あと最近暑くないですか??? 溶けるぞ?????
朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
少しだけ早起きした私は、静かにベッドを抜け出して制服に袖を通す。鳥の声も、木々のざわめきも。いつも通りなのにどこか違って聞こえる。
「おはようございます、リアさん」
部屋の片隅で、ラサさんがまだ眠そうに目をこすりながらぼんやりとこちらを見て声をかけてくれた。
「おはようございます」
私は落ち着いた声でそう返したつもりだったけれど、声の奥にはどこか高ぶるような響きがあった。
「……いよいよですね」
「はい、いよいよです」
鏡の前に立ち、髪を整える。映った自分の顔はまだ少し幼く見える。でも、その目は昨日までとは違っていた。自分でもわかるくらいに。
「……いってらっしゃい、リアさん」
「いってきます」
その言葉を交わして私は扉を開ける。不思議と胸は静かだった。眠気も、緊張も、あまり感じなかった。
寮の玄関を出ると、初夏の朝独特の少しだけひんやりとした空気が迎えてくれた。澄んだ空はどこまでも高く、雲ひとつない。
――最高のレース日和だ。
集合場所には、すでにトレーナーさんが立っていた。
手にスポーツバッグを抱えたまま、いつものように落ち着いた表情でこちらに気づく。
「おはよう。調子はどう?」
「はい、大丈夫です」
「それなら良かった。……じゃあ行こうか」
彼は静かにうなずいて、私の肩を軽く叩いた。
車の中は静かだった。
流れる風景を窓越しに眺めながら、私は少しずつ、自分の中に気持ちが高まっていくのを感じていた。
でもそれは不安や緊張じゃない。むしろ、胸の奥に灯る、ひとつの炎のようなもの。
「会場、見えてきたよ」
トレーナーさんが言う。
その先に見えたのは巨大なスタンドと芝のコース。観客のざわめきがすでに遠くからでも聞こえてくる。
私は思わず手のひらをぎゅっと握った。
あれが今日、私が立つ場所。
控室には静かな空気が流れていた。他の出走ウマ娘たちの姿はない、静かな空間。パドックの時間までは、あと少し。
トレーナーさんは手早く荷物を置くと、こちらを振り返った。
「ユーフォリア」
彼が、私の名前を呼ぶ。
「はい」
「不安なときは、深呼吸。それでも落ち着かなかったら……うーん、俺の顔でも思い出して」
「ふふ……」
思わず笑いがこぼれる。いつもの冗談混じりの口調。でも、その目はちゃんと真剣だった。
「まあ、なんせ君なら大丈夫。緊張しなかったら、それでいい」
「……はい」
私は頷いた。もう迷いはない。今の私は、走ることに集中している。
間もなく、係員の声がかかった。私たちは地下バ道へと向かうことになる。
その通路には、すでに何人かのウマ娘たちが揃っていた。どの顔も初めて見るものばかり。けれどその瞳はみな鋭い。真剣そのもので、その奥にはそれぞれの覚悟が宿っていた。
「……あれが……」
誰かの小さな声が聞こえた。振り返らなくても何となくわかる。私のことだ。
「選抜レースで圧勝したって……」
ささやき声が交錯する。けれど私はそれらを気に留めることなく、静かに歩を進めた。
耳に入ってくる小さな声。侮りも、警戒も、好奇の混ざった視線も。そのすべてが、私の中の感覚を研ぎ澄ませていく。
気圧されることはなかった。ただ、自分の脚が前を向こうとしているのを感じていた。
「……行ってこい、ユーフォリア」
「はい」
言葉は短く、けれど胸の奥で深く響いた。
やがてパドックへと足を踏み出す。トレーナーさんによるとそこを一周歩いた後にセンターにあるステージに立つらしい。
一人、また一人と入場してくる出走ウマ娘たち。その中でユーフォリアも歩き始める。歩幅は他と比べて少しだけ大きく、視線はぶれることなく前を向いていた。
名前を呼ぶ声は少ない。だけど視線は集まっていた。静かに、鋭く、期待と探るような眼差しがする。
「……あの子、誰?」
「初出走らしいよ。なんて名前だっけ」
「ユーフォリア。聞いたことないけど、なんか雰囲気あるな」
そんな声が、観客のあいだから漏れてくる。
それでも私の足取りは変わらない。余裕があるわけじゃないが、それでも、確実に一歩ずつ歩んでいく。
(大丈夫。私は、走れる)
どこかで誰かが名を呼ぶ。どこかで誰かを応援する。けれどそれらすべては、遠く、まるで水の中にいるようにぼやけていた。
