小学校に入学する前、母親に連れられて自宅から歩いてすぐの大きな一軒家を訪ねた。4月から一緒に集団登校をする班の班長の子の家だったようで、小学6年生の少年とその母親に挨拶をした。
「それじゃあ
「ええ、そうなの。同じクラスになるかもしれないですね」
「おかーさーん、だれかきてるのー?」
「ああ来た来た。千夏、同じ小学校に通う三葉ちゃんよ」
母親たちの会話につられて、廊下の奥からひょっこりと顔を覗かせた幼い少女。目が合うと、少女は元気良く笑った。
それが上原千夏との出会いだった。
三人兄妹の末っ子の千夏は、上に二人の兄が居たせいか少し男勝りで活発的な少女だった。カラッとした夏の太陽のようで、三葉を連れて色んなところへ遊びに出かけた。歳の離れた千夏の兄も三葉をもう一人の妹のように扱い、家族ぐるみの付き合いをしていた。
10歳年の離れた一番上の兄が高校でバスケをしており、登校班長をしていた二番目の兄もそれに影響を受けたのか中学でバスケ部に入ったらしい。そして千夏も真似をするように、小学4年生になるとバスケクラブに三葉を誘った。三葉も千夏の兄たちを見ていたので憧れがあり、誘いに乗った。伸びなかった身長のせいであまり向いてなかったけれど、楽しかった。
毎日同じ道を一緒に歩いた。行きも帰りも一緒の小学校と中学校の9年間。同じ高校に進学したのでもう3年間行きは同じだったが、帰りは同じときもあれば違うときもあった。12年間、一番時間を共にしたのは家族以上に千夏だったと思う。
歩きながら、何を話していただろうか。今日の授業の話や、家族や飼い犬の話。部活の話や、昨日見たテレビの話。好きな音楽の話や写真の話もした。兄のお下がりのギターを弾く千夏がかっこよくて、弾いている姿を撮ると今度は千夏が三葉の写真を褒めてくれた。
「もしCD出せたら絶対三葉にジャケ写お願いするから! そのときはよろしくね?」
「あはは、専属カメラマンみたいな感じで?」
そんな夢のような『未来』の話もした。そんな日がいつか来ると信じていた。
そんな、懐かしい夢を見た。
◇
「………………」
夢から覚めると、『未来』の世界だった。
実家とは違う天井が滲んでいる。涙が出ていた。数度瞬きをして、頭を動かして時計を見る。ようやく日付が変わろうとする時刻で、眠りに落ちてから2時間程度しか経っていなかった。
眠気はある。けれど二度寝はすっかり苦手になってしまった。
――会いたい。会いたいよ。
気持ちの整理はついたが、毎日元の世界の夢を見ることは変わらなかった。帰りたいと思う。この世界が嫌だと思うのはどうしようもない本心であり、変わりようがない。
以前と違うのは、そう思ってしまってもいいと思えるようになったことだ。
それでも、寂しさに打ち震える。夢から覚める瞬間が一番苦手だった。今もまた降り積もる小さな絶望を振り払おうと、ソーマのことを思い浮かべて目を瞑る。
瞼の裏に描かれるのは、あの日のこと。そして昨晩の研究室で、怯える子供のような顔をしたソーマを思い浮かべ、目を開けた。
「…………」
そして、アラガミの少女のことを思い浮かべる。
――あの子も夜は眠るのかな。
だとしたら、いよいよ人間じみている。いや、アラガミでも夜間は普通に眠ったりするのだろうか。
のそりと重たい身体を起き上がらせる。つう、と涙が頬を伝ったので手の甲でそれを拭う。スマホをショートパンツのポケットに入れ、スリッパを履いてミツハは寝間着姿のままで部屋を出た。深夜帯なので廊下の電灯は最小限のものしか点けられておらず、薄暗い静まり返った廊下をひっそりと歩く。
エレベーターを降下させて研究区画に足を運び、サカキの研究室のロックを腕輪認証で開く。中の様子を窺うように薄く扉を開けると、ずっと薄暗い廊下に居たせいで眩しいくらいの蛍光灯の明かりが隙間から漏れてミツハは目を細めた。
どうやら人が居るらしい。それが誰なのかは、花が咲くような明るい声ですぐにわかった。
「みつはー!」
ミツハの姿を見てぱあっと顔を綻ばせたアラガミの少女だが、ミツハは少女よりも研究室のソファに座っている人物に目を剥く。あちらのほうも突然訪れたミツハにぎょっとしたようで、フードで隠れていても驚いた表情がよく見えた。
「ソーマさん!?」
「バカ、声がでけぇしさっさと扉を閉めろ!」
「あっ、ごめんなさいっ!」
深夜帯の研究区画にそう人は残っていないだろうが、それでもアラガミの少女を匿っている部屋の入口で止まるのはあまりに迂闊だろう。慌ててミツハは研究室内に入り、扉のロックをかけた。
「……え、なんでソーマさんが居るんですか?」
「サカキのオッサンにコイツ寝かしつけろって押し付けられたんだよ……」
