった。みんなに会いたかった。どこにでも居る普通の女子高生に、独りではない自分に戻りたかった。
「――ああ、そうだな」
胸が締め付けられるほど優しげな声で、ソーマがミツハの弱音を受け入れる。見下ろすだけだった視線をミツハと合わせ、震える指先でたどたどしく涙を掬う。その温かさにまた、涙が出た。
「……俺は、ずっと独りで良かったんだ。独りで、居るべきだったんだ。……それを、お前が、勝手に踏み込んできたんだろうが。なのに今更、自分は独りだと? ――ふざけるのも大概にしろ。お前が独りだって言うんなら、俺も、独りだ」
その弱音は、まるで鏡のようだった。独りが怖い。周りと違うことが怖い。化け物の自分が何よりも恐ろしい。
その弱音は、本音は、ミツハのものであると同時に、ソーマのものでもあった。
「俺だって――独りは、怖い」
それは初めて出てきたような、震えた声だった。
「他人と違うことがどんなに怖いか、そんなもん俺がよく知っている。……同じじゃねぇか。俺も、お前も。独りなんかじゃ、ねぇだろうが。――俺にそう思わせたのは、ミツハ。お前だろうが」
「――――」
その言葉に。
その声色に。
その表情に。
――心が、打ち震えた。
ボロボロと熱い涙を零すたびに、押し潰されそうになった心が軽くなる感覚がした。止め処なく溢れ出す涙を拭う。手の甲で泣き腫らした目を擦っていると、その手を取られた。そして、抱き寄せられる。
優しく、寄り添うように。ぎこちなく背中に回された手は震えていたが、温かかった。不器用で優しいそれが、何よりも愛おしかった。
「……お前は、俺が出来損ないじゃねぇっていう証明なんだろう」
あの満月の日の言葉を、ソーマがなぞる。
「だったら、俺は――お前が独りじゃねぇ証明になってやる。だから、こんなクソッタレな世界でも生きてくれ。俺はもう……誰かを失うのは、ごめんだ」
まるで祈るようなソーマの声に、心が抱き締められた。うん、うん、とミツハは何度も頷き、泣いた。ソーマの背に手を回し、強く抱き締め返す。縋り付くように、支え合うように、互いに互いと寄り添うように、抱き締め合った。
――だから、死にたくないと思ったんだ。
ソーマ・シックザールという、誰よりも不器用で、誰よりも優しい男を悲しませたくない。
人類の未来のためなんかではない。この世界のためなんかではない。ミツハがタイムスリップしたことに大きな意味なんて、きっと無い。
きっと、ソーマと出会うために、ミツハはこの世界に来たのだ。
そう思えばきっと、生きていける気がした。
――独りは怖い。独りは寂しい。
きっとどんなに強がったところで、その弱さからは逃げられない。
だからこそこうして、互いに手を取り合って、わかち合って、寄り添い合って生きていくのだろう。
独りでは生きていけない、弱い生き物なのだから。