パドックを一周した後、私たち出走ウマ娘は中央のステージへと誘導される。
私の番が来た。係員の合図に従って、一歩ずつ階段を上がる。太陽の光を正面から受ける位置に立つと、自然と視界が開けた。
スタンドの奥までほとんど埋まった観客。無数の視線。手を振る姿。色とりどりの声援が混ざり合って、ざわめきのように響いてくる。でも、怖くはなかった。
私はそっと顔を伏せ、目を閉じた。
右手をぎゅっと握りしめて、静かに胸に当てる。
深く息を吐き、目を開いてその手を力強く振り下ろした。
それは誇示でも、威圧でもない。ただ、ここにいるという意思の提示だった。
その瞬間、空気がほんの少しだけ変わった気がした。
「……え、初出走でこれ? すご……」
「堂々としてる……」
観客のあいだで、そんな小さな声が広がっていく。……この視線の先に、私の未来と過去がある。
そう思ったとき、不思議と肩の力が抜けていた。
ふと目をやると係員が軽く頷いている。私はポーズを解いて、そのままステージを降りた。
やがて全員の紹介が終わり、パドックの時間も終了となる。静かに、でも確実にレースが近づいてきている。
ゲート前。芝の感触が、靴越しに伝わってくる。
コースの向こうには、まだ見ぬ景色が広がっている。それは不安でもあり、楽しみでもあった。
係員の指示に従い、順番にゲートインが始まっていく。
他のウマ娘たちの足音。重なる気配。緊張の入り混じった空気。それらをすべて背に受けながら、私はスタート位置に向かう。
「それじゃあ、ユーフォリアさん、お願いします」
「はい」
係員が声をかける。私は短く応え、ゲートの中へと脚を踏み入れる。冷たい金属の感触。狭い空間。少しだけ息苦しい。
すべてはここから始まる。その合図を、私はじっと待っていた。
――ガコンッ!
乾いた金属音とともに、ゲートが一斉に開いた。
その瞬間、地響きのような蹄鉄の音が芝の上を駆け抜けた。
(これが、レース)
思考が研ぎ澄まされていく。音が消え、視界が一点に絞られる。スタート直後の駆け引き。前に出たいウマ娘たちが位置を争うが、私はそれらを気にせず、一気に前へと飛び出した。
「おっと飛び出したのは7番、ユーフォリア! 先頭を奪います!」
スタート直後、私はすでに頭ひとつ抜けていた。だが、驚いたのは実況だけではなかった。他のウマ娘たちが、瞬く間に私の背中を追う立場へと変わっていた。
「なんだあのペース……!」
「は……はやい……!」
後方から漏れる声。だけど私は振り返らない。見ているのはただ前方。風が私の前を開けていく。
芝の音が小さくなる。遠くで観客の歓声が轟いている。けれどどれも届かない。私の世界にはただこの身体と、この道だけ。
最初のコーナー、重心を内へと傾ける。外へ膨らまないように集中する。誰も私の位置に追いついてこない。
「このまま先頭、7番ユーフォリア! まさかの独走か!? いや、まさかじゃない、これは……!」
実況の声が熱を帯びていく。差は縮まらない。むしろ広がっていた。焦る音が背中の方で消えていく。ペースを乱した誰かの足音、追いかける者の苦しげな息遣い。それらすべてが、私の中の何かを静かに燃やしていく。
(もっと……もっと、速く……!)
──その願いとともに、記憶の底がざらついた。
視界が揺れる。けれど足は止まらない。頭の中に別の景色が現れる。
暗く冷たい曇り空の下。観客も歓声もない、ただ無機質なトラック。
少女は誰の声も届かない空間で、静かに呼吸を整えていた。
細く、鋭く、すべてを拒むような目。感情の一切を削ぎ落としたかのように、ただ勝利だけを見つめていた。
「脚を止めるな、もっと前へ出ろ。おまえのその脚は、それだけの価値がある」
それは、頭の中で反芻する男の声。誰かに似ていて、でも決して同じではない声。
その少女が無表情のままゲートから飛び出していく。無音の世界。歓声はカットされた映像のように遠く、ただ『結果』だけが求められる世界。
次々に他の存在を抜き去っていく視線。風も、痛みも、感情さえも置き去りにして。
勝たなければ、意味がない。
少女は前を見た。
他の存在は関係なかった。ただの障害。誰かの声も、鼓舞も、恐怖も、喜びも。すべては不要だった。
私は、勝つために走る。
それだけが、少女を形作っていた。
(……これは、私?)
