昼休み。ラサさんとカフェテリアで昼食をとっているとチャイムとともに校内放送が流れた。
『1年〇組、ユーフォリアさん。生徒会室までお越しください。繰り返します――』
食事をしていた手が、思わず止まる。放送に自分の名前が呼ばれるのは初めてで、カフェテリアにいた数人が一瞬だけこちらを振り返るのを感じた。視線を避けるように、私はトレイの上のスプーンを見つめた。
呼び出しの理由は告げられなかったけれど、それだけに余計な想像が膨らんでいく。
「……生徒会室……? 何か、したっけ……?」
隣で昼食をつついていたラサさんが、不安そうに顔を上げる。
「も、もしかして何かバレちゃったとか……いや、リアさんは悪いことしてないし……だよね……?」
「……うん、心当たりはないけど……」
そう答えながらも、胸のどこかが少しざわついていた。生徒会室に呼び出されることなんて、普通はない。
それでも、ラサさんをこれ以上心配させないように、私はできるだけ平静を装って立ち上がった。
「いってくるね。すぐ戻ると思う」
「う、うん……! 気をつけてね!」
トレイを片付けて、カフェテリアを後にする。
生徒会室があるのは、普段なら滅多に足を踏み入れない校舎の一角だった。廊下は静かで、壁にかかる掲示物もどこかきちんと整えられていて、空気がほんの少しだけ張りつめている。
扉の前で足を止め、深呼吸をひとつ。
緊張しているつもりはなかったけれど、手のひらは少し汗ばんでいた。
(大丈夫。きっと、悪い話じゃない)
そう自分に言い聞かせながら、拳を軽く握って扉をノックする。
「し、失礼します。先ほど放送で呼ばれました、ユーフォリアです……!」
「ああ、入っていいぞ」
中に入ると、シンボリルドルフ会長が机に向かっていた。その傍らには、もう一人。見慣れた背中だった。
「……トレーナーさん?」
こちらに気づいて振り返る。いつもの少し困ったような笑み。
「ああ、先に呼ばれててな。急にすまない」
会長が椅子から立ち上がると、私に向けてゆっくりと言葉を紡いだ。
「君に会うのは……いや、話すのが初めてになるのかな。あのときは、君はまだ意識を失っていたから」
「……え?」
「たしか、君がトレーナー君に運ばれた時のことだった。まだ気を失っていたが、あの日、実は私も立ち会っていた。だから……君がこうして元気に過ごしているのを見られてよかったよ」
「……そう、だったんですね。あのとき、私……」
思い返してみる。霧のようにおぼろげな記憶。目を覚ましたときには、もう見知らぬ天井だった。
どうやって私がここまで来たのか。その確証はまだ、靄の中にある。
「私、気がついたときには……トレーナー室のベッドで寝ていて……あのとき、お会いしてたんですね」
「うむ。だからこそ、今日こうして言葉を交わせて愉快適悦だ。君が前を向いて歩き始めたと聞いて安心したよ。あの日、トレーナー室で眠る君を見たときは、正直……心配していた」
「でも今はこうして、自分の足でここに来てくれた。この学園の一員として歩みを進めていること。本当に嬉しく思うよ」
「……ありがとうございます」
会長は目を細めて、少し笑みを浮かべた。威厳を感じさせる佇まいの中に、静かな優しさがにじんでいる。
ルドルフ会長は一歩近づいて、背筋を伸ばしながら続けた。
「さて、閑話休題。今日は君にお願いがあって呼ばせてもらったんだ」
「お願い……ですか?」
「そうだ。無理強いをするつもりはないが、聞くだけ聞いてもらえればいい」
「地元のケーブルテレビ局が、学園の特集番組を組むことになっていてね。その準備で取材班が来る予定になっている。今日はその下見みたいなもので、少し君の話を少ししたんだ」
「記憶を失った状態で保護され、懸命に学び、走ろうとしている一人のウマ娘がいる。その存在を聞いた記者が、ぜひ本人にも話を聞きたいと申し出てきたんだよ」
私は無意識にトレーナーさんのほうへ視線を向けた。彼は軽くうなずきながら補足してくれる。
「断ってもいい話だ。でも、記憶に関して何か知ってる人がその番組を見てる可能性もあるって……俺も、そう思った」
「……私を……知っている人……」
「そうだ。あるいは、何かしら記憶に繋がる情報を持ってる人かもしれない」
私の中でほんの小さな期待が灯るのがわかった。
「取材の場には、俺も一緒にいる。……それでも怖かったらやらなくていい。だけど――」
「受けます。記憶を取り戻せるかは分かりませんけど、それでも……誰かに届くかもしれないなら……」
私は言葉を遮るように答えていた。驚いたようにトレーナーさんが目を見開き、会長が目を細めてうなずいた。
「その意志の強さ、素晴らしいね。ありがとう、ユーフォリア君」
そうしてルドルフ会長は満足そうに頷いた。
「では、日程が決まり次第、改めて連絡するよ。ありがとう、君のその一歩が、何かを変えるかもしれない」
そう言って差し出された手を、私はそっと握り返した。
………………
…………
……
放課後の空き教室。そこで撮影を行うことになり、トレーナーさんと共に向かうことになった。
扉の前で一度、深く息を吸う。
(大丈夫……。怖がる必要はない)
そう自分に言い聞かせて私はノックをした。
「どうぞ」
入ると既に数人のスタッフが機材を準備していた。その隣でメモ帳を持った乙名史記者が軽く手を振ってこちらに気づいた。