「あー……お疲れさまです」
ぐったりと疲れたソーマの様子に、ミツハは苦笑するしかなかった。
寝間着姿で来てしまったことに少々、というよりかなりの恥ずかしさを覚えながらソーマの隣に座る。ショートパンツから出た足を少しでも隠そうとルームウェアの裾を伸ばした。
「こんな時間に何しに来たんだよ」
「この子が夜眠るのか気になって」
「……それだけか?」
「…………あと、ちょっと気を紛らわせたくて」
赤くなったミツハの目元を見て、ソーマは目を細めた。「そうか」とだけ相槌を打ち、それ以上は何も聞かれなかった。聞くまでもないのだろう。
アラガミの少女は床に這っている配線のコードでじゃれているようだ。千切れてしまわないのかとミツハは不安に思うが、ソーマが止めに入らないので大丈夫なのだろう。もっとも、千切れてしまってサカキが困ればいいとソーマが思っているのかもしれないが。ソーマは意外とそういうところがある。昨日知ったソーマの可愛い一面だ。
このアラガミの少女を見ていると、ミツハは不思議な感覚になる。
だがそれ以上に、きゃっきゃと楽しそうに笑いながら遊ぶその少女に、どうにも警戒心がほぐれてしまう。
「……なんか、仔犬みたいで可愛いですよね」
コードとじゃれるその姿は、やはり千夏が飼っていた白いポメラニアンを連想させる。少女の姿を見ながら笑ったミツハに、ソーマな怪訝は顔をした。
「あいつはアラガミだろうが……」
「そうですけど……でも、見えません? ほら、ポメラニアンみたいで」
言いながら、ミツハはパーカーのポケットからスマホを出す。カメラロールを遡り、先ほどコウタたちに見せたポメラニアンの写真をソーマにも見せた。
「友達が飼ってたポメラニアンのブランちゃんです。ね、なんか似てません?」
「安直な名前だな」
ブラン。フランス語で『白』を意味する言葉だ。白い犬だから、ブラン。安直な名前だが名付けた当時は小学生だったため、フランス語というだけでだいぶかっこよく見えたのだろう。事実、犬を飼ったと話をしていた時の千夏は自信満々に名前の由来を話していたし、幼いミツハも母親に『ブランってフランス語で白って意味なんだって!』なんて報告していた。
そんなことを思い出していると、ソーマがぽつりとアラガミの少女を見ながら呟く。
「……お前はアレをどう思う」
迷子の子供のような声だった。化け物は化け物だと言って突き放したものの、やはり悩んでいるのだろう。ソーマらしいな、とミツハは思った。
「わかんないです。……その、なんていうか……わからなくなっちゃいますよね、……色々と」
「……そうだな」
人間なのか、アラガミなのか。自分はいったい何なのか。
ミツハの言葉にソーマは力無く相槌を打った。
「だから、わかりたいなって思います。なので答えは保留ってことで。答えが出たら、ソーマさんにも言いますね」
そう笑って言えば、ソーマは目を伏せた。だが、別にいいと拒否の言葉は出なかった。
カメラロールを見返しながら、ミツハは俯くソーマに努めて明るい声で話しかける。
「ソーマさんって犬派ですか、猫派ですか」
「……前にも聞いてきたな、それ」
「定番の質問ですし。私は断然犬派です! 友達みたいに飼いたかったんですけど、お父さんが犬アレルギーだったんですよね。なので柴犬の抱き枕で我慢してました」
言いながら、ミツハはベッドの上で横たわる柴犬のぬいぐるみの写真をソーマに見せる。中学1年生の時に買ってもらったお気に入りの抱き枕だった。「可愛いでしょう」と笑うと、ソーマは呆れたような顔をした。
「ソーマさんはどっち派ですか」
「どっち派って言えるほど犬も猫もこの辺に居ねぇだろ」
「う、それもそうですね……。ちょっと待ってください、猫の写真もありますから!」
「見せんでいい」
「イヌ? ネコ? ……ウマイノカ?」
「た、食べ物ではないかな……。ほら見て、この白い生き物が犬だよ。可愛いでしょ〜」
スマホの画面を見せてやるが、アラガミの少女は画面よりもミツハの顔を見て首を傾げた。
「カワイイ?」
「うん、可愛い。可愛いっていうのはー……小さくて愛らしい? 心惹かれる……というか、大事にしたいー、って思うような……?」
改めて『可愛い』という言葉の説明をするのはなかなか難しかった。首を傾げながら辞書に書いてあるようなことを言えば、アラガミの少女はミツハとソーマを見比べた。
「みつははそーまより『ちいさい』から、『カワイイ』だな! そーま、あってるか?」
自信満々にそう告げた少女は答えを確かめるようにソーマを見た。そんな少女の言動に、ミツハは悲鳴を上げそうになる。
――この子はソーマさんになんてことを聞くんだ!
