記憶喪失ウマ娘は幸福になれるか   作:deyus

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あと7日……あと7日したら救われる……。
先週は触れられませんでしたがミラクルのストーリーイベント読みました。ラストにあの曲を持ってくるのはずるいでしょ。
今週は何とか間に合いましたが来週は恐らく遅れると思います(予防線)。


Ep.26 削れる輝き、燃える『今』

朝のトレーニングコースには、9月だというのにまだ夏を引きずる熱気が漂っていた。

ミラクルさんはその湿気すら裂くように走り抜け、鋭い風切り音を残して去っていく。

 

その背を追う私の心臓は、胸の奥で重たく軋んでいた。

 

目を逸らしたくなるほどの輝きなのに、目を離せない。

私の中で、期待と恐怖が絡み合い、どうにもほどけない塊になっていく。

 

ゴール板を駆け抜けたミラクルさんは、呼吸を荒げながらも澄んだ瞳でこちらを振り返った。その視線に応えるように、早瀬トレーナーが無言で頷く。

けれど、その拳は強く握られ、血が滲むほど白くなっていた。

 

喉まで出かかった言葉は、まるでしゃぼん玉のようにこわれて消えた。送り出すしかない。

 

そんな決意と無力さを、私は彼の横顔に見た。

 

──怖いのは、私だけじゃない。

 

その事実が少しだけ、心を締めつける苦しさを和らげた気がした。

けれど同時に、逃げ場を失わせるようでもあった。

 

…………

 

そして、レース当日。阪神の空は晴れ渡っていた。

 

レースを目前にした控室は、不思議なほど静かだった。

外では、スタンドを揺らすほどの歓声が波のように押し寄せてくるのに、厚い壁に遮られて届くのは低い地鳴りのような響きだけ。

 

その静けさが、かえって緊張を際立たせていた。

 

ミラクルさんは落ち着いた様子でストレッチをしている。けれど、その呼吸はほんの少しだけ速い。

彼女自身がそれに気づいているのかどうか、私はわからなかった。

 

隣に立つ早瀬トレーナーの手が、膝の上で強く握られている。

 

何も言葉を発さない彼の横顔には、ただ「送り出すしかない」という覚悟と、「それでも怖い」という迷いが並んでいるようだった。

 

私は声をかけることもできず、ただ彼女の背を見ていた。

ミラクルさんは、どこまでも強く、美しく見えた。

 

──だからこそ、胸が痛い。

 

この輝きが、この先も続くこと。それだけを信じて……。

 

外から、ゲート入りを知らせるアナウンスが響いた。

その瞬間、室内の空気がぴんと張り詰める。

 

「……よし」

 

「あの、トレーナーさん、ユーフォリアさん?」

 

「っ! はい……どうしかしましたか?」

 

「あ、いえ……えっと」

 

「……すみません。そんな顔ばっかり、させて」

 

「……せめて」

 

「せめて、必ず、勝ってきますから」

 

そうして、ミラクルさんは控室から出て行った。

 

…………

 

スタートを前にしたパドックで、ミラクルさんは堂々と歩みを進めている。

その姿を前に、観客たちは歓声を上げ、期待を惜しまない。

けれど、私たちの胸は重く沈んでいくばかりだった。

 

「……大丈夫、ですよね」

 

思わず口を開いた私に、隣の早瀬トレーナーは小さく頷く。

 

「大丈夫だ。……大丈夫、だ」

 

自分に言い聞かせるようなその声は、ひどく震えていた。

 

やがて、ゲート入りを告げるアナウンスが響く。

息を呑む観衆の気配の中で、私と早瀬トレーナーはただ立ち尽くすしかなかった。

 

止めることもできず──。ただ、祈ることしか、許されなかった。

 

…………

 

『──スタートしました!』

 

ゲートが一斉に開き、重い足音が地を叩く。歓声が爆ぜ、観客席の熱気が波のように押し寄せる。

 

ミラクルさんは迷いなく先頭をうかがう位置へ飛び出した。

その走りはまるで、刃みたいに細く鋭い。見ているだけで切り裂かれそうで、怖い。

 

速さの奥に潜んでいた、軋むような音を聞いた気がした。強く地を蹴るたび、その音が全身に響く。

 

「……っ」

 

声にならない声が喉の奥で漏れる。

 

前を行く彼女は、懸命に、ただ『今』にしがみつくように走っている。

軽い足取りのはずなのに、その一歩一歩からは、何かが削れていくような気がした。

 

「ケイエスミラクル、先頭に立った! そのまま突き放すか!」

 

解説の声が高まる。観客の歓声が応える。

けれど私の耳には、歓声はただの圧力にしか聞こえなかった。

 

速い。

それでも、もっと。

速く。

 

ミラクルさんの走りは、命を燃やして走っているようだった。今しかないと、すべてを燃やし尽くすように。

 

最終コーナーを回る。

歯を食いしばり、息が荒く、肩が震え、それでも彼女は脚を止めなかった。

 

