バスが止まり、ドアが開いた。
合宿所の前に降り立つと、潮の香りがふわりと鼻をくすぐった。
海が近い。そう思えるほど風が湿っていて、さざ波の音が聞こえてくる。
「けっこう暑いな……こりゃ日焼けするぞ」
後ろから降りてきたトレーナーさんが、帽子のつばを軽く引っ張って言う。
でも、その顔はどこか楽しげだった。
「虫よけと日焼け止め、どっちが先だったっけな……まあ、いいや。とりあえず行こうか」
……夏だ。そう思った瞬間、胸の奥にほんの少しだけ緊張が走った。
これから始まる時間に、何かが待っているような、そんな予感。
「ユーフォリアさん!」
声がして、顔を上げる。建物の前にミラクルさんが立っていた。
いつか見た、あの笑顔のままで。
「来てくれてありがとう。ほんとに、嬉しいよ」
その声も、柔らかさも、何ひとつ変わっていないように思えた。
「はい。……こちらこそ、よろしくお願いします」
歩き出した足音が、細かい砂利を踏む音と混じり合う。
その隣で、ミラクルさんは軽やかに笑っていた。
でも、私はその笑顔の奥に……。何か、ほんのわずかな“波のゆらぎ”のようなものを感じていた。
………………
…………
……
玄関で靴を脱ぐと、合宿所の中は外よりもひんやりとしていた。
木造二階建ての合宿所。古びた柱や畳の香りに、どこか昔の空気が漂っている。
床がきしりと鳴って、直接聞いたことはないけど、なんだか懐かしいような音だと思った。
「ここが共用スペース。食堂とお風呂はこっち。部屋は二階にあるよ」
「はい」
ミラクルさんは、説明しながらも歩調を合わせてくれていた。
その声の端々から、私を歓迎してくれている気持ちが、まっすぐに伝わってくる。
「……けっこう古い建物ですけど、掃除はちゃんとしてあるんです」
「すごく落ち着きます。……懐かしい感じというか」
「ふふ。おれも、初めて来た時、そんなふうに思ったな」
やりとりは、自然だった。
返事も、表情も、どこにもおかしなところなんてない。
……そう、思いたいのに。
……
「ここが、おれたちの部屋だよ」
案内されたのは二階の、海側の角部屋。
「風が通るから、昼は意外と涼しいんだよ。朝晩はちょっと冷えるかもだけど」
窓を開けると、遠くに海のきらめきが見えた。
潮の匂いがふわりと吹き込み、カーテンが静かに揺れる。
「……きれいですね」
私がつぶやくと、ミラクルさんも頷いた。
「うん。静かで、いいところだよね。頭の中がスッとするっていうか……」
言いかけて、彼女はふと笑った。
その笑顔に、違和感はない。けれど、どこか“完成された形”のようにも感じられた。
──誰かに見せるために、丁寧に作られた笑顔。
そう思った自分に驚いて、心の中で慌てて否定する。
……考えすぎだ。そんなふうに人を、ましてや友人を疑いたくなんてないのに。
「荷物、そこに置いて大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね」
「ありがとうございます。……一緒のお部屋なんですね。よろしくお願いします」
「うん、こっちこそ。おれのトレーナーさんが“そのほうが安心できるだろ”って言ってた」
その声がどこかくすぐったそうで、思わず私も微笑んでしまう。
それから少しだけ、静かな沈黙が落ちた。
外から、カモメの鳴き声が聞こえる。
ミラクルさんは、少しだけ何かを言いかけたように見えたけれど──
結局、その言葉は紡がれず「……ねえ、少し歩かない? 浜まで行ける道があるんだ」と、ふと思いついたように言った。
「浜辺……ですか?」
「うん。風が気持ちいいし、ちょっとだけ息抜きになるかもしれないから」
静かに微笑んだミラクルさんはそのまま先に扉を開け、部屋から出ていった。
残された私はその後ろ姿を一瞬見つめ、それから荷物の紐をゆっくりとほどいた。
この合宿で、彼女の何を見つけられるんだろう。
…………
ミラクルさんの後を追って、建物の裏手に出る。
地面は軽く傾いていて、草の生えた砂道が緩やかに続いていた。
陽射しはまだ強かったけれど、海からの風がまっすぐに吹き抜けていて、肌を撫でる空気はどこか涼しかった。
「こっちだよ。……すぐだから」
足元には、背の低い草が揺れていた。
踏みならされた道の先には、もう海がちらちらと見えている。
言葉は多くなかった。
けれど、その沈黙もどこか心地よくて、私はそっと息を吸い込む。
潮の匂い。風。砂のきしむ音。
どれも懐かしいような、でも知らない夏の匂いだった。
「……今日は、波の音がよく聞こえるね」
ぽつりと、ミラクルさんが言う。
その声は、独り言のように小さくて。私はどう返せばいいか少し迷ったけれど……。
「……はい。初めてですけど……なんだか、不思議と落ち着きます」
そう言うと、ミラクルさんが小さく笑った。
「ユーフォリアさんも、こういうの、好き?」
「……そうですね。好き、かもしれません」
「うん、それならよかった」
足元に転がった白い小石を避けるように、ミラクルさんは少し歩調を速める。
「もうすぐ、見えてくるよ」
その言葉のとおり、視界がぱっと開けて、白い砂浜が目に飛び込んできた。
「……海だ」
思わずこぼれた私の声に、ミラクルさんが微笑む。
「静かで、きれいなんだ。観光地じゃないから、人もあまり来なくて……」
浜辺の端にある岩場の近くに、ふたりの人影が見えた。
私たちのトレーナーさんたちだ。
「……楽しそうに話してるね」
ミラクルさんの声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
私は思わず、その横顔を見つめてしまう。
「行ってみましょうか?」
そう声をかけると、ミラクルさんは一瞬だけ何かをためらうように見えた。
でもすぐに、「うん」と頷いて歩き出した。
砂浜に下りると、さらさらとした白い砂がサンダルの隙間に入ってきた。
足元に、波が一度だけ寄ってきて、すぐに引いていく。
──この夏は、きっと長くて、短い。
そんな予感が、胸の奥をふっとかすめた。