梅雨が明けた。
近日までの雨が嘘のように、空は驚くほど澄み渡っている。例年よりも早い梅雨明けだそうだ。そんな雲ひとつない晴れた空の下で、私はトラックを駆け抜けていた。日差しは強かったけど、風は少しだけ涼しい。
「──ゴール!」
トレーナーの声に合わせて、私は最後の直線を走りきった。スピードは落ちず、フォームも崩れていない。何本か走ったあとなのに、まだ余裕すら感じられる。
「うん、いいね」
少し離れたところで見ていたトレーナーが近づいてきた。手に持ったタオルで汗をぬぐいながら、少しだけ目を細める。
「いい走りだったよ」
「最近、君のスピードを見るたびに思うんだ。そろそろ頃合いだって」
私はまだ少し早い鼓動を落ち着けながら、彼の顔を見上げた。
「……それって……」
「うん」
彼は短くうなずいて、空を見上げた。どこまでも高く、真っ青な空だった。
「そろそろ、本当の勝負に行こうか。デビュー戦に出よう」
風が吹いた。夏の匂いを乗せて、トラックを通り抜けていく。私は少し黙ったあと、ふっと笑った。
「……なんか、緊張してきたかも」
でもその声には、不思議と楽しげな響きがあった。
………………
…………
……
デビュー戦まで、あとわずか。
だけど特別なことは何もなかった。朝になれば起きて、走る。いつもと変わらない日々。でもその中に、少しだけ違う空気が混ざっていた。
「はい、次のメニューいくよ」
トレーナーの声に、私は短く返事をしてスタート位置に立つ。身体はちゃんと応えてくれている。タイムも、フォームも悪くない。
だからこそ変に気負わないように、私はなるべく普段通りを心がけていた。
「焦らなくていいからね。今は準備を整えるときだよ」
トレーナーはそんなふうに声をかけてくれる。口調はやわらかいけれど、目の奥には、いつもの真剣な色があった。だからなのか、自分でも気付くくらい、少しずつ気合いが乗ってきていた。
「ただいまー」
部屋に戻ると、ラサさんがベッドに寝転がってスマホをいじっている。……これもいつも通りの姿だ。
「おかえりなさい、リアさん。今日もバッチリって感じですか?」
「そうですね、まあまあです」
「へぇ、いいですね」
そう言いながら、ラサさんは画面を見たままの姿勢で、ちらっとだけ私の顔を見た。
ほんの一瞬だった。何か言いかけたような気もしたけど、それは口には出されず、そのままいつもの空気に戻った。
気のせいかもしれない。気のせいじゃなければ、それは期待というより……。
──少しだけ、遠ざかっていく何かを見つめるような目だった。
~レース前日~
今日のトレーニングはいつもより少し軽めだった。
無理に追い込まず、フォームとリズムの確認だけ。体を動かしていたはずなのに、不思議と気持ちは落ち着いていた。
「うん、いい感じだね。これで十分だよ」
トレーナーの声に私はうなずく。トラックの端、日陰で休憩しながら、水を一口。
「……緊張はしてない?」
彼が不意に問いかけてくる。
「そうですね……ちょっとだけ。でも、走れるって思います」
「それなら上出来だよ。初レースでそれだけ言えるのは立派だ」
トレーナーはそう言って、少し笑った。
「じゃあ、明日の流れだけ簡単に確認しておこうか。朝は少し早めに集合して、移動。着いたら軽く身体を動かして、レースの確認。それぐらいかな、何か聞きたいことはない?」
「はい、ありません」
「よし。じゃあ、今日は早めに休んで。……いい夢が見られるといいね」
彼はそう言って、空を見上げた。広がる空はどこまでも高く、まだ青さを残している。夏の夕方特有の、心地よい風が通り過ぎていく。
私はその背中を見つめながら、静かにうなずいた。
その夜は驚くほど静かだった。カーテンの隙間から見える外の景色は、もうすっかり夜の色に染まっている。トレセン学園の寮に響くのは、かすかな風の音と、遠くで誰かが笑うような声。私の部屋も、いつもと変わらないはずなのに、どこか落ち着かない。
「……リアさん」
ベッドの上でうつ伏せになっていたラサさんが、ぽつりと名前を呼んだ。
「ん?」
私は枕元で開いていたノートを閉じて、そっちを向く。
「……緊張してますか?」
唐突な問いかけだったけど、不思議とすんなり胸に入ってきた。
「少しだけ。でも、それ以上に楽しみかもしれません」
自分でも、意外なほど素直な声が出た。そうか。私は明日を楽しみにしてるんだ。
ラサさんは私の答えを聞いて、少し黙ったあと、小さく笑った。
「そうですね。……私も、そうだった気がします」
その言葉の“気がします”に、少しだけ引っかかった。けれど、深くは聞かないことにした。
彼女はベッドから起き上がると、私のそばにやってきて、いつものように微笑んだ。
「リアさん。全力で走ってください。勝ち負けじゃなくて、あなたが走る姿を、私は見たいです」
それは、どこか真剣で。だけど、優しい目だった。
「ありがとう。ラサさん」
多分、今の私目覚めたときの私と少し違う。
自分がどうして走っているのか。それを、まだちゃんと言葉にできるわけじゃないけれど。それでも、ひとつだけはっきりしていることがある。
明日、私は走る。
私のために。
見守ってくれる人たちのために。
そして、まだ思い出せない"過去"のために。
窓の外には、雲ひとつない夜空が広がっていた。
どこまでも高く、どこまでも遠く。明日、私はこの空の下を走る。
ついにぱかライブの予定が出ましたね。目覚めの時……。
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