「……ミラクルさん……!」

 

叫びそうになる声を、私は唇を噛んで飲み込む。

 

止めたい。だけど止められない。

 

『──ゴールイン!! 1着はケイエスミラクル!! ケイエスミラクル、またも勝利です!!』

 

アナウンスが高らかに響き、観客は歓喜に沸いた。

けれど、私の胸を満たしたのは、誇りでも安堵でもなかった。

 

そして、その勝利の煌めきと同時に、私の心には別の予感が沈んでいった。

 

この光はもう続かない、と。

 

……

 

地下バ道の先。祈るにも似た気持ちで、私と早瀬トレーナーはその先を見つめていた。

 

「はぁ……はぁ……──あ」

 

「トレーナーさん、ユーフォリアさん……」

 

「……っ」

 

「ミラクルさん!!」「ミラクル!!」

 

かすかな声。ミラクルさんの足がふらついた。その一瞬で、私の呼吸が浅くなる。

 

その考えより早く、足が動いていた。腕を伸ばし、崩れかけたミラクルさんの肩を早瀬トレーナーと共に支える。

その体は驚くほど軽くて、掴んだ指先に骨のかたちがはっきりと伝わってくる。

 

こんなにも──

 

「……っ」

 

声にならない声が喉を突く。掠れて震えて、少しだけ視界が揺らいだ。

 

──こんなにも、削れてしまっているのか。

 

削れて、削れて、それでも走り続けた身体。

背に触れるたび、浮き上がる骨ばかりが際立って、私は思わず息を詰めた。

 

「ああ……あはは。ごめんなさい、ユーフォリアさん。ちょっと、つまづいちゃって」

 

弱々しく笑う声が震える。

その笑顔は、勝利に沸く声援よりも、ずっと遠く感じられた。

 

支える手に力を込めながら、私はただ、心の中で叫んでいた。

 

──どうして、そこまで。

 

「すみません、おれ、汗だくだし……重かったですよね」

 

「……いや、軽かったよ」

 

早瀬トレーナーの低い声が、通路に落ちる。

その言葉に、私は歯がゆい気持ちになる。軽いなんて、本当は喜ばしいことじゃないのに。

 

そして、控室に着くと彼女は小さく息を吐いて椅子に腰を下ろした。

 

しばらく黙った後、彼女はまっすぐ前を見据えた。

汗に濡れた前髪が頬にはりつき、その下から覗く瞳は、それでもまだ燃えていた。

 

「それじゃ、トレーナーさん」

 

「次走……『スプリンターズS』で、お願いします」

 

沈黙を破ったのは、彼女自身だった。

震えた声でも、揺るぎない響きがそこにあった。

 

私は息を呑む。彼女の目は笑っているようで、それでいて何かを切り捨てるような、痛々しい光を宿していた。

 

「……たぶん、不本意ですよね。でも、お願いします」

 

「かわりに……おれ、必ず、勝ちますから」

 

「自信も。……正直、あります」

 

「ここまで走らせてくれた、みんなの奇跡のおかげで。育ててくれたトレーナーさんのおかげ、支えてくれたユーフォリアさんのおかげで」

 

「おれ、『今』が、一番速いです」

 

「……確かに……速くなったな」

 

早瀬トレーナーの言葉に、ミラクルさんは静かに頷いた。

 

「はい。……だから、『今』」

 

「…………『今』じゃないと」

 

──その一言が、空気をさらに重くした。

 

私の心臓が、痛いくらいに脈打つ。やめてほしい。ここで終わってほしくない。

けれど、その願いを口にした瞬間、彼女の決意や思いを踏みにじってしまう気がして、声が出せなかった。

 

「ごめんなさい、トレーナーさん、ユーフォリアさん。ふたりのこと、困らせてばかりで」

 

「でも……これで最後。『スプリンターズS』までで、いいですから」

 

「おれはそこで。多分、全部、使い果たすから」

 

「……夏の初めあたりから、感じていたんです。だんだん、終わりが近づいてるって」

 

「みんなにもらった奇跡はきっと、ここが、限界だ」

 

「だから──うん。……もうすぐ、終わりますから。すみません……あと、少しだけ」

 

ミラクルさんの言葉が、まっすぐ胸に突き刺さる。

私は何も言えなかった。ただ、心の中で叫ぶだけ。

 

──そんなことない。まだ、終わらないで。

 

「……そろそろ、ライブの時間じゃないか?」

 

早瀬トレーナーがぽつりと切り出す。

その声は、重さを逸らすように穏やかで。

 

「あっ……本当だ。すみません、ありがとうございます。おれ、行ってきますね」

 

立ち上がり、歩いていく背中は細くて、儚くて。けれど、その歩みは、まだ迷わず前を向いていた。

 

私はただ、その背を見送りながら、両手を強く握りしめた。

 

……握りしめた両手の中で、熱がかすかに灯るのを感じた。

それはまだ形のない、私自身の決意だった。

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