波の音が、一定のリズムで耳に届く。
浜辺の端、岩場の近くで、二人の男が並んで腰を下ろしていた。片方はジャージの裾を少し砂に汚し、もう片方はタオルを首にかけたまま、靴を脱いで足先だけ海水に浸している。
「……ユーフォリア、ちゃんと来てくれてよかった」
早瀬がそう言うと、隣の渡辺は軽く顎を引いて頷いた。
「まあ、お前の頼み方がずるいからな。『支えになってほしい』なんて言われたら、あいつが断れるわけないだろ」
「……うん。そこは、わかってて言った。悪かったと思ってる」
正直な声だった。
波が寄せて、また引いていく。
その間を埋めるように、二人の間にしばらくの沈黙が流れた。
「どうなんだ、最近のミラクルは」
問いかけたのは渡辺だった。
視線は海ではなく、砂浜に転がった小石に向けられている。
早瀬はすぐには答えなかった。海の方を見たまま、目を細める。
「……走りはいい。体調も悪くない。レースも勝った。でも──やっぱり、違和感が頭から離れない。少しずつ、レールから外れている……そんな気がして」
「それは、“感覚”の話か?」
「……うん。完全に主観、思い込みにも近い。……でも、ずっと近くで見てるからこそ、見落としちゃいけない気がしてて」
「……気づいてるだけ、まだ救いがあるな」
「……そうだね。でも、正直怖い」
帽子を深くかぶり直して、早瀬は小さく息をついた。
「多分、俺が見えてないだけで、あの子の中で何かが、少しずつ変わってきてるんだと思う」
「だから、ユーフォリアを?」
「うん。あの子は、きっと“見える”から」
しばらく、波の音だけが耳に残る。互いに口を閉ざしたまま、視線だけが海の先を見ていた。
………………
…………
……
近づくにつれて、ふたりの声がかすかに耳に届いてきた。
砂浜に足を投げ出す背中と、海に足を浸したまま笑っている横顔。
波の音に混じって聞こえるその声が、その情景が、なんだか懐かしくて安心する。
「お疲れさまです」
声をかけると、ふたりがこちらを振り返った。
ふたりは少し驚いたような顔をして──すぐに、いつもの柔らかい笑顔に変わった。
「お、来たのか」
私のトレーナーさんがそう言うと、早瀬トレーナーも立ち上がり、軽く砂を払ってこちらを向く。
「波、気持ちよさそうですね」
私がそう言うと、早瀬トレーナーが足先の水をぴしゃりと跳ねさせた。
「うん、ちょっと足を冷やすにはちょうどいいくらいだよ。……ふたりとも、歩いてきて疲れなかった?」
少しだけ間を置いて、私たちの方に視線を向けながらそう言った。
「大丈夫です。……浜までの道、風が気持ちよくて。それに、浜辺なんて初めてで……ちょっと、わくわくしてます」
本心だった。緊張の裏にある、どこか浮き足立つ気持ちも、たしかにあった。
「そう言ってもらえると助かるよ」
早瀬トレーナーは小さく笑いながら、私とミラクルさんを交互に見る。
「今日はとりあえず移動だけだから、夕方までは自由にしていいよ。浜辺も歩けるし、少しだけ身体を動かしてもいいし」
「じゃあ……少し、身体を動かしておきたいですね。……じっとしてると、逆に落ち着かなくて」
そう言うと、私のトレーナーさんがどこか懐かしそうな顔で笑った。
「だと思ったよ。お前、こういうとき落ち着きないもんな」
「えっ……そ、そうですか?」
「悪い意味じゃないって。動いてるほうが、お前らしいって話」
その言葉に、思わずミラクルさんも笑っていた。
そして、その笑顔のまま──
「……じゃあ、あとで一緒に走ってみる?」
ふいに届いたその提案に、私は一瞬だけ言葉を失った。
けれど、不思議と戸惑いはなくて。胸の奥で、小さく何かがほどけるような気がした。
「……はい。ぜひ」
誰かと一緒に走ることが、こんなにも嬉しいと思えるなんて。
この夏が始まったばかりだということを、私はそのとき改めて実感した。
風が吹いて、白い砂がわずかに舞った。
………………
…………
……
海風が、少しだけ冷たくなっていた。
陽はすでに傾きかけていて、空が橙色に染まりはじめている。
「準備、できた?」
合宿所の前で待っていたミラクルさんが、私を見るなりふっと笑った。
その姿はいつもと変わらないはずなのに、どこか少しだけ軽やかに見えた。
「はい。……行きましょうか」
返事をすると、ミラクルさんは軽く頷いて、先に歩き出す。
私もその後ろについて、ゆっくりと砂浜へ降りていった。
日中よりも風は強くなっていて、砂がさらさらと流れていた。
裸足で立つと、波の跡がまだ冷たく残っていて、足の裏がひんやりする。
「このへんから、走ってみよっか」
軽くストレッチをして、ミラクルさんが言う。
私もそれにならって、肩をまわし、深く息を吸い込む。
潮の匂い。波の音。
空はゆっくりと色を変えながら、静かに私たちを包み込んでいた。
「……いくよ」
小さく頷いて、ふたりで砂浜を蹴った。
砂は柔らかく、でも思ったよりも足が取られない。
潮の引いた浜辺は意外と固く、案外走りやすいことに気づいた。
並ぶ。
少し前に出られる。
でも──気づくと、また隣にいる。
「……ユーフォリアさん、けっこう速いね」
「そう、ですか? でも……ミラクルさんのほうが、ずっと軽く見えます」
「ふふ、ありがとう」
走りながら交わす言葉は、どこか心地よかった。
まるで、お互いの歩幅を確認するような、そんなやりとり。
しばらく走って、ふと彼女が私のほうを見た。
そして──。
「……このまま、遠くまで行けたらいいのにね」
ふいに漏れたその言葉に、私は思わず足を止めた。
ミラクルさんも少し先で振り返る。
けれど、彼女は何も言わなかった。
ただ、夕焼けに染まりかけた空の下で、少しだけ微笑んでいた。
その笑顔が、風の中で揺れた。
ストックが実質的に0になってしまった。そろそろ続き作らないとまずい……。
後今更ですが名前に特に意味はないです。何となくで決めた。