変な声が出そうになった口を手で押さえて止め、恐る恐る隣に座るソーマをちらり見やる。
否定されたらどうしよう、立ち直れそうにない。なんて怖く思いつつも、やはりソーマがどう答えるのか気になってしまう。
ミツハはドキドキしながら、ソーマの言葉を待った。
が、
「……くだらねぇこと言ってないで、テメェはさっさと寝ろ」
「エー! オナカスイタ! ねむれないぞー!」
「…………」
「なんだよ」
「いえ……」
――くだらないって言われると、それはそれで……。
不完全燃焼のような微妙な気持ちになりながら、ミツハは乾いた笑みを浮かべた。
ソーマの有耶無耶にした答えに気が抜けてしまったのか、忘れていた眠気が主張し始める。隠れるようにあくびをしたがソーマに見つかり、溜息を吐かれてしまった。
「おい……お前はここで寝るなよ」
「や、違うんです。別に眠くないので……」
「……それでも部屋に戻って横になってろ。明日も大型討伐にアサインされてんだろうが、休んどけ」
「うう……わかりました。部屋に戻ります」
そう言われてしまえば反論の術もなく、渋々頷いてソファから腰を上げた。
扉へ向かうその途中で「おい」とソーマから声をかけられ、振り向くと目の前が真っ黒に暗転する。ふわりと、温かな匂いがした。
「えっ、ソーマさん?」
乱雑に投げ渡されたのは、ソーマのダスキーモッズだ。ばさりと大きなモッズコートを両手に抱え、ミツハは首を傾げた。
「そんな格好で夜中にうろついてんじゃねぇよ」
「うっ、あ、ごめんなさい、ありがとうございますっ。明日の朝返しますね」
改めて言われると寝間着姿の格好に恥ずかしくなる。ミツハは身の丈には大きすぎるコートに袖を通した。
大きなモッズの裾はミツハの膝下まで届く。そんなミツハの姿に、アラガミの少女はきゃっきゃと目を輝かせた。
「オオ? みつはがそーまになったー!」
「ソーマさんになっちゃったよー」
「そーまはみつはにならないのか?」
「うーん、ならないと思うなぁ……」
「……駄弁ってねぇでさっさと帰れ」
「はーい。おやすみなさい」
「オヤスミ?」
「寝る前の挨拶だよ」
「ソウカ! オヤスミ!」
「うん、おやすみ」
元気よく覚えたての挨拶をする少女に笑って手を振り、ミツハは研究室を後にする。部屋に戻る最中にもあくびが出た。自覚していたよりも眠気が強かったようだ。
――なんか、安心するなぁ……。
自室に戻り、コートを着たままベッドに横たわる。その温かな匂いに包まれ、屋上でソーマに抱き締められた記憶が蘇る。思い出すと恥ずかしさやら何やらで顔から火が出そうだが、口元は不思議と緩んでしまう。
この温かな匂いは、ミツハを酷く安心させるのだ。
そんなこそばゆい感情に胸をいっぱいにして、小さく丸まって目を閉じた。
そしていつものように夢を見た。
けれど、いつもとは少し違う夢だった。