先週は触れられませんでしたがミラクルのストーリーイベント読みました。ラストにあの曲を持ってくるのはずるいでしょ。
今週は何とか間に合いましたが来週は恐らく遅れると思います(予防線)。
朝のトレーニングコースには、9月だというのにまだ夏を引きずる熱気が漂っていた。
ミラクルさんはその湿気すら裂くように走り抜け、鋭い風切り音を残して去っていく。
その背を追う私の心臓は、胸の奥で重たく軋んでいた。
目を逸らしたくなるほどの輝きなのに、目を離せない。
私の中で、期待と恐怖が絡み合い、どうにもほどけない塊になっていく。
ゴール板を駆け抜けたミラクルさんは、呼吸を荒げながらも澄んだ瞳でこちらを振り返った。その視線に応えるように、早瀬トレーナーが無言で頷く。
けれど、その拳は強く握られ、血が滲むほど白くなっていた。
喉まで出かかった言葉は、まるでしゃぼん玉のようにこわれて消えた。送り出すしかない。
そんな決意と無力さを、私は彼の横顔に見た。
──怖いのは、私だけじゃない。
その事実が少しだけ、心を締めつける苦しさを和らげた気がした。
けれど同時に、逃げ場を失わせるようでもあった。
…………
そして、レース当日。阪神の空は晴れ渡っていた。
レースを目前にした控室は、不思議なほど静かだった。
外では、スタンドを揺らすほどの歓声が波のように押し寄せてくるのに、厚い壁に遮られて届くのは低い地鳴りのような響きだけ。
その静けさが、かえって緊張を際立たせていた。
ミラクルさんは落ち着いた様子でストレッチをしている。けれど、その呼吸はほんの少しだけ速い。
彼女自身がそれに気づいているのかどうか、私はわからなかった。
隣に立つ早瀬トレーナーの手が、膝の上で強く握られている。
何も言葉を発さない彼の横顔には、ただ「送り出すしかない」という覚悟と、「それでも怖い」という迷いが並んでいるようだった。
私は声をかけることもできず、ただ彼女の背を見ていた。
ミラクルさんは、どこまでも強く、美しく見えた。
──だからこそ、胸が痛い。
この輝きが、この先も続くこと。それだけを信じて……。
外から、ゲート入りを知らせるアナウンスが響いた。
その瞬間、室内の空気がぴんと張り詰める。
「……よし」
「あの、トレーナーさん、ユーフォリアさん?」
「っ! はい……どうしかしましたか?」
「あ、いえ……えっと」
「……すみません。そんな顔ばっかり、させて」
「……せめて」
「せめて、必ず、勝ってきますから」
そうして、ミラクルさんは控室から出て行った。
…………
スタートを前にしたパドックで、ミラクルさんは堂々と歩みを進めている。
その姿を前に、観客たちは歓声を上げ、期待を惜しまない。
けれど、私たちの胸は重く沈んでいくばかりだった。
「……大丈夫、ですよね」
思わず口を開いた私に、隣の早瀬トレーナーは小さく頷く。
「大丈夫だ。……大丈夫、だ」
自分に言い聞かせるようなその声は、ひどく震えていた。
やがて、ゲート入りを告げるアナウンスが響く。
息を呑む観衆の気配の中で、私と早瀬トレーナーはただ立ち尽くすしかなかった。
止めることもできず──。ただ、祈ることしか、許されなかった。
…………
『──スタートしました!』
ゲートが一斉に開き、重い足音が地を叩く。歓声が爆ぜ、観客席の熱気が波のように押し寄せる。
ミラクルさんは迷いなく先頭をうかがう位置へ飛び出した。
その走りはまるで、刃みたいに細く鋭い。見ているだけで切り裂かれそうで、怖い。
速さの奥に潜んでいた、軋むような音を聞いた気がした。強く地を蹴るたび、その音が全身に響く。
「……っ」
声にならない声が喉の奥で漏れる。
前を行く彼女は、懸命に、ただ『今』にしがみつくように走っている。
軽い足取りのはずなのに、その一歩一歩からは、何かが削れていくような気がした。
「ケイエスミラクル、先頭に立った! そのまま突き放すか!」
解説の声が高まる。観客の歓声が応える。
けれど私の耳には、歓声はただの圧力にしか聞こえなかった。
速い。
それでも、もっと。
速く。
ミラクルさんの走りは、命を燃やして走っているようだった。今しかないと、すべてを燃やし尽くすように。
最終コーナーを回る。
歯を食いしばり、息が荒く、肩が震え、それでも彼女は脚を止めなかった。
「……ミラクルさん……!」
