記憶喪失ウマ娘は幸福になれるか   作:deyus

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遅れたぜ。8月いっぱいまでこうなることがありそうだぜ。



第2章 夏空の共鳴と、潮騒の誓い。
Ep.21 胸の騒めき、託される眼差し


「合宿に……って、私を、ですか?」

 

「うん。突然でごめんね。でも、できれば早めにって思ってて」

 

私の問いかけに、彼は少し申し訳なさそうに笑う。その柔らかさは、逆にこちらの緊張を際立たせた。

 

「その、彼女の走りに問題があるわけじゃないんだ。ただ……」

 

言いよどんで、ふと視線を泳がせる。

一瞬、目を伏せた彼の表情に、私の胸がかすかにざわついた。

 

何かを抱えている。その目が、そう物語っていた。

 

──そして、言葉を選ぶように一拍置いてから、静かに顔を上げた。

 

「……そうだ、名乗ってなかったね。俺はケイエスミラクルの担当トレーナー、早瀬千隼(はやせちはや)だよ」

 

「早瀬……千隼さん」

 

「そう、"ちはや"。ちょっとややこしい字だから、よく間違えられるけど」

 

どこか照れたように笑うその顔の奥に、わずかな陰が差して見えた。

明るく振る舞っているのに、心の奥では何かに揺れている。

 

そんなふうに感じて、私は息を潜める。

何かある。きっと、ミラクルさんに──何か、あったんだ。

 

「……何かあったんですか、ミラクルさんに」

 

思わず出た言葉は、少し強い声になっていた。

彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく笑って、首を横に振る。

 

「……いや、なんて言えばいいかな。ちゃんと話すよ。聞いてもらえる?」

 

「もちろんです」

 

私のトレーナーさんが椅子を勧めると、彼は「失礼」と一言だけ添えて腰を下ろす。その動きにもどこか慎重さがにじんでいた。

 

それから、手のひらを軽くこすり合わせるようにして、静かに語り出した。

 

「この前の、函館スプリントSのことなんだけど……」

 

控えめにそう切り出した彼の声は、どこか探るようで、でも確かに迷いのない響きだった。

 

「レース自体は、完璧だった。走りにブレもなかったし、勝利も堂々たるものだった。……なのに、なんというか──」

 

彼は少し目を細めた。言葉を探しながら、天井の一点に視線を投げかける。

 

「……控室で、彼女が一人で眠っていたんだ。ウイニングライブが終わって、取材が結構長引いて……ようやく戻ってみたら、机に突っ伏して、眠っててさ」

 

「疲れてたんだと思った。走った後だし、ライブもあったし、当然だって」

 

それだけ聞けば、何でもない光景のはずだった。

 

けれど、彼の語りは続いた。

 

「──でも、静かすぎたんだ。……寝言も、寝息も、何も聞こえなかった」

 

一瞬、私の背筋にひやりとした感覚が走った。彼の言葉には、確かな実感が滲んでいた。

 

「……気づいたら、彼女の肩を揺すってた。大声は出さなかったけど、何かあったらって……怖くて」

 

彼は、そこで小さく息をつく。あの瞬間の空気を思い出しているように、眉をひそめて。

 

「すぐに目を覚まして、普通に話してくれた。いつものように、優しい声で。でも……」

 

そこで一度、彼は言葉を切った。

 

「……それから数日経っても、あの時の違和感がずっと頭に残ってる。……ほんの少しだけ、歯車が噛み合わなくなっているような……多分、俺だけじゃ気づけない、見えないものがある」

 

ふと、彼の視線が私に向けられる。真っ直ぐに、静かに。

 

「そして君は──誰かの走りを見て、誰かの中にあるものを感じ取ることができる。そんな娘だと、勝手にだけど思ってる」

 

私の胸の中が、すこし波立った。思い出すのは、初めてミラクルさんと会ったあの日。細身の身体で、懸命に走るその姿が、不思議なほど私の心に残ったこと。

 

──あの走りは、私に何かを問いかけてくるようだった。

 

「それに、君はきっと……彼女の支えになれる」

 

ぽつりと、彼が言ったその言葉には、祈るような願いが込められていた。

 

私は何も言えなかった。言葉を返す前に、胸の奥で何かがきゅっと締め付けられるような感覚があった。

 

「だから、お願いだ。合宿に同行してほしい。君の目で、彼女を見てほしいんだ」

 

その目は、真剣だった。

責任を背負う覚悟と、それでも一人では抱えきれない苦しさが、にじんでいるようで。

 

「……わかりました。私でよければ、ぜひ」

 

私は頷いた。理由なんて、きっと後からでもいい。

 

早瀬トレーナーは、最後に「ありがとう」とだけ言って、静かに部屋を後にした。

閉じられた扉の向こうへ、どこか名残惜しげに視線を向けたあと、私はそっと息を吐く。

 

気がつけば室内には再び、静けさが戻っていた。

 

「……驚いたな」

 

背後から、ぽつりとトレーナーさんの声がする。

振り向くと、彼は椅子の背にもたれかかったまま、軽く天井を見上げていた。

 

「まあ、倒れたとか、そんな話じゃなくてよかったよ。……でも、彼、本気だったな」

 

「……ですね。……その、トレーナーさん……」

 

「うん?」

 

「……トレーナーさんは、どう思いますか?」

 

椅子に座ったままのトレーナーさんが、少しだけ目を細める。

 

「合宿に私が同行することとか、ミラクルさんのことも、いろいろと……簡単じゃないと思って」

 

言いながら、自分の声が少し震えているのに気づいた。

不安がないわけじゃない。むしろ、不安しかない。けれど、見ていたいと思ったのだ。

 

トレーナーさんは、しばらく黙っていた。

 

それから、目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。

 

「……まあ、ずるいよな。あの言い方」

 

「……え?」

 

「“君は支えになれる”。あんなふうに頼まれたら、断れるわけがないだろ。俺も、君も」

 

ぽつりと、そう呟く。

 

私は目を伏せる。ほんの少しの沈黙。

 

「……ユーフォリアは、どうしたい? 自分の意思を聞かせてくれ」

 

まっすぐな声だった。

委ねるようでいて、試すわけでもなくて。ただ、静かに、私の言葉を待ってくれていた。

 

私は小さく息を吸い込む。

 

「……私に、できることがあるなら。やってみたいです」

 

迷いは確かにあった。

でも、今この胸にあるざわめきのまま、立ち止まりたくなかった。

 

それを聞いたトレーナーさんは、少しだけ目を細めて、ゆっくりと目を閉じた。

やがて、静かな声で、ぽつりと。

 

「ま、そうだよな……。……なんで、こうも巻き込まれていくんだろうな、お前は」

 

けれどその口調に、責めるような響きはなかった。ただ静かで、どこかあたたかくて。

 

「でもまあ、いいさ。その娘が心配だが……きっと、悪いようにはならないさ」

 

「はい」

 

頷くと、彼は立ち上がりながら肩を回した。

 

「……さて、荷物の準備とかしないとな。虫よけスプレーとか、持ってたっけ?」

 

「さあ……。でも、少し楽しみです」

 

「……始まってもいないのに、もう前向きか。頼もしいね」

 

彼がそう言って笑うと、つられるように私も少し笑った。




ミラトレに名前を付けるか否か悩みましたが、私の表現が下手で今後微妙にリアトレと混ざりそうだったので名前を付けました。……今更ですが各トレーナーに対した意味は含んでないです。
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