まるで記憶の残像のように、それはほんの一瞬、私の意識に重なった。
でも、私は今ここにいる。
この芝の上を、声援の中を、トレーナーさんとともに選んだ道を、走っている。
そして──。
(私は……私の意志で、走ってる!)
ラストスパート。最終コーナーを回る頃には、すでに勝負はついていた。
「速い、速すぎる! これは圧倒的だ! 残り200、まだ伸びる! ユーフォリア、脚色は衰えない!」
この日のために何度も重ねた練習。この瞬間のために積み上げてきた時間。そのすべてが今の一歩に凝縮されていく。
ゴールが近づく。スタンドの熱がとうとう私に届いてくる。
「先頭はユーフォリア! 独走! 完全なる独走――!」
……勝った。それは確かな実感だった。夢でも偶然でもない。私は、勝った。
少しだけ、笑みがこぼれた。
……
係員が近づいてきて、私は誘導に従って歩き出す。レースが終わったあとの身体は思ったよりも軽かった。
スタンドからは、まだどこか戸惑い混じりの歓声が聞こえてくる。
「……なんだ……あの子……」
「速すぎた……」
「新人だよね? ありえない……」
そのざわめきも、どこか夢の中の出来事のように思えた。
控室に戻ると、そこにはひと足先に来ていたトレーナーさんの姿があった。彼は私の姿を見た瞬間、わずかに目を見開き、それからゆっくりと歩み寄ってくる。
「おかえり、ユーフォリア」
その声は、いつものように穏やかだった。でもその奥には、隠しきれない安堵と、誇らしさの色が混ざっていた。
「……ただいま、トレーナーさん」
私も自然と笑みを浮かべていた。まだ、身体の奥に熱が残っている。汗ばんだ額に渡してくれたタオルを押し当てながら、私は静かに息を吐いた。
トレーナーさんは言葉を選ぶように少しだけ黙ってから、ふっと息をついた。
「正直、予想以上だった」
「そう、ですか?」
「あぁ。まさかあそこまでやってくれるとは思ってなかった。いや、君ならできると思ってたけど……想像の、何歩も先だったな」
彼はそう言って、少しだけ目を細めた。
「君が走るのを見てて、なんかさ……嬉しくなった。いろんなことがあったけど、今日の君を見て……ああ、この選択は間違ってなかったんだって、そう思えた」
私は少しだけ目を伏せる。走っている最中、確かに私は誰かの記憶を見た。冷たくて、無感情で、ただ勝つことだけを求めていた少女の姿を。
でも私は。
「……私も」
私はそっと、胸に手を当てた。
「私も、走ってよかったって思いました。……多分、初めてです。心からそう思えたのは」
トレーナーさんは何も言わなかった。ただ、静かに頷く。その仕草だけで何となく言葉以上のものが伝わってくる。
「……あ、そうだ。ウイニングライブ」
「……えっ」
不意に現実に引き戻されて、私は顔を上げた。そうだ、まだ終わりじゃない。レースには勝った。だけど、それだけじゃない。
「心の準備、できてる?」
「……いえ、全然……というか、今ので全部出し切った気がします……」
「ははっ、大丈夫だよ。最悪、ただ立ってればいいよ。君がそこにいるだけで、今日のライブは成立するんだから」
彼の言葉に、思わず笑いがこぼれる。
コンコンコン
そうこうしていると、扉をノックする音が聞こえた。どうやら時間らしい。
私は深く息を吸って立ち上がる。
「行ってきます、トレーナーさん」
「うん。……楽しんできて、ユーフォリア」
そして、ウイニングライブ。
ステージの中央に立つと、緊張が少しずつ別のものへと変わっていった。
ざわめき。驚き。尊敬。そして、期待。
それらを受けながら、私はセンターに立った。
照明が灯り、音楽が始まる。イントロに合わせて腕を上げると、さっきまでとは違う歓声が起こる。
(これは……)
初めての感覚だった。走って勝ったその先にこんな場所があるなんて、私は知らなかった。
(……なんだろう、この感じ)
私は確かにここにいる。走って、生きて、そして――。
歌い終えたとき、観客からひときわ大きな拍手や歓声が起こった。
私は一礼してステージをあとにする。トレーナーさんの姿が遠くに見えた気がした。
(……ありがとう)
私は胸の中でそう呟いた。
ウイニングライブが終わり、私は舞台袖でそっと息をついた。
ライトの熱、歓声の余韻、まだすべてが身体に残っている。
「じゃあ最後、このあとは勝利者インタビューだね」
「……はい」
少しだけ足が止まった。でも、すぐに前を向いた。ライトの熱と歓声の残響を背に、私は歩を進める。
簡易なバックボードの前。スポットライトが眩しい。小さなカメラの先に、複数の記者が並ぶ。その視線が、まっすぐに私へと向いていた。
「……っ」
その中に、見覚えのある人物がいた。前に取材を受けた時の記者……乙名史記者がいた。こちらに気づくと、小さく頷いてみせる。その目は、先ほどの観客と同じように、どこか探るような色を帯びていた。
そして隣にトレーナーさんが立つ。彼がそこにいるだけで、ほんの少し呼吸が深くなった気がする。
「では、改めまして。本日のレース、見事な逃げ切り勝利でした! 今のお気持ちはいかがですか?」
マイクが向けられる。喉が一瞬詰まる。でも、私は深く息を吸ってしっかりと答えた。
「……嬉しいです。実感は、まだ少ししかありません。でも……レースって、こんなに楽しいんだって、そう思えました」
会場が少しだけ静まる。その言葉が、ただの勝利コメントではないことに、誰もが気づいたのかもしれない。
「スタートからゴールまで、圧巻の独走劇でしたね。レース中、何か考えていたことは?」
私は目を伏せた。思い浮かんだのはあの記憶。冷たい空の下、誰の声にも応えない少女……。
「……思い出したんです。ほんの少しだけ、過去のことを」
「過去……ですか?」
記者の声に、会場の空気が緊張をはらむ。静寂が数秒、流れた。
でも、私は決めていた。伝えると。
「私……記憶がないんです。自分の名前も、どこから来たのかも。全部、何も覚えていなくて」
カメラの向こうから、ざわめきが聞こえた。記者席で誰かがメモを走らせる音すら、鮮明に聞こえる。
乙名史記者が、わずかに表情を動かした。驚きではない。むしろ、それを待っていたかのような、鋭さと温かさの混じった目。
そのとき、トレーナーさんがそっと私の肩に手を添える。静かな重みが、私を支えてくれた。
「彼女は、記憶を失った状態で保護されました。でも、それでも……彼女は、走りたいと願った。その気持ちに、私は応えたかった」
「……はい。記憶がなくても、走っていると、何か思い出せる気がするんです。誰かと繋がるような……そんな気がして」
私は笑った。ほんのわずか、けれど確かに。
「だから、もし、私のことを知っている方がいたら……教えてほしいです。どんな些細なことでも構いません。私が……私を取り戻す手がかりになるかもしれないから」
記者たちの間で、沈黙が広がる。その中で、乙名史記者だけが、しっかりと目を合わせて頷いた。
「……ありがとうございます。とても大切なことを、ここで話してくださって。本当に、感謝します」
「……いえ。こちらこそ、ありがとうございます」
雰囲気が少しだけ和らぐ。けれど、場に残った静けさには、今の言葉の重みがしっかりと染み込んでいた。
「では最後に、これからの目標を教えてください」
私は迷わず答える。
「もっと、強くなりたいです。そして、私が誰だったのかを知るために……これからも、走り続けたいと思っています」
隣で、トレーナーさんが小さく頷く。その気配が、私の背中をそっと押した。
記者席から、自然と拍手が起こる。歓迎と、敬意。そして、祈りのような音だった。
「……本日は貴重なお話をありがとうございました。これからのご活躍、楽しみにしています!」
「……ありがとうございました」
トレーナーさんと一礼して会見をあとにする。背中を押すように、やわらかい拍手の余韻がついてきていた。
廊下を歩きながら、私はトレーナーさんの横顔を見上げる。
「……言ってよかったですかね?」
「もちろんさ。君の言葉だろ? 間違いなんて、ひとつもないよ」
その言葉に、私はそっと笑った。
どこなんですかねこのレース場()
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