レース翌朝の朝刊。新聞紙は周囲の空気を吸って少しだけ湿っていた。
私はトレーナー室のソファで、広げたそれをじっと見つめていた。モノクロの紙面に並ぶ見出し、写真、記者の言葉。自分の姿がこんなにも大きく載るなんて、どこか現実味がなかった。
『衝撃デビュー! 新星・ユーフォリア、圧巻の逃げ切り勝利』
『無名のウマ娘、一瞬で主役に──』
そんな文字が並ぶページの中に、確かに昨日の自分がいた。
「……すごいな、これ。まるで昔から有名だったみたいだ」
デスクに肘をついたまま、トレーナーさんが呟いた。普段なら書類の山が積まれている机の上には、珍しくコーヒーだけが置かれている。
「……そんな、大げさですよ」
私は苦笑する。でも、ページをめくる手が少し震えているのを、自分でも気づいていた。
「昨日の会見、しっかり答えてたじゃないか。……ちょっと驚いたよ。まさか、あんなふうに話してくれるとは思ってなかった」
私は返事をしなかった。ただ、ゆっくりと記事の中の自分の写真に指先を添える。
走って、笑って、マイクを前に話していた私。ほんの少し、どこか他人のようにも見えた。
「……やっぱり、夢みたいです」
不意にこぼれたその言葉にトレーナーさんは優しく笑う。
「うん、でもそれは君がちゃんと現実にしたことだ。走って、勝って、声を届けた。その全部が、ちゃんと形になった」
私はふっと目を伏せた。指先の下にある紙は、少しざらついている。だけど、その手触りは不思議と温かかった。
「……だけど、ちょっと誇張しすぎだな。これとか」
トレーナーさんが差し出したのは別の新聞。ロゴも見出しの言葉遣いも、さっきまで読んでいた記事とは違っていた。
『“謎の新人”ユーフォリア──正体不明、経歴一切非公開のウマ娘に関係者も驚愕』
『異例ずくめの出走、実力か演出か?』
私はその紙面を黙って見つめる。声は出なかった。ただ、喉の奥がきゅっと狭くなるような感覚だけが、残った。
「ま、ありがちな記事だよ。こういうのは話題になると必ず出てくる。悪意っていうより、数字稼ぎさ。気にすることはない」
優しい声。でも、あまり慰めにはならなかった。
「……どうして、こんなふうに……」
「君が誰よりも速かったからだ。それだけだよ」
そう言ったあと、彼は少しだけ視線を落とした。
「答えなくたっていい。言いたくないなら、黙っていていいんだ。無理に全部話すことなんて、誰にもできやしないんだから」
私はその言葉に、ほんのわずかに眉をひそめた。
「……黙っているだなんて、そんなの……」
トレーナーさんがこちらを見返す。少しだけ驚いたような目だった。
「……そんなの、おかしいですよ。黙ってたら、誤解されたままになっちゃいます。それに……。……それに、それが本当じゃなかったら……」
言いながら、声が震えそうになるのを感じた。けれど、言わずにはいられなかった。
「……ユーフォリア」
トレーナーさんが静かに、けれど真剣に私の名前を呼ぶ。その声には、怒りも諦めもなかった。
「正しさを選ぶことは、大切なことだ。でも、全部を説明しなくちゃいけないってことはない。誰かを傷つけないようにとか、自分を守るためにとか──そういう理由で、言葉を選ぶのも、強さのうちだよ」
私は俯いたまま小さく頷いた。
正直に、まっすぐに。そうやって走ってきたつもりだった。
でも、「何も言わない」っていう選択にも、ちゃんとした理由があるのかもしれない。
沈黙が降りてきた。
けれど、それは先ほどまでの重苦しいものではなかった。どこか優しくて、息を継ぐための空白だった。
「……でも、変わったね」
ぽつりと、トレーナーさんが呟いた。
「最初に出会ったときの君だったら、きっとこんな記事、怖がるだけだった」
「……怖いのは、今もです」
そう答えると、トレーナーさんはふっと目を細めた。
「うん。それでも、ちゃんと読んでるじゃん? それが大事だよ。目をそらさないってことは、すごく勇気のいることだから」
私は何も言わず、小さくうなずいた。