叫びそうになる声を、私は唇を噛んで飲み込む。
止めたい。だけど止められない。
『──ゴールイン!! 1着はケイエスミラクル!! ケイエスミラクル、またも勝利です!!』
アナウンスが高らかに響き、観客は歓喜に沸いた。
けれど、私の胸を満たしたのは、誇りでも安堵でもなかった。
そして、その勝利の煌めきと同時に、私の心には別の予感が沈んでいった。
この光はもう続かない、と。
……
地下バ道の先。祈るにも似た気持ちで、私と早瀬トレーナーはその先を見つめていた。
「はぁ……はぁ……──あ」
「トレーナーさん、ユーフォリアさん……」
「……っ」
「ミラクルさん!!」「ミラクル!!」
かすかな声。ミラクルさんの足がふらついた。その一瞬で、私の呼吸が浅くなる。
その考えより早く、足が動いていた。腕を伸ばし、崩れかけたミラクルさんの肩を早瀬トレーナーと共に支える。
その体は驚くほど軽くて、掴んだ指先に骨のかたちがはっきりと伝わってくる。
こんなにも──
「……っ」
声にならない声が喉を突く。掠れて震えて、少しだけ視界が揺らいだ。
──こんなにも、削れてしまっているのか。
削れて、削れて、それでも走り続けた身体。
背に触れるたび、浮き上がる骨ばかりが際立って、私は思わず息を詰めた。
「ああ……あはは。ごめんなさい、ユーフォリアさん。ちょっと、つまづいちゃって」
弱々しく笑う声が震える。
その笑顔は、勝利に沸く声援よりも、ずっと遠く感じられた。
支える手に力を込めながら、私はただ、心の中で叫んでいた。
──どうして、そこまで。
「すみません、おれ、汗だくだし……重かったですよね」
「……いや、軽かったよ」
早瀬トレーナーの低い声が、通路に落ちる。
その言葉に、私は歯がゆい気持ちになる。軽いなんて、本当は喜ばしいことじゃないのに。
そして、控室に着くと彼女は小さく息を吐いて椅子に腰を下ろした。
しばらく黙った後、彼女はまっすぐ前を見据えた。
汗に濡れた前髪が頬にはりつき、その下から覗く瞳は、それでもまだ燃えていた。
「それじゃ、トレーナーさん」
「次走……『スプリンターズS』で、お願いします」
沈黙を破ったのは、彼女自身だった。
震えた声でも、揺るぎない響きがそこにあった。
私は息を呑む。彼女の目は笑っているようで、それでいて何かを切り捨てるような、痛々しい光を宿していた。
「……たぶん、不本意ですよね。でも、お願いします」
「かわりに……おれ、必ず、勝ちますから」
「自信も。……正直、あります」
「ここまで走らせてくれた、みんなの奇跡のおかげで。育ててくれたトレーナーさんのおかげ、支えてくれたユーフォリアさんのおかげで」
「おれ、『今』が、一番速いです」
「……確かに……速くなったな」
早瀬トレーナーの言葉に、ミラクルさんは静かに頷いた。
「はい。……だから、『今』」
「…………『今』じゃないと」
──その一言が、空気をさらに重くした。
私の心臓が、痛いくらいに脈打つ。やめてほしい。ここで終わってほしくない。
けれど、その願いを口にした瞬間、彼女の決意や思いを踏みにじってしまう気がして、声が出せなかった。
「ごめんなさい、トレーナーさん、ユーフォリアさん。ふたりのこと、困らせてばかりで」
「でも……これで最後。『スプリンターズS』までで、いいですから」
「おれはそこで。多分、全部、使い果たすから」
「……夏の初めあたりから、感じていたんです。だんだん、終わりが近づいてるって」
「みんなにもらった奇跡はきっと、ここが、限界だ」
「だから──うん。……もうすぐ、終わりますから。すみません……あと、少しだけ」
ミラクルさんの言葉が、まっすぐ胸に突き刺さる。
私は何も言えなかった。ただ、心の中で叫ぶだけ。
──そんなことない。まだ、終わらないで。
「……そろそろ、ライブの時間じゃないか?」
早瀬トレーナーがぽつりと切り出す。
その声は、重さを逸らすように穏やかで。
「あっ……本当だ。すみません、ありがとうございます。おれ、行ってきますね」
立ち上がり、歩いていく背中は細くて、儚くて。けれど、その歩みは、まだ迷わず前を向いていた。
私はただ、その背を見送りながら、両手を強く握りしめた。
……握りしめた両手の中で、熱がかすかに灯るのを感じた。
それはまだ形のない、私自身の決意だった。