「来てくれてありがとうございます、ユーフォリアさん。それに、トレーナーさんも」
「どうも。こちらこそよろしくお願いします」
トレーナーが短く返す。私も頭を下げて、「よろしくお願いします」と声を出す。けれど、その声はほんの少しだけ震えていた。
……やっぱり緊張してる。レースの時よりも、心が落ち着かないのはどうしてだろう。
乙名史記者はそんな私の様子に気づいたのか、ふっと笑みを浮かべた。
「心配しなくて大丈夫ですよ。話すのが難しければ、無理に答えなくてもいいですから。あくまで、あなた自身の言葉を聞かせてもらえたら嬉しいなって、それだけですから」
「……はい」
私はトレーナーの方を一度だけ見て、彼が軽くうなずいてくれるのを確認してから、椅子に腰を下ろす。隣にある椅子にはトレーナー。カメラは二人を正面から捉える形だった。
スタッフの一人が軽く手を挙げて声をかける。
「では、音声入ります。カメラ回しました!」
ライトが静かに点き、レンズの赤い録画ランプが灯る。
乙名史記者の声が、柔らかく空気を揺らした。
「それでは、本日は日本ウマ娘トレーニングセンター学園に在籍するウマ娘、ユーフォリアさんにお話を伺っていきます」
「ではまず、ユーフォリアさん。今の学園生活、いかがですか?」
「……えっと、毎日が新しくて。まだ慣れないことも多いけど……楽しいです。みんなが優しくて、色んな『今』を教えてくれている気がしてます」
「周りの方々に支えられているのですね。ちなみに……入学の経緯について、話せる範囲で教えていただけますか?」
少しだけ言葉に詰まってから私はゆっくりと口を開いた。
「……その、私……。記憶が、ないんです。自分の名前も、どこから来たかも……走っていた記憶も。全部……思い出せなくて」
乙名史記者は、深く頷きながら、相槌を打つ。
「その状態から、今こうしてまた走ろうとしている……不安や迷いは、ありませんでしたか?」
「……はい。たくさんありました。でも……」
私は隣に座るトレーナーさんをちらりと見る。彼は目を伏せたまま黙って頷いていた。
「……でも、前に進んでみたいって、思ったんです。怖くても、自分で走ってみたいって」
「そして、走ってみた時。なぜか心が落ち着いたんです。風を感じると、何かが……遠くで、響くような気がして」
「なるほど……。ご自身について『こうかもしれない』って思うことはありますか? たとえば、『こんな風に走ってた気がする』とか、『こんな声を聞いた気がする』とか……」
私は小さく息を吸って、しばらく考えてから言った。
「……時々、夢を見ます。誰かから逃げていたり……暗いどこかを、独りで走っていたり……。そのときは、名前も……ない気がしてました。でも今は、トレーナーさんから名前を付けてもらって……それを、少しずつ自分の名前だと思えるようになってきました」
「素敵な名前ですよね、ユーフォリア。『幸福感』などといった意味だとか」
「……はい。とても、気に入っています」
その言葉を口にしたとき、ふと隣に視線を送る。
トレーナーさんは、まっすぐ前を見つめたまま、小さくうなずいていた。けれどその表情は、どこか誇らしげで……ほんの少しだけ、照れくさそうにも見えた。
乙名史記者さんは、そんな彼に気づいたようにトレーナーさんへ目を向けた。
「トレーナーさんから見て、彼女はどんなウマ娘ですか?」
トレーナーさんは少しだけ苦笑して、けれど静かな口調で答えた。
「真面目で、ある意味不器用で……それでも、誰よりも真っ直ぐに走ろうとしてる子です。どこかに過去があることは確かだけど、それに縛られずに……今は、ここにいる。それが彼女の強さだと思います」
その言葉が、胸の奥に温かく染み込んできた。私の言葉じゃなかったけれど、まるで、私のことを代弁してくれたみたいだった。
「では最後に。この映像を見てくれるかもしれない、まだ見ぬ誰かへ、何か伝えたいことがあればお願いします」
私は一度深呼吸をしてから、目の前のカメラのレンズを見つめた。
「……もし、私のことを知っている人がいたら。どうか……教えてください。私が、どんな風に走っていたのか。どんなことを笑って、泣いていたのか。……私が、どんな名前で呼ばれていたのか」
「あなたが知っている『私』とは違うかもしれません。でも、きっとどこかでつながっていると思うから……その答えを……」
言葉が詰まりそうになったけれど、私はなんとか続けた。
「教えてください。私のことを……私に……」
静かに、録画ランプが消える。
乙名史記者が、そっと手帳を閉じる音だけが、教室に響いた。
「……素晴らしいです。とても、大切なお話を聞かせてもらいました」
彼女の目の奥が、少し潤んでいたのを、私は見逃さなかった。
取材は終わり、機材が片づけられていく中、トレーナーがぽつりと呟いた。
「……よく、頑張ったな」
「……少しだけ、怖かったです」
「でも、しっかりと伝えられてた。すごいことだよ」
私は彼の横に並びながら、教室の窓から夕陽を見上げた。
どこかで、誰かが、私を見てくれていたなら。
──私の声が届いたなら。
名前を知らない『私』が、誰かの記憶の中で目を覚ましてくれるなら。
それだけで、今は十分だと思えた。
無人島についたら起こしてください。