怖い。でも、見なければならない気がした。あのとき走ったのは、自分の意志だった。走りたいと思ったのは、自分の胸の奥だった。
「──それにさ」
声の調子が少しだけ変わった。肩の力を抜いたような、でもどこか確信めいた響き。
「これくらいのことで揺らぐような君じゃない、って俺は知ってるから」
新聞をなぞっていた指が、ぴたりと止まる。
「もし、また何か言われたとしても──君は、君のままでいていいんだよ」
「……私のままで、ですか?」
「うん。俺の言葉じゃ、あんまり響かないかもしれないけど」
そう言って、彼は苦笑した。
でも、不思議とその笑みに安心する自分がいた。
私のまま。正しくありたいと思ってしまうこの性格も、誰かの声に戸惑う気持ちも、きっとそのままでいい。
そう思えるようになってきたは、この人がそばにいてくれたからだ。
「……いえ、ありがとうございます」
そう口にして、私はまた新聞を見下ろした。
活字の並びが、さっきより少しだけ静かに見えた。
………………
…………
……
静けさが、部屋の隅々まで染み込んでいた。
私はまだ新聞を見つめていた。けれど今は、紙面をなぞる指先が、ただ怯えから動いているわけじゃなかった。
『黙っていたら、誤解されたままになっちゃいます』
自分で言ったその言葉が、自分の中で波紋のように広がっていた。
正直であること。まっすぐであること。それが、私にとっての拠り所のようだった。
けれどそれだけじゃ守れないことも、伝わらない思いもある。
全部を語らなくたって、逃げているわけじゃない。
……そんなふうに、思えるようになりたい。
「……そういえばさ」
静かだった空気をやわらかく揺らすように、トレーナーさんが声を発した。
「次のレース、考え始めようか。もちろん急かすつもりはないし、必要もないけど……早めのうちに、選択肢をいくつか見ておいたほうがいいと思って」
「……次の、レース……」
私はゆっくりと繰り返す。その響きは、まだ少し遠くて、けれどどこか懐かしい響きだった。
「うん。身体の調子はどう? このまま中距離とか、短距離に挑戦とか……。……まあでも……君の実力ならどんなレースでも負けないって考えてるよ」
「……そう、なんですか?」
「そう。この前も言ったと思うけど、君の実力は確かで、相当なものだからね」
まだ"ひとつ勝っただけ"の私に、それだけの言葉をかけてくれるのが少しだけ怖くて、でも……嬉しかった。
「……私は……。……色々なレースで、もっともっと走ってみたいです。まだ、自分の走り方さえも見つけ切っていないから……」
「……わかった。じゃあ、次の候補をいくつか挙げてみよう。条件や時期、他のウマ娘の予定も確認しながら、いくつか見繕っておくよ」
「ありがとうございます」
私の返事に、彼は小さく笑って言った。
「いや、ありがとうはこっちのセリフだ。君がそうやって前を向いてくれるなら、俺もそれに応えなきゃいけないなって、思うから」
私はふと笑った。少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。
──コン、コン、コン。
その時。控えめで、それでいてどこか品のあるノック音が、室内に響いた。
私は顔を上げる。トレーナーさんも、椅子から軽く背を起こした。
「どうぞ」
彼の声に続いて、ゆっくりと扉が開く。
「失礼します。ああ、いたいた。ユーフォリアさん、ちょっといいかな?」
姿を見せたのは、ケイエスミラクルの担当トレーナー。
この前見せた朗らかな印象はいつものままなのに、目の奥にわずかな緊張があった。
私は少し驚きながら立ち上がった。トレーナーさんも、その顔に目を向けて訊ねる。
「……彼女に、何か?」
彼は、ほんのわずか間を置いてから口を開いた。
「……夏合宿に、連れていけないかと思って。ちょっと、理由があるんだ」
空気がふわりと動いた。
そして、私の胸の中で、じわじわと不安が膨らんでいった。
暗雲立